ハンカチを持って研究室を訪れた私の腕を突然つかんだ先生。わずか数分のできごとなのに私にはとても長く感じられました。

「君が泣きそうに見えたから...」

私の瞳を真っ直ぐ見つめながらそう言った先生の声が頭に響き、腕にはまだ先生の手のぬくもりが残っているようです。

「どうして先生は私に優しくしてくれるんだろう?何で私の腕をつかんだりしたんだろう...」

予期せぬできごとに私の頭はパニック寸前でした。研究室を後にしても何度となく疑問が頭に浮かんでは消え、答えは見つかりません。

練習室へ向かってみたもののヴァイオリンを手に取る気力がなく、いすに座り込んで桜井先生のことをくり返し考えていました。

よく通る声、真剣な瞳、長い指、柔らかな笑顔、腕をつかんだ大きな手のぬくもり。ほんの2ヵ月半前に出会ったばかりの先生が私の心をいつの間にかいっぱいにしていたことに気が付きます。


あの日から2週間。学期末試験は最後の数科目となり夏休みが目前に迫っても私は研究室でのことを忘れられずにいました。

かといって先生に会う勇気などなく毎日どうしてばかりが心を占め試験結果は散々です。そんな私を心配したように美歌が声をかけてきました。

「詩音、午後はもう試験ないよね?ねぇ駅の近くに新しくできたカフェのクーポンあるんだ。お昼食べに行こうよ~」

試験中は練習室と図書館に閉じこもりぱなしだったため美歌と話すのも久しぶりです。

「うん、私もあのカフェ気になってたんだ。長かった試験も終わったし行こうかな」


窓際の席に通されパスタのランチを注文しました。一面ガラス張りの店内には夏のまぶしい光がふり注いで私は外の景色に目を細めます。

「詩音、詩音...?」

美歌に呼ばれて我に返ると私をにらみながら軽く頬をふくらませていました。どうやら何回も話しかけていたようです。

「あ、ごめんね。もう一回言ってくれる?」

あわてて視線をテーブルに戻すと先に持ってきてもらうよう頼んだドリンクが来ていました。

「もう、どうしたのぼーっとして?ドリンクが来ても反応しないし、こないだから何か変だよ。」

「そうかな...ほら、試験がうまくいかないから疲れてるのかも。別に特別なことなんてないから心配しないで?」

思わず先生につかまれた左腕に触れながら答えた私ですが、美歌の目はごまかせません。

「桜井先生の研究室へ行ってからだよね、左腕を気にするようになったの。しょっちゅう考えごとしてるしさぁ。無理に聞くつもりなんてないけど心配になるよ」

そう言われて初めて自分が無意識ながらも左腕に触るくせがあることを知りました。

「ありがとう...いつも心配かけてごめんね、自分でも心の中が分かんなくなっちゃって。落ち着いたら美歌に一番に話すから」


すぐにスープとパスタが運ばれて来て、私たちは試験のできや夏休みの予定などを話してお店を出ました。

「詩音、何があったのかは分からないけれど悩むより行動した方がいいときもあるよ。このまま夏休みになってもいいの?言葉にしないと伝わらないこともあるんだから」

ニッコリ笑って私の肩を優しくたたいた美歌はサークルの友達と約束があると駅の方へ歩いていってしまいました。

一人残された私は、これからどうしようかなと少し考え大学への道を戻り始めたのです。心は桜井先生に会いたいという気持ちだけがあふれていました。



微かな心の痛みを感じながらドアをノックした私ですが、すぐに「はい、どうぞ」と短い返事が聞こえました。

「すみません、弦楽器科の水川です。こないだ貸してもらったハンカチをお返ししようと思って...」

ドアを開けると置くに据えつけられたキャビネットの前に立っていた先生がふり返ってこちらを向きました。

「あ、水川さん...」

カバンからハンカチを取り出して先生の方へ差し出しながら話します。

「ありがとうございました。洗濯したんですけど、アイロンかけるの下手ですみません」

先生は手に持っていたファイルをそばの机に置くと、ハンカチを受け取ろうと一歩前に出ます。

心の中では「先生とのつながりを簡単に手放したらダメ」と言った美歌の声が響いていました。

「そんな気を遣わなくても良かったのに。きれいに洗濯してくれてありがとう」

私が大好きな柔らかい笑顔を見せると先生は手を伸ばして長い指がハンカチに触れます。私はハンカチを握る手に思わず力をこめていました。


「.....?」

先生が視線を上げて不思議そうな表情で、ハンカチを離そうとしない私の手とうつむき加減の顔を交互に見比べます。

「ごめんなさい、何だかぼーっとしてしまいました。ハンカチ貸して頂いて助かりました。ありがとうございます」

数秒の沈黙の後、我に返った私はあわてて手を離し先生に謝りました。どうして自分がそんなことをしたのか分からず心臓は止まりそうなほどドキドキしています。

「それじゃあ、失礼します」

ついに私と先生の間をつないでくれるものがなくなってしまった寂しさで涙があふれそうになり、私は軽く頭を下げると踵を返してドアへ近付きました。


その瞬間、後ろから腕をつかまれました。すぐには何が起こったのか理解できずふり返れずにいる私に先生の声が聞こえます。

「ごめん、びっくりさせて。なぜか君が泣きそうに見えたから...」

ようやく今自分の腕を掴つかんでいるのが先生だと分かり信じられない思いでいっぱいでしたが、先生の手はまだ私の腕をつかんだままです。

「私、泣きそうですか...?」

ふり向くとこちらを真っ直ぐ見つめる先生と視線が合いました。先生はうなずくと一歩前に出て俯いた私の顔をのぞきこむように身をかがめます。あの日、私が先生の前で音楽に対する悩みを打ち明けたときと同じです。

「今も泣きそうだ。どうしたの?何かあったなら話してくれないかな...腕をつかんだりして、ごめん」

先生の手が離れました。

優しさがうれしくて想いがあふれ出そうでしたが、本当の理由を言うことができず精一杯の冷静を装います。

「いいえ、何もないですよ。試験が近いし色々と忙しくて疲れてるのかもしれません」

こちらを見つめる先生の視線から逃れるように顔を背け、できる限り自然な声で答えて無理やり笑顔を作りました。

そのまま先生の方を見ずに研究室を後にした私の瞳からはいつの間にか涙が流れ止まりませんでした。





親友の美歌に言われた言葉が頭に響き期末試験直前だというのに、結局3限の授業は全く頭へ入りませんでした。

学科がちがう先生と忘れ物がきっかけで偶然であい恋に落ちた私。二人をつないでいるものは先生が貸してくれたハンカチだけです。

「詩音と先生をつないでくれるものがあるなら簡単に手放しちゃダメか...本当は私もこのハンカチずっと持っていたい」

けれど借りたものをいつまでも手元に置いておくわけにはいかないし、第一これ以上先生に迷惑はかけたくありません。

やっぱりお礼を言ってきちんと返すべきだと思い、授業が終わってからもう一度研究棟を訪ねてみようと決めました。


「これからバイトなんだ。試験前だから休みたいんだけど夏休みの旅行費用も貯めなきゃいけないし。詩音は練習室行くの?」

考えごとをしているうちに授業は終わっていたようで、美歌が教科書やプリント類をまとめながら聞いてきます。

「あ、うん。私はもう一度研究棟に行こうと思って...もしかしたら桜井先生が戻ってきてるかもしれないし」

あわてて黒板に書かれている試験範囲の追加を書き写しながら答えました。

「詩音どうしたの?授業中も心ここにあらずみたいだったし。もしかして桜井先生のこと考えてたとか~?」

美歌はニコニコしながらまたしても核心を突いてきます。何とか全て書き終え机の上を片付けながら軽く深呼吸をしました。

「どうしてよ?そんなことあるわけないじゃない。昨日ちょっと寝付けなかったから疲れてるのかな、試験前だしね」

昨日ハンカチにアイロンをかけながら先生が結婚してるかもしれない、彼女がいるかもしれないと気が付き眠れなかったのは本当です。

「詩音はどこまでも素直じゃないなぁ。しつこいようだけど、ハンカチをそのまま返したりしちゃダメだからね?あ、もうバイト行く時間だ」

私を少しにらむようにした後ニッコリ笑うと、「じゃあね~」と言い残して風のごとく走って教室を出て行ってしまいました。どうやら彼女には全部お見通しのようです。


「このまま返しちゃダメって言われてもどうしたらいいのか分からないよ...」

私は心の中で美歌に言われた言葉をくり返しながら研究棟のエントランスをくぐりました。お昼休みと同じようにエレベーターで4階へ上がり桜井先生の研究室を目指します。

前へ一歩ふみ出す度に心臓の鼓動が早くなる気がして、私の心は先生に会いたい気持ちとハンカチを手放したくない気持ちのはざ間でゆれていました。

それでも廊下を進んで研究室の前について在室かどうかを確認します。今度は先生の名前の下に「在室」の札るのが目に入ります。

先生がいつも見せる柔らかな笑顔に会えると思う喜びと、先生との接点がなくなる寂しさが混ざり複雑な気持ちですが思い切ってドアをノックしました。


翌日、月曜日のお昼休み私は先生に借りたハンカチを返すため研究棟にいました。入り口で名前と研究室の番号を確認して4階へ上がります。

この時に初めて私は先生のフルネームが「桜井響一」であることを知りました。

「先生、下の名前は響一っていうんだ...」

小さな声で先生の名前を口にしたとたん心臓がドキドキと鼓動を速めます。思わず昨日きれいに洗濯してアイロンをかけたハンカチをカバンから取り出して握りしめました。

先生の研究室は廊下の奥から2番目。私は少し手前で立ち止まるとハンカチを持った両手を胸に鼓動を静めるよう大きく呼吸をします。

「まずは何て言おう?最初にハンカチのお礼を伝えてから迷惑かけたことを謝らないと。それから...」

先生との会話をシュミレーションしていたら心臓がまた音を立て始めました。しかし廊下でぐずぐずしていたら他の先生や学生に不審がられてしまいます。

もう一度大きく深呼吸をしてから思い切ってドアをノックする覚悟を決めました。ところが、扉の横に貼られた先生の名前に目をやると「不在」と書かれた札がかかっています。

もしかしたら昼食をとるために出ているのかもしれません。先生に会えず残念だと思いながらも私の心は正直、ほっとしていました。

ハンカチを返してしまったら先生とのつながりが無くなってしまう気がしていたからです。あの日、練習室に楽譜を忘れたことから生まれた桜井先生とのであい。

しかし、もともと弦楽器科の学生である私とピアノ科の講師である先生には授業やレッスンでの接点が何もありませんでした。

その場で10分ほど待ってみたものの先生が戻ってくる気配はなく、お昼休みも終わりになろうとしています。

結局3限が始まるぎりぎりの時間になっても先生は帰ってこず私はあきらめてハンカチをカバンにしまい教室へと向かいました。

教室に入ると美歌が後方の席に座ってこちらへ手をふっています。空けておいてくれた隣の席に着くなり話しかけられました。

「ねぇねぇ、先生にハンカチ渡せた?遅かったからどうしたんだろうと思って心配しちゃったよ」

美歌には先生と土曜日に偶然会ったこと、その時にハンカチを借りたことを話していました。

「ごめんね、心配させて。研究室に行ったら不在の札がかかってて今まで待ってみたんだけど、戻ってこなかったの。せっかく行ったのに残念」

教科書を準備しながら答えます。普段どおりに答えたつもりでしたが、美歌の目が私をじっと見つめていました。

「詩音あんまり残念そうじゃない...というより本当は先生が戻ってこなくて良かったんじゃない?」

いつも一緒にいるとはいえ彼女の鋭さにびっくりてしまいます。私はいきなり核心に触れられて言葉につまりました。

「そんなことないよ?また後で行けばいいかなと思っただけだよ」


とりあえず否定してみたけれど先生にハンカチを返したくなくて研究室の前で待つ間、先生が帰ってこないことを望んでいたのは本当です。

「ふ~ん、素直じゃないなぁ。でも神様がくれたつながりを大切にしないと後悔するかもしれないよ?」

素直じゃないと言われ反論しようとしましたが、タイミング良く3限を担当する先生が教室に入ってきました。

「あ、先生来ちゃった。でもさ冗談じゃなくね、詩音と先生をつないでくれるものがあるなら簡単に手放したりちゃダメだよ」

美歌はそれ以上は何も言わずノートを広げました。私は先生の話や教室の喧騒を遠くに聞きながら、「つながりを簡単に手放したらダメ」という美歌の言葉を何度も頭の中でくり返していたのです。

「大切なのは続ける覚悟と音楽を愛する気持ちか...それに比べたら才能や運なんておまけみたいなもの」

あの日ヴァイオリンを続ける自信を失くして迷子になっていた私の心は桜井先生の一言で救われました。

プロの音楽家になることなど考えていなかった私に一生音楽を続けていく覚悟はまだできないけれど、才能や運なんておまけと思えば指導教授から「才能ないよ」と言われたことも以前ほど気にならなくなったのです。


楽器が弾ける防音のマンションに住んでいたにも関わらず基本的に大学でしか練習しなかった私が、日曜も部屋から外へ出ず練習に没頭していました。

昨日までヴァイオリンを手にすることが苦痛ですらあったはずが、ただ純粋にヴァイオリンを弾きたいという欲求が心の底からわいてくるようです。


同時にハンカチを差し出したときの先生の長い指や、初めて見たいたずらっ子のような笑顔が次々と頭に浮かんできました。

何をしていても心から振り払うことができず先生のことばかり考えている自分におどろきつつ洗濯したハンカチにアイロンをかけます。

「いつだかスーパーでまとめ買いした安物のだから返さなくていいよ」

洗濯してから返すと言った私に先生は笑いながら首をふりましたが借りっぱなしというわけにはいきません。

自分の洋服より慎重に絶対こげ跡など付けない様アイロンを当てます。ふと、先生のハンカチはだれがアイロンがけをしたのだろうと思いました。

その瞬間もしかしたら先生が結婚しているかもしれないこと、結婚はしていなくても清潔なハンカチを持たせてくれる彼女がいる可能性があることに気が付きます。


しかし女の人と笑い合う先生を想像すると心が曇り無性に悲しくなりました。

先生が結婚してたらいやだ彼女がいたらいやだと感じた自分の気持ちはもうごまかせません。

先生のことをもっと知りたい、先生と色々な話がしたい、先生が弾くピアノが聴きたい...私はいつの間にか桜井先生に恋していました。