最近先入観に関することを何度か書いている気がするが、今日も。

ピアノ学習者がハイドンという作曲家の比較的しっかりした曲に初めて触れるのは、高確率で「どーみそっそっそ」から始まるあのソナタだろう。そして、「びっくり」交響曲とそれにまつわるエピソードを聞くことも多いだろう。

 

ハイドンはシンプルでユーモラスで…というイメージがピアノを弾く人にはつきやすいと思うが、果たして本当にそうなのだろうか。ピアノソロ曲で弾かれるものというと、Es-dur、C-durの大きなソナタなどに固まってしまっている故に、ピアノ畑の人間はハイドンへの理解が浅くなりがちなように思う。私を含め。

他の編成の曲を聞くと、当時のピアノという楽器の性能に限界がなかったらさらに豊かな曲を書いたのだろうと確信させられる。

 

初めはベートーヴェンのピアノソナタ31番との関連から興味を持って聴いた、「V字」を紹介。

ハイドンのG-durの愉しさは間違いなくベートーヴェンに受け継がれている。

 

 

 

 

 

※以下別件

以前のブログ記事を現状にそぐわないことを理由に非公開にしていましたが、面白い内容のものは少しずつ公開に変えていきます。

そういえば、管楽器の曲を全く書いていなかった。

正直弦楽器や歌に比べると圧倒的に聴く機会が少ない故これから勉強せなばいけないが…

学生時代に初めてサックスの伴奏に取り組んだ時、相方に紹介してもらって初めて聞いたこの響きには衝撃を受けた。

 

 

 

もちろん古い録音ゆえ良い味が出てより魅力的になっている面もあるだろう。ただ、録音でこんなに素晴らしいのなら、生で聴いていたらどうなってしまったのだろう…

 

これは昔から私が言い続けていることなのだが、電車の混雑をなんとかしてほしい笑


満員電車で通勤することでどれだけ疲弊するか…テレワークの普及で人が減っているはずなのに全く変わらんではないか。まあ、それが嫌な人はテレワークメインの仕事を探しているのか。




鉄道とは関係ないだろうが、4楽章の「モーター」的疾走感がたまらない。


この曲は高校生の時に弾いたきりになってしまっている、また取り組みたいなあ。







「悲しげな鳥たち」


というタイトルの曲を思い浮かべる時、何の先入観もなかったらどのような音が鳴るのだろう。

私はラヴェルのこの曲を聞いた後でも、勝手に悲しみから寒さ、冷たさを連想し、冷えた世界が浮かんでいた。


しかし、この曲は「夏の灼熱の時刻、森の暗がりの中ぐったり喘いでいる」のだ。


そう知った後は確かにそう聞こえる。


そもそも、原語の持つ本当の意味やニュアンスは正確には訳せない。音楽がそもそも魂の言葉だとするならば、タイトルという言葉に訳すことも本当はできないのだろう。

「聞く人の深い場所に何かを届けようと願うなら、言葉を人に仕えさせるのではなく、人が言葉に仕えなくてはならない。」

 

昨日掲載、日経新聞の若松英輔さんの言葉だ。まさにこれは言葉を音楽に置き換えても言えることであると思う。

くどくどと僕なりの説明を書いてみようと試みたが、この言葉に無粋な付け加えはしない方が良さそうだ。

 

 

昨年、この連載で初めて若松英輔さんの文に触れ、その深い、ねじれのない、まことをおだやかに見つめるような文に心を動かされてきた。僕もそういうような音楽を奏でられたらいいな。

 

 

 

 

結局オイストラフに惹かれてしまうが、今日はシゲティに心を委ねよう…