イースター島ウルルン滞在記
飛行機を3回も乗り換えて、ロスから16時間。
イースター島10日間のホームステイ。
ホストファミリーは、原住民族のナパ・ヌイ族。
彼らは、公用語がスペイン語で、
ナパ・ヌイの言葉、文化も強く守ろうと努力していた。
人口約4000人のうち78%が、この民族がまだ住む。
島は、端から端まで、約20キロメートル。
歩いて、一周しようと思っても、無理ではない距離。
島の収入が、観光でしか成り立っていないため、
島の人は、観光人慣れしていて、優しかった。
南米旅行を繰り返してきて、わたしは何度か
「日本人だからお金を持っている」とか「女だから」と
甘く見られることがあったけれども、この島の人たちは、
人口4000人の中で、みんながみんなを知って、
親戚などでつながっているため、なにも悪いことは考えない。
ということで、10日間のわたしの移動手段は、
「歩き」と「ヒッチハイク」だけだった。
夜、外を歩いていても、人よりも、
馬の糞を踏んでしまう方が、怖いくらいだった(笑)。
8月9日水曜日
チリの首都サンティアゴで、一日観光してから、
イースター島に向かう予定だったけれども、
南半球であるチリは今、冬。
気温は2℃。
薄着しか持っていなかったわたしは、即座にチリの新聞を開き、
天気予報をチェックする。
イースター島の気温は、22-15℃であった。
空港で、“ゴリ押しスパニッシュ”を使い、
一時間後に旅立つ飛行機に変えてもらい、
予定より早くイースター島に到着する。
自分の予定を変更したことを、
ホストファミリーに知らせたかったのに、
空港の公衆電話が壊れていたため、
そのままタクシーで、ホストの家へ。
やっと着いたけれど、家に誰もいない…
どんなに待っていても、誰も帰ってくる様子がない…
でも、家にカギがないので、
わたしは勝手に家にあがり込んで、
台所にあったフルーツを食べてしまった(笑)。
それから、ホストマザーのルシアが、
家に帰ってきて、挨拶を交わす。
勝手に食べたことを謝ったけれど、
まったく、彼女は気にすることなく…
ランチにパスタを作ってくれた。
それから、モアイを見に出かける…
けれど、モアイがあるのは、
家から1分もあけば、そこにあって、
「やっぱり、いた!」という感じで見上げた。
初めて、モアイにカメラのレンズを向けて、
モアイをよく見ると
「君、すごい顔しているね」
と、独り言を言ってしまった(笑)。
夕日の時間まで、一人で海岸沿いを歩いていると、
三重県の公務員、森さんという男性に出会う。
「どうして、イースター島に来たんですか?」と聞くと、
「3週間前に、競馬で28万円当たって、
モアイでもデカイものを見に行くかー!」と
思ってしまった、おもしろさ抜群の人。
「そのおもしろさ、公務員じゃ、もったいないですよー」と
わたしは言い、日が暮れるまで話してしまった。
イースター島は、2・3日居れば、
普通に島を満喫できるくらい小さな島である。
そこに10日間もいるわたしは、観光ガイドに、
ほとんど目を通さないで来た。
3日間一人で滞在して、次の日帰る、この森さんから、
ある程度のイースター島を、得、
予定をある程度、立てることが出来た。
イースター島10日間のホームステイ。
ホストファミリーは、原住民族のナパ・ヌイ族。
彼らは、公用語がスペイン語で、
ナパ・ヌイの言葉、文化も強く守ろうと努力していた。
人口約4000人のうち78%が、この民族がまだ住む。
島は、端から端まで、約20キロメートル。
歩いて、一周しようと思っても、無理ではない距離。
島の収入が、観光でしか成り立っていないため、
島の人は、観光人慣れしていて、優しかった。
南米旅行を繰り返してきて、わたしは何度か
「日本人だからお金を持っている」とか「女だから」と
甘く見られることがあったけれども、この島の人たちは、
人口4000人の中で、みんながみんなを知って、
親戚などでつながっているため、なにも悪いことは考えない。
ということで、10日間のわたしの移動手段は、
「歩き」と「ヒッチハイク」だけだった。
夜、外を歩いていても、人よりも、
馬の糞を踏んでしまう方が、怖いくらいだった(笑)。
8月9日水曜日
チリの首都サンティアゴで、一日観光してから、
イースター島に向かう予定だったけれども、
南半球であるチリは今、冬。
気温は2℃。
薄着しか持っていなかったわたしは、即座にチリの新聞を開き、
天気予報をチェックする。
イースター島の気温は、22-15℃であった。
空港で、“ゴリ押しスパニッシュ”を使い、
一時間後に旅立つ飛行機に変えてもらい、
予定より早くイースター島に到着する。
自分の予定を変更したことを、
ホストファミリーに知らせたかったのに、
空港の公衆電話が壊れていたため、
そのままタクシーで、ホストの家へ。
やっと着いたけれど、家に誰もいない…
どんなに待っていても、誰も帰ってくる様子がない…
でも、家にカギがないので、
わたしは勝手に家にあがり込んで、
台所にあったフルーツを食べてしまった(笑)。
それから、ホストマザーのルシアが、
家に帰ってきて、挨拶を交わす。
勝手に食べたことを謝ったけれど、
まったく、彼女は気にすることなく…
ランチにパスタを作ってくれた。
それから、モアイを見に出かける…
けれど、モアイがあるのは、
家から1分もあけば、そこにあって、
「やっぱり、いた!」という感じで見上げた。
初めて、モアイにカメラのレンズを向けて、
モアイをよく見ると
「君、すごい顔しているね」
と、独り言を言ってしまった(笑)。
夕日の時間まで、一人で海岸沿いを歩いていると、
三重県の公務員、森さんという男性に出会う。
「どうして、イースター島に来たんですか?」と聞くと、
「3週間前に、競馬で28万円当たって、
モアイでもデカイものを見に行くかー!」と
思ってしまった、おもしろさ抜群の人。
「そのおもしろさ、公務員じゃ、もったいないですよー」と
わたしは言い、日が暮れるまで話してしまった。
イースター島は、2・3日居れば、
普通に島を満喫できるくらい小さな島である。
そこに10日間もいるわたしは、観光ガイドに、
ほとんど目を通さないで来た。
3日間一人で滞在して、次の日帰る、この森さんから、
ある程度のイースター島を、得、
予定をある程度、立てることが出来た。
カルロスの母。
普通の旅行客は、このイースター島を旅の通過地点としか思っていない。
2・3日で、一周できてしまう小さな島なだけあって、
ほとんどが、タヒチ島からの旅行の「ついで」に、
このモアイたちを見に来るだけだった。
そんなところに、10日間もいようというわたしは、
とりあえず「歩いて、島を一周してみる」「馬に乗る」というのが、
旅の目的だった。(馬の話は、また今度!)
イースター島は、二つの火山から、島が出来た。
そして、先住民たちは、その二つの大きな山をけずって、
モアイを作った。
今はもう、死火山になっていて、大きくできた穴には、
雨水がたまり、それが島の飲料水となっている。
溶岩の間から、生い茂る草や花を、上から見下ろすと、
自然の力って、美しいと実感できる。
8月10日(滞在2日目)と15日(滞在6日目)
ORONGOという二つあるうちの小さい方の山を、
一人で登った。だいたい3時間くらいかかるけれど、
そこは、左側に死火山。右側に、海。
標高300メートルある崖っぷち。
一度目に行ったときに、入場口で色々、長話をしてしまい、
スペイン語を話せる日本人は珍しいと言われ、
入場料の$10を、無料にしていれてくれた
カルロスおじさん。(写真1)
「絶対に誰にも、言っちゃダメ!」と言って
タダにしてくれたけれど、今はもう時効だろう。
おじさんの優しさが忘れ切れず、
また山を登って、会いに行くと、
また無料で入れてくれたにもかかわらず、
300メートル下の崖のまで、下ろしてくれた。
これは、もちろん、世界遺産で、普通は下りてはいけない。
けれど、先住民はその崖を、毎日下りて、
魚釣りなどをしていたため、
ちゃんと崖の間に足を置ける跡が残っている。
すごく怖かったし、本当に足を踏みはずしたら、
海に落ちて、岩に頭を打って、死ぬところだったと思う。
おじさんと死火山を、見下ろして、
色々な話をしばらくしていた。
毎日、数百人も旅行者が来る国立公園ではあるけれど、
みんな、写真をバシャバシャ撮って、立ち去るだけ。
テレビのインタビューなども受けるけれど、
ことが済むと、人は立ち去る。
わたしのように、2度も戻ってきてくれた人はいない、
と言われた。
カルロスおじさんが、ここで働き始めたのは、約4年前。
アルツハイマーを持つお母さんを連れて、
ここに来たとき、この崖っぷちで、突然、発作が始まり、
死火山の中に落っこちてしまった。
それから、警察などが捜索したのに、お母さんの遺体は、
なぜか見つからなかったそうだ。
「とても悲しい出来事だったけれど、
死火山の横に咲く、紫色の花をお母さんだと思って、
ここで働き続けている」と語ってくれた。
(写真2)死火山と海の間の崖の上の道
(写真3)死火山に茂る草花。紫の花が見える。
2・3日で、一周できてしまう小さな島なだけあって、
ほとんどが、タヒチ島からの旅行の「ついで」に、
このモアイたちを見に来るだけだった。
そんなところに、10日間もいようというわたしは、
とりあえず「歩いて、島を一周してみる」「馬に乗る」というのが、
旅の目的だった。(馬の話は、また今度!)
イースター島は、二つの火山から、島が出来た。
そして、先住民たちは、その二つの大きな山をけずって、
モアイを作った。
今はもう、死火山になっていて、大きくできた穴には、
雨水がたまり、それが島の飲料水となっている。
溶岩の間から、生い茂る草や花を、上から見下ろすと、
自然の力って、美しいと実感できる。
8月10日(滞在2日目)と15日(滞在6日目)
ORONGOという二つあるうちの小さい方の山を、
一人で登った。だいたい3時間くらいかかるけれど、
そこは、左側に死火山。右側に、海。
標高300メートルある崖っぷち。
一度目に行ったときに、入場口で色々、長話をしてしまい、
スペイン語を話せる日本人は珍しいと言われ、
入場料の$10を、無料にしていれてくれた
カルロスおじさん。(写真1)
「絶対に誰にも、言っちゃダメ!」と言って
タダにしてくれたけれど、今はもう時効だろう。
おじさんの優しさが忘れ切れず、
また山を登って、会いに行くと、
また無料で入れてくれたにもかかわらず、
300メートル下の崖のまで、下ろしてくれた。
これは、もちろん、世界遺産で、普通は下りてはいけない。
けれど、先住民はその崖を、毎日下りて、
魚釣りなどをしていたため、
ちゃんと崖の間に足を置ける跡が残っている。
すごく怖かったし、本当に足を踏みはずしたら、
海に落ちて、岩に頭を打って、死ぬところだったと思う。
おじさんと死火山を、見下ろして、
色々な話をしばらくしていた。
毎日、数百人も旅行者が来る国立公園ではあるけれど、
みんな、写真をバシャバシャ撮って、立ち去るだけ。
テレビのインタビューなども受けるけれど、
ことが済むと、人は立ち去る。
わたしのように、2度も戻ってきてくれた人はいない、
と言われた。
カルロスおじさんが、ここで働き始めたのは、約4年前。
アルツハイマーを持つお母さんを連れて、
ここに来たとき、この崖っぷちで、突然、発作が始まり、
死火山の中に落っこちてしまった。
それから、警察などが捜索したのに、お母さんの遺体は、
なぜか見つからなかったそうだ。
「とても悲しい出来事だったけれど、
死火山の横に咲く、紫色の花をお母さんだと思って、
ここで働き続けている」と語ってくれた。
(写真2)死火山と海の間の崖の上の道
(写真3)死火山に茂る草花。紫の花が見える。
MiCasa TuCasa
わたしのホームステイ経験は、
アメリカ・コスタリカ・イースター島に及ぶ。
色々な国の色々な家族と、少しの間、
過ごさせてもらったけれど、このルシアママが一番、
何事に関しても、ビジネスとしてのホストファミリーでなく、
本当に「家の子」として接してくれたお母さんだった、
と今、思う。(写真1)
「ミ・カサ ツゥ・カサ」
という南米のことわざがある。
「わたしの家は、あなたの家」
のように使ってくれていいのよ、という意味。
ルシアママの接し方は、
なにもそこに壁を感じさせない優しい教育だったと思う。
*
初めて、起きた朝、
「これから、どうなるのだろう?」と不思議に思いながら、
台所に歩いてゆくと、ルシアママは、
朝ごはんの用意を笑顔でしていた。
それから、ポンっと、わたしにバスケットを渡してきた。
一瞬、はてなマークが浮かんだけれど、
「庭に行って、落ちている果物を拾ってきて!」と言われた。
「庭」と言っても、人が植えたような植物は、そこにはない。
ジャングルの中に、ただ家が立っているような感じ。
パパイヤ・アボカド・タロ芋・オレンジ・グアバなどがある。
そこになっているもの、
すべてが生活のなにかの役に立つものだから、
とりあえず、分からないものでも、わたしはカゴの中に入れた。
この朝のフルーツ拾いは、わたしが帰る最後の日まで続いた。
滞在3日目くらいからだろうか?
ルシアママは、もう一つ、朝の仕事をわたしに頼むようになった。
それは、台所の裏にある、ガスの元栓を入れること。
しかも、スイッチを入れるんじゃなくて、マッチで火をつけると、
ガスが入ったことになるやつ。
昭和時代にも、見たことのないものだった。
こうして、なにか物事を頼まれること。
きっと、自分がこの島で「お客様気分」でいたら、
とても嫌なものに、感じていたと思う。
けれど、わたしは、仕事を与えられることで、
ここの一員として、認められているような気がしたので、
断らずに、受け入れた。
*
わたしのホストファミリーは、
純粋なラパヌイ族の血を引き続く家族だった。
このラパヌイ族、日本で言えば、
アイヌとか琉球を思ってくれればいい。
日本本州・チリ本土の力が強くなって、
先住民の方が差別対象、
あまりいい教育を受けられるほどの経済力もなく、
だんだんと、数が少なくなってきていているのも、現状。
わたしが滞在している間、
イースター島では、年に一度の島の健康診断がありました。
チリの自衛隊が、島に数日間滞在して、全員を診察するのです。
普段、熱心にカトリック教を信仰しているルシアママは、
ボランティアとして、これを手伝っていた。
わたしの朝ごはんを作ってくれる傍ら、
朝8時から4時まで、ボランティアをしていた。
ルシアママが、それを始めて4日目だっただろうか?
夕方、わたしが家に帰ると、ソファに、
ぐでんと身体を倒していた。
「ケ・パソ?(どうしたの?)」と聞くと、
ボランティアを首になったと言う。
結局、島の人は、計算や都会のことに慣れていない。
チリ本土から来た人の方が、計算も速いし、
容量もいいから、仕事が簡単だ、と言われて、
チリ人に仕事を取られてしまったのだそう。
その日の夜は、とびきり風が強く寒かった。
ルシアママも疲れていることだったし、
みんなで外食をした。(写真2)
魚が多く取れるイースター島のレストランには、
日本人観客向けにSASHIMIがあります。
昔、ルシアママがSASHIMIをオーダーして、
「わさび」がなにか?ということを知らずに、
そのまま「わさび」を食べてしまって、
「目が飛び出た!」という話を、
いつもわたしにしてくれていたので、
わざわざ、SASHIMIを
わたしのためにオーダーしてくれた。
「一度、日本人がSASHIMIを食べるところを
見てみたかったのよ!」
と、とても簡単で、珍しい注文を、ママはした。
外は、ビュービュー風で、寒かったけれど、
ほんのりと暖かい家族の時間だったと思う。
*
ルシアママが、ボランティアを辞めてから、
近所の8ヶ月の赤ちゃんを、毎日ベビーシッターしていた。
この子は、チリ人とラパヌイ族のハーフ。(写真3)
赤ちゃんを抱えているのは、9歳のホストの子供、ピヨ。
南太平洋の島に生息する
アボリジニー(オーストラリア)、マオリ(ニュージー)、
フィージー、タヒチ、そしてラパヌイ族たちは、
アジアから南に下ってきたという説が強いらしい。
わたしは、この赤ちゃんのbabysittingを横で見ていて、
ルシアママが、オムツを取り替えるときに、
ちゃんと「蒙古斑」があるのを目撃しました!
アメリカ・コスタリカ・イースター島に及ぶ。
色々な国の色々な家族と、少しの間、
過ごさせてもらったけれど、このルシアママが一番、
何事に関しても、ビジネスとしてのホストファミリーでなく、
本当に「家の子」として接してくれたお母さんだった、
と今、思う。(写真1)
「ミ・カサ ツゥ・カサ」
という南米のことわざがある。
「わたしの家は、あなたの家」
のように使ってくれていいのよ、という意味。
ルシアママの接し方は、
なにもそこに壁を感じさせない優しい教育だったと思う。
*
初めて、起きた朝、
「これから、どうなるのだろう?」と不思議に思いながら、
台所に歩いてゆくと、ルシアママは、
朝ごはんの用意を笑顔でしていた。
それから、ポンっと、わたしにバスケットを渡してきた。
一瞬、はてなマークが浮かんだけれど、
「庭に行って、落ちている果物を拾ってきて!」と言われた。
「庭」と言っても、人が植えたような植物は、そこにはない。
ジャングルの中に、ただ家が立っているような感じ。
パパイヤ・アボカド・タロ芋・オレンジ・グアバなどがある。
そこになっているもの、
すべてが生活のなにかの役に立つものだから、
とりあえず、分からないものでも、わたしはカゴの中に入れた。
この朝のフルーツ拾いは、わたしが帰る最後の日まで続いた。
滞在3日目くらいからだろうか?
ルシアママは、もう一つ、朝の仕事をわたしに頼むようになった。
それは、台所の裏にある、ガスの元栓を入れること。
しかも、スイッチを入れるんじゃなくて、マッチで火をつけると、
ガスが入ったことになるやつ。
昭和時代にも、見たことのないものだった。
こうして、なにか物事を頼まれること。
きっと、自分がこの島で「お客様気分」でいたら、
とても嫌なものに、感じていたと思う。
けれど、わたしは、仕事を与えられることで、
ここの一員として、認められているような気がしたので、
断らずに、受け入れた。
*
わたしのホストファミリーは、
純粋なラパヌイ族の血を引き続く家族だった。
このラパヌイ族、日本で言えば、
アイヌとか琉球を思ってくれればいい。
日本本州・チリ本土の力が強くなって、
先住民の方が差別対象、
あまりいい教育を受けられるほどの経済力もなく、
だんだんと、数が少なくなってきていているのも、現状。
わたしが滞在している間、
イースター島では、年に一度の島の健康診断がありました。
チリの自衛隊が、島に数日間滞在して、全員を診察するのです。
普段、熱心にカトリック教を信仰しているルシアママは、
ボランティアとして、これを手伝っていた。
わたしの朝ごはんを作ってくれる傍ら、
朝8時から4時まで、ボランティアをしていた。
ルシアママが、それを始めて4日目だっただろうか?
夕方、わたしが家に帰ると、ソファに、
ぐでんと身体を倒していた。
「ケ・パソ?(どうしたの?)」と聞くと、
ボランティアを首になったと言う。
結局、島の人は、計算や都会のことに慣れていない。
チリ本土から来た人の方が、計算も速いし、
容量もいいから、仕事が簡単だ、と言われて、
チリ人に仕事を取られてしまったのだそう。
その日の夜は、とびきり風が強く寒かった。
ルシアママも疲れていることだったし、
みんなで外食をした。(写真2)
魚が多く取れるイースター島のレストランには、
日本人観客向けにSASHIMIがあります。
昔、ルシアママがSASHIMIをオーダーして、
「わさび」がなにか?ということを知らずに、
そのまま「わさび」を食べてしまって、
「目が飛び出た!」という話を、
いつもわたしにしてくれていたので、
わざわざ、SASHIMIを
わたしのためにオーダーしてくれた。
「一度、日本人がSASHIMIを食べるところを
見てみたかったのよ!」
と、とても簡単で、珍しい注文を、ママはした。
外は、ビュービュー風で、寒かったけれど、
ほんのりと暖かい家族の時間だったと思う。
*
ルシアママが、ボランティアを辞めてから、
近所の8ヶ月の赤ちゃんを、毎日ベビーシッターしていた。
この子は、チリ人とラパヌイ族のハーフ。(写真3)
赤ちゃんを抱えているのは、9歳のホストの子供、ピヨ。
南太平洋の島に生息する
アボリジニー(オーストラリア)、マオリ(ニュージー)、
フィージー、タヒチ、そしてラパヌイ族たちは、
アジアから南に下ってきたという説が強いらしい。
わたしは、この赤ちゃんのbabysittingを横で見ていて、
ルシアママが、オムツを取り替えるときに、
ちゃんと「蒙古斑」があるのを目撃しました!
モアイを造る男たち
イースター島の海は、遊泳禁止である。
アナケィナという島の一番北東に、
ビーチがひとつだけあって、泳げるのはそこだけ。
それも、約200メートルくらいの小さいビーチある。
島の95%は、溶岩に囲まれていて、
押し寄せてくる波は、とても強い。
こんなんだったら、先住民たちは、
この島から一歩も出れないでいた様子が、よく理解できる。
イースターの海は、とても深いブルーで、気取らず。
どこからか、押し寄せてくる強い波が、岩にぶつかっては、
塩吹雪のごとく、バーンと強い波音を作っていた。
「きっと、その海の中に入ったら、
波に飲まれて、死ぬのだろう。
だったら、そっと眺めているだけのほうがいい」
とわたしは思った。
島中、どこに行っても、海が見えるのに、
滞在期間中一度も、海に入ることはなく、
偶然、女の一人旅同士で仲良くなった
佐渡組藤井さんと、「男の海だね」と眺めていた。
(写真1)
8月16日 水曜日
滞在してから、ちょうど一週間が経った。
わたしはもう、島の人の風潮や、考え方なども
だんだんつかめてきていて、気がついたら、
島を手ぶらで、散歩するくらいになっていた。
その日は、ルシアママがお昼にBBQをするというので、
朝、市場に魚を一緒に見に行った。
ママは、その後なにか用事があるらしく、
わたしは特にすることがなかったので、
「ここら辺で、ブラブラして遊んで帰る」と別れた。
市場の中を一人で歩いていると、
突然、あるラパヌイ族の男に話しかけられる。
「君、ここでなにしているの?」
「特に、なにも…」
その男の顔が、
驚くことにナイナイの岡村君そっくりなのだ!
わたしは、「やっぱり、岡村君の顔って万国共通なんだ」
と関心しながら、石に腰をかけて、彼と話し始めた。
彼は8人男兄弟。
お兄さんが、市場で魚を売っていて、
一緒に着いてきている、と言う。
お仕事は、朝、魚釣りで、魚を売る。
昼間は、家で土産用のモアイを作っている。
そして、ラパヌイ音楽をしているらしく、
CDデビューをしているらしい。
9月に、チリのサンティアゴまで行き、
コンサートをする予定なので、
今はそのために、お金を貯めているんだ、と話してくれた。
(写真2)出会ったときの岡村君。
岡村そっくりぶりを撮りたくて、
「サングラス、取って!」と言ったのに、
「これでいい」と言い張って、はずしてくれなかった。
芸能人ぶりを出したかったのか?
*
長髪かつマゲを結うのが、ラパヌイ族の男の伝統スタイル。
モアイ像の上に乗っている帽子のようなとんがった石は、
そのマゲをイメージしたものらしい。
また、「独身男」はマゲを結い、
結婚のときに、その髪を切り落とす儀式が、一時あったらしい。
ラパヌイ族を見ていると、
確かに家族を持っている男の人たちは、髪が短かった。
時には、例外に、妻子持ちでも、長髪男はいた。
それは、観光客に気を引く理由。
または、だんだん減っていくラパヌイ族であるがゆえに、
伝統として、残していきたい理由の2里が考えられた。
(写真2の後ろに立っている男の人のが、伝統的なマゲ)
*
(写真3)
岡村君に、「俺の家を見せたいから、車に乗れ」と言われた。
トラックの荷台だったけれども、
こんな体験も初めてだったので、躊躇はしなかった。
そして、ほかの男兄弟も、みんな一緒だった。
市場で売れ残った魚を、街中を走り回って、
売りさばくのを、わたしも手伝い。
岡村兄弟の仕事場兼、自宅に着いた。
そこは、わたしが初日に通りかかったとき、
「なんだか、変な男の集団だなー。
こいつら、絶対、かかわらねー。」
と思っていたところだった。
アナケィナという島の一番北東に、
ビーチがひとつだけあって、泳げるのはそこだけ。
それも、約200メートルくらいの小さいビーチある。
島の95%は、溶岩に囲まれていて、
押し寄せてくる波は、とても強い。
こんなんだったら、先住民たちは、
この島から一歩も出れないでいた様子が、よく理解できる。
イースターの海は、とても深いブルーで、気取らず。
どこからか、押し寄せてくる強い波が、岩にぶつかっては、
塩吹雪のごとく、バーンと強い波音を作っていた。
「きっと、その海の中に入ったら、
波に飲まれて、死ぬのだろう。
だったら、そっと眺めているだけのほうがいい」
とわたしは思った。
島中、どこに行っても、海が見えるのに、
滞在期間中一度も、海に入ることはなく、
偶然、女の一人旅同士で仲良くなった
佐渡組藤井さんと、「男の海だね」と眺めていた。
(写真1)
8月16日 水曜日
滞在してから、ちょうど一週間が経った。
わたしはもう、島の人の風潮や、考え方なども
だんだんつかめてきていて、気がついたら、
島を手ぶらで、散歩するくらいになっていた。
その日は、ルシアママがお昼にBBQをするというので、
朝、市場に魚を一緒に見に行った。
ママは、その後なにか用事があるらしく、
わたしは特にすることがなかったので、
「ここら辺で、ブラブラして遊んで帰る」と別れた。
市場の中を一人で歩いていると、
突然、あるラパヌイ族の男に話しかけられる。
「君、ここでなにしているの?」
「特に、なにも…」
その男の顔が、
驚くことにナイナイの岡村君そっくりなのだ!
わたしは、「やっぱり、岡村君の顔って万国共通なんだ」
と関心しながら、石に腰をかけて、彼と話し始めた。
彼は8人男兄弟。
お兄さんが、市場で魚を売っていて、
一緒に着いてきている、と言う。
お仕事は、朝、魚釣りで、魚を売る。
昼間は、家で土産用のモアイを作っている。
そして、ラパヌイ音楽をしているらしく、
CDデビューをしているらしい。
9月に、チリのサンティアゴまで行き、
コンサートをする予定なので、
今はそのために、お金を貯めているんだ、と話してくれた。
(写真2)出会ったときの岡村君。
岡村そっくりぶりを撮りたくて、
「サングラス、取って!」と言ったのに、
「これでいい」と言い張って、はずしてくれなかった。
芸能人ぶりを出したかったのか?
*
長髪かつマゲを結うのが、ラパヌイ族の男の伝統スタイル。
モアイ像の上に乗っている帽子のようなとんがった石は、
そのマゲをイメージしたものらしい。
また、「独身男」はマゲを結い、
結婚のときに、その髪を切り落とす儀式が、一時あったらしい。
ラパヌイ族を見ていると、
確かに家族を持っている男の人たちは、髪が短かった。
時には、例外に、妻子持ちでも、長髪男はいた。
それは、観光客に気を引く理由。
または、だんだん減っていくラパヌイ族であるがゆえに、
伝統として、残していきたい理由の2里が考えられた。
(写真2の後ろに立っている男の人のが、伝統的なマゲ)
*
(写真3)
岡村君に、「俺の家を見せたいから、車に乗れ」と言われた。
トラックの荷台だったけれども、
こんな体験も初めてだったので、躊躇はしなかった。
そして、ほかの男兄弟も、みんな一緒だった。
市場で売れ残った魚を、街中を走り回って、
売りさばくのを、わたしも手伝い。
岡村兄弟の仕事場兼、自宅に着いた。
そこは、わたしが初日に通りかかったとき、
「なんだか、変な男の集団だなー。
こいつら、絶対、かかわらねー。」
と思っていたところだった。
モアイを造る男たちⅡ
8月17日 木曜日
この日は、朝から激しい雨だった。
どこにも行けないで、一人家でテレビを見ていると、
空が突然、カーッと晴れたので、出かけることにした。
わざとらしく、昨日行った、岡村君の家の前を通った。
そうしたら、「アミーガ!(友達)」と叫ばれる。
案の定、わたしは8人男兄弟の中で、有名人になっていた。
*
彼らは、木彫りと石彫り両方のモアイを
彫刻刀を使って、造る。
イースター島で売られているモアイ像の40-50%が、
この兄弟たちの手から、作られているらしい。
しかも、適当なんかじゃない。
見せてもらったけれど、
ちゃんとした参考文献のもとに、本物に似せて造っている。
彼らが、モアイ一体を作るのに、
所有する時間は、普通サイズのもので、約1時間だそう。
けれど、腕が疲れるため、1日5体を造るのが精一杯。
*
どうやら、ラパヌイの男は、気になる女に名前の次に、
歳を聞くのが、習慣らしい。
わたしが「24だよ」ということを言うと、
8人兄弟の末っ子・トゥキと、一番、歳が近いことが分かった。
「お前、馬に乗りたいか?」と聞かれた。
わたしは、ずっとイースター島に来る前から、
「イースター島に来たら、馬に乗りたい!」
と漠然と思っていたので、速攻、OKした。
そして、トゥキと馬に乗って、海岸をおデート☆
(写真1)
彼から、色々なラパヌイに関する話を
聞くことができた。
*
ラパヌイ族は、チリに占領されてから、
だんだんと数が減ってきて、伝統も失われつつある。
もともと、文字があったって、
モアイ像があったって、ラパヌイ族の中で、
引き継がれてこれたこと自体が、少ないのだから、
ちゃんと守っていかなきゃいけないものだと思っている。
自分たちは、「チリ人」と呼ばれるより、
「ポリネシア人」と呼ばれていたい。
なぜなら、ラパヌイ族に今、残っているものと言えば、
「ラパヌイの血」と「ラパヌイ語」だけ。
だから、自分は、ラパヌイ族としか、
一緒になる気はないけれど、最近のラパヌイの女は、
チリ人でも、誰でも、気にしないで一緒になる。
結局、そういう男の方が、
金があるからに決まっているからだ。
でも、自分はラパヌイの血が残せないのなら、
子供なんか作る気がない、と語ってくれた。
また、ラパヌイ語というのは、
一つの言葉が4・5通りの意味を成したり、
時と場面によって、意味が変わってきたり、
とても複雑なため、
本や教科書にしてまとめることが、とても難しい。
生活の中で、身体で覚えていかければいけない言葉だということ。
トゥキは、ラパヌイ語を話せない子供たちが、
最近増えていることを、真剣に語った。
島の学校では、ラパヌイ語の授業が設けられているけれど、
英語を勉強した方が、観光業などに使えるため、
あまり価値を成していない。
それが、とても悲しい、と言った。
*
馬乗りから帰ってくると、
トゥキの貴重な仕事時間を、わたしは邪魔していたため、
わたしも、モアイ作りを手伝った。(写真2)
彫り上がったモアイを、紙やすりで擦ってゆく作業を
させられただけだったけれど、一体を終わらせると、
わたしの腕は、チョー痛くなっていた。
このモアイ彫り、男でも「腕が痛い」と言っている理由を
わたしが、体感できた体験だったと思う。
「少し、休もう」ということで、
トゥキと、彼の兄・ティオと3人で、
コーヒーを飲みに行くことにした。
けれども、街の中心の、おしゃれなカフェに入ろうとすると、
わたしたちは、追い出された…
もう一軒のカフェの椅子にも座ると、
「出て行け!」と言われた。
それらの飲食店は、観光客相手に商売をしているため、
見た目の汚い原住民が、客として来られては困るのだ。
観光客10人+原住民1人くらいの割合だったら、
入れてくれるらしいけれど、
観光客わたし1人+原住民2人のわたしたちは、ダメだった。
「こんなところで、ごめんね」と言われて、
結局連れて行かれたのは、
ラパヌイ族だけしか来なさそうな小さなカフェだった。
壁には、
なぜかニューヨークのツインタワーの写真が、飾られていた。
「結局、自分たちの都合のいいように、
弱い者いじめしかしない」
と、3人で、タバコをふかしていた。
(写真3)
右・トゥキ。左・ティオ。
ティオも、岡村君とCDデビューしている
ミュージシャンである。
この日は、朝から激しい雨だった。
どこにも行けないで、一人家でテレビを見ていると、
空が突然、カーッと晴れたので、出かけることにした。
わざとらしく、昨日行った、岡村君の家の前を通った。
そうしたら、「アミーガ!(友達)」と叫ばれる。
案の定、わたしは8人男兄弟の中で、有名人になっていた。
*
彼らは、木彫りと石彫り両方のモアイを
彫刻刀を使って、造る。
イースター島で売られているモアイ像の40-50%が、
この兄弟たちの手から、作られているらしい。
しかも、適当なんかじゃない。
見せてもらったけれど、
ちゃんとした参考文献のもとに、本物に似せて造っている。
彼らが、モアイ一体を作るのに、
所有する時間は、普通サイズのもので、約1時間だそう。
けれど、腕が疲れるため、1日5体を造るのが精一杯。
*
どうやら、ラパヌイの男は、気になる女に名前の次に、
歳を聞くのが、習慣らしい。
わたしが「24だよ」ということを言うと、
8人兄弟の末っ子・トゥキと、一番、歳が近いことが分かった。
「お前、馬に乗りたいか?」と聞かれた。
わたしは、ずっとイースター島に来る前から、
「イースター島に来たら、馬に乗りたい!」
と漠然と思っていたので、速攻、OKした。
そして、トゥキと馬に乗って、海岸をおデート☆
(写真1)
彼から、色々なラパヌイに関する話を
聞くことができた。
*
ラパヌイ族は、チリに占領されてから、
だんだんと数が減ってきて、伝統も失われつつある。
もともと、文字があったって、
モアイ像があったって、ラパヌイ族の中で、
引き継がれてこれたこと自体が、少ないのだから、
ちゃんと守っていかなきゃいけないものだと思っている。
自分たちは、「チリ人」と呼ばれるより、
「ポリネシア人」と呼ばれていたい。
なぜなら、ラパヌイ族に今、残っているものと言えば、
「ラパヌイの血」と「ラパヌイ語」だけ。
だから、自分は、ラパヌイ族としか、
一緒になる気はないけれど、最近のラパヌイの女は、
チリ人でも、誰でも、気にしないで一緒になる。
結局、そういう男の方が、
金があるからに決まっているからだ。
でも、自分はラパヌイの血が残せないのなら、
子供なんか作る気がない、と語ってくれた。
また、ラパヌイ語というのは、
一つの言葉が4・5通りの意味を成したり、
時と場面によって、意味が変わってきたり、
とても複雑なため、
本や教科書にしてまとめることが、とても難しい。
生活の中で、身体で覚えていかければいけない言葉だということ。
トゥキは、ラパヌイ語を話せない子供たちが、
最近増えていることを、真剣に語った。
島の学校では、ラパヌイ語の授業が設けられているけれど、
英語を勉強した方が、観光業などに使えるため、
あまり価値を成していない。
それが、とても悲しい、と言った。
*
馬乗りから帰ってくると、
トゥキの貴重な仕事時間を、わたしは邪魔していたため、
わたしも、モアイ作りを手伝った。(写真2)
彫り上がったモアイを、紙やすりで擦ってゆく作業を
させられただけだったけれど、一体を終わらせると、
わたしの腕は、チョー痛くなっていた。
このモアイ彫り、男でも「腕が痛い」と言っている理由を
わたしが、体感できた体験だったと思う。
「少し、休もう」ということで、
トゥキと、彼の兄・ティオと3人で、
コーヒーを飲みに行くことにした。
けれども、街の中心の、おしゃれなカフェに入ろうとすると、
わたしたちは、追い出された…
もう一軒のカフェの椅子にも座ると、
「出て行け!」と言われた。
それらの飲食店は、観光客相手に商売をしているため、
見た目の汚い原住民が、客として来られては困るのだ。
観光客10人+原住民1人くらいの割合だったら、
入れてくれるらしいけれど、
観光客わたし1人+原住民2人のわたしたちは、ダメだった。
「こんなところで、ごめんね」と言われて、
結局連れて行かれたのは、
ラパヌイ族だけしか来なさそうな小さなカフェだった。
壁には、
なぜかニューヨークのツインタワーの写真が、飾られていた。
「結局、自分たちの都合のいいように、
弱い者いじめしかしない」
と、3人で、タバコをふかしていた。
(写真3)
右・トゥキ。左・ティオ。
ティオも、岡村君とCDデビューしている
ミュージシャンである。
モアイを造る男たちⅢ
8月18日 金曜日
いよいよ、明日帰るという日。
日の出前に、目が覚めてしまった。
昨日のトゥキからの話を、わたしは思い出していた。
ラパヌイの「血」と「言葉」が、だんだんと薄れていく様子は、
ウルルン2で話した、風に吹かれて、
削れていくモアイ像のことを、思い出させた。
けれども、それに対して、勇敢にあの8人兄弟は戦っている。
彼らが、歌を歌う理由は、
歌を通して、ラパヌイの言葉を残したいから。
兄弟みんな、20代後半・30代前半の年頃なのに、
「ラパヌイの血が、純粋に残せないんだったら、
結婚する意味がない」と1人が言っていた。
彼らは、「守る」ものが、何かをはっきり把握している。
自分たちを守るために、守っているのだ。
排他的な結婚拒否理由が、
民族の繁栄を押しとどめているかもしれない。
そして、その行為は、とても愚か者かもしれない。
だけど、いざとなったら、男の方が本気で
守りたくなるのかもしれない、と、わたしは思った。
「血を守る」ということは、男の本能なのである。
*
スペイン語の環境に居すぎて、日本語か英語が、
無償に話したくって仕方がなかったので、
買い物がてら街に行って、誰かに話しかけようと計画した。
① 市場の前で、日本のテレビ局が取材しているのを目撃。
ジャーナリズム専攻のわたしは、
話しかけようと近づいたけれど、話している内容が、
チョー日本人で、ビジネス的なことだったので、やめた。
② 女性日本人観光客に、「島に住んでいるんですか?」
と、住人に間違えられる。(とうとう、間違えられた!)
その女性は、結婚してても、子供がいないので、
旦那さんのお金で世界中を、一人旅している人だった。
ランチを一緒にしたのだけれど、
なんだか彼女の生き方に、わたしは賛成できず、
その場を去った。
③ 島住民のドイツ人、イギリス人男性二人と、
昼間から、ビールを飲む。
ドイツ人は、島でタクシー運転手をしながら、
ラパヌイの女の人と、1年前に結婚。
島に住んでからは、2年になるという。
イギリス人は、島のレストランを経営しつつ、
最近、ラパヌイの女と離婚したらしい。
しかも、結婚期間6ヶ月。
2人の男性は
「結婚してみると、女はすぐmaterialisticになる。
酒とタバコがないと、ここでは生活できないね。」
と言っていた。
わたしは、その男に嘘のメルアドを渡し、別れた。
*
「日が暮れるまで、どうする?」
と自分に問いただしてみると、
わたしの「行きたい場所」というのは、
あそこしかなかった。
また、
わざとらしく、モアイを造る男兄弟の家の前を通ると
「アミーガ(友達)」と叫んでくる。
ホビナという、20代後半女性にそこで出会う。
彼女はナパヌイ族だが、
高校・大学とサンティアゴ(チリ首都)に行き、
英語を勉強し、今はホテルで働いている。
「7年間、島を離れていたけれど、
いつも島に戻ることばかり考えていたわ。
だから、島で働くために、英語を勉強した。」
と語ってくれた。
ティオに「ガブリエラ(3歳)の女の子と
一緒に遊んでいろ!」と、言われた。
友達の子供を、ベビーシッターしている最中だったらしいが、
なにもすることのない、わたしに頼んだほうが、
彼の本業が、はかどるみたいだった。
(写真1)仕事中のティオ。(2)ガブリエラ。
しばらくすると、
ティオがジュースを買いに行こうと言うので、
ガブリエラを真ん中にして、
親子みたいに3人で手を繋いだ。
お店まで行く途中、ティオがずっと
「ハガ・アウ・キア・コイ!
ハガ・アウ・キア・コイ!」と、
ガブリエラに向かって、繰り返し言っていた。
ラパヌイ語で、「アイ・ラブ・ユー」という意味。
「ガブリエラは、ラパヌイとチリ人のハーフで、
まったく、ラパヌイ語を話したがらない子だから、
こうして繰り返し、言わなきゃいけない」
と、ティオは言った。
そして、その横で、ガブリエラは1人で、
スペイン語で歌を歌っていた。
*
今夜は、岡村君とティオが、
街のクラブ「カバイオ(馬)」で歌うというので、
わたしも誘われた。(写真3)
島最後の夜だったので、遊ぶ気満々だった。
そのクラブには、観光客はそんなにいなく、
ラパヌイの人たちが、飲んで歌って、踊っていた。
ライブが終わると、なんと、みんなで洞窟に行き、
また飲んで、歌って、踊った。
わたしのお別れ会の意味をなしていたのか、
彼らにとって、普通のことなのか、
分からなかったけれど、
世界遺産を体感できた最高の夜の思い出だったと思う。
その夜は、プラネタリウムのように、星がきれいに見えた
いよいよ、明日帰るという日。
日の出前に、目が覚めてしまった。
昨日のトゥキからの話を、わたしは思い出していた。
ラパヌイの「血」と「言葉」が、だんだんと薄れていく様子は、
ウルルン2で話した、風に吹かれて、
削れていくモアイ像のことを、思い出させた。
けれども、それに対して、勇敢にあの8人兄弟は戦っている。
彼らが、歌を歌う理由は、
歌を通して、ラパヌイの言葉を残したいから。
兄弟みんな、20代後半・30代前半の年頃なのに、
「ラパヌイの血が、純粋に残せないんだったら、
結婚する意味がない」と1人が言っていた。
彼らは、「守る」ものが、何かをはっきり把握している。
自分たちを守るために、守っているのだ。
排他的な結婚拒否理由が、
民族の繁栄を押しとどめているかもしれない。
そして、その行為は、とても愚か者かもしれない。
だけど、いざとなったら、男の方が本気で
守りたくなるのかもしれない、と、わたしは思った。
「血を守る」ということは、男の本能なのである。
*
スペイン語の環境に居すぎて、日本語か英語が、
無償に話したくって仕方がなかったので、
買い物がてら街に行って、誰かに話しかけようと計画した。
① 市場の前で、日本のテレビ局が取材しているのを目撃。
ジャーナリズム専攻のわたしは、
話しかけようと近づいたけれど、話している内容が、
チョー日本人で、ビジネス的なことだったので、やめた。
② 女性日本人観光客に、「島に住んでいるんですか?」
と、住人に間違えられる。(とうとう、間違えられた!)
その女性は、結婚してても、子供がいないので、
旦那さんのお金で世界中を、一人旅している人だった。
ランチを一緒にしたのだけれど、
なんだか彼女の生き方に、わたしは賛成できず、
その場を去った。
③ 島住民のドイツ人、イギリス人男性二人と、
昼間から、ビールを飲む。
ドイツ人は、島でタクシー運転手をしながら、
ラパヌイの女の人と、1年前に結婚。
島に住んでからは、2年になるという。
イギリス人は、島のレストランを経営しつつ、
最近、ラパヌイの女と離婚したらしい。
しかも、結婚期間6ヶ月。
2人の男性は
「結婚してみると、女はすぐmaterialisticになる。
酒とタバコがないと、ここでは生活できないね。」
と言っていた。
わたしは、その男に嘘のメルアドを渡し、別れた。
*
「日が暮れるまで、どうする?」
と自分に問いただしてみると、
わたしの「行きたい場所」というのは、
あそこしかなかった。
また、
わざとらしく、モアイを造る男兄弟の家の前を通ると
「アミーガ(友達)」と叫んでくる。
ホビナという、20代後半女性にそこで出会う。
彼女はナパヌイ族だが、
高校・大学とサンティアゴ(チリ首都)に行き、
英語を勉強し、今はホテルで働いている。
「7年間、島を離れていたけれど、
いつも島に戻ることばかり考えていたわ。
だから、島で働くために、英語を勉強した。」
と語ってくれた。
ティオに「ガブリエラ(3歳)の女の子と
一緒に遊んでいろ!」と、言われた。
友達の子供を、ベビーシッターしている最中だったらしいが、
なにもすることのない、わたしに頼んだほうが、
彼の本業が、はかどるみたいだった。
(写真1)仕事中のティオ。(2)ガブリエラ。
しばらくすると、
ティオがジュースを買いに行こうと言うので、
ガブリエラを真ん中にして、
親子みたいに3人で手を繋いだ。
お店まで行く途中、ティオがずっと
「ハガ・アウ・キア・コイ!
ハガ・アウ・キア・コイ!」と、
ガブリエラに向かって、繰り返し言っていた。
ラパヌイ語で、「アイ・ラブ・ユー」という意味。
「ガブリエラは、ラパヌイとチリ人のハーフで、
まったく、ラパヌイ語を話したがらない子だから、
こうして繰り返し、言わなきゃいけない」
と、ティオは言った。
そして、その横で、ガブリエラは1人で、
スペイン語で歌を歌っていた。
*
今夜は、岡村君とティオが、
街のクラブ「カバイオ(馬)」で歌うというので、
わたしも誘われた。(写真3)
島最後の夜だったので、遊ぶ気満々だった。
そのクラブには、観光客はそんなにいなく、
ラパヌイの人たちが、飲んで歌って、踊っていた。
ライブが終わると、なんと、みんなで洞窟に行き、
また飲んで、歌って、踊った。
わたしのお別れ会の意味をなしていたのか、
彼らにとって、普通のことなのか、
分からなかったけれど、
世界遺産を体感できた最高の夜の思い出だったと思う。
その夜は、プラネタリウムのように、星がきれいに見えた
最後の日
8月19日土曜日
朝の4時くらいまで、
洞窟でジャンジャンやっていたのに、
いつもと同じように、7時に起きれた。
ホストファミリーは、まだ誰も起きて来ないので、
イースター島、特有の溶岩の上に寝そべって、
青空の上を流れていく白い雲を見ていた。
ルシアママが「おはよう」と、
いつもと変わらず言ってきた。
一緒に、庭のフルーツを拾いに行き、
ガスの元栓をマッチでつけて、その日も始まる。
「おいしい、おいしい」と、毎朝2個も3個も
食べていたパンが、その日は1個食べるのだけで、胸がつまった。
「いつ、また帰ってきてくれるの?」
と、ルシアママは、何度もわたしに聞いた。
そんなことを聞かれるたびに、泣きそうになったけれど、
ママが笑顔だから、泣けなかった。
家族みんなに別れを言ってから、
モアイを造る男8人兄弟の家まで、走った。
男たちは、昨夜の飲み会のことなんか気にせず、
その日も朝から、モアイを彫っていた。
「コモ・エスタ?(元気?)」
「ビエン(うん、いいよ)」
と、答えたわたしの声は、完璧に嘘をついていた。
「とりあえず、座れよ」
と、いつものように、男たちは椅子を出した。
目がみんなと合わせられなくて、長い前髪で、
自分の顔を隠していた。
ティオと、トゥキが、それぞれ彼らの造ったモアイを
わたしにプレゼントしてくれた。
「俺たちにできるのは、これだけだから…」と。
トゥキが、わたしのバックパックを背負うのを
手伝ってくれたけれど、持ち上げたとき、
「おまえ、こんなに重いのを、1人で持って帰るのか?」
と言ったので、
「あなたたちのモアイが、重い」
と、わたしは答えた。
みんなと、いつもより強くHUGをした。
岡村君には「妹だからね」と言われた。
最後の別れ際に、馬に乗せてくれたトゥキが”ALOHA”と言った。
ラパヌイ族も、ハワイ人と同じように
“ALOHA”という言葉を使うのを、わたしは気づいていた。
本当の“ALOHA”という言葉の中には、
「こんにちは」「さようなら」
「賛成」「乾杯」「アイ・ラブ・ユー」
と何通りもの意味が含まれているのを、
わたしは知っていた。
なんて、今この場面に、
ふさわしい、美しい一言なんだろう、と思った。
これに返せる言葉が、見つからなかった。
泣きたかったけれど、こんなイイ男の前で、泣けないと思った。
振り返ったら、吸い込まれてしまいそうな
気がしたから、振り返らないで歩いた。
わたしの持ち金は、ちょうどタクシーで、
空港に行けるくらいだったけれど、また来れることを期待して、
そのお金を取っておくことにした。
空港までは、1人で歩いた。
首都サンティアゴまでの5時間の飛行機の中、
わたしは、ずっとすすり泣きをしていた。
朝の4時くらいまで、
洞窟でジャンジャンやっていたのに、
いつもと同じように、7時に起きれた。
ホストファミリーは、まだ誰も起きて来ないので、
イースター島、特有の溶岩の上に寝そべって、
青空の上を流れていく白い雲を見ていた。
ルシアママが「おはよう」と、
いつもと変わらず言ってきた。
一緒に、庭のフルーツを拾いに行き、
ガスの元栓をマッチでつけて、その日も始まる。
「おいしい、おいしい」と、毎朝2個も3個も
食べていたパンが、その日は1個食べるのだけで、胸がつまった。
「いつ、また帰ってきてくれるの?」
と、ルシアママは、何度もわたしに聞いた。
そんなことを聞かれるたびに、泣きそうになったけれど、
ママが笑顔だから、泣けなかった。
家族みんなに別れを言ってから、
モアイを造る男8人兄弟の家まで、走った。
男たちは、昨夜の飲み会のことなんか気にせず、
その日も朝から、モアイを彫っていた。
「コモ・エスタ?(元気?)」
「ビエン(うん、いいよ)」
と、答えたわたしの声は、完璧に嘘をついていた。
「とりあえず、座れよ」
と、いつものように、男たちは椅子を出した。
目がみんなと合わせられなくて、長い前髪で、
自分の顔を隠していた。
ティオと、トゥキが、それぞれ彼らの造ったモアイを
わたしにプレゼントしてくれた。
「俺たちにできるのは、これだけだから…」と。
トゥキが、わたしのバックパックを背負うのを
手伝ってくれたけれど、持ち上げたとき、
「おまえ、こんなに重いのを、1人で持って帰るのか?」
と言ったので、
「あなたたちのモアイが、重い」
と、わたしは答えた。
みんなと、いつもより強くHUGをした。
岡村君には「妹だからね」と言われた。
最後の別れ際に、馬に乗せてくれたトゥキが”ALOHA”と言った。
ラパヌイ族も、ハワイ人と同じように
“ALOHA”という言葉を使うのを、わたしは気づいていた。
本当の“ALOHA”という言葉の中には、
「こんにちは」「さようなら」
「賛成」「乾杯」「アイ・ラブ・ユー」
と何通りもの意味が含まれているのを、
わたしは知っていた。
なんて、今この場面に、
ふさわしい、美しい一言なんだろう、と思った。
これに返せる言葉が、見つからなかった。
泣きたかったけれど、こんなイイ男の前で、泣けないと思った。
振り返ったら、吸い込まれてしまいそうな
気がしたから、振り返らないで歩いた。
わたしの持ち金は、ちょうどタクシーで、
空港に行けるくらいだったけれど、また来れることを期待して、
そのお金を取っておくことにした。
空港までは、1人で歩いた。
首都サンティアゴまでの5時間の飛行機の中、
わたしは、ずっとすすり泣きをしていた。
あとがき
15歳のとき、南太平洋の島・フィージーに行った。
ちょうど、そのとき、わたしは、
人生の目的や価値というものから、真っ暗で、
それでも、高校に入りたてのわたしは、
それから進路を決めていかなければいけない、難しい立場に立っていた。
フィージー島で、わたしが見たものは、
15歳の男の子が、成人になる儀式。
この部族は、男を15歳で成人と認め、
その子の誕生日の日に、トゲのついたツルで、
みんながたたいていく。
その痛みに耐えられて、成人として迎えられる。
わたしは、その儀式を、
偶然、目の前で見たけれど、衝撃的だった。
そして、自分をなんて甘くて、
優しい環境に住んでいるのだろう、
と羞恥心を抱いた。
カタコトの英語で、
「わたしも、15歳だから、その儀式を受けたい」
と、言ったけれど、それは男しかしない儀式で、
女には与えられないと、説明を受けた。
その旅行から帰ってきて、
わたしは「しっかり生きよう」と思ったし、
「勉強しよう」「大学行こう」「語学力をつけよう」と思えた。
それから、アメリカ留学。
メキシコ・カナダ・コスタリカ・ブラジルと、
一人旅を続けてきたのは、
そのとき抱いた劣等感を突き破るためのものだった。
20歳のとき、自分の成人式のお金を、
キレイな格好するより、中身を磨きたいと、旅費につかった。
そして、23歳。2004年冬。
3年遅れて、やっと、日本式の方法で、
自分で自分を認められた、わたしは一人ぼっちの成人式をした。
そのときから、ずっと「イースター島へ行く」と言っていた。
もう一度、
南太平洋・ポリネシア文化のあるところに、
わたしは帰ってみたかったのだ。
あと、小学校2年生の夏休みの自由研究に、
「世界の七不思議」の本を読んで、紙ねんどで、
モアイを作って持っていったことを覚えていたからだ。
こうして、本当のモアイ像を見ることが出来て、
そして、モアイ像を作っていた部族の末裔と
会話をすることが出来て、本当によかったと思う。
少しずつ、モアイ像が、日々かけていくように、
人の文化・言語・考え方も、風に流れて、変形し、失われてゆく。
それは、自然的な現象ではあるけれど、
イースター島のラパヌイ族たちは、
語り継がれ切れなかった謎さえも大切に守り、
それを自分たちの文化なのだと、今から伝えようとしている。
わたしは、言語・文化・人種・国籍・宗教などを超えて、
人がcommunicateするのは可能だと思う。
だけど、それらを強く意識して持つことは、
“who you really are”
ということを確信させるものだと思う。
そして わたしは 世界を愛してる・・・・・
ちょうど、そのとき、わたしは、
人生の目的や価値というものから、真っ暗で、
それでも、高校に入りたてのわたしは、
それから進路を決めていかなければいけない、難しい立場に立っていた。
フィージー島で、わたしが見たものは、
15歳の男の子が、成人になる儀式。
この部族は、男を15歳で成人と認め、
その子の誕生日の日に、トゲのついたツルで、
みんながたたいていく。
その痛みに耐えられて、成人として迎えられる。
わたしは、その儀式を、
偶然、目の前で見たけれど、衝撃的だった。
そして、自分をなんて甘くて、
優しい環境に住んでいるのだろう、
と羞恥心を抱いた。
カタコトの英語で、
「わたしも、15歳だから、その儀式を受けたい」
と、言ったけれど、それは男しかしない儀式で、
女には与えられないと、説明を受けた。
その旅行から帰ってきて、
わたしは「しっかり生きよう」と思ったし、
「勉強しよう」「大学行こう」「語学力をつけよう」と思えた。
それから、アメリカ留学。
メキシコ・カナダ・コスタリカ・ブラジルと、
一人旅を続けてきたのは、
そのとき抱いた劣等感を突き破るためのものだった。
20歳のとき、自分の成人式のお金を、
キレイな格好するより、中身を磨きたいと、旅費につかった。
そして、23歳。2004年冬。
3年遅れて、やっと、日本式の方法で、
自分で自分を認められた、わたしは一人ぼっちの成人式をした。
そのときから、ずっと「イースター島へ行く」と言っていた。
もう一度、
南太平洋・ポリネシア文化のあるところに、
わたしは帰ってみたかったのだ。
あと、小学校2年生の夏休みの自由研究に、
「世界の七不思議」の本を読んで、紙ねんどで、
モアイを作って持っていったことを覚えていたからだ。
こうして、本当のモアイ像を見ることが出来て、
そして、モアイ像を作っていた部族の末裔と
会話をすることが出来て、本当によかったと思う。
少しずつ、モアイ像が、日々かけていくように、
人の文化・言語・考え方も、風に流れて、変形し、失われてゆく。
それは、自然的な現象ではあるけれど、
イースター島のラパヌイ族たちは、
語り継がれ切れなかった謎さえも大切に守り、
それを自分たちの文化なのだと、今から伝えようとしている。
わたしは、言語・文化・人種・国籍・宗教などを超えて、
人がcommunicateするのは可能だと思う。
だけど、それらを強く意識して持つことは、
“who you really are”
ということを確信させるものだと思う。
そして わたしは 世界を愛してる・・・・・
自己中心文化 ミュージシャン編
自分のことを永遠に話し続けるのが、
アメ人の自己中心文化の基本なのか?
この夏、アメリカのロックバンドの通訳を、日本でしていたとき、
3つのバンド、約20人くらいのアメ人と行動していたんだけど、
みんな、すごい「話好き」だった。
ていうか、ひたすら話している連中で、ずっと自分のことを、
永遠に話していた。
そして、ライブが終わっても、彼らが話し疲れるまで、
2、3時間、通訳のわたしは待っていなければいけなかった。
ベテランの方から聞いたのだけれど、
こんなに楽屋で話だけで時間をもてあますのは、
アメリカの西海岸の連中だけだそうです。
言われてみれば、分かる・・・
「イギリス人は、口数よりタバコ吸ってますよ」(楽屋で)
うん、想像できる!と思った。
そんな彼らを見ていて、発見したことがあった・・・
「彼らは自分が話す出番を待っているだけで、
相手の話なんて聞いてないんだ!」
しかも、売れっ子、ミュージシャンの夜の生活も、自己中さまざま。
既婚の30代後半の男が、堂々と、ストリッパーに入ってゆく。
そういうことを、奥さんは、おおらかに許しているので、感嘆。
または、苦労してきたミュージシャンも少なくないので、
奥さんのことを非常に立てる人も少なくなかった。
ビックなやつには、"ビックなハートのワイフ"が必要でもあるし、
"ビックな支え"も必要であると学んだときでもあった。
= 自己中心文化はこうして成り立つ。
---ファンの自己中。
どうしてか、熱狂なファンたちが、わたしの携帯番号を手に入れて、夜中の2時、3時に電話してきて、
「○○に会いたいんですけど、どこで今夜飲んでますか?」と聞いてくる。
"そんなこと知らねーよ!"というのが、わたしの本音であった・・・
アメ人の自己中心文化の基本なのか?
この夏、アメリカのロックバンドの通訳を、日本でしていたとき、
3つのバンド、約20人くらいのアメ人と行動していたんだけど、
みんな、すごい「話好き」だった。
ていうか、ひたすら話している連中で、ずっと自分のことを、
永遠に話していた。
そして、ライブが終わっても、彼らが話し疲れるまで、
2、3時間、通訳のわたしは待っていなければいけなかった。
ベテランの方から聞いたのだけれど、
こんなに楽屋で話だけで時間をもてあますのは、
アメリカの西海岸の連中だけだそうです。
言われてみれば、分かる・・・
「イギリス人は、口数よりタバコ吸ってますよ」(楽屋で)
うん、想像できる!と思った。
そんな彼らを見ていて、発見したことがあった・・・
「彼らは自分が話す出番を待っているだけで、
相手の話なんて聞いてないんだ!」
しかも、売れっ子、ミュージシャンの夜の生活も、自己中さまざま。
既婚の30代後半の男が、堂々と、ストリッパーに入ってゆく。
そういうことを、奥さんは、おおらかに許しているので、感嘆。
または、苦労してきたミュージシャンも少なくないので、
奥さんのことを非常に立てる人も少なくなかった。
ビックなやつには、"ビックなハートのワイフ"が必要でもあるし、
"ビックな支え"も必要であると学んだときでもあった。
= 自己中心文化はこうして成り立つ。
---ファンの自己中。
どうしてか、熱狂なファンたちが、わたしの携帯番号を手に入れて、夜中の2時、3時に電話してきて、
「○○に会いたいんですけど、どこで今夜飲んでますか?」と聞いてくる。
"そんなこと知らねーよ!"というのが、わたしの本音であった・・・
自己中心文化
昨日の夜、ルーメのLISAが、モデルをしていた高校時代の写真を見せてもらっていた。彼女自身は「変わっていないでしょ?」と言っていたけど、
わたしは、正直、写真のどこに彼女がいるのかも分からないくらいだった。
そこに、韓ルーが帰ってくる。
なにか、洋服を衝動買いしてきたみたいで、
「見て!見て!」と超はしゃいでいた。
だけど、彼女の買う服というのは、「30代後半のもの+韓流。」
「かわいいね」と言い返す、うちらも、ちょっとツライのが本音。
初めの一つを韓ルーが、見せてきて、「かわいいね」と、一言、
わたしとLISAが一度うなずいて、二人で、アルバムの話に戻る。
↓
そうすると、また韓ルーが、違うものを出してきて、
「どう?」と聞く。「うん、いいね」と答えて、アルバムに戻る。
↓
そしたら、「じゃ、これは?」またまた韓ルー。
「あは、かわいい」と瞬間見て、アルバムに戻る。
と、こんな感じのかみ合わない状態がずっと続いた。。。
*
LISAはLISAで、すごいアメリカ人的自己主張が強い。
それは、彼女がこれまでしてきた事と、自分の考えを
永遠に話してくる。
そして、韓ルーは、韓流の自己主張がある。
それは、自分の持っているもの、手がけているもの、だけ。
なにも、どこも、かみ合っていない二人の真ん中に立っている
自分に、内心爆笑。
わたしは、正直、写真のどこに彼女がいるのかも分からないくらいだった。
そこに、韓ルーが帰ってくる。
なにか、洋服を衝動買いしてきたみたいで、
「見て!見て!」と超はしゃいでいた。
だけど、彼女の買う服というのは、「30代後半のもの+韓流。」
「かわいいね」と言い返す、うちらも、ちょっとツライのが本音。
初めの一つを韓ルーが、見せてきて、「かわいいね」と、一言、
わたしとLISAが一度うなずいて、二人で、アルバムの話に戻る。
↓
そうすると、また韓ルーが、違うものを出してきて、
「どう?」と聞く。「うん、いいね」と答えて、アルバムに戻る。
↓
そしたら、「じゃ、これは?」またまた韓ルー。
「あは、かわいい」と瞬間見て、アルバムに戻る。
と、こんな感じのかみ合わない状態がずっと続いた。。。
*
LISAはLISAで、すごいアメリカ人的自己主張が強い。
それは、彼女がこれまでしてきた事と、自分の考えを
永遠に話してくる。
そして、韓ルーは、韓流の自己主張がある。
それは、自分の持っているもの、手がけているもの、だけ。
なにも、どこも、かみ合っていない二人の真ん中に立っている
自分に、内心爆笑。

