六波羅探題って?
時代 : 鎌倉時代
源頼朝は自分と主従関係にある武士たち「御家人」を率いて、京都の市街地を警備させました。

京都
朝廷

鎌倉
幕府
京都の朝廷、つまり天皇を中心とした貴族たちの政治機関と、武士たちを中心とした政治機関の鎌倉幕府との連絡にも御家人を動員しました。
また、京都の中における裁判なども務めました。
このシステムは「京都守護」と呼ばれました。
守護って何かを守るの??
平家を打倒して、そのあと奥州でもの凄い権力を誇っていた奥州藤原氏を打倒した源頼朝。
東国を実力で支配し、その支配権は朝廷に正式に認められていました。
また、奥州の藤原氏を打倒するとき、奥州へ逃げていた義経を討つために各国に御家人を配置して警察のような役割に就かせました。
地方を守るという名目で
これを守護といいます
この守護は次第に地方の行政にも関わっていくようになりました。
頼朝はこの東国の支配権と諸国守護権で全国の武士の中でも絶対的な権力を持つようになったのです。
どこから鎌倉時代と呼ぶのかは専門家の中でも意見が割れています。
ちなみに幕府というのは日本では元々将軍の館という意味で、政府の意味になったのはもっと後世になってからです。
なのでこの頃は鎌倉幕府とは呼んでいなかったんですね。
1180年に頼朝が鎌倉を本拠地としたとき
1183年に東国支配権を朝廷から認められたとき
1185年に守護と地頭の任命権を獲得したとき
1190年に右近衛大将に任命されたとき
1192年に征夷大将軍に任命されたとき
など、鎌倉時代の始まりをいつからと考えるかの説は分かれています。
関東の武士たちはどんどん鎌倉の頼朝の家来になっていきました。
勢力は拡大していき、関東だけでなく頼朝の家来は全国に広がっていきます。
けれどまだこの頃は幕府と朝廷は並行して政治活動をしていました。
朝廷を監視するためにも、鎌倉幕府は京都守護というシステムを構築したのです。
頼朝には「家臣の中でも最も信頼できる」と公言したほど才能豊かな家来がいました。
北条義時です。
1199年に頼朝は亡くなり、息子の頼家が18歳でその後を継ぎました。二十代には征夷大将軍になりましたが、頼家の勢力と弟の実朝の勢力の対立が起こり頼家は追放されました。
そして弟の実朝が12歳で征夷大将軍についたのです。
この実朝の勢力というのが北条氏でした。
北条義時は実朝の元で政治を行う「執権」となりました。
しかし、実朝は1219年に暗殺されてしまいます。
次の将軍についたのは源氏ではありませんでした。
源実朝で源氏の将軍は途切れたのです。
4代将軍は実際には地位だけで、政権を握っていたのは北条義時でした。
この時、後鳥羽上皇は武家の政権を倒して朝廷の天下に戻すために、「北条義時を倒そう!」と味方を集めて戦争を仕掛けました。
1221年の承久3年にこの戦争が起こったので、「承久の乱」と呼ばれています。
どうして源氏が将軍の時にこの戦争が起こらなかったのかというと、源頼朝が清和天皇の血を引いていて、朝廷の貴族たちとも身内の関係だったからです。
結局、後鳥羽上皇の軍勢は鎌倉幕府側に負けてしまいました。
後鳥羽上皇は島根県の隠岐島に流されました。
この戦争の影響で幕府軍の武士が京都に残り、朝廷の監視を始めました。
このときに大将たちが滞在したのが六波羅という場所でした。
そこで今まで朝廷との連絡としての役割だった京都守護を進化させた役割をこの六波羅にいる鎌倉幕府の長官たちに任せるようになったのです。
鎌倉幕府では長官たちを探題と呼びました。
六波羅に滞在していた探題。
六波羅の探題。
とよたけ・さきじゅだゆう:人形浄瑠璃文楽
太夫
国立文楽劇場・国立劇場での隔月2週間から3週間の文楽
公演に主に出演。
その他、公演・イラスト(書籍掲載)・筆文字(書籍タイトルなど)・雑誌ゲスト・エッセイ連載など
オリジナルLINEスタンプ販売中
豊竹咲寿太夫
オフィシャルサイト
club.cotobuki
HOME