今年も宜しくお願い致します。

 

毎年、お正月は暖かい所へ避寒しようと企てていて、今年はタイのチェンマイで過ごす事ができた。

標高が高いのか空気は澄んでいて涼しく、とても過ごしやすい。

英気を養い、心身ともに総リフレッシュさせたい。

 

当たり前だが、海外に居ると色んな国の人がいて、それぞれの文化や個々の人間性に触れるのはとても興味深い。

先日サンデーマーケットを歩いている時、世界中の国旗のワッペンを売っているお店にふと立ち止まった。

私はなぜかフランスの国旗を探し店員に尋ねていると、隣にいた外国人女性が「私、フランス人よ!」と嬉しそうに話しかけてきた。

そして私は「日本人なんだけど、フランスのワッペンを探していて…」と言うと、

その女性は「私、日本のワッペンを探していたの!赤と白のシンプルなデザインが好きで。」と。

そして、あなたはなぜ?と聞かれたので、

「私は、自分の乗っている車がフランス車なので興味があって…」と言うとその女性は、

「私、日本のホンダの車が好きなの!」と。

すっかり意気投合してしまう。

色んな話をした後、「お互いタイの国旗は買わないんだね!?」と大笑いをして彼女はその場を後にした。

なんとも楽しい瞬間だった。

 

また、日本人には考えられない事にも遭遇する。

歩き疲れ、露天のフットマッサージを30分間受けていたのだが。

隣に居たある国(話す言語から)の男性が、ずっとラインをしていて受信する度に大きい音が鳴る。私は30分間ずっとラインの受信音を聞かされた。

職業病なのか、音には "人一倍" 敏感で、しかもリズムのない不快な音は、私にはストレス以外何ものでもない。

これも文化の違いかと思っていたが、別の日、その国の別の夫婦と遭遇した。

私はその旦那さんの後で順番待ちをしていたら、奥さんが旦那さんに「あなた次の人が待っているよ!」と促してくれた。

 

文化の違いというより個人の違いなのだと、また改めて思わされる。

 

外国人は、どうしても国の "看板" を背負っているように見られ、見てしまうが、個人個人でモラルや感性は違う。

肩書き、出身、また身に纏っている装飾品なんてタダの看板に過ぎない。

一つ一つの物事、人、(私にとってはピアノ演奏も)の判断は、見た目やタダの看板で先入観を持たず、直接自分が触れて感じた『直観』を頼りにしていきたい。

当然、噂や(伝言ゲームのような)人から聞いた話も一切信じることはできない。

例えそれが信頼のおける人から聞いたとしても…

 

 

さて、いつも決めている新年の目標は、

『楽しくより、面白く』。

今年は元号が変わる事もあり、次の時代を見据えて。

平均化、標準化の時代は終わった、というより、そうしやすくなっただろうし。

一般的に求める楽しくハッピーというより、自分らしく個性豊かに、今年は面白く過ごしてみよう。

今年9月、ポーランド・ワルシャワで「第一回 ショパン国際ピリオド楽器コンクール」が行われた。

ピリオド楽器とは、古楽器を意味する。

 

19世紀前半、当時のピアノは “フォルテピアノ” と呼ばれ、一台一台が全く異なる個性豊かなピアノだった。

中でも、コンクールでは以下の5台のフォルテピアノが選ばれた。

ブッフホルツ(1825年製)

グラーフ(1829年製)

プレイエル(1842年製)

ブロードウッド(1847年製)

エラール(1849年製)

 

いずれもショパンが当時使っていたもので、当然これらの楽器から生まれる音色で作曲されていた。

コンクールの目的は、「ショパンの着想の元となったピアノを弾く事で、彼の音楽の確信に迫りたい」というもの。

 

参加者の中には、ショパンコンクール出場者もいたが、テクニックがあっても古楽器を扱うのは難しいようだ。

音の響きやタッチは、今のモダンピアノとは随分異なる。

今の完成されたピアノでは、技術で “弾けてしまう” ことが、何かを見失ってしまうのかもしれない。

一つ一つのピアノに特徴があるからこそ、テクニックだけでは太刀打ちできない何かがあるのだろう。(マニュアルが通じない。)

今や、ピアノの量産とともに、ピアニストの量産も進んでいるように思う・・。

古楽器のように、一人一人全く異なる個性豊かなピアニストではダメなのか。

今のモダンピアノと同じように、だれもが “同じ質” でないといけないのか。

 

審査員の一人、トビアス・コッホの言葉が私は最も印象に残った。

「我々にできるのは、我々の解釈を表現することだけだが、それこそが最も重要なこと。

求めるのは決して完璧さではなく演奏者の“人となり”。 現代を生きるその人が、いま何を伝えたいのか。」

 

これはピアノに限った事ではないと思うが。

ピアノ演奏は、高度なテクニックを要求される事が多いが、それは音楽を表現するための手段にすぎない。

作曲経緯もだが、“その作品をどう感じるか” ということが最も大切だと私は思っている。

 

一位に選ばれた、Tomasz Ritter(トマシュ・リッテル)さんの演奏は、改めてショパンの協奏曲第2番の深さを教えてくれた。

独特な演奏解釈の中に、楽曲が求めているだろうニュアンスが、彼の巧みなテクニックで絶妙に自然に表現されている。

フォルテピアノだからこそ、成し得た表現なのか。

モダンピアノでは、技巧的にダイナミックで早く弾きたくなるように、いざなわれてしまうのかもしれない。

 

演奏は、どれ一つとして同じものは存在せず、正解なんて存在しない。

ショパンの本当の真意を知るのは、雲を掴むようなこと。誰にも分からない。

無限の解答を探し求めていくしかない。

先週、発表会が無事に終了した。

毎年、客席で聴かせてもらうのだが、今年も素敵な音楽に包まれた。

音楽は、音を鳴らすのではなく奏でるもので、一音一音が譲り合って助け合って、協奏している。(まるで人間たちのように。)

手前味噌だが、私はいつも、そんな皆の演奏に感動させられる。

実は私が一番、それを楽しみにしているのかもしれない。

 

発表会も終え、やれやれとホッとしている中、先日突然の電話が。

教室の電話には、色んな勧誘やセールスも多くかかってくるため、毎回警戒して受話器を取るのだが。

今回は、突然の英語。

私も条件反射でスイッチが切り替わるが、「英語で何かの勧誘か?」と疑う。

しかしどうやら、以前イギリスから問い合わせがあった方からだった。

さっそくレッスンが始まりそうだ。

 

言葉や文化の違いで演奏も大きく変わりそうなものだが、今までの外国人の生徒さんを見たり、また留学中にも感じたが、

国の違いというより、その人個人のキャラクターの違いが演奏に “自動的に” 反映される。

これは楽器演奏に限った事ではない。

個性というのは、隠せないし、また、得てして出すこともできない。自然と零れ、溢れ出てしまうもの。

またそれを否定したり、崩したりする権利は誰にもない。

作曲者の意図した音楽に、無限の可能性を持って鍵盤に触れるしかない。

 

私は、その無限の可能性を追い求めるために、言葉や文化の違い、また色んな人や物に触れながら、無限の見聞を広げていきたい。

 

そしたら、個性も “自動的に” 磨かれるかな。