「愛情の反対は無関心・・・と翻訳品質」に頂戴したコメントとの関連です。
向かわんと擬すれば即ち乖く。
本当に「頑張らない」のは、「頑張ること」を意識からなくすことだというくだりがありました。
これはまさに、そのとおりだろうと思います。
何かが頭の片隅にでもあるうちは、意識がそこに向いて、逆にできなくなってしまいがち。
その上、意識からなくそうとしている(=向かわんと擬する)うちは、到達できない(=即ち乖く)。
なくそうとするのではなく、なくなっている状態が理想なのですよね。
たとえば・・・・
記事の末尾に入れた画像は、今朝、自宅のベランダから撮影したものです。
カラーフィルターや色補正などの加工は一切せず、そのままです。
数本の光が桃色のカーテンさながらにのびて、本当に幻想的で美しい光景でした。
あまりに美しいので写真を撮りましたが、そのときの私は当然、この景色に意識が向いています。
でも普段は、太陽が昇ってくることを、いちいち意識していません。
ましてや、もしかしたら今日は北から日が昇るかもしれない・・・なんて、考えない(笑)。
「頑張ること」を意識からなくすというのは、そういう「完全に頭から外れた」「微塵も考えもしない」状態にすること。
私の場合は、自分を満たすことを優先して仕事を「ついで」にすることで、これに近い状態になりました。
寝食を忘れて没頭するという言葉がありますが、楽しいことに集中していると、他のことを忘れます。
あるいは、悩みにフォーカスしているうちは一向に解決しなかったのに、考えるのをやめたとたんに解決するということも、よくありますよね。
何かを完全に意識しない状態そのものは、誰でも、山のように経験しているはず。
にもかかわらず、「頑張ること」を意識からなくすのは、往々にして難しい・・・・
なぜ?
もしかしたら私たちは、子どもの頃から、「がんばれ」と言われすぎているのかもしれません。
たぶん、だからなのだと思います。仕事を遊びの「ついで」にした結果、パフォーマンスがあがったのは。
「やりたくないこと」が「ワクワク」に変わっただけでも、ネガティブな要素は激減しますし。
もちろん、見直しそのものは、単調なことに違いはありません。
でも、できるだけ出かける頻度を増やすために、もう一工夫しました。
何をしたかというと、最後まで訳してから見直すというプロセス自体を、やめています。
具体的には、訳が途中でも「その日までに」終わっているところだけ、カフェで見直し。
つまり、訳す→見直す→訳す→見直す→訳す→見直す・・・と、細かく繰り返している、ということです。
そして最後に、原稿と照らさずに通しで読んで仕上げます。
悪天候だと1日ずっと家にいる日もあるとはいえ、基本的には、今日はどこに行こう?から始まりますし、そのおかげで、以前にも増して外に目が向くようになりました。
「頑張ること」を、意識からなくす----。
どこまでトコトン楽しめるか、良い意味でのチャレンジは続きます♪
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