松竹浪花座別館。大阪市中央区道頓堀1-8

1992(平成4)年8月7日

 

道頓堀商店街の「中座くいだおれビル」の西の角に南へ入る横丁がある。Googleマップには「掘之側筋」とあって、そこを南へ90mいくと法善寺横丁だ。松竹浪花座別館は掘之側筋に入ってすぐの西側にある「道頓堀法善寺ビル」らしい。不動産情報によると道頓堀法善寺ビルは「1971年6月築、5階地下1階建」。現在は1階が「ツルハドラッグ」というドラッグストアで、外観はすっかり改修されている。写真のクラシックな外観のビルが1971年に建てられたのだろうかと不思議である。ぼくが場所を勘違いしているのかもしれない。

 

浪花座。阪市中央区道頓堀1-8。1992(平成4)年8月7日

 

道頓堀商店街の、戎橋筋の交差点角のツタヤのビルの隣に「浪花座」(演芸場・映画館)があった。写真の建物は、1910(明治43)年に建てられた建物が昭和20年3月13日の大空襲で 焼失した後、1952(昭和27)年に5階建のビルで新築されたもの。劇場・映画館は2002(平成14)年1月末に閉館、2004年に現在の8階建商業ビルに建て替わった。

雪本剛章』が浪花座を解説している。雪本剛章(ゆきもとたけあき)氏は昭和演芸を研究している人。1952年築のビルについても仕様が載っている。それによると、「5階建地下1階、(1階は映画館「松竹浪花座」、2階が演芸場「演芸の浪花座」)」。当初は映画館だったらしい。「1987年、「角座」(1984年閉館)を引き継ぐかたちで、1階を「演芸の浪花座」としてオープン。1994年、演芸場を2階に移す」などとある。

毒沼地のゾンビマン、映画館に現る!>道頓堀ピカデリー~浪花座』は洋画ロードショウ-の映画館としての浪花座を語っている。ぼくの写真では「浪花座2」だが、1970年代は「道頓堀ピカデリー」の名称で、80年代に「浪花座1」に、90年代に「浪花座2」と変わってきたという。それらの新聞などの広告も載せている。「80年代後半の浪花座2の劇場前」の写真が載っていて、ぼくの写真では判らない1階玄関の様子を見ることができる。

丸万ビル。大阪市中央区道頓堀1-18

1992(平成4)年8月7日

 

道頓堀川の南に平行している道頓堀商店街の夷橋筋との角にあったビル。音楽喫茶「ナンバ一番」があったビルとして有名。「丸万ビル」の名称は、『戎橋筋案内』を踏襲した。「かつて丸万中店と呼ばれた蒲鉾店は、昭和4年(1929)になって近代的なビルに建て替えられた」「後に三笠屋百貨店、太平マートを経て現在に至る」とある。写真では広告で覆われていて外観は分らない。『戎橋筋案内』のイラストではアーチの窓が並んでいるが様式建築のようには見えず、表現主義に近いように思える。

今はなき大阪の近代建築』によると、「名称=ナンバ一番(旧丸萬本家料理店)、設計者=銭高組、建築年=昭和4(1929)年、構造=鉄筋コンクリート造3(5?)階地下1建、所在地=大阪市南区道頓堀(現中央区道頓堀1丁目8)、備考=近代大阪の建築No.617」。1999年撮影の写真では「MARIATERESA」という洋品店が営業しているが、他の広告は取り外されていて、壁面には網がかけられ、廃墟にしかみえない。2000年頃に取り壊されたという。今はツタヤ戎橋店のビルが建っている。

道頓堀商店会会報2015年6月号』では「三笠ビル」としている。昭和22年、1階に洋装・生地販売の「太平マート」が開店し、ものがない時代だったので繁盛した。昭和30年代初め、地下に音楽喫茶(ライブハウス)「ナンバ一番」がオープンした。その頃の「タンゴの女王」藤沢嵐子の広告が出ているビルの写真はいろいろのサイトに引用されている。その後ナンバ一番はダンスホールだった4階に移り、そこからファニーズ(後のザ・タイガース)が出てくる。

 

大阪松竹座。大阪市中央区道頓堀1-9

1992(平成4)年8月7日

 

道頓堀が芝居街だった歴史を伝えるような劇場として名所になっている建物。現在の建物は、1997(平成9)年にファサードを保存して建て直されたもの。当記事の写真は1923(大正12)年に竣工した元の建物である。

『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会発行、昭和59年、2800円)によると、「大阪松竹座。設計=大林組(木村得三郎)、施行=大林組、建築年=1923(大正12)年、構造=鉄骨鉄筋コンクリート造5階建、所在地=南区道頓堀1-9」。外観については次のように記載されている。

松竹座のファサードは、サリバンのデザインを思わせる大壁面、大アーチが印象的で、頂部にカルツッシェを飾り、脇に壺飾をのせたアイオニックオーダーを配して、華やかさと共に不動の安定感を演出する構成は、折衷的様式建築の秀作といえよう。

 前面に鋳鉄製のマーキー(大庇)が設けられていたのだが、最近のあまりに過剰なカンバンの陰にかくされて存否は定かでない。テラコッタ(米国アトランティック社製)には一部分コバルトブルーやブラウンに彩釉されたものが使われている。これらポリクロームの細部にも注目したい。

 

『ウィキペディア>大阪松竹座』によれば、開業時は映画と松竹楽劇部のレビューの組み合わせで興行、後に「梅田の北野劇場と並ぶ、大阪の洋画の殿堂として優秀外国映画の上映を行ったほか、松竹楽劇部から発展した大阪松竹少女歌劇団 (OSSK) のレビューも行った」。戦後は「松竹映画の封切館として再開したが、その後洋画ロードショー館に転向」「1994年(平成6年)5月、劇場へ改装するため閉館」。

新築開業は1997(平成9)年2月で、「松竹制作の歌舞伎・新劇・松竹新喜劇を中心に、ジャニーズ公演、歌劇、ミュージカル、コンサート、落語会等も上演されている」。

 

先日8月29日の新聞に閉館の記事が載った。松竹の拠点劇場である大阪松竹座は、来年5月の公演で終了、その後の計画は未定、ということだ。

 

 

大阪松竹座。1992(平成4)年8月7日

白亜ビル。大阪市中央区道頓堀1-10

1992(平成4)年8月7日

 

道頓堀川のグリコサインがあるビルの並びの表側。道頓堀商店街の西の端で、写真左は御堂筋の道頓堀橋南詰交差点。写真のビルの向かい側に「大阪松竹座」がある。

写真右の2階建に見えるビルは大阪市消防局中央消防署道頓堀出張所。下の写真のように戦前築かと思えるようなビルで、後ろが道頓堀川に面しているとすると、名所になっているグリコの広告はこのビルの後ろにあったことになる。『ウィキペディア>道頓堀グリコサイン』には、「看板を掲出していたビルの建て替えにより1996年1月21日に点灯終了し、翌日より撤去された」とある。今のビルは1998年7月頃の竣工。

写真中央の「ペンギンバー」の袖看板のビルは「白亜ビル」で。戦前築かと思わせる外観である。ペンギンバーはまだ紹介したサイトが残っていて、1988年12月の開店で、2016年5月末日で閉店している。

 

大阪市消防局中央消防署道頓堀出張所。右の3階建ビルは戎橋交番。

1992(平成4)年8月7日

道頓堀川。大阪市中央区心斎橋筋2、道頓堀1。1992(平成4)年8月7日

写真は戎橋(えびすばし)から見た道頓堀川。右奥の橋は御堂筋の道頓堀橋。
写真で目立つのは「ウォーターカーテン」で、1989(平成元)年に戎橋の下流に設置されたもの。川の上に並ぶドームは噴水ではなさそうだが、なんだろう?
2001(平成13)年には、両岸に「とんぼりリバーウォーク」と命名された遊歩道が造られて、両岸の景観はかなり変わった。遊歩道は上下2段で、川の上に張り出している。沿岸の建物は、遊歩道からも出入りできるように出入り口を設ける飲食店も多く出てきたという。

写真左上に「グリコサイン」の足だけが写っている。『ウィキペディア>道頓堀グリコサイン』によると、写真の4代目(1972-1996年)の看板は「看板を掲出していたビル(大阪市中央消防署道頓堀出張所)の建て替えにより1996年1月21日に点灯終了し、翌日より撤去された」。この看板には「1粒300メートル」の文句を入れていた。次の5代目は「ビルの建て替えにあわせて掛け替えられ1998年7月6日に再点灯した」。現在の6代目は2014年10月23日から。

 

戎橋。大阪市中央区宗右衛門町、道頓堀1、心斎橋2。1992(平成4)年8月7日

 

道頓堀川に架かる戎橋(えびすばし)は、繁華街道頓堀の中心といっていい。写真は2007(平成19)年に架け替えられる前の橋。後ろのビルは、右が橋の東南袂の「かに道楽」のビル、左が村野藤吾設計1955年竣工の「コムラード・ドウトンビル」。両方とも現存している。

写真の戎橋は1925(大正14)年に完成した鉄骨鉄筋コンクーリト造、1スパンのアーチ橋。『ウィキペディア>戎橋』によると、「第1次都市計画事業による耐震対策事業」によるもので、「青銅製の格子を取り付けた「三連窓」の壁高欄などが特徴のモダニズム様式の橋」とある。

現在の橋は円形広場になっているのが特長で、観光客が名所の橋でとどまっていられるようになっている。

山本幸(株)。大阪市中央区南久宝寺町3-5。1992(平成4)年8月7日

 

心斎橋筋の南久宝寺町通(みなみきゅうほうじまちどおり)の交差点角にあった戦前築と思われる小さなビル。写真左へいくとすぐ御堂筋の南久宝寺町3交差点。商店街の入り口の看板は「せんば心斎橋」で、「せんば心斎橋筋商店街」。広くは「船場」になるわけだ。南久宝寺町1~4は、『ウィキペディア>南久宝寺町』には、「江戸時代から小間物問屋が集積した問屋街としての歴史を持ち、戦後は衣料品や服飾雑貨(カバン・袋物・傘・靴など)を扱う現金問屋街となった。バブル崩壊頃より閉店する問屋が増え、かつての活気は失われつつあるが、いまなお大阪では有数の問屋街の一つである。」とある。

「山本幸」という会社については、なにも分らない。ストリートビューから、建物は2010~2013年に取り壊され、現在は7台分のTimesの駐車場。

山本幸の対角線の向かいに「西海ビル」という建物がある。瓦葺きの切り妻屋根なので木造なのかもしれないが、外観はタイル貼りの壁の3階建ビルで、戦前築かと疑われる。

さらに、南久宝寺町通を東へ行った丼池筋との角の「萬栄」は、戦前築の4階建のビルに見える。

心斎橋歩道橋。大阪市中央区心斎橋筋1-13、南船場3-12。1992(平成4)年8月7日

 

「心斎橋」というと普通は繁華街の地名をいう。難波(なんぱ)・道頓堀・千日前などと共に「ミナミ」に含まれる。そんな当たり前のことを誰に言っているのかというと、ぼく自身に説明している。「御堂筋を中心に老舗百貨店・専門店・ラグジュアリーブランドの路面店などが集積する大阪を代表する高級繁華街」(ウィキペディア)である。

心斎橋は長堀川に架けられていた橋に由来する。川は1962(昭和37)年に埋め立てられ、1909(明治42)年に架けられた石橋も撤去された。1964(昭和39)年に歩道橋が設置され、そこに旧心斎橋(橋の心斎橋は地名と区別して「旧心斎橋」と表記する)の欄干やガス灯が移設された。

大阪メトロ長堀鶴見緑地線の工事に伴って歩道橋は撤去され、1997(平成9)年に地下街の「クリスタ長堀」が完成した。歩道橋の旧心斎橋の遺構は長堀通を渡る心斎橋筋の歩道に移設された。

旧心斎橋の橋脚(装飾柱)4基が「北区中之島1」(中之島公園と思われる)に保存されていることが最近判明した。(大阪市>大阪の近代橋梁遺産

 

『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会発行、昭和59年、2800円)では、歩道橋の写真を載せて「旧心斎橋 設計=大阪府土木部(意匠設計野口孫市)、施行=不祥、建造年=明治42年、構造=石造アーチ式、所在地=南区心斎橋筋1」としている。

 

写真正面のビルは「心斎橋プラザビル東館」(1981年竣工)。その左は「心斎橋プラザビル本館」(1973年竣工)。両ビルとも2022年に取り壊され、今は「心斎橋プロジェクト」の名前で再開発の最中。28階建のビルが2026年2月の完成予定だ。

 

大丸心斎橋店本館(左=北側、右=南西角)。大阪市中央区心斎橋筋1-7。1992(平成4)年8月7日

 

『近代建築ガイドブック[関西編]』(>鹿島出版会発行、昭和59年、2800円)では、「大丸百貨店 設計=ヴォーリズ建築事務所、施行=竹中工務店、建築年=1期:大正11年(1922年)、2期:大正14年(1925年)、3期:昭和8年(1933年)、構造=鉄骨鉄筋コンクリート造6階建、地下3階塔屋付、所在地=南区心斎橋筋1」。1期は東側心斎橋筋側の南半分、2期は東側の北半分、3期は西側御堂筋側。3期も南と北の順に3、4期と分けるのが普通らしい。階数も大正期に完成している東側は鉄筋コンクリート造6階及び地下1階、西側は鉄骨鉄筋コンクリート造8階及び地下3階で北西部に塔屋が付く。

『近代建築ガイドブック』の解説文を引用しておく。

多くのキリスト教建築を手がけてミッショナリー建築家といわれるヴォーリズの作品で、こうした商業建築にも独自の手法を発揮している。

 建物は心斎橋筋から御堂筋へのワンブロックを占めているが、一期二期で心斎橋筋側が完成し、地下鉄が梅田-心斎橋間に開通した昭和8年に御堂筋側半分が増築された。御堂筋側のファサードは重厚さと華やかさを合わせもつアメリカンゴシックスタイルの好例である。東西両ファサードの意匠の展開に着目したい。

 昭和3年に竣工した京都店もヴォーリズの百貨店建築を代表するもので、昭和38年に大改装されているが、部分的に当時の片鱗を留めている。

日本建築学会による『大丸心斎橋店本館の保存活用に関する要望書』(2014平成26年)では、「建築様式は心斎橋筋側ブロックではネオ・クラシック、御堂筋側ブロックはネオ・ゴシックを基とするが、共に低層部を御影石、最上階及び塔屋をテラコッタ、中間階外壁を茶褐色タイル仕上げとする3層の外観構成でまとまりがあり、ファサード(正面外観)中央に開かれた玄関部及び頂上部など石彫装飾、テラコッタによる華やかな意匠を備えている。その装飾的意匠は館内に展開し、とりわけ 1 階グランドフロアの高い天井周り、エレベーター、階段など、種々の様式的意匠からアール・デコなど注目すべき表現を有している。」としている。

また、「構造設計は当時において耐震設計の第一人者といわれた早大教授の内藤多仲である。本建築の柱間は20尺(中央部のみ24尺)の均等配置で、四方隅に耐震壁をバランスよく配置した耐震構造、耐火耐水計画についてなど、竣工時の建築概要に謳われている。 ……」とある。

つまり「建築意匠・構造・平面計画・設備に関する評価を勘案すると1920年代から1930年代にかけて日本の大都市に出現した百貨店建築として、その典型的存在であり、また、日本の近代建築史上に大きな影響力を持った米国人建築家ヴォーリズの代表作品として位置づけられ、そして、日本を代表する商都大阪のランドマークとなる建物としてきわめて貴重な存在であるといえる。」として建物の保存を望んでいる。

 

大丸心斎橋店本館は2019(令和元)年9月に建て替えられた。その際、御堂筋側の外壁をそっくり保存して御堂筋からの景観を保存継承した。新本館の高さを11階に抑えたのも景観を考えてのことだろうか。内部は1階フロアを主に、旧部材をできる限り再利用して復元しているようだ。

とにかく御堂筋側の外壁保存は大変な工事であっただろう。そんな苦労をしてまで5フロアの増築では割に合わないように思うが。やはり耐震構造にしないといけなかったのだろうか。