あの日、ハンカチを返しすため行った研究室で先生に腕をつかまれてから私の心はずっと揺れ続けていました。
「きみが泣きそうに見えたから...」
そう言ったときの先生の表情、力強い手の感触、優しく響く声のトーン。次々と頭に浮かんでは胸が苦しくなり私は先生に会いたくてたまりませんでした。
研究棟を出て最初に思いついたのが履修課や総務課などが集まる事務局です。2日ほど前に在学証明書をもらうため私が訪れると、夏休み中は閉鎖してしまうためか多くの学生と先生で混雑していました。
もしかたらという期待を胸に事務関係が集まる新館を捜してみましたが、どこにも桜井先生の姿はありません。
次に向かった購買部は普段ならば学生でにぎわっている時間なのに、試験最終日ともなると人気がなくすぐに先生がいないと分かりました。
購買部の下にある学食へも行ってみたけれど、夏休みの予定で盛り上がるサークルの人で貸切状態です。
少しがっかりしながら他に先生が立ち寄りそうな場所を考えました。しかし先生はいつもどんなところへ行くのか、何時頃に研究室を出るのかなど分からないことばかりです。
「私って先生のこと何も知らないんだなぁ...先生は何歳でどんなところに住んでてとか知りたいことは沢山あるのに」
そう思ったら先生がとても遠い人に感じられ中庭のベンチに座った私は、空を流れる雲を見ながら先生と初めて会った瞬間を想い出していました。
どれくらいの時間が経ったのか気が付くと足元の影は長く伸びて、正門へ向かう学生が何人も私の前を通っていきます。
「あれ、弦楽器科の水川さんだよね?ほら、こないだテニスコートで会った...こんなところに一人で座って何してるの?」
私の前を通り過ぎようとした一人が立ち止まって声をかけてきました。一気に現実へと引き戻されて声のした方へ顔を向けます。
「ええ、そうですけど...」
明るい笑顔を浮かべた長身の女の子が僅かに首を傾けてこちらを見ていました。同じ学科のクラスメートかなと思ったのですが知らない顔です。
「もしかして私のこと覚えてないかな?ごめんね、いきなり話しかけたりして」
いくら名前を覚えるのが苦手でもクラスメートなら分かるだろうし、部活やサークルに入っていない私は他学科の友人もいません。
「ごめんなさい、あの同じ学科...?」
まだぼんやりする頭を無理やりフル回転させてみたけれど分かりませんでした。しかし彼女は気にする風でもなく笑顔を浮かべたままです。
「私はピアノ学科の月島、美歌ちゃんと同じサークルで。ほら、前に西門のとこで会ったよね」
美歌と同じサークルと聞いてようやく記憶が蘇りました。梅雨に入る前くらいだったか教室を移動する途中、美歌がサークルの友達に話しかけられ私も軽くあいさつをしたのです。
「私なかなか名前とか顔が覚えられなくて。月島さんは覚えててくれたのに、ごめんなさい」
物覚えの悪さを反省しつつ失礼をあわてて謝った私に彼女は気にしないでというように首をふってくれました。
「だって少し会っただけだし私もよく名前間違えるんだよね~。それより美歌を待ってるの?」
まさか桜井先生に会いたくて研究室を訪ねたけれど不在でキャンパスを捜してたとは言えません。
「ちょっと違うんだけれど...」
言葉を濁した私に彼女はそれ以上を聞くことなく話題は自然と夏休みの過ごし方へ移りました。
「そうなんだ、水川さん夏休みはどっか旅行とか行くの?うちは実家に帰ってこいって両親がうるさくて嫌になっちゃう」
人付き合いが苦手で口数の少ない私と対照的に月島さんはハキハキと明るい笑顔で話します。
「特に予定はなくて、この時期は両親も仕事が忙しいから会えそうもないし。こうなったら夏休みも練習室通いかな...」
夏休みでも練習室は開放されているため自由に使うことができると聞いていました。
「えー、そんな大学生になって初めての夏休みなのに~?まぁ、私も先週までは練習室に通い詰める意気込みだったけど」
私の答えに月島さんは首をふり信じられないというように大きく目を見開いています。
「私サークルも部活も入ってないから合宿とかもないし。月島さんはどこか行くの?」
彼女はうれしそうに何度もうなずき夏休みが待ち遠しくてたまらなかったというような弾んだ声です。
「うん、サークルで軽井沢へ行くしバーベキューの予定もあるんだ。本当は夏休み中いっぱい練習して桜井先生にアピールしようとしたのにな~」
思いがけず先生の名前が出てきてびっくりしている私をよそに月島さんは話し続けます。
「桜井先生ってピアノ科の講師なんだけど若いから人気があってね。優しいし丁寧に指導してくれるし狙ってる子多かったんだけど、先生が大学時代の同級生と婚約したらしいって。ホテルの結婚式場でバイトしてる子が女の人を連れた先生を見かけたんだって」
私は自分の耳がたった今聞いたことが信じられず頭は混乱するばかりで呆然としてしまいました。
「桜井先生って...」
無意識に口を突いて出た問いかけは平坦で何だか自分の声ではないようにすら感じられます。
「あ、水川さんも知ってる?先生カッコいいから弦楽器科でも人気ありそうだもんね~。みんなショックで試験もできなかったって」
桜井先生が婚約した...結婚式場で一緒にいた女性はもしかしたら貸してくれたハンカチのアイロンをかけた人?
突然の知らせを信じられず俯いていた私に月島さんの声がやけに大きく感じます。
「水川さんは試験できた?あ、友達が呼んでるから行くね。じゃあまた夏休み明けに」
自分があいさつをしたのかどうかも分からず、私はベンチの背もたれに寄りかかっているのが精一杯でした。
先生がきれいな女の人と楽しそうに歩いている姿や微笑みを交わす場面が勝手に頭を支配していきます。
どうして先生はあのとき私にハンカチを貸してくれたの?どうして優しい言葉をけかてくれたの?どうして先生は私の腕をつかんだりしたの?
考えれば考えるほど頭の中は先生と婚約者という女の人でいっぱいになり、心は経験したことがないほどの痛みに押し潰されそうでした。