京極夏彦「狂骨の夢」
湘南の保養地、逗子で遊民・伊佐間は朱美と名乗る女と出会う。
彼女は幻想小説界の大御所・宇多川崇の妻だった。
しかも奇怪なことにこれまでに何回も夫を手にかけたという。
あまりに妖しい告白を聞かされた元精神科医の降旗と牧師・白丘は激しく惑乱する。
「あなたの夢こそ鍵になるでしょうね」。
京極堂は刑事・木場とともに店の敷居を跨いだ降旗にそう言った。
逗子湾に浮かぶ金色の髑髏、葉山の山中で起きた男女集団自決に絡まり縺れるようにして殺された老作家・宇多川。
やはり犯人は朱美なのか?
目撃された「復員服の男」とは何者なのか?
謎の寺院、聖宝院文殊寺に乗り込んだ京極堂。
白丘、降旗、そして朱美……
照魔鏡をかかげるがごとく記憶の深淵が明らかにされたとき、歴史の底に凝っていた妄執が、数百年の時空を超えて昭和の御代に甦る。
いくつもの惨劇を引き起こした邪念は果たして祓い落とせるのか。
百鬼夜行シリーズ第3作、ついにクライマックス。
先日、電子版(1)の記事を書きましたが
当初はこれに(2)(3)と追記して行こうと思っていましたが、
(2)の後半からスピードアップして、(3)は1日で読み終わったので
全体の感想を書きたいと思います。
一番肝心のトリック?勘違い?部分は、なんとなく早めに気付きましたね。
その人物の印象が、人によって違いすぎるんですよね。
ただ「犯人」は事情が入り組みすぎてわかりませんでしたね
宇田川崇がなぜ殺されなければならなかったか?
は、本当に最後の謎解きまでわかりませんでした。
電子版では(1)(2)(3)に分かれていますが、
(3)は全て謎解き部分でしたね。
なので、起承転結で言うと(1)が「起」と「承」のさわり、
(2)が「承」~「転」、(3)が「結」という感じです。
((3)は京極堂の蘊蓄は時々読み飛ばし)
今回、私が電子版でハイライトを引いた部分は、本筋と全く関係ない部分です。
その場面は、前のお話「魍魎の匣」で、罪を犯した人物の葬儀です。
その人物は表立って葬式をできないほど罪が重く、
また引き受けてくれる寺や教会もなく、神主である京極堂が引き受けました。
その時、京極堂は下記のようなことを言います。
”型通りに仏式葬儀を行い、仏の慈悲に縋り、誘引開導して戒名を与えてしまえば、最早如何なる犯罪者と雖も仏弟子となる。
怨んでいる者を残したまま個人が勝手に成仏してしまうのはあんまりだ。
許すと云うなら残された被害者の家族の方が許してこその解決なのであって、仏さまに許して貰っても何にもならない"
これは私としては衝撃でした。
確かに、どんな犯罪を犯しても、なんとなくの習慣で(葬式はしないまでも)お坊さんを読んで弔いはしてもらうでしょう。
でも本来は、それすら被害者にとっては許しがたい行為なのでしょう。
被害者は成仏しきれていないかもしれない。
にもかかわらず、加害者は仏に許され、成仏してしまう。
それは、あんまりだ。
話しは逸れますが、「では死刑囚は葬儀はとりおこなわれるのか?」
と疑問に思って調べたら、興味深い記事に出会いましたので貼っておきます。
(死刑囚でも葬儀はするのですね。。。)
このお話の最後に、関口は
「民江はなぜ首を切ったのか、どうしてもわからない」
と言います。それに対して京極堂は
「それを尋くのは野暮天と云うものだ。まあフロイトにでも尋くんだね」
と云います。
私は、民江が夫の亡霊の首を切ったのは「もう生き返って来ないようにするため」だと思っていました。
しかしそうだとすると「野暮天」という意味と合いません。
フロイトが出てくる部分など読み返してみましたが(読み飛ばしたところが多いので)
わからず。
ネットで調べたところ、一番有力な説を発見。
映画監督 横山博人さんのブログに、フロイトと「メドゥーサの首」について書かれていました。
フロイトによると、首の切断は「去勢」を意味するらしいです。
さすがに「フロイト全集」を読む自信がないので、確認することはできませんが
そういう意味なら、京極堂が「野暮天」と言ったのもわかる気がします。
幼い頃から性を搾取された民江の、無意識の反撃なのかもしれません。
全体として、難しい部分はあり(宗教だのフロイトなどは斜め読み)
登場人物が多いのでなかなか覚えられないという難点はありましたが、
面白かったです。
「百鬼夜行シリーズ」は、そのおどろおどろしい雰囲気に惑わされがちですが
すべてが亡霊や不思議現象などではなく、現実的な理由があります。
ただその「理由」は人間による「呪い」(憑き物ともいう)であり、
それを祓うのが、京極堂の仕事なのですね。
読んでいる途中は苦しいですが、また次が読みたくなる不思議。