「きみのことが大切だから、きみが一番ぼくにとって大切な人だから。水川詩音さん、あなたが好きです」

夏空がきれいな夕焼けに染まるのと同時に、廊下で向かい合う私と先生をオレンジ色の光が包んでいました。

大好きな声で待ち望んでいた言葉を聞けたのに、気持ちを伝えたいのに胸がいっぱいでうまく言葉がでてきません。

すると先生の目を見つめ返すだけの私にいつもの柔らかな笑みのまま、腕を引き寄せるようにしてふわっと抱きしめます。

そして私の耳元に顔を寄せるともう一度、「あなたが好きです。ずっと大切にしていきたいと思ってる」とささやくように告げました。

私の口からも自然に「はい...」と短い返事が零れ出て、つかの間お互いの鼓動と体温を確かめ合うように静かな時間が流れます。


どれくらいそうしていたのでしょうか、先生がそっと私から体を離しました。いくら夏休みとはいえ、学生が使用する練習室ですから誰かが来るかもしれません。

そう思ったら何だか急に恥ずかしくなって先生の表情を見ることができず、ドキドキと音をたてる鼓動までが伝わってしまいそうです。

しかし静寂は突然やぶられました。廊下に大きな足音が響き、鍵の束を手にした事務員さんの姿が現れたからです。

「すみません、もう時間なんで施錠させてもらいます。あ、正面玄関じゃなくて裏から出てくださいね」

普段は午後9時まで開いている練習室ですが、夏休みの間は6時で閉まってしまうのです。

「はい、分かりました。すぐに出ます」

先生が返事をしている間に、私は広げたままの楽譜とヴァイオリンを手早く片付けました。

再び廊下に出ると事務員さんは各練習室に人が残っていないか見回っているようで、私と先生が横を通ると「夏休みなのに大変ですね」と声をかけられました。

もしかしたら私が先生と初めて会ったときのように、先生を大学院生と思ったのかもしれません。軽く会釈を交わし言われた通り裏口から外へ出ると、人影のないキャンパスはまだ昼の暑さが十分に残っています。


「わぁ、この時間になっても暑い...」
ひんやりと冷たい廊下から外に出た瞬間、熱気が押し寄せるように感じた私の口から言葉が飛び出しました。

「よかったら研究室で涼んで行く?もう少しして日が沈んだら気温も下がるんじゃないかな」

西日の射す道をヴァイオリンを抱えて帰るより、間違いなく気持ちいい夜風に当たりながら帰る方を選びます。

私がうなずくと先生は研究室のある建物へ歩き出しました。ふと、こんなことが頭に浮かんできました。

「どうして私が今日、練習室に来ていたのを知ってたんですか?あ、もしかして先生は夏休みもお仕事あるんですか?」

先生は夏休み中も何か仕事をしなければならず大学へ来ていて、偶然に私を見かけたのかと思ったからです。

「..................いや、そういうわけではないんだ。仕事はあったにはあったんだけど.....」

長い沈黙が流れた後、しばらく考えるような素振を見せ何だか言いにくそうに言葉をにごしました。


研究室のある建物は夏休みで人の気配がまったくありませんが、空調がきいていて寒いくらいです。

先生がカギを開けて中に入るよう促されました。そしてドアが閉まる音が聞こえたと同時に、私はまた先生の腕の中にいました。

「本当は、夏休みに入ってからも毎日ここへは来てたんだ。もしかしたら、きみに練習室で会えるかもしれないと思ったから」

少しだけ照れたように笑いながら話してくれたのですが、先生は午前と午後に練習室を訪れて利用者ノートで私の名前を探していたそうです。

先生は優しく髪を撫でると今度は少し身をかがめて、顔を覗き込むようにして話し始めました。

「きみとぼくは学生と講師だ。それでも分かっていて学生のきみに惹かれていくのを止められなかった。卒業するまでは堂々と付き合うことは難しいと思うし、なかなか外で会うこともできないかもしれない」

大学は中学や高校はちがって格段に自由とはいえ、やはり学生と講師の交際をオープンにするわけにはいきません。

「......」

お互いの立場を考えたら当然だと頭では理解しているのに、心は素直にうなずいてくれないようです。


そんな私に先生は僅かに困ったような笑顔を見せると、耳元にそっと唇を寄せてささやきました。

「たった今なかなか外では会えないって言ったばかりだけれど...来週デートしませんか?」

こうして暑い夏の一日に私と先生は初めてのデートに出かけることとなったのです。

夏休みらしい青い空に浮かぶ真っ白な雲や街角で元気に咲き誇るひまわりを見ても、私の心は暗く沈んだままでした。

あの夜、先生に講堂の影で抱きしめられた時のことを思い出す度に私の心はざわめきます。

「先生どうしてあんなこと言うの?先生を忘れられなくなるばかりなのに、言葉だけ残すなんてずるい...」

もっとはっきり断られていればあきらめもついたかもしれないけれど、先生の表情が声が次から次へ浮かんでいました。

こんな時いつもなら親友の美歌が「どうしたの?何か悩んでるんだったら話してみなよ」と気にかけてくれるのですが、サークルの夏合宿で軽井沢へ行っています。

結局、手狭な自分の部屋でヴァイオリンの練習を続けるのにも限界が来て夏休みに入って2週間が経った頃、私は大学の練習室へ向かっていました。


あの日から何も手につかず近所のスーパーマーケットくらいしか外に出ていなかったため、夏の明るい日差しが眩しくて思わず目を細めます。

いつもなら開いている正門が閉まっているので西門から中に入ると、人影のないキャンパスにはセミの鳴き声だけが大きく響いていました。

この分だと練習室にも誰もいないかもしれません。時間を気にせず空調の整った練習室を使えるかもなどと考えるうち、講堂の前にさしかかり何となく立ち止まりそうになります。

しかし先生のことを思い出すと苦しくなることは分かっているから、無理に心を空にして通り過ぎました。


予想通り練習室は貸しきり状態で学科と氏名を記入する利用者ノートを見ても、今日はまだ誰もここへ来てはいないようです。

私は習慣的に一番奥「20」番の練習室を選び、涼しい廊下を進みました。「20」番の練習室の前まで来ると、自然と桜井先生に初めて会った日のことが胸に押し寄せます。

先生が奏でるショパンの「幻想即興曲」、オレンジ色に染まった校舎、柔らかな微笑みと耳に心地よい先生の声。

すべてが幻のような気がして私はもう一度心を空にしようと深く呼吸をしました。それからどれほどの時間が流れたのでしょう。

練習室から一度も外へ出ず演奏に集中していたせいで我に返ったとき、空には夏のきれいな夕焼けが広がっています。


そろそろ片付けようかなと思ったけれど、ふと外の新鮮な空気が吸いたくなって廊下へ出るためドアを開けた私は信じられない思いでした。

そこには私が先生と初めて会った日とは逆に、窓を背にして立つ桜井先生の姿があったからです。

「え...先生、どうしてここにいるの?やだ、いつから廊下にいたの?」

半ば夢を見ているような感覚に陥り、口からは疑問が次々に出てきました。

「水川さん、きみに話したいことがあって待ってたんだ。少し時間をもらえないかな」

先生は私の目を真っ直ぐ見たまま話します。話って何だろう?こないだのことは忘れてほしいとか?

そんなことが頭の中を駆け巡りうつむいていると、とうとつに先生が口を開きました。

「きみに突然あんなことをして嫌われて当然だってわかってる。いやなら顔を上げなくてもいいから聞いてほしいんだ」

嫌いになんかなっていません、むしろ先生をもっと好きになってしまったから心が苦しいのです。先生に視線を向けると、いつものように柔らかな笑みですが真剣な目が私を見つめています。

「初めて会ったときから、この窓辺に立つきみがふり返ったときから本当はずっと気になってた。そして、講堂で涙を零したきみが忘れられなくなたんだ」

先生が何を言おうとしているのか分からず、私はただ黙って先生の言葉をきくしかできません。

「研究室にハンカチを返しに来てくれたとき、これで会う機会がなくなってしまうと思ったら引き止めずにはいられなかった...」

唯一のつながりであるハンカチを離したくなかったけれど、先生も同じ気持ちでいてくれたとは想像もしていませんでした。それなのに、私の口を突いて出たのは正反対の言葉たちです。

「何でですか?何でそんなこと言うんですか?もうすぐ先生は結婚してしまうのに。私、聞いたんです。先生が婚約...」

しかし明らかに普段とは違う強ばったような私の声は、途中でかき消されてしまいました。

「確かにぼくには恋人がいたし、正式な婚約をしていたわけではないけれど近いうちに結婚することも考えていた」

知っていたはずなのに直接聞くと心に突き刺さるようです。しかし先生は私から視線を逸らすことなく続けました。

「でも、彼女には正直な自分の気持ちを伝えたんだ。他の人を想っているのに結婚することはできないから、きちんとけじめをつけなければと思った」

先生は何を言っているのだろう...私は研究室で先生がつかんだ左手に触れながら聞いていました。

「どうして...私に突然そんな話をするんですか?私の心をこれ以上かき乱さないでください」

すると先生はひとつ深呼吸をしてから、ゆっくりと告げました。

「きみのことが大切だから、きみが一番ぼくにとって大切な人だから。水川詩音さん、あなたが好きです」


今もこのときの先生の表情、声、私たち二人を包んでいた空気が鮮やかによみがえってきます。先生の大好きな声と待ち望んでいた言葉を聞きながら、私は好きな人も自分を想ってくれる奇跡を感じていました。




こんにちは、日本は暑い日が続いているようですが夏バテなどしていないでしょうか。

更新が3週間も滞ってしまい申し訳ありません。その間もこのブログを訪れてくださったみなさんありがとうございます。

実は先月20日から友人が活動しているNPOグループが主催するプログラムに参加するため、1週間ほど家を空けていました。

ヨーロッパを中心に活動している若手音楽家が集まり、各地の孤児院でヴァイオリンを演奏したり子供たちに楽器を教えたりと貴重な経験をすることができました。


ところが週間ぶりに家へ戻りブログを更新しようとパソコンを立ち上げるも、フリーズしたまま動かずどうにもならない...

パソコンが置いてある机は南向きの窓に面しているのですが、私は家を空ける際カーテンを閉め忘れてしまって。

あげく、雨や曇りが多いこの街で私がいなかった一週間は見事に晴れが続き気温を30度近かったそうです。

そんなお天気で一日中陽が当たっていればパソコンが壊れてもおかしくありません。

前から調子も悪かったし修理に出すことに決め、ようやく昨日すっかり回復して戻ってきました。


今回はたまたま友人に声をかけられ参加した活動ですが、色々と得るものがあったように思います。

正直、音楽を続けてきた中では楽しいことよりも辛かったり苦しかったりすることの方が大半でした。

特に大好きな桜井先生を失ってからは音楽をやめたいと考える回数も増え、自分が何を目指しているのか分からないままヴァイオリンを手にしていた気がします。

音楽を学ぶ者の中には楽譜にとにかく忠実に演奏するタイプもいれば、楽譜よりも自らの解釈や感性を大事にするタイプと様々です。

大学に入った頃の私は後者のタイプ、楽譜に現れた作曲家の意図はどこへというくらい気持ちのままに演奏していました。

先生方には「楽譜通りの正確な演奏もできないくせに、自己流の解釈など付け加えるな」とよく言われたものです。

それでもヴァイオリンを弾きながら湧き出る自分の感情にまかせ演奏することが好きでした。


しかし先生がいなくなってからは気持ちのコントロールができなくなり、ヴァイオリンにおいても感情をおさえるよう意識していました。

楽譜に忠実な演奏をしようと集中すればその時だけは、目の前にある曲のことだけを考えていられるからです。

ヴァイオリンを手にしても次から次にあふれる先生との想い出が多すぎて、心を閉ざさずにはいられませんでした。


そんな日々を過ごしてきたけれど、孤児院で演奏したときは何かが少しちがいました。

幼くして両親や兄弟を失ったという子供たちと私を比べることなどできませんが、愛する人をかけがえのない人を亡くした悲しみは同じです。

そう思ったらふと心が軽くなり心が感じるままに演奏していました。自分でもどう表現したら伝わるか分からないのですが、あぁヴァイオリンを弾くってこういうことだったなと確認したようです。


大切な家族を失って心に傷を負う子供たちに音楽を通して希望を届ける活動ですが、私の方が音楽が持つ可能性を教えてもらった気がしました。

一度限りにすることなく、今後も機会があれば参加させてもらうことを友人に伝えるつもりです。

そういえば先生いつか先生に言われた言葉が浮かびました。

「詩音が奏でるヴァイオリンは自由で聴いていると心が軽くなる。楽譜も大事だけど個性を無理におさえることはないと思うよ」

小さな一歩だけれど空の上から先生が見ていてくれたなら、少しは安心させられたかもしれません。




「桜井先生が好きです。あの日、練習室で会ったときから先生のピアノを初めて聴いたときから好きでした」

抑えきれない想いを告げてしまった私は先生の腕に包まれながら体温と微かな汗のにおいを感じていました。

「忘れようとしたのに、考えないようにしていたのに...きみが見せた涙が頭から離れないんだ」

頭の中では予想もしなかった先生の言葉がリフレインし、戸惑いながら自分の手を先生の背中に回します。

広くて暖かい先生の背中は何だか安心する気がして目を閉じると、二人の鼓動が重なるように聴こえてきました。

どれくらいの間そうしていたのでしょうか。静寂が突然の大きな音で破られ私は反射的に体を離そうとしました。


しかし先生は腕の力緩めるどころか呼吸が苦しくなるほど強く抱きしめます。私もただ先生の胸に身体をあずけることしかできません。


どうやらキャンパスの夜間巡回にやってきた守衛さんが講堂の古びたドアを勢いよく開けたようでした。

カギをかける音と共に戸締りを確認している声が響いてきましたが、私たちがいる講堂と校舎の影に来ることはなく足音だけが遠くなっていきます。

完全に足音は聞こえなくなり再び暗闇が静寂を取り戻すと先生はゆっくりと身体を離しました。

「ごめん、びっくりさせて。きみが学生だということも忘れて突然こんな...本当にごめん」

研究室で腕をつかまれた時と同じ先生の言葉で私は一気に幸せな夢から現実へと引き戻されます


「いいえ、謝ったりしないでください。私こそ先生に変なことを言ってすみませんでした...もう気にしないでください」

私はそれだけ言うとドキドキと鼓動の高まる心臓とくずれ落ちそうな心を抱えて今度こそ校門へ向けて走り出しました。

まだ身体には先生の力強い腕の感覚と先生から漂ってきた汗に整髪剤が混ざったようなにおいが残っているようです。

校門を出て駅へ向かう道は何故だかいつもより明るく感じられ、ついさっき先生に抱きしめられたことが幻のような気がしてきました。

普段と変わらない駅前の喧騒も騒がしく感じられ自分だけが夢の中にいたような不思議な錯覚に陥りそうです。


先生の言葉と抱きしめられた腕は現実だったのだろうか...先生は婚約者がいて結婚するのにどうして...

そんな声だけが頭の中をいくどとなく駆け巡りホームの端に立って星が輝く夏空を見つめることしかできません。

私は先生の背中に回した自分の両手を胸に当てながら夢なら醒めないでほしい、幻なら消えないでほしいと願っていました。

200777日とラッキー7が揃った今年の七夕。私が住むヨーロッパの小さな国は気持ちよく晴れて星もきれいに見えました。きっと彦星と織姫も一年に一度のデートを楽しめたと思います。

先生がとなりにいてくれた頃は好きな人と一年でたった一日しか会えなかったら私には耐えられないなんて言ったことがあったけれど、今は一年に一度でも例え一目でもいいから会いたい...


桜井先生の声を聞いて涙がとまらなくなってしまった私は、一人で講堂の前にしゃがみこんで嗚咽をこらえていました。

「何だか元気ないみたいだけど大丈夫?具合でも悪いのかなと思ったから心配になって」

そう言って浮かべたいつもと変わらない柔らかな笑顔が胸へ突き刺さるようで、自分がどれほど先生に惹かれていたのかを改めて感じます。

でも今は先生に優しくされると苦しくて心が壊れそう。だからこれ以上会わない方がいいって分かってるのに...

耳は私の名前を呼ぶ先生の声を、目はこちらへ近付いてくる先生の姿を捉えてしまいました。恋は理性も冷静な判断力も奪ってしまうようです。


「.....っ、どうして先生?何でここにいるの?」

立ち上がってふり向いた私は涙でぼやけた視界に先生が映った瞬間、夢の中にいるような感覚へ陥りました。

「やっぱり水川さんの様子が普段とちがったから気になって...こないだ研究室に来たときより泣きそうだ」

もしかしたら走ってきたのでしょうか。大きく呼吸をした先生は私の目を真っ直ぐに見つめそらそうとしません。

「だって先生が、先生が優しくするから...」

先生から視線を外すことができずに口から零れたつぶやきは夏の静かな夜によく響きます。そして心から想あふれでた想いを抑えることができませんでした。

「桜井先生が好きです。あの日、練習室で会ったときから先生のピアノを初めて聴いたときから好きでした」

結婚する先生に告白しても結末は充分すぎるくらい分かっています。けれど自分の意思とは関係なく心が言葉をつむぐようでした。


「...................」

長い沈黙が流れ私は無意識に先生が触れた左腕を強く握りしめていました。うるさいくらいにセミが鳴いていた昼間の喧騒がうそのような静けさです。

「あの子は学生でぼくは講師なんだからと自分に言い聞かせたけれど、きみを追いかけてきてしまった」

絶対に断られるだろうと思っていた私は想像とちがう先生の言葉におどろき顔を上げました。

「先生...?」

一歩前に出た先生の手が伸びて講堂の影に引き寄せられた次の瞬間、私は先生に抱きすくめられていました。

「忘れようとしたのに、考えないようにしていたのに...きみが見せた涙が頭から離れないんだ」

微かな汗と整髪剤の匂いが鼻先をかすめ、空に輝く星だけが私たち二人をてらしていました。