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三宝自治会 定例会 9/19

 「またか」という印象である。一部の連合自治会役員だけで市長宛の要望書を提出したかと思えば、今度は定例会での報告を約束したにもかかわらず、全く議題にもあがっていない。この自治会は何をやっているんだろうという感が強い。
 
 要望書を各単位町会長をはじめ各町会にはかることもなく、一部の町会役員と対策チームと称する市役所とのパイプ役のメンバーが無断で市長宛にLRTの推進要望を提出したのは、8月27日のこと。この中身についてもどうかと頭をかしげる内容ではあるが、それはさておき、無断で提出するが後で説明をするので了承願いたい旨のメモを、会長が各単位町会長に配ったようだ。そこには提出した翌月の9月19日の町会定例会で報告すると書かれている。

 当然、無断で要望書を提出した緊急の経緯や、要望書の内容の詳細が説明報告されるものと思ってしまう内容だ。にもかかわらず、町会定例会には要望書の「よ」の字すら見受けられない。また、参加した単位町会長の数人の話では、要望書の一件は全く話されなかったようである。これは自治会の「封建主義」のなにものでもない。誤解がないように改めて述べるが、あくまでも「一部の自治会役員」の封建的行動が問題である。

 またこのような事例は、三宝自治会に限ったことではないようだ。いくつかの自治会では「あたりまえ」のように、酷似した事例が横行しているようだ。堺市はこのような自治会の管理について、どのような指導をしているのか調べる必要がある。年間2億円近くの補助金が使われる管理責任は軽くはないはずだ。選挙前には竹山市長もこの件に大変興味を持っておられ、名古屋市長の自治会対策を入念に調べておられた。今後の竹山市長の動向が楽しみだ。透明性のある開かれた自治会運営が望まれる。

pdf データはこちら右矢印右矢印右矢印三宝チラシ2



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沈まぬ太陽 (後編)

 当時、JA8119機の事故原因は「フラッター現象」といわれたが、実は後部圧力隔壁の「疲労破壊」であることを突き止めたのは佐藤先生だった。佐藤先生と共に自動車車体の軽量化と疲労強度向上について研究し、この事故の究明に一役買えたことを光栄に思うと同時に大変感謝している。

 佐藤先生は福岡のご出身で、九州大学工学部航空学科にご入学され、敗戦のため航空学科は応用力学科に衣替えさせられた。大学院では統計熱力学を勉強され、「物理と化学のための数学」を翻訳、「現代物理学」を監修された。今でも教科書として使用されているベストセラーである。
 その後、大阪工業大学にお越しになり、溶接学会の初代委員長、自動車技術会委員長などを歴任され、正五位 勲三等 旭日中綬章 叙勲 された。要するに物理、航空力学、溶接接合接着技術、疲労破壊、自動車構造軽量化のプロフェッショナルである。
 
 JA8119機の激突事故では家族会の代表を務め、航空会社やその背後の黒幕の妨害にも屈せず、「智慧」をもって理路整然と戦った。これまでのご経験が幸いにも活かされ、激突事故の原因が究明された。佐藤先生の遺稿集では、仕事と事故の究明に精力を使い切っていたことがうかがえる。父として娘に対する思いが込められていると感じた。

 長男の洋さんはいつもの通り、8月12日に妹の素子さんの法事を済ませ入院中の佐藤先生の元に戻り、法事が無事に終わったことを報告した。佐藤先生は病床でうなずき、安心したように、穏やかに娘の元に逝ったと記している。

 生前の、「人の力を借りるな、人の智慧を借りよ」というお言葉が心に残っている。JA8119機の激突事故の話題になると、今でも涙が流れる。

*「智慧(ちえ)」…物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。仏教語。

沈まぬ太陽 (前編)

 実在企業や実際に起こった墜落事故を描いており、遺族への配慮などデリケートな問題もあり映像化は不可能と言われてきた「沈まぬ太陽」が公開中だ。原作はあの山崎豊子さんのベストセラー小説。初日舞台挨拶では、「熱い思いを忘れることがないよう、墜落事故で亡くなった520人の方々、ご遺族の気持ちも絶対忘れないように…。そういう気持ちで作りました。」と、途中、言葉にならないほどおえつし、何度もハンカチで涙をぬぐった主演の渡辺謙さんの様子が印象的だった。体育館に棺が並べられたシーンの撮影には3日間も要し、その間、俳優の宇津井健さんを含めた制作スタッフは私語も発さず、熟睡もできなかったという。映画で航空会社の腐敗体質の温床となった存在や、その背後の黒幕についても描かれている。
 

 日航機事故の年、大阪工業大学に入学したばかりの学生であった私は、この事故を耳にして自分のことのように思えてならなかった。当時の大学学長は佐藤次彦教授で、ひき逃げ犯検挙協力にて佐藤先生に表彰して頂いた記憶が鮮明に残っている。その後、卒業研究の1年間とその後2年間の大学院前期課程はこの佐藤教授の下でお世話になり、とても可愛がって頂いた。佐藤先生は、聡明でチャーミングで、いつも朗らかだった。研究の合間には麻雀と絵画のお話を楽しそうに教えて頂いた。


 

 1985年8月12日、佐藤先生は大学で開催される国際会議の相談をしていた。同じ時刻、「娘の素子が群馬の山中で命を果てていた。(中略)これが私どもの家族にとってのTHE DAY AFTERとなった。」(事故から6年たった1991年夏、「犠牲者の家族」から見た事故の風景と題して佐藤先生が「新潮45」に寄稿した文章の草稿より抜粋)


 このことを知ったのは大学院に入ってからのことだ。

(佐藤先生のワイフである佐藤トシさんの自費出版、「佐藤次彦遺稿集 日航ジャンボ機激突事故の真実を追って」より)