微かな心の痛みを感じながらドアをノックした私ですが、すぐに「はい、どうぞ」と短い返事が聞こえました。
「すみません、弦楽器科の水川です。こないだ貸してもらったハンカチをお返ししようと思って...」
ドアを開けると置くに据えつけられたキャビネットの前に立っていた先生がふり返ってこちらを向きました。
「あ、水川さん...」
カバンからハンカチを取り出して先生の方へ差し出しながら話します。
「ありがとうございました。洗濯したんですけど、アイロンかけるの下手ですみません」
先生は手に持っていたファイルをそばの机に置くと、ハンカチを受け取ろうと一歩前に出ます。
心の中では「先生とのつながりを簡単に手放したらダメ」と言った美歌の声が響いていました。
「そんな気を遣わなくても良かったのに。きれいに洗濯してくれてありがとう」
私が大好きな柔らかい笑顔を見せると先生は手を伸ばして長い指がハンカチに触れます。私はハンカチを握る手に思わず力をこめていました。
「.....?」
先生が視線を上げて不思議そうな表情で、ハンカチを離そうとしない私の手とうつむき加減の顔を交互に見比べます。
「ごめんなさい、何だかぼーっとしてしまいました。ハンカチ貸して頂いて助かりました。ありがとうございます」
数秒の沈黙の後、我に返った私はあわてて手を離し先生に謝りました。どうして自分がそんなことをしたのか分からず心臓は止まりそうなほどドキドキしています。
「それじゃあ、失礼します」
ついに私と先生の間をつないでくれるものがなくなってしまった寂しさで涙があふれそうになり、私は軽く頭を下げると踵を返してドアへ近付きました。
その瞬間、後ろから腕をつかまれました。すぐには何が起こったのか理解できずふり返れずにいる私に先生の声が聞こえます。
「ごめん、びっくりさせて。なぜか君が泣きそうに見えたから...」
ようやく今自分の腕を掴つかんでいるのが先生だと分かり信じられない思いでいっぱいでしたが、先生の手はまだ私の腕をつかんだままです。
「私、泣きそうですか...?」
ふり向くとこちらを真っ直ぐ見つめる先生と視線が合いました。先生はうなずくと一歩前に出て俯いた私の顔をのぞきこむように身をかがめます。あの日、私が先生の前で音楽に対する悩みを打ち明けたときと同じです。
「今も泣きそうだ。どうしたの?何かあったなら話してくれないかな...腕をつかんだりして、ごめん」
先生の手が離れました。
優しさがうれしくて想いがあふれ出そうでしたが、本当の理由を言うことができず精一杯の冷静を装います。
「いいえ、何もないですよ。試験が近いし色々と忙しくて疲れてるのかもしれません」
こちらを見つめる先生の視線から逃れるように顔を背け、できる限り自然な声で答えて無理やり笑顔を作りました。
そのまま先生の方を見ずに研究室を後にした私の瞳からはいつの間にか涙が流れ止まりませんでした。