龍谷大学大宮学舎渡り廊下。京都市下京区猪熊通(いのくまどおり)七条上る大工町(だいくちょう)。2008(平成20)年3月9日

 

本館と南黌(なんこう)を結ぶ渡り廊下は、龍谷大学大宮キャンパスに建つ古い学舎と同じ1879(明治12)年の建築。当初は北黌との間にもあった。南黌・北黌は学寮だったので、学生が本館での講義を聴きに渡り廊下を往き来していたのだろう。

天井は白く塗られた「菱組天井」。解説パネルには「南黌と本館を結ぶ渡り廊下には、七条ステーション(現京都駅、1877年築)の駅舎に見られる独特の屋根装飾が使用されている。これは旧守衛所の施行にあたった大工の一人に、七条ステーションの建築に携わった京都の宮大工「三上吉兵衛」がいたことが関係していると考えられる」とある。

1998(平成10)年に、北黌・南黌とともに国の重要文化財に指定された。

龍谷大学大宮学舎正門

京都市下京区猪熊通(いのくまどおり)七条上る大工町(だいくちょう)

2008(平成20)年3月9日

 

龍谷大学大宮キャンパスの正門は、間口3間の大きい方の門柱と、その両側に小さい門柱があって、全部で4枚の鋳鉄の門扉とからなる。柱の上部は擬宝珠を思わせる飾りで、和風な意匠だ。門扉はイギリスのアームストロング社製という。現在はレプリカが付いていて、本物は東黌(とうこう、正門向かい側の学舎)に展示している。

本館とともに1964(昭和39)年に国の重要文化財に指定された。

 

龍谷大学大宮学舎旧守衛所。京都市下京区猪熊通(いのくまどおり)七条上る大工町(だいくちょう)。2008(平成20)年3月9日

 

龍谷大学大宮キャンパスの正門を入った左(南)にあるレンガ造の旧守衛所。現在は「オリジナルグッズ展示館」にしている。本館と同じ1879年の建築で、設計者・施工者は不明。1998年に国の重要文化財に指定された。

展示館の中の解説によると、「旧守衛所は1879(明治12)年に建てられた煉瓦造建造物である。躯体部はイギリス積みで開口部にはアーチ積がなされている。内部は建物のほぼ中央にフランス積みの間仕切り壁が設けられ、前室は門衛室、後室は宿直室として使用されていた」。

1992年頃から6年近くにわたる本格的な保存修理が行なわれた(『アトリエかわしろ生活館>龍谷大学大宮学舎(旧守衛所)』)。

 

 

龍谷大学大宮学舎 北黌・南黌

京都市下京区猪熊通(いのくまどおり)七条上る大工町(だいくちょう)

2008(平成20)年3月9日

上:北黌(西裏側・南側面)、左:南黌(東南角)、下:南黌(北側正面)

 

龍谷大学大宮キャンパスに本館を挟んで、北と南に東西に長い「北黌(ほっこう)」と「南黌(なんこう)」が建っている。本館と同年(1879明治12年)に建った、木造切妻造、桟瓦葺、2階建ての「擬洋風建築」とされる校舎。「学寮」として建てられた。現在は教室や研究室に改装されている。

「黌」は、まなびや/学校などの意味をもつ漢字。「校」と同じとしていいようだ。いつから黌というようになったのかは分らないが、『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会発行、昭和59年、2800円)では「北校舎・南校舎」である。

北黌・南黌ともほぼ同じ造りだが、南黌の正面(本館に向いた面)の中央にはバルコニー付きの車寄せの玄関があるのと、やはり正面西角近くに本館との渡り廊下と出入り口がある。

 

龍谷大学大宮学舎本館(東側正面と南側面)。京都市下京区猪熊通(いのくまどおり)大工町(だいくちょう)。2008(平成20)年3月9日

 

構内の京都市による「龍谷大学本館」の説明板では、「本願寺大教校として使用された学舎で、明治10年(1877)1月、本願寺21世明如上人の時に起工、明治12年(1879)1月竣工、同年5月落成式」「構造は、木骨石貼寄棟造、桟瓦葺、2階建てで、関西における洋風建築の先駆をなす斬新な建物として重要な意味を持つ。内部1階には十字型廊下で仕切られた左右同形の室が6室、2階には東側に本尊阿弥陀如来像を安置する講堂、西側に階下と同形に2室がある」「柱、アーチ、手摺など各部に洋風の意匠を取り入れているが、中でも鉄製門扉、窓、手摺等は、ロンドンから取り寄せたもの」とある。

明治初期の擬洋風建築とされるが、あまり奇抜なところはない。ただアーチ窓は花頭窓を連想してしまう。

1992(平成4)年から5年をかけて全面解体修復が行なわれ、1997(平成9)年5月に改修竣工した。

 

龍谷大学大宮学舎本館(北側面)

 

龍谷大学のホームページによると、その歴史は、1639(寛永16)年創設の西本願寺学寮に始まる。僧侶の教育機関である。1900(明治33)年、学制を更改し、仏教大学・仏教高等中学・仏教中学の3種とする。1922(大正11)、大学令による大学となり、龍谷大学と改称した。

西本願寺が元にあるから、学生は浄土真宗や親鸞の研究をしているのかというと、まったくそんなことはなく、普通の総合大学らしい。文学部、経済学部、法学部はもちろん、理工学部もある。学生は2万人位という。

 

龍谷大学大宮学舎本館(西側裏面)

村瀬本店。京都市下京区油小路七条上る米屋町(こめやちょう)

1992(平成4)年8月6日

 

七条通にある肉店で、写真左(西)へ行くとすぐ堀川通との交差点、写真右の横丁は油小路通。

『近代名建築 京都写真館』(福島明博著、日本機関紙出版センター発行、1996年、1800円)では、著者が店主から建物について以下のように聞いている。「建てたのは大正初めと聞いている。建てた人の名前は知らないが、全財産を注ぎ込んで建てたものの維持できず手放したらしい。戦前は薬屋だったらしい、食べ物屋をしていたうちが買ったのも戦前。昭和22年に現在の店に改造した。左手の入口は純和風。2階にも台所と水洗便所がある。雨漏りがするので防水工事をしたが、防水層の上に大きな石が敷いてあって、その上から防水工事をした。維持が大変。大工さんはよい木を使っていると褒めちぎる」。ということで「建築年=大正初期、設計・施行=不祥、構造=木造(一部鉄骨)石タイル貼2階建」としている。

コーニスが立派で目立つ。モダンな感じの縦長窓と調和しているのかはよく分らないが、別に構わないのだろう。

「伊藤ハム」の看板は、ストリートビューを見ると2014年頃に取り外されたらしく、現在はない。

樋口酒店。下京区七条通油小路東入大黒町(だいこくちょう)。1992(平成4)年8月6日

 

当ブログ前回の「東邦生命」のすぐ西の並び。現在は画面中央辺りの看板建築の左の長屋風民家が2棟の3階建の家に建て替わったが、他は残っていて景観はあまり変わっていない。

樋口酒店は今も写真のままの看板で営業している。

樋口酒店の左の家に「若林」の看板があって、右の方に店があるような表示だ。写真左の洋館・村瀬肉店の手前の家の袖看板も「若林」と読めるのだが、その店は横丁(油小路通)を入ったところらしい。現在、建て替わった2棟の右の家が「ふすま工房 若林」なのだが、それと関係がありそうだ。

東邦生命京都西営業所。京都市下京区七条通東中筋角文覚町(もんがくちょう)

1992(平成4)年8月6日

 

当ブログ前回の「若林仏具製作所(現・京都七条迎賓館)」から140m西へ行った東中筋通との角にある銀行建築。

『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会発行、昭和59年、2800円)では「東邦生命保険京都西貯蓄営業部(村井銀行七条支店)、設計=吉武長一(よしたけちょういち)、施行=不祥、建築年=大正3(1914)年、構造=煉瓦造2階建」。解説文も紹介してしまうと「たばこの民営時代に巨富を築いた “たばこ王” 村井吉兵衛は、たばこが専売になると新しい事業として銀行経営に乗り出す。その村井銀行の七条支店として建てられたのがこの建物。正面のオーダーは、このクラスの規模の建物としては出色のできだ。」とある。

吉武長一はアメリカで建築を学び、帰国すると1910(明治43)年、村井銀行建築部長になる。1913(大正2)年に独立して吉武建築事務所を開設した。独立後も村井銀行の建物を多く設計して、「村井家お抱え」と言われたという。

七条支店は煉瓦造には見えない。本格的な新古典主義だが、ドーリア式のオーダーは建物の規模からすると大きすぎて奇妙な感じさえする。現在残っている五条支店と祇園支店も同じような規模で、やはり4本のオーダーを持つが、それがやたら目立つほどではない。

東邦生命になったのは1947年12月で、1999年6月まで使われた。その後「イヌイ」の所有になり(旧村井銀行七条支店(きょうと和み館))、2011年5月に「きょうと和み館」というレストランが開業した。

東中筋通向かいのマンション「メリーハウス」(1990年3月築、9階建)は、『近代建築ガイドブック[関西編]』では「メリーハウス(多田精肉店)」で、2階建で角のアールに玄関がある洋風建築で載っている。

若林仏具製作所。下京区七条通新町西入夷之町704。1992(平成4)年8月6日

 

鴻池銀行七条支店として1927(昭和2)年に建てられた建物。設計は大倉三郎(宗建築事務所)、施行は竹中工務店、鉄筋コンクリート造2階建(建物後方は3階建、地下1階有)。外観は「正面に縦長のアーチ窓を並べ、隅石を表し、壁頂にロンバルド帯を飾る等ロマネスクを基調としつつ、玄関庇の持送や内部柱の柱頭まわりなどは幾何模様で装飾密度を高める。意匠華やかな昭和初期の銀行建築」(『国指定文化財等DB>旧鴻池銀行七条支店』)。

『京都・大阪・神戸 名建築さんぽマップ』(円満寺洋介著、株式会社エクスナレッジ発行、2023年、1800円+税)では、玄関上のバルコニーの持送りや柱頭の唐草模様は、伊東忠太がもたらした「インド様式」としている。インド様式というのがよく分らないが、当書ではしばしば出てくる。

鴻池銀行は1933(昭和8)年、三十四銀行・山口銀行と合併し、三和銀行となり、1964(昭和39)年まで使われた。その後すぐ若林仏具製作所が入ったのかは分らないが、建物を黒く塗ったのは若林仏具製作所である。『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会発行、昭和59年、2800円)の写真では黒く塗っていないので、昭和60年頃の改変なのだろうか。『近代名建築 京都写真館』(福島明博著、日本機関紙出版センター発行、1996年、1800円)では、「(黒く塗っているのは)建物全体を仏壇に見せているのではないか」と想像している。

現在は「ヴォヤージュ ドゥルミエール 京都七条迎賓館」という結婚式場で、2013年6月の開業。

 

蔵造りの町家

京都市下京区新町通七条上ル辰巳町(たつみちょう)。2008(平成20)年3月9日

 

当ブログ前回の新町通の「津田家」とした家の北隣の家。グーグルマップで見ると一般的な町家に比べて間口も奥行きも倍くらいある大きな家だ。蔵造りの街並みといえば川越が有名で、写真の家も川越で見られる蔵造りの家と外観はよく似ている。

蔵造りでは二階の窓が観音開扉になっているのが特徴なのだが、この家はアルミサッシに改装されているようだ。階段状に奥まっているから、元は観音開扉だったのかもしれない。建物左右端にウダツのような壁がある。

とにかく蔵造りの家というのは、京都ではあまり見ないように思う。京町家の形態的分類でも「蔵造り」というのは出てこない。