川中島の戦い
時代 : 戦国時代
戦国時代、数えきれないほど戦争が起こりました。
今日はその中の上杉謙信vs武田信玄の川中島の戦いをピックアップ!
長野県の千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)に挟まれた土地のことです。
この川中島という場所は上杉謙信にとっても武田信玄にとっても自分のものにしたい土地だったのです。
上杉謙信は新潟県(越後国)、武田信玄は山梨県(甲斐国)、上杉謙信からは南側の要所、武田信玄からは北側の要所だったというわけです。
そもそも武田信玄は長野県(信濃国)に進軍していて、信濃国を領国にしようとしていました。
川中島での上杉謙信vs武田信玄の戦いは一度だけではなく、実は5回も戦っています。
POINT
1553年(天文22年)〜1564年(永禄7年)
までの12年の間に5回戦った。
上杉謙信サイドから見た川中島の戦い
軍神と言われる上杉謙信。
その実力を発揮したのは15歳の初陣の時でした。
19歳に越後国の守護代に任命されました。
守護代とは何かというと、各国にいる守護の仕事を代行した人たちのことです。
越後の国主として認められたのはその2年後、1550年でした。
さらに2年後の1552年、武田信玄(当時は晴信)が信濃国へ侵攻して、信濃国の守護が謙信に助けを求めました。
信玄は翌年の1553年に信濃国へ進軍しました。
これが第一次川中島の戦いです。
1度目の川中島の戦いは謙信が圧倒し、武田信玄の軍を南方へと下げることができました。
謙信、20代前半です。
信玄は善光寺(源頼朝が再建した長野市の寺)を味方につけて、長野県長野市にあった旭山城を手に入れました。
謙信は再び信濃国へ進軍しました。
1555年、第二次川中島の戦いです。
2度目の川中島の戦いは決着がつきませんでした。
和睦となって、謙信は軍を引き上げました。
しかし2年後、1557年、信玄は和睦を破って信濃と越後の国境付近へ進軍しました。
これに謙信は再び信濃国へ進軍します。
第三次川中島の戦いです。
その後数年、謙信は関東方面での戦争を抱えました。
この間に武田信玄側は川中島に城を作り、力を拡大していきます。
そして1561年、第四次川中島の戦いが起こりました。
この戦争は大きな戦いになり、武田信玄側は大打撃を受けました。
川中島の最後の戦いは3年後の1564年でした。
第五次川中島の戦いです。
この戦いでも二人の間に決着はつかず、この戦いを最後に、川中島で二人が戦うことはなかったのです。

川中島
▼
長野県
1553 ① 川中島の戦い
謙信優勢
信玄
善光寺(長野県の寺)を味方にする
1555 ② 川中島の戦い
和睦
信玄、信濃国へ進軍
1557 ③ 川中島の戦い
謙信、関東で戦争
信玄、川中島に城をつくる
1561 ④ 川中島の戦い
武田信玄、打撃
1564 ⑤ 川中島の戦い
決着つかず
20代前半から30代後半まで武田信玄と川中島で戦争をした上杉謙信。
人形浄瑠璃文楽ではこの二人のストーリーも芝居になっていて、有名なものに「本朝廿四孝」「信州川中島合戦」があります。
とよたけ・さきじゅだゆう:人形浄瑠璃文楽
太夫
国立文楽劇場・国立劇場での隔月2週間から3週間の文楽
公演に主に出演。
その他、公演・イラスト(書籍掲載)・筆文字(書籍タイトルなど)・雑誌ゲスト・エッセイ連載など
オリジナルLINEスタンプ販売中
豊竹咲寿太夫
オフィシャルサイト
club.cotobuki
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