太陽が沈んで星が瞬く夏の夜空はとてもきれいなのに、私はかつてない孤独の中に放り込まれたような気持ちでした。

明日から夏休みとなればキャンパスに遅くまで残る学生がいるはずもなく、にぎやかだった校門へ向かう人通りもぱったりと途絶えたようです。

ショックで何も考えられずベンチに寄りかかっていましたが、いつまでも座っているわけにはいきません。

私はカバンからハンカチを取り出し涙を拭うと、大きく深呼吸をして立ち上がろうとしました。


その瞬間です。いつもなら一番聞きたくて今は一番聞きたくない声が耳に入ってきたのは...

「水川さん、どうしたの?こんなに暗くなるまで一人で座ってたりしたら危ないよ」

優しくて良く響く大好きな先生の声は普段と何の変わりもありませんでした。本当は先生の顔が見られて優しい声を聞いてうれしいはずなのに今は胸がしめつけられるようです。

「.......桜井先生」

私は先生の顔を見るのが怖くて、先生の口から真実を告げられるのが怖くて顔を上げることができません。

「夏休み前日なのに遅くまで残ってたんだね。何だか元気ないみたいだけど大丈夫?」

顔を上げようとしない私を不審に思ったのでしょう。先生は優しい声のまま顔をのぞくように話しかけます。


「...大丈夫ですよ。友達と話し込んでたら時間が経ってしまって、すみません」

下を向いたいたら涙がこぼれてきてしまいそうで、私は何とか顔を上げると笑顔を意識しながら答えました。

「そう、具合でも悪いのかなと思ったから心配になって。大丈夫なら良かった」

先生はいつも見せる柔らかな微笑みを向けています。しかし痛む心にこの笑顔も他の女性のものなんだと実感させられます。

「じゃあ私そろそろ失礼します。心配して頂いてありがとうございました」

とにかく一刻も早くこの場を立ち去らなければ泣き出してしまう気がした私は踵を返し走りだしました。


つい何時間か前には先生を捜してキャンパスを歩いていたはずなのに今は先生の顔を見るのが辛い。

「先生、婚約したって本当ですか?結婚するって本当ですか?」

さっきから幾度となく浮かんでは消えていた心の声がまた脳裏を駆け巡っていました。せっかく一生懸命こらえた涙もいつの間にかあふれています。

何も考えず走り出した私は校門と正反対の方向へ来てしまい気が付けばあの日、偶然先生のピアノが聴こえてきた講堂の前でした。


であった時は穏やかだった陽射しが夏らしさを帯びるに連れ、私の先生への気持ちも加速して止められなくなっていました。

小さな頃から人付き合いが苦手で友人も少なかった私は恋などしたこともなく、休み時間に彼の話をする女の子たちを見ては不思議に思っていたのです。

「どうして皆あんなにうれしそうなんだろう?私にはよく分からないな...」

高校時代に何人か告白してくれた男の子もいたけれど毎日でも会いたいとか、この人のことをもっと知りたいというような気持ちにはなりませんでした。


けれど桜井先生は一瞬でそんな私の世界を変えてしまいました。先生を好きになってからの毎日は何もかもが輝いて見え、耳に入る音すべてが優しく感じられます。

初めての恋は好きな人に見つめられると高鳴る鼓動や、その日交わした会話を想い出すだけで蘇る切なさを教えてくれました。

そして大学に入って音楽への自信と続ける気力を失いかけていた私を勇気付けてくれたのも先生です。

先生の表情や声が片時も頭から離れず、自分しかいなかった心はいつの間にか先生に占領されていました。

朝起きてまず浮かぶのは今日は少しでも先生の顔が見られるかなという期待です。

夜寝る前に目を閉じて考えるのも先生はどんな一日を過ごしたのだろうとか、今日は会えなくて残念だったというように先生のことばかり。

音楽が中心というより音楽しか知らなかった私の生活は、桜井先生に恋をして豊になったような気がします。


しかし突然もたらされた信じたくないた知らせ。「初恋は実らない」なんて言うけど本当なのかもしれません。

テレビドラマや映画のラブストーリーは必ず主人公が好きな人と結ばれるのに、好きな人が自分以外の人と結婚してしまう先生が他の女性を愛している事実。

真っ暗な空を涙でぼやける視界で見つめながら、私は恋が楽しいだけのものではないということを痛感していました。

どれくらいの時間が経ったのか自分が何をしているのかも分からないくらい私の心は混乱していました。

偶然に話しかけられたピアノ科の月島さんが教えてくれた桜井先生に関するニュース。それは私にとって最も聞きたくないショックな知らせです。

「先生が大学時代の同級生と婚約したらしいって。ホテルの結婚式場でバイトしてる子が女の人を連れた先生を見かけたんだって」

婚約したということは先生がそう遠くない未来に結婚してしまうということ。先生には一生を共にしていく愛する女性がいるということ。

私には絶対に信じたくない否定したい事実です。先生が見知らぬ大人の女性と幸せそうに笑みを交わす姿が頭の中を駆け巡っていました。


幾度となくそんなことを考えて我に返った頃すっかり日は落ち空に星が瞬き始めています。正門へ向かう学生たちは薄暗くなっても一人ベンチに座る私を怪訝そうに見ていきますが、先生のことで頭がいっぱいでそんな視線すら気になりません。

つい数時間前まで私の心を占めていたのは先生に会いたいという想いと、初めて感じる切なさや喜びであふれていたのに。

「先生がいつも優しく接してくれていたのは学生だから...私、婚約者がいる先生に会って何を言うつもりだったんだろう?」

自らへ問いかけてみたけれど答えが出ることはなく、私は先生につかまれた左腕にそっと触れることしかできませんでした。


キャンパスには明かりが灯り昼間の暑さがうそのような涼しい風が吹いてきます。何も羽織っていない左腕が冷たく感じられ、いつの間にかあふれていた涙がぽたぽたと落ちました。

しかし零れ落ちる涙を拭う気力も立ち上がる気力もなく、私はただベンチに座って先生とであってからの短い日々を回想します。

そして自分がどれほど先生のことを好きになっていたのかを改めて知り、次から次にあふれてくる涙を止められないでいました。

「桜井先生が好きです、先生が好き...きっと初めて会った瞬間から先生のことが好きでした」

誰に言うでもなくつぶやいた声は真っ暗な空へ吸い込まれて、行き場を失った私の想いだけが残っているようでした。

あの日、ハンカチを返しすため行った研究室で先生に腕をつかまれてから私の心はずっと揺れ続けていました。

「きみが泣きそうに見えたから...」

そう言ったときの先生の表情、力強い手の感触、優しく響く声のトーン。次々と頭に浮かんでは胸が苦しくなり私は先生に会いたくてたまりませんでした。

研究棟を出て最初に思いついたのが履修課や総務課などが集まる事務局です。2日ほど前に在学証明書をもらうため私が訪れると、夏休み中は閉鎖してしまうためか多くの学生と先生で混雑していました。


もしかたらという期待を胸に事務関係が集まる新館を捜してみましたが、どこにも桜井先生の姿はありません。

次に向かった購買部は普段ならば学生でにぎわっている時間なのに、試験最終日ともなると人気がなくすぐに先生がいないと分かりました。

購買部の下にある学食へも行ってみたけれど、夏休みの予定で盛り上がるサークルの人で貸切状態です。

少しがっかりしながら他に先生が立ち寄りそうな場所を考えました。しかし先生はいつもどんなところへ行くのか、何時頃に研究室を出るのかなど分からないことばかりです。

「私って先生のこと何も知らないんだなぁ...先生は何歳でどんなところに住んでてとか知りたいことは沢山あるのに」

そう思ったら先生がとても遠い人に感じられ中庭のベンチに座った私は、空を流れる雲を見ながら先生と初めて会った瞬間を想い出していました。


どれくらいの時間が経ったのか気が付くと足元の影は長く伸びて、正門へ向かう学生が何人も私の前を通っていきます。

「あれ、弦楽器科の水川さんだよね?ほら、こないだテニスコートで会った...こんなところに一人で座って何してるの?」

私の前を通り過ぎようとした一人が立ち止まって声をかけてきました。一気に現実へと引き戻されて声のした方へ顔を向けます。

「ええ、そうですけど...」

明るい笑顔を浮かべた長身の女の子が僅かに首を傾けてこちらを見ていました。同じ学科のクラスメートかなと思ったのですが知らない顔です。


「もしかして私のこと覚えてないかな?ごめんね、いきなり話しかけたりして」

いくら名前を覚えるのが苦手でもクラスメートなら分かるだろうし、部活やサークルに入っていない私は他学科の友人もいません。

「ごめんなさい、あの同じ学科...?」

まだぼんやりする頭を無理やりフル回転させてみたけれど分かりませんでした。しかし彼女は気にする風でもなく笑顔を浮かべたままです。

「私はピアノ学科の月島、美歌ちゃんと同じサークルで。ほら、前に西門のとこで会ったよね」

美歌と同じサークルと聞いてようやく記憶が蘇りました。梅雨に入る前くらいだったか教室を移動する途中、美歌がサークルの友達に話しかけられ私も軽くあいさつをしたのです。

「私なかなか名前とか顔が覚えられなくて。月島さんは覚えててくれたのに、ごめんなさい」

物覚えの悪さを反省しつつ失礼をあわてて謝った私に彼女は気にしないでというように首をふってくれました。

「だって少し会っただけだし私もよく名前間違えるんだよね~。それより美歌を待ってるの?」

まさか桜井先生に会いたくて研究室を訪ねたけれど不在でキャンパスを捜してたとは言えません。

「ちょっと違うんだけれど...」

言葉を濁した私に彼女はそれ以上を聞くことなく話題は自然と夏休みの過ごし方へ移りました。


「そうなんだ、水川さん夏休みはどっか旅行とか行くの?うちは実家に帰ってこいって両親がうるさくて嫌になっちゃう」

人付き合いが苦手で口数の少ない私と対照的に月島さんはハキハキと明るい笑顔で話します。

「特に予定はなくて、この時期は両親も仕事が忙しいから会えそうもないし。こうなったら夏休みも練習室通いかな...」

夏休みでも練習室は開放されているため自由に使うことができると聞いていました。

「えー、そんな大学生になって初めての夏休みなのに~?まぁ、私も先週までは練習室に通い詰める意気込みだったけど」

私の答えに月島さんは首をふり信じられないというように大きく目を見開いています。

「私サークルも部活も入ってないから合宿とかもないし。月島さんはどこか行くの?」

彼女はうれしそうに何度もうなずき夏休みが待ち遠しくてたまらなかったというような弾んだ声です。

「うん、サークルで軽井沢へ行くしバーベキューの予定もあるんだ。本当は夏休み中いっぱい練習して桜井先生にアピールしようとしたのにな~」


思いがけず先生の名前が出てきてびっくりしている私をよそに月島さんは話し続けます。

「桜井先生ってピアノ科の講師なんだけど若いから人気があってね。優しいし丁寧に指導してくれるし狙ってる子多かったんだけど、先生が大学時代の同級生と婚約したらしいって。ホテルの結婚式場でバイトしてる子が女の人を連れた先生を見かけたんだって」

私は自分の耳がたった今聞いたことが信じられず頭は混乱するばかりで呆然としてしまいました。

「桜井先生って...」

無意識に口を突いて出た問いかけは平坦で何だか自分の声ではないようにすら感じられます。

「あ、水川さんも知ってる?先生カッコいいから弦楽器科でも人気ありそうだもんね~。みんなショックで試験もできなかったって」

桜井先生が婚約した...結婚式場で一緒にいた女性はもしかしたら貸してくれたハンカチのアイロンをかけた人?

突然の知らせを信じられず俯いていた私に月島さんの声がやけに大きく感じます。

「水川さんは試験できた?あ、友達が呼んでるから行くね。じゃあまた夏休み明けに」

自分があいさつをしたのかどうかも分からず、私はベンチの背もたれに寄りかかっているのが精一杯でした。


先生がきれいな女の人と楽しそうに歩いている姿や微笑みを交わす場面が勝手に頭を支配していきます。

どうして先生はあのとき私にハンカチを貸してくれたの?どうして優しい言葉をけかてくれたの?どうして先生は私の腕をつかんだりしたの?

考えれば考えるほど頭の中は先生と婚約者という女の人でいっぱいになり、心は経験したことがないほどの痛みに押し潰されそうでした。

美歌と別れた私の足は自然に大学へと向かっていました。ただ桜井先生に会いたいという気持ちだけが心を動かすようです。

試験期間中はいつも混んでいた練習室も図書館も最終日の今日はずいぶん空いていて、キャンパスには夏を告げるセミの声が大きく響き渡っていました。

「このまま夏休みになってもいいの?」

美歌の言葉が私の背中を押してくれたようです。あの日からずっと先生に会いたいと思って研究棟を見つめては勇気がなくて訪ねることができないでいた私。

「悩むよりも行動した方がいいときもある、言葉にしなければ伝わらないか。このまま夏休みになるって先生にあえなくなるのはいや...」


気が付くと普段より早足で目は先生の姿を耳は先生の奏でるピアノの音を捜します。研究棟が近付いてくると腕をつかまれたときに感じた先生のてのぬくもりが蘇り鼓動が速くなりました。

自分を落ち着かせるように歩調をゆるめエントランスをくぐります。何を話すかなんて全く決めていないけれど、とにかく先生に会いたいということしか考えられません。

4階の廊下を進んで研究室の前に立った私は名前の下にかけられた「在室」の札を確認しました。試験期間中は大学にいない先生も多いので安心しドアをノックします。迷っていたら先生に会う勇気がなくなってしまいそうだったから。


しかし中からは返事がありません。もう一度ノックしてみますが先生の声は返ってきませんでした。

「在室」の札がかかっているのに研究室にいないのでしょうか。もしかしたら用事があって少しの間だけ外出しているのかもしれないと思い待ってみます。

5分、10分と時間が経っても先生が戻ってくる様子はなく、私は廊下の壁にもたれかかってエレベーターホールを見ていました。

そんな私の心とは裏腹に研究棟は静けさに包まれ人の気配すらしません。結局30分ほど待ってみたけれど先生は帰ってこなかったのです。


以前の私ならここで引き返していたと思いますが、この時は先生に会いたいという気持ちが強くあきらめきれませんでした。

単にかけ忘れただけで大学にいない可能性もあるのに、私は教室や事務局など先生が立ち寄りそうな場所へ向かいました。

研究棟を出て見上げた夏の空は青く澄んでいて、木漏れ日がきらきらと輝いていたのを覚えています。