だいぶ前に違う場所で書いた記事の再投稿です。

よろしければお付き合いくださると嬉しいです。


 

「負けるが花」を読みました。
 

とても素敵な本です。
 

 

 

 


とだけ言いたいところですが、私にとっては痛みを伴う読書になりました。

「負けるが花」の著者である小野美世さんを知ったのはアメーバブログがきっかけでした。

→小野美世オフィシャルブログ

心屋仁之助さんのブログ(心屋さんのブログは、現在は心屋さんではなく認定講師さんが執筆されています)をよく読んでいた頃に、ブログ内で小野美世さんの記事が紹介されていました。

美世さんの記事を読んでみると、優しく丁寧に心の変化が描かれている文章に、するりと吸い込まれていくような感じを覚えました。

ついつい気づかないフリをして心の奥に押し込めてしまいそうな微妙な気持ちの変化を、優しく拾い上げ、一つひとつ丁寧に言語化されていくさま。

あぁ、これが言いたかったの!
私、あのときこう思っていたんだ!
 

と叫びたくなるほど美世さんの文章は私の中の違和感を表現してくれていました。



冒頭「はじめに」で綴られる読者へのメッセージ。
 

頑張り屋さんのあなたへ。
 

「私は悪くない」「私のことをわかってくれない夫が悪い」
 

誰かのせいにして私は悪くないと思おうとしている自分。

そんな自分にそれとなく気づかせてくれる言葉たち。
 

冒頭部分から、離婚前の殺気立っていた過去の自分を思い出しては、胸の内がチクチクするのを感じていました。
 

夫のせいにして感情的になって接していたな。
 

それが当たり前になっていた毎日が、たしかにありました。
 

今なら落ち着いて振り返ることができる。そう思いながら読み進めていきました。

「夫は戦う相手ではない」
 

私は戦っていた?
 

当たり前のように夫と言い争う姿勢でいたけれど、夫は戦うべき相手ではないと美世さんは書いています。

夫や親、世間とも戦っていませんか?
 

かつての私を思い出すと、自分の親へ反発していた頃を思い出しました。
 

私が10代の頃は両親、特に父親とよく言い争いをしていました。
 

父が頭ごなしにものごとを言う人だったのですが、私は理由がわからないことに従うことはできないという思いから父の言うことに反発し、自分も理屈を並べて言い返そうとしていました。

 

あぁ、私はずっと戦闘態勢で生きてきたんだな。
 

何かに立ち向かわなければいけない、と思い込んで生きてきた。


 

「負けたくない」
 

どうして負けたくないと思うのか。
 

この本では根底にある感情を見ていくことになります。
 

なぜ相手に立ち向かうのか。なぜ従いたくないのか。
 

私の中から出てきた思いは「負けたら私の価値がなくなる」「ありのままの私を認めてほしい」というものでした。



負けてもいい。
 

負けても私は私そのままで価値がある。
 

そこまで思えるまでには時間がかかります。

 

私の話で言えば、夫と別居してからずっと平和な気持ちでいられたかというと、決してそうでもなく。
 

別居しても「夫は仕事だけしていられていいな」「家事育児なんてしないんだよな」「自分に時間を使えていいな」と、私ばっかり損をしているような気持ちが出てくることがありました。
 

自分で選んだ離婚への道とはいえ、夫が羨ましく見え、自由に生きている(ように見える)ことにイラつきを感じることもありました。


自分の中のイライラの感情や辛い感じをどうにかしたくて、あるカウンセラーさんにカウンセリングを申し込んで自分の内面と向き合うことしました。
 

そのカウンセリング後からいろいろ楽になり、夫への負の感情は徐々に小さくなっていきました。
 

「負けるが花」の中にも具体的なワークが載せられています。
 

自分の本当の気持ちを知るためのワーク。

私が他の人のカウンセリングを受けたときのようなワークのやり方が書いてあるので、より自分自身に「腑に落ちる」感覚を得られると思います。
 

自分の本当の気持ちは「夫へ対して怒りたい」「イラついていたい」ではない。
 

その表面化した行動のずっと下にある本当の本当の気持ち。
 

その気持ちを自分で感じて、自分で抱きしめてあげる。
 

自分に優しく、柔らかく。
 

今まで身につけてきた鎧を一つずつ外していく作業が必要。

鎧がなくなったとき、初めて「負けてもいい自分」が顔を出してくれます。


 

「負けてもいい。」
 

勝ち負けにこだわらず、凛としていられるような自分。
 

そんな花でありたい。
 

「負けるが花」に込められた「花であれ」というメッセージ。



この本を読み進めているときは、何度も過去の自分と向き合わされました。(著者を責めているわけではありませんよ。)
 

途中でつらくて読み終えることを投げ出しそうにもなりました。実際読まずに数日放置していたときもあります。(過去の自分を見なくてはいけないのかと思うと読めなくなるんです。現実逃避。)


 

感情のままに夫に言葉をぶつけ続ける当時の私。
 

子供の前で夫婦喧嘩。
 

本当はただただ大切にされたかったこと。
 

それを言葉で伝えるスキルがなかったこと。
 

あのときの選択に後悔はありません。
 

でも、違う言葉で伝えていたら、もっと早く穏やかに過ごせていたかもしれない。
 

この本を読んで、何度も「もう頑張らなくていいよ」とあのときの自分を抱きしめに行くような気持ちが湧いてきました。
 

過去の自分を受け入れることができたのかもしれませんね。
 

痛みを伴う読書でしたが、次に進むために必要なステップだったのかもしれません。
 

今はこの本に出会えたことに感謝しかありません。

 

 

 



 

この本が必要な人に届くことを願っています。
 

感想文に最後までお付き合いくださりありがとうございました!



 



こんにちは。

お読みくださりありがとうございます。

寒くなってきましたね。

そういえば、子どもが小さいときは

1人でお風呂に入ることができなくて

それがけっこうストレスで

もんもんとしていたなぁと思い出しました。

ひとり親なので、

他の大人がいるときにお風呂に入る

ということもできず、

夜、子どもが寝てから入ろうにも

子どもが謎に泣いて起きるという。(当時下の子5歳くらい)

夜泣きの年齢ちゃうよな?と不思議に思ってましたが…

寒くなってくると、「暖まりたい!」という欲求が強くなり

でもお風呂に入るのは難し、というときの

苦肉の策がこれでした。

 

 




フットバス!足湯!

ほぼバケツ!(笑)

足がじんわりと暖まると、ほ~っと、どこかが緩まる感じがします。

PC仕事に疲れたときもよく使っていました。

今でも外から帰ってきて、とりあえず足を洗っておきたいときや

どうも下半身に冷えを感じるときなどに

アロマオイルを1滴垂らして使っています。

冬が近づいてきて

寒さ対策が必須になります。

ホカホカグッズのパワーを借りて乗り切ろうと思います。



読んでくださり、ありがとうございました。

今日もあなたが幸せでありますように。






 

あるオープンチャットに参加しました。

不登校のママが安心して集まれる場所。

安心して思いを吐き出せる場所。

有料制ですが、今なら初月無料です!

 



ゆるっと日々起きたことを吐き出して、そうなんだね、と受け止めてもらったり
それわかります~、みたいな話になったり。

ゆる~くつながる。制限もしない。

外に出られないこともある不登校ママたちの居場所。

そんなゆるまるソファの今日の投稿から思ったことを書きました。





とあるメンバーの子どもは、人の多い場所が苦手。

「こんな場所ムリ…」と倒れそうになっていた話を、我が家の息子に伝えると

「暗くて狭くて1人になれる場所がいいよな」とポツリ。
(←ドラえもんか!)

息子もUSJに行きたいという望みはあるけど、実際に行くとなると

・人が多いこと
・場所が広すぎること

が心のカベとなって、一歩を踏み出せずにいる。

でも、ちゃんと自分の安心できる場所を自覚しているんだな、と思い

少しホッとしました。

自分の外でイレギュラーなことが起きても

自分の安心な場所や方法がわかっていれば

いつでも自分に戻れる。

大人になっても「無理をしない」は大事で

自分の理想と安心感を両天秤にかけ

行けると思ったときには踏み出す

踏みとどまることもときには大事。

合わない場所へ行ったら、そのあとの休息はとても大事。

自分に合う場所と合わない場所を知っておくのは

生きていく上で必要なスキルだな

と思ったのでした。



読んでくださりありがとうございました。
 



 

前回からの続きです。

 

 

スクールカウンセラーと私の話し合い(カウンセリング)はその後も隔週に1回ほどのペースで続けていました。

 

その頃、地域の不登校の子のママたちに会う機会もあり、私の思いを吐き出せる場所は拡がっていきました。

 

誰かに自分の悩みを打ち明けられることが、こんなにも心を軽くしてくれるんですね。

自分が元気を取り戻していくのが実感できるようになっていました。

 

逆に言えばそれだけダメージを受けていたということ。

自分の親に責められ、自分自身が自分を責め、追い込まれていたのでしょう。

 

悩みのピークの時期には、何を食べても美味しいと感じられず、何をしても楽しいと感じられず。

ただ毎日をこなしていくことに精一杯でした。

 

今だから言えることですが、私の場合は運が良かったのです。

話ができるカウンセラーに出会い、悩みを共有できる不登校児ママたちにも出会えたのですから。

 

その出会いが無ければずっとトンネルの中を彷徨っていたかもしれません。

私の気持ちが前向きになってくるにつれて、スクールカウンセラーとの話し合いを必要と感じなくなっていきました。

 

隔週に1回の話し合いをお休みすることを伝え、学校へは月1度、担任の先生と顔を合わせに行くだけとなりました。

 

「不登校」を受け入れることは、子供の精神状態よりも親の精神状態が大きく影響します。

 

「不登校」は、子供自身の足が止まって「学校へ行かない(学校へ行けない、学校へ行きたくない)」状態でいることです。

その状態をなんとかしたくて学校へ行かそうとするのか。

表向きは学校へ行かなくていい、と言いながら本心では行って欲しいと思っているのか。

不登校になってすぐはこのどちらかに分かれる親御さんが多いのではないでしょうか。

 

子供の将来への不安。

不登校家庭への世間からの目。

夫や実父母・義父母からの「学校へ行かせるように」というプレッシャー。

いくつもの不安やプレシャーには、一つ一つ対処することが可能です。

 

子供の将来への不安や世間からの目は、自分自身と向き合うことで解決方法を探ることができます。

(何が不安なのか、世間からどう思われているのが辛いのか、など。)

一人で向き合うのは辛い作業なので、カウンセラーを活用するのが良いかもしれません。

 

夫や実父母・義父母との関わりは、何度も何度も話し合いをしていくことでお互いの理解が深まり、関係が変わっていくこともあるでしょう。

身内といえど、意見が合わない場合には物理的に離れることもときには必要です。

一時的な別居も時には必要でしょう。

第三者を間に挟んでの話し合いが効果的な場合もあります。

 

「学校へ行けない」状態を受け入れ、周辺環境との摩擦を生じながら「学校へ行かない」を選択していくことは、とても覚悟が必要なことだと感じます。

 

親自身が親である前に人としての在り方を問われ、自分軸を持つことの大切さを再認識させられることだってあるでしょう。

私の場合は時間の経過と共に自分の心が回復し、「子供が学校へ行かなくてもいい」と思えたからこそ、子供が「学校へ行かないこと」を受け入れられました。

 

無理をして学校へ行き、体と心をすり減らすくらいなら、学校へは行かなくてもいい。

「学校へ行けない」状態を受け入れ、「学校へ行かない」「学校へ行かなくてもいい」を選択できるには、親の心の安定が必要不可欠でしょう。

 

今はまだ受け入れられなくてもいいし、「学校へ行って欲しい」と思ってもいい。

 

自分の気持ちに正直にいれば、きっと答えが出てきます。

どうか焦らずに自分の気持ちと子供を見守ってあげてください。

 

 

 

お読み頂きありがとうございました。

 

 

 

前回からの続きです。

 

スクールカウンセラーとの話し合いや祖父母との折衝を経て、家庭内は少しずつ落ち着きを取り戻していきました。

一番辛かった時期を越え、不登校が安定してきた頃について書いています。

 

 

いつもは私とスクールカウンセラーだけでの話し合いに、おじいちゃんおばあちゃんをを呼んでみませんか?

とスクールカウンセラーから提案されました。

心を消耗していた私に対するスクールカウンセラーのサポートだったのだと思います。

私と祖父母の間に入って話し合いの機会を設けようと試みてくれたのです。

 

話し合いへの参加の是非を祖父母に問うと、祖母だけが参加してくれることになりました。

私にとっては家での祖父母の言動は厳しく感じられ、愛情ゆえにというよりはしつけや人格矯正のようにしか感じられませんでした。

 

ですが、ここでも第三者への相談であるということが幸いしたのでしょう。

祖母は身内への言葉とは違った言葉でスクールカウンセラーへ質問していました。

 

「学校へ行かないことで将来がどうなってしまうのかとても不安、心配だ。だから○○には学校へ行ってほしいし、どうしたら学校へ行けるようになるのか教えて欲しい。」というのが祖母の思いでした。

 

するとスクールカウンセラーが、○○君は学校へ行きたくても行けない状態であること、今はゆっくり休むことが必要であることを再度説明してくれました。

 

私の口から出た言葉を聞くのと、実際に心の専門家から聞く言葉とでは、納得する度合が違ったのかもしれません。

祖母は、改めて異文化を受け入れようとするかのような面持ちで聞き入れ、腑に落ちてはいないがスクールカウンセラーの言葉を飲み込もうとしてくれました。

 

今までの私や長男への言動は、祖母の不安や心配が生んだものであったというわけです。

祖母がどう思ったのかわかりませんが、私にとっては有意義な話し合いの時間でした。

 

 

心配している本人からすれば愛情をかけているつもりでも、心配されている人にとってはそれがただのおせっかいやプレッシャーのように感じられることがあります。

 

「心配している」ことと「愛情をかけている」ということはイコールではない。

 

心配や不安を相手に伝えることは大切です。

ですが過度に踏み越えてまで相手に自分の思うやり方をさせることは、相手のためにはならないのではないでしょうか。

 

心配している、愛情をかけているというただの自己満足に終わっている場合もあるかもしれません。

 

心配や不安から相手に変わって欲しいと望むときは、自分の中の心配や不安がそうさせていることが多くあります。

相手に変わってもらうより前に、まずは自分の中に心配や不安の種が無いかを疑う必要があります。

 

祖母の心配の種は「学校へ行かないことで孫が将来引きこもりになってしまうのではないか」という、今起こっていないことに対する不安によるものでした。

自分が不安な気持ちを感じたくないがために、「学校へ行ってほしい、学校へ行かせてほしい」という言葉や行動に出ていたのでしょう。

 

スクールカウンセラーとの話し合いで、祖母の胸の内が聞けて良かったと思っています。

祖母(祖父も含め)の真意がわからないまま平行線でいたら、家庭内の不安定な状態がもっと長引いていたかもしれません。

 

私の中で、祖父母の不安や心配を受け入れていく準備ができ始めていました。

 

 

次回へ続きます。

 

 

お読み頂きありがとうございました。