今ここに生きる理由がきっとある -39ページ目

今ここに生きる理由がきっとある

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萩も4回目なので、そうとうマニアックになってます。


定番の城下町はスルーしてますので、ご了承を。 



萩に来たら外せない、萩博物館

夏みかんがたくさん実ってました音譜


わたしの定番になってるのが、ここのレストランで旬の魚フライ定食を食べること。

魚フライが美味しいんですよ~~~。絶対おススメ!!  



萩博物館の今回の企画展

生誕170年記念特別展 山田顕義と近代日本


市ィ好きならたまらない展示音譜 


変わった展示物が・・・


入歯

入歯だったんだガーン!!ちょっとショック。 だって亡くなったの49だよ!?入歯・・・早くないはてなマーク 


頭蓋骨、レントゲン写真

市ィは但馬生野の変で自害した河上弥市(奇兵隊第二代総督)の最後の地に建立された碑を見に行ったあと、 生野銀山の視察途中に倒れそのまま亡くなってしまったのです。


死因は暗殺説・心臓麻痺・腐骨症・肺炎といろいろ言われていたのですが、頭蓋骨とレントゲンを調べた結果、転落したときの頭部の損傷から死因は転落死だろうということです。


ただし、骨だけの検査結果なので、心臓麻痺・肺炎説は完全に違うとは言えないとのこと。


身長は150cm、血液型はA型 わたしと同じじゃないか~~~ラブラブ 


高杉晋作資料室では吉田栄太郎(吉田稔麿)さんの特別展示もあり、いや~大満足でした!!

まだ、高杉さんが使ってた甲冑の展示してました。いつまで特別展示中なんだろ。



で、展示を見終わったら、お庭を見ながら外で夏みかんソフトクリームを食べるのだ。

これが美味しいんだ音譜 



その後、遊覧船に。

すっげー小舟感。 これに6人乗って川下りです。


船頭さんのガイドでしばし、遊覧。


田中義一(何代目総理だったかね?)の邸宅跡

なんとこの遊覧船、小舟なのに


海に出た!!

指月山もこっち側からは珍しい。



菊ヶ浜

ちょっと波が・・・あせる スリル満点でした。



その後は、ぶーんと車を走らせて


恵美須ヶ鼻造船所跡

安政3年(1856年)12月、長州藩初の洋式軍艦『丙辰丸』がここで造られました。

万延元年(1860年)には2隻目の『庚申丸』が出来ました。


万延元年(1860年)閏3月、高杉さんはこの丙辰丸で萩から江戸までの海洋実習に行きます。

が、突然。 船乗り無理と諦めてしまいます。


この実習のとき書いていた日記『東帆録』があります。


殿が丙辰丸を東海に航海させると決められた。僕もそこに選ばれた。閏3月30日に命令が下り、親戚たちに相談したら『危険な航路だからご辞退申し上げた方がいいのでは』と言われたが、僕はこう言った。


『男児として宇宙の間に生まれたのです。筆や硯の家来になどなりたくありません。ましてや殿の命令ですよ』 


高杉さんらしいな。


4月5日 僕は家を出て、ついに船に乗った。船は恵比寿岬に繋がれている


防波堤の石積みが当時のまま残っているんだけど、肝心な防波堤の写真が無かった汗

車の後ろね。



防波堤から海を見る。 きっと高杉さんもこの景色を見たんだ。と黄昏てみる。


戻ってきて、夕食は割烹千代




おまかせコースをいただきました合格



金太郎のお刺身、美味しかった~


相方氏はアマダイが食べたかったんだけど、出てきませんでした。

残念sei

聞多の家を後にして向かった周布政之助さんの最後の地


周布さんは長州藩の正義派のトップ。第一次長州征伐後、藩政は俗論党が優位に立っていたという話は前回書きました。


その為に正義派は命を狙われることになるのです。 


責任を取ってお世話になっていた吉田藤兵衛さん宅で切腹します。


同じ日。袖解橋で聞ちゃんは、なます切りになっていました。



周布政之助の碑


周布さんは土佐の山内容堂公に悪口を言ったため蟄居になるのですが、そこは周布さん、名前を麻田公輔という名前に変えて、しら~っとお仕事を続けました。(藩の命令だと思う)

なので、お墓の名前は麻田公輔です。手紙も麻田公輔で書いてます。なんでも鑑定団に出てた。


この碑の裏にある共同墓地に眠っていらっしゃいます。



お酒好きだから、お酒をお供えしたけど、この人酒癖悪いんだよねあせる 向こうで誰かに絡んでなきゃいいけど。


周布さんはお酒に関する武勇伝(失敗ともいう)を持ってます。その中の一つ。


萩の野山獄に高杉さんが入ってた時、お酒に酔った周布さんが馬に乗って登場!!


『高杉ーーーーDASH!』 と大騒ぎ。馬から降りないわ刀振り回すわで謹慎。


今の日本では乗馬は軽車両扱いなので、お酒飲んで馬に乗ると飲酒運転となります。気をつけましょうパー



周布町


やきとり、やきとん屋さんの政之助

一度入ってみたい。


そしてやっと萩へ



萩往還は今でも歩けるのですよ。




怖いくらい静かでした。



で、道の駅でこの方たちに会うと萩に来たーって感じます。

3か月ぶり 4度目の萩


どんだけ好きなんだよ。萩。めっちゃ遠いのに。

松陰先生だってこんな短スパンで江戸⇔萩の往復してないだろ。



まずは萩駅へ

ここには井上勝さんの資料がちょっとあるので、行きたかった場所です


勝さんは文久3年、イギリスに密航した長州ファイブのメンバー。


俊輔・聞多・遠藤さんが帰国した後も山尾と残って5年間の留学生活を終了させてます。


イギリスで学んだことは主に鉱山の事だったらしいです。


日本に帰ってきてからは工部省を作ってもらい山尾と就任します。


山尾とはだんだん仲悪くなっちゃったんだよね。



勝さんは明治5年に新橋~横浜間に初めての鉄道を開通させた人で、小岩井農場の『井』担当です。



駅舎内は勝さんワールドでした合格
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きゃーカッコ良い音譜  真ん中の小さいのが勝さん。


直筆の手紙!! 初めてみたー

昔、東京駅に銅像が建ってたのですが、今はどこにあるんでしょうか・・・ もう一度太陽の下で勝さんを見たいです。 萩、買い取ってくれないかな。 


勝さん思い出の新橋駅のプラットホームの石が花壇になってます。


検定のテキストに載ってて実際に見たいと思ってたんです音譜


おまけ☆前回行った勝さんち☆



萩駅前の観光協会


萩へは電車より車のほうが便利なので駅には誰もいません・・・

なかなか先に進まない長州レポ。湯田温泉はもう少し続きます。 



松田屋ホテルのお庭はこんな感じ


浴衣の柄が変わってるなーと思ってよく見たら志士たちの署名!!

こんな浴衣初めて見たし。



夕食は懐石のコース
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珍しいものばかりで、美味しくいただきました。


驚いたのが朝食!! 量がとんでもなく多くて、食べきれませんでしたあせるあせる

朝からイカ刺し、フグの干物は嬉しかった♡



朝食後は朝のお散歩。


松田屋の裏には瓦屋という旅館がありました。

ここは市ィの奥様、龍子ちゃんの実家。


市ィはここの旅館の常連で、いつの間にかいい仲にラブラブ


が、武士と旅館の娘では身分が違いすぎて結婚できない怖い


聞多に『どうしたらいいっすか』と相談したところ『わしの養女にすればえぇよ~』と、あっさり解決。

というわけで、龍子ちゃんを聞多の養女にして身分を合わせてから結婚したのです。


はたして市ィは聞多のことを『父上』と呼んだのか!? 真相は!?


補足ですが、市ィの死後、長女の梅子ちゃんの婿養子になったのは松平容保公の三男。



瓦屋の後ろは藩のお茶屋御茶屋臨野堂跡がありました。

松陰先生、高杉さん、桂さんなど、お馴染みメンバーが密会の場として使っていたお茶屋。



元治元年。井上聞多は藩庁から自宅に帰る途中、中園町袖解橋で俗論党に襲われ、瀕死の重傷を負います。

俗論党とは簡単に言えば保守派の佐幕。

第一次長州征伐後は優位に立っていたんだけど、高杉さん率いる改革派(正義派)が功山寺でクーデターを起こして改革派(正義派)が勝ち、俗論党は消滅しました。


これお墓じゃないですよ。

たまたま、名医がいて一命を取りとめる聞多。 なんでトドメをささなかったのか謎。



そんな聞多の自宅は今は公園になっています。


聞ちゃんどこ見てるんだろう。 遭難した方向か!?



実美さんら七卿が山口に落ち延びてきたとき、聞多の自宅の離れを宿舎としました。

これを何遠亭(かえんてい)といいます。

ここから松田屋まで出かけていたんですね。



聞ちゃんちには足湯があります。

まさか、聞ちゃんちでお風呂(足湯だけど)に入れるとはビックリマーク


のんびりお風呂に入ってたら瀕死の聞多が運ばれてくるのだ。