先月、教室の発表会が無事終わり、感慨もひとしお。
私にとって、この発表会こそが年度替わりで、発表会当日は「元旦」のようなもの。
新年を迎えたわけなのです。
“新年早々”、来年の発表会に向けての曲を始めることも多く、
10分程度の長い曲や難易度の高い曲(いわゆる大曲)の場合は、1年をかけてレッスンすることもザラで、譜読み→慣らし演奏→暗譜と、やることはテンコ盛り。
ピアノに向かう濃淡は、皆それぞれ。
よく会場のスタッフさんに言われることがある。
「先生、譜面台いらないんですか?!珍しいですね!」と。
私 「え?普通付けるんですか?」
とまぁ、嚙み合わない。
こんな事は日常でもよくあることで、元々人と同じが嫌いなので、普通でない時、よくほくそ笑んでいる。
ピアノ演奏や解釈においても、他人と同じなら違う方法を考えようとする。無限の可能性を求めて。
しかし不思議なもので、最終ゴールは同じで良い音楽は良いもの。
純度が高くカッコよく聴こえれば良いのだ。
以前、とあるコンクールで、審査員の好みに合わせた演奏を生徒さんにさせる教室があると聞いた。
各会場へ足を運び、その年の傾向と対策を探るらしい。
それはそれは、“熱心” な先生。一等賞を狙うには最善策だろう。
さらには、派手に(上手に)見せるための演出なのか、演技・振付指導まで演奏に盛り込まれている。
うちの教室にも、コンクールを受けられる方は時々いらっしゃるが、私はいつもこう言う。
「私の音楽でしかレッスンできませんが、宜しいですか」と。
そうしたら、「先生の音楽で勝負したい」と仰って頂ける。
アンドレ・シフさんが興味深い事を言っていた。
『ヴァイオリニストのデイヴィッド オイストラフなんて、ヴァイオリンを弾いている時、動くといったら彼の分厚い頬ぐらいだ。
メニューインも同様、動き回ることはない。
それがなぜ今変わってきたのか。今はとてもよく動く。それは音楽に集中することから背くこと。
ピアニストのルービンシュタインやホロヴィッツも、大げさに動くことはない。曲芸をする楽章はない。
チェリストのカザルスも同じ。古代エジプトのファラオのようです。全てを演奏に集中させている。
身体は音楽と独立しているのではない。
チェリストのカザルス、ピアニストのルービンシュタインたちは、外に向けたわざとらしい事はしない。しかし、ひとたび舞台に出ると、会場の世界が一変する。彼らは特に何もしていないのに。
最近は、たくさんの人がわざとらしい、本当にやり過ぎぐらい。
敬慕する私のヒーローの指揮者クレンペラーは、ベートーヴェンの交響曲第9番を指揮する時など、彼が立ち上がるだけで、それは地震のように会場が湧く。シャンドール ヴェーグも同じように。』
また、横山幸雄さんも共感できる事を仰っていた。
『ショパンコンクール1つとっても、「どうやったら良い点数を取れるか」みたいな分析って出来ちゃうと思うんですよ、昔より今は。そうすると、それに向かってみんなが準備をしてきちゃうと、なんか同じ方向性に向いちゃうんですね。
点数を取りやすい演奏。じゃぁ点数を取りやすい演奏って、それがイコール音楽として芸術として素晴らしいかというと、実は必ずしもそうではない部分があったりして。現代のような今のコンクールのような状況だと、オリンピックの中に組み込んだ方が良いんじゃないかという・・。』
また来年の発表会に向け、私自身のピアノも日々アップデートしていきたい。
私の身体(心)にある音楽が、瑞々しくあるために。