【映画/リンダ・ロンシュタット】 カバー考・前編 【サウンド・オブ・マイ・ヴォイス】 | Void & Null ~ Empty Blog

 

もういい加減二月も下旬にさしかかったのに、いつまでも「新年のご挨拶」なんてタイトルをトップページに置いておくのもマズイだろう、という事で大したネタが無いにも関わらず、ムリクリ力ずくで記事を更新します。

結構長い間iTunes Moviesのウィッシュリストに放り込んだままにしていた、映画 「リンダ・ロンシュタット / サウンド・オブ・マイ・ヴォイス」をようやく観終わりました。
そこで今回は、この映画と彼女周辺に関して感じた事・考えた事等を書き綴って行きたいと思います。

 

元々この人がキャリアのピークにあった時期は、当然私もリアルタイムで知ってはいるのですが、その当時は私も専らハードロック少年だった事もあって、幾らか距離を感じるアーティストとして認識していました。
そんな状態だったので、大した興味も持たずに過ごしていたのですがしかしそれからかなり時間が経過した2011年、突然難病を発症した事が原因で引退を決意したとの情報が飛び込んで来たのを見て、少なからずショックを受け「まんざら最初から知らない人だった訳じゃ無いし、じゃあこれを機会に一度きっちり向き合ってみようか」と思ったのが関心を持ち始めたきっかけでした。

そうしていろいろ聴き込んで行くうち、すっかりハマってしまった中で偶然この映画作品と出会い観てみる事にしたのですが、すると本当にコアなファン以外知らないであろう、様々な事も段々と分かって来ました。
例えば彼女を紹介する際に「1970年代を代表する歌姫」みたいな表現が使われる事が多いのでしょうが、この映画作品を観て行くとどうもそれだけでは収まらない、何かとても巨大な才能を天から与えられた人なのでは無いかと思えて来ました。

まずこの人の音楽活動に於ける非常に大きな特徴と言えるのが、レパートリーにオリジナルが殆ど無い事です。
結構詳しいファンでも、せいぜい数曲くらいしか挙げられないというくらいオリジナルが少ないのに、「1970年代を代表する歌姫」の地位を確固たるものとしていたその圧倒的な成功は、まさに驚異的と言えるでしょう。
無論1967年~2011年の長きに渡って、その殆ど全てをほぼカバー曲のみでやって行けたのには、自分に合った作品を見つけ出して来る嗅覚の鋭さというのも裏付けとしてあるでしょうけど、この人の場合ただそれだけでは無いと思うんですよね。

ちょっとYouTubeへ行って、一番違いがよく分かると思える動画を四曲拾ってみました。

 

Tumbling Dice

Skylark

Poor Wanderling One

La Charreada

 

一番目は恐らくこの記事をご覧の殆どの人が、タイトルを見ただけですぐお分かりになるであろうザ・ローリング・ストーンズ(どこぞのバカのせいで、わざわざ「ザ・ローリング」と付けなければ誰の事を指しているのか分からなくなってしまいました。面倒臭いですね)のカバー。
典型的なロックです。
続いての二番目、オリジナルはエラ・フィッツジェラルド。
つまりジャズですね。
さらに三番目は個人的に一番驚いた、「ペンザンスの海賊」という舞台で披露したかなり本格的なオペラ。
そして四番目はいわゆるマリアッチ(伝統的なメキシコの民族音楽)。

どうでしょう?私はきっと彼女の事を知らない人にこの四曲を音声だけで立て続けに聴いて貰い、「実はこれ、全部同じ人が歌っているんですよ」と言っても「嘘でしょ?」という反応しか返って来ないんじゃないかと思うんですよね。
私は歌い手さんが行う専門的なトレーニングとか歌唱法といった事に関する知識が全く無いのでよくは分かりませんが、そもそもたった一人のシンガーがこれだけさまざまなジャンル特有のスタイルに合わせ込み、きっちり歌い分けられるものでしょうか。
ともかくオリジナルは無くカバーだけで、あれだけ長期に圧倒的な支持を得られ続けるようになるには、これほど驚異的な裏付けがきっちりあるものなんですね。
例えばギターの世界なんかでは、ジミ・ヘンドリックスが絶対的な天才として不動の地位を得ていますが、そのように語られる理由としてはおよそギターというツールで表現可能であろうと思われるほぼ全てをやってしまった事が挙げられるのでしょう。
でもその基準で行くんだったらこのリンダ・ロンシュタットという才能も、私は充分同列で語られるに相応しいのではないかという気がします。
実際には流石にそこまでの評価が得られているように見えないという点では、いささか不当ではないかとも思いますね。

そんな感じでこの映画の大部分は、まさに典型的なサクセスストーリーの記録を辿るような形で展開して行くのですが、しかし冒頭にも少し書いた通りその勢いにも翳りが見え始めて来ます。
本人がその運命を全て受け入れていたと紹介されてはいましたが、病を発症した事でかつての覇気はすっかり失われ、家族に囲まれて歌うシーンはとても穏やかだったとはいえ、痛ましくてちょっとまともには観ていられませんでした。

ごく純粋にドキュメンタリーとして、或いは映画作品として取り分け質が高いか?と言われると少し微妙な気もしますが、しかしオンライン上での評価も思いの外高い作品のようですし、少なくとも私自身も観て良かったと思いました。

以上がこの映画に関する私個人の直接的な感想ですが、彼女にまつわる話に関しては幾らか書き足りないと思いますし、そもそもこの記事のタイトルに「カバー考」と付けたのに、まだその事にも触れてすらいません。
そこで今回の記事は、次々回以降くらいに少し趣を変えて続きを書こうと思います。
現状のミュージックシーンで長く論争が続いている大きな問題について、一体どこまで迫れるか分かりませんが、私見を述べたいと思っています。