島原鉄道線の島原外港~加津佐(長崎県島原市~南島原市。2008年廃止) | 『乗り鉄』中心ブログ(踏破編)

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【踏破後、廃線…】の第34回目は、2007年4月に乗りつぶしをして、2008年4月1日に廃止(運行は2008年3月31日まで)となった、
島原鉄道線のうち【南目線】区間のほぼ全線に相当する島原外港~加津佐です。

 

島原鉄道線は島原半島をほぼ半周していた路線で、1911年~1928年にかけて諫早~加津佐の全線(78.5km)が開業しました。当初より現在に至るまで非電化です。
また、諫早~加津佐の全線を以って島原鉄道線なのですが、北側の諫早~南島原は【北目線(きためせん)】、南側の南島原~加津佐は【南目線(みなんめせん)】と呼ばれていました。


 

地図で見ると分かるように、島原鉄道線は長大盲腸線となっていました。根元の北目線区間は比較的乗客が多かったですが、末端部の南目線は乗客の減少傾向が著しかったようです。そんな中、1991年~1992年にかけて雲仙普賢岳の噴火による火砕流や土石流により南目線が被災し、復旧と被災を繰り返したものの結局は長期運休となり、水無川の河川改修の際に高架線を建設した上で1997年に完全復旧を果たしました。被災区間に観光トロッコ列車『島鉄ハッピートレイン』を運行したり誘客に努めましたが、南目線の利用客減は歯止めがきかず、2008年3月31日の運行をもって惜しまれつつ島原外港~加津佐が廃止となりました。尚、南目線でも車庫のある南島原とフェリーターミナルに近い島原外港の間の1区間のみは、フェリーの乗船客の乗換の利便性を図るために存続となった模様です。そして、災害復旧のために建設された高架線はわずか10年余りの使用で役目を終えてしまいました。

 

南目線の現役時より、同じ島原鉄道により並行道路にバス路線が設定されていましたが、南目線の廃線後はバスの便が増発されました。

 

また、廃線跡はレールなどが撤去されましたが、今も路盤、橋梁、駅舎は大半が残存しているそうです。

 

尚、今回も写真が少なく、めちゃめちゃな写真しかありませんが、何卒ご了承願います。


 

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(Yahoo!地図を使用)


 

路線名  区間  営業キロ  備考 
島原鉄道:島原鉄道線  島原外港~加津佐  35.3km  全区間単線・非電化。2008年廃止 
(※) 軌間1,067mm。  

 

踏破達成時   2007年4月  
撮影時   2007年4月ほか  

  

  

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現在の終着駅である島原外港駅にて2012年撮影。
存廃問題が出た時は南島原~島原外港も廃止予定でしたが、島原港から熊本港へのフェリーや大牟田の三池とを結ぶ三池島原ラインの高速船(現在は「やまさ海運」による運航、以前の島鉄高速船)の乗船客の利便性に考慮してか、島原市の要望により残存となりました。
相対式ホーム2面2線の構造ですが、現在は写真左側の列車が停車している側の線路・ホームしか使用されていません。
尚、以前は2階建ての駅舎が存在していましたが、2010年に火事で焼失しました。
そして翌2011年に新しい駅舎が造られました。


 

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島原外港駅より加津佐方を望む(2012年撮影)。
かなり先までレールが続いていますが、カーブの先に車止めがあり、その先が廃線跡になります。
今にも加津佐方から列車がやって来そうな雰囲気です。


 

島原外港を発車すると住宅地の中を南下し、国道57号線をアンダーパスしてしばらくすると秩父が浦に着きました。秩父が浦を発車後は雲仙普賢岳の土石流などで多大な被害を受けて、後に河川改修された水無川を渡るための高架区間となり、高架駅の安徳に着きました。安徳駅は元々地上駅でしたが、災害復旧の際に高架化されました。


 

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安徳を発車後はその水無川を渡りました(安新大橋)。車窓右手(西側)には雲仙普賢岳を望めました。

 

その後は農村風景の中を築堤高架で走りましたが、現在は左手に区画整理された新しい住宅地が開発されつつあります。そして水無川の放水路(?)を渡ると長崎県島原市から南島原市(旧・深江町域)へと変わり、地平区間になってビニールハウスが並ぶ畑作地帯を南下すると瀬野深江に着きました。瀬野深江を発車後も同じような風景の中を走り続けますが、やがて旧・深江町の中心部へ入ると深江に到着しました。

 

深江を発車すると深江川を渡り、田園風景の中を走ると旧・布津町域へと変わり、国道251号線をアンダーパスして島原湾にほど近い農村部を走ると布津新田に着きました。布津新田を発車後は少しだけ左手に島原湾(有明海)を見ながら走り、右へカーブすると市街地へ入って布津に到着しました。


 

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布津新田~布津にて(諫早方を向いて撮影)。
島原湾を見て走ります。奥に見える火山は雲仙岳です。

 

布津を発車すると住宅地や田畑が混在する風景の中を走り、やがて右へカーブして国道251号線をオーバーパスすると旧・有家町域へと変わり、起伏に富んだ丘陵地を走ると堂崎に着きました。堂崎を発車後は丘陵地に広がる農村風景の中を走り、左手に島原湾を見て走ると蒲河(かまが)に着きました。蒲河を発車後は田園風景の中を西へ走り、旧・有家町の中心駅だった有家に到着しました。有江町の中心市街地は駅より北側の内陸部にあります。

 

有家を発車すると有家川を渡って旧・西有家町域へと変わり、国道251号線をアンダーパスして右手に南島原市役所を見ながら市街地を走り、西有家に到着しました。


 

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西有家を発車すると市街地を抜けて、左手に島原湾を眺めながら走り、龍石に着きました。龍石駅は海岸にありました。

 

龍石を発車後は旧・北有馬町域へと変わり、内陸部の田園風景の中を走ると北有馬に到着します。駅の北西側に北有馬の市街地が広がっています。

 

北有馬を発車すると大きく左へカーブして、有馬川を渡ると旧・南有馬町域へと変わります。その後は田園風景の中を南下して常光寺前に着きました。


 

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北有馬~常光寺前にて(諫早方を向いて撮影)。
田園風景の中を走ります。奥に見える火山は島原半島中央にそびえる雲仙岳です。

 

常光寺前を発車後も田園風景の中を走り、やがて左手に住宅地が見えてくると浦田観音に着きました。浦田観音を発車後は左右に丘陵地を見ながら右へカーブして、市街地へ入ると旧・南有馬町の中心駅だった原城に到着しました。


 

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原城駅にて(諫早方を向いて撮影)。交換可能駅でした。
島原の乱の舞台となった原城跡は駅の南東側、島原湾の近くにあります。

 

原城を発車すると時折左手に島原湾を見ながら住宅地の中を南西へ走り、有馬吉川に着きました。


 

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有馬吉川を発車後は丘陵地の中を走ってから国道251号線と並行して左に島原湾を見て走りました。天草も遠望できました。

 

しばらくすると島原湾、国道251号と離れてトンネルで山越えをして旧・口之津町域へと変わります。


 

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そして左手に住宅地や口之津港を見て走ると東大屋に着きました。東大屋を発車後は住宅地の中を西へ走り、やがて左へカーブして国道389号線をアンダーパスし、市街地へ入ると口之津に到着します。


 

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口之津駅にて。駅付近からは口之津港の島鉄フェリーのりばが見えていました。

 

口之津を発車すると丘陵地の中を西へ走り、国道251号線をアンダーパスすると白浜海水浴場駅に着きました。白浜海水浴場駅を発車後は右へカーブして旧・加津佐町域へと変わり、丘陵地を通過して左手に天草灘を見て走りました。左手に小さい山を見て北西へ走ると市街地へと入り、ほどなくして終点の加津佐駅に到着しました。


 

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加津佐駅は単式ホーム1面1線の構造で、海側に側線を有していました。
駅のすぐ南西側には砂浜が広がっていて、海水浴場になっています。


 

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加津佐駅の駅舎です。晩年は無人化されていましたが、廃止直前の1ヶ月間は一時的に有人駅になっていました。

  

  
あとがき  

私が島原鉄道線の2008年廃止区間を踏破したのは2007年4月で、この時が最初で最後の乗車となってしまいました…。
乗車時はゴールデンウィーク中で、ファンの姿も見られましたが、地元客の利用が少ないのが気になりました。加津佐から島原まで1時間以上、諫早まで速くても2時間半近くを要しましたから、鉄道利用での長崎・福岡~廃止区間の往来は少なかったと思われます(バスやマイカー、フェリーが主流になっていたと思われます)。現に、廃止区間から乗ってきた乗客は島原までで大半が下車していましたから…。

 

まぁ、何とか廃止前に乗車できて良かったです。
「たら・れば」の話ですが、加津佐からさらに線路が延びていて小浜温泉(雲仙小浜)で雲仙鉄道と繋がって島原鉄道一周ができていれば、今も観光路線として残っていたかもしれませんね…。

  
接続路線  

島原外港駅……島原鉄道:島原鉄道線 (島原・諫早方面)  

  
(参考:Wikipedia)