セコム損保京都ビル

京都市下京区烏丸西入ル東境町(ひがしさかいちょう)

上:2008(平成20)年3月9日

左:1992(平成4)年8月6日

 

烏丸通りと七条通りの交差点(烏丸七条交差点)の南西角に建つビル。七条通り側の入口に「烏丸七条ビル」とあるから、それがビルの名称なのだが、ネットなどでは不動産情報以外では「セコム損保京都ビル」としてあるのが多い。

関根要太郎研究室@はこだて>京都七条の旧野村生命ビルディング』によると、1937(昭和12)年竣工、設計は安井武雄建築事務所、施工は竹中工務店。野村生命のビルとして建てられた。知らなければ昭和40年代頃のちょっと古いビルと見てしまうが、安井武雄は、大阪ガスビル、大阪倶楽部、高麗橋野村ビル、日本橋野村ビルなどの設計者だ。それを知って見ても、やはり普通のちょっと古いビルにしか見えない。

 

 

 

関西電力京都支店

京都市下京区塩小路真町東入ル東塩小路町(ひがししおこうじちょう)

1992(平成4)年8月6日

 

京都駅の京都駅ビル側の塩小路通(しおこうじどおり)にある、斬新な感じを受けるビル。正面玄関の右の黒御影石の壁に「京都関電ビルディング」のプレートがあり、それがビルの名称らしいが、ネットでは使っている人はいない。

1937(昭和12)年に京都電燈本社として建てられた。建設当時の京都電燈は、京都府屈指の大会社だったという。

『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会、昭和59年、2800円)では、設計者の武田五一とビルの外観などについて、以下のように書かれている。

 設計者の武田五一は、アール・ヌーヴォーやセセッションなどの新様式を精力的に日本に紹介した建築家として知られるが、昭和初頭の欧米旅行の後には近代主義建築の要素を含む建築もいくつか手がけており、これはその代表例。柱・梁の構造体を露出した外観だが、正面には黄色のタイルを貼り回し、京都駅に向かうコーナーには緩いカーブを描かせるなど、武田なりに近代主義建築を咀嚼している。新しいのは形態だけでなく、地下水を利用した空調設備、壁を使った間接照明など、設備面でも、当時としては画期的な新技術が導入されている。

『近代建築ガイドブック』の写真は、京都新阪急ホテルが建っていないため、角のカーブした箇所を中心にビル全体が写っている。その景観を意識してのデザインだったに違いない。

京都駅前の長屋(上方お宿八条)

京都市南区東九条上殿田町(ひがしくじょうかみとのだちょう)34

2008(平成20)年3月10日

 

京都駅八条口から南へすぐの裏通りにある長屋。1946年の空中写真を見ると、京都駅周辺にはビルなどはほとんどなく、木造の町屋が建並んでいる。駅の北側は一戸建ての町屋が、南側には長屋が多いように見える。写真の長屋はそんな戦前築の長屋が残ってきたのだろう。

ストリートビューでは、写真手前の1軒は2010年2月から2013年9月の間に取り壊されて駐車場になり、3軒目の家が2016年8月のSVに「上方お宿 八条」の暖簾が出ていて、宿泊設備になっている。

喫茶なかむら。京都市南区西九条院町(にしくじょういんまち)18

2008(平成20)年3月10日

 

「喫茶なかむら」は京都駅八条口の八条通から南へ向かっている新町通という横丁へ入ってすぐのところにあった喫茶店。ストリートビューを見ると、2018年2月から2019年5月の間で住宅に建て替わっている。2018年中に廃業したものと思われる。

『食べログ>喫茶なかむら』に重大な情報が載っていた。2011年9月の口コミに、店主に聞いたこととして、「少なくとも大正時代の建物で、工場として建てられ、その後は倉庫として利用されていた」「店主の父上が購入し、喫茶店を開店」とある。レンガ造のように見え、あるいは明治期の建物かとも疑える。

 

「なかむら」の前の新町通は裏通りにしか見えないが、『ウィキペディア>新町通』によると「北は玄以通(げんいどおり)から、南は京都駅で分断されるが、久世橋通の南まで延びている」「平安京の町小路にあたる」とある。『ウィキペディア>町小路』には、「江戸時代以降は新町通となる。鴨川が氾濫してもその影響の及ばない高台に属し、地勢的には当時の京都の一等地である。そしてそこ並んでいたのは商人の商家や職人の工房であり、」とある。昔はかなり重要な南北の通りだったらしい。

 

南海ビルディング(高島屋大阪店)。大阪市中央区難波5。1992(平成4)年8月7日

 

難波(なんば)の中心にある建物といっていいのだろう。周辺は再開発が進んで高層ビルが建て込んできたわけだが、南海ビルが新しいビルに建て替わったりしたら難波が難波ではなくなってしまう気がする。「ミナミ」にとっても重要な建物だろう。

南海ビルは南海電気鉄道の難波駅に建てられたターミナルビル。南海電鉄創立50周年の記念事業として、1932(昭和7)年7月の竣工。設計=久野節(くのみさお)、施行=大林組、構造=鉄筋コンクリート造8階建地下2階。そこへ高島屋百貨店が堺筋より移転してきて入居した。

百貨店らしい外観は、「14スパン連続アーチと、壺飾を冠したコリンシャンオーダーのピラスターで飾られたファサード」(『近代建築ガイドブック[関西編]』)を持つ。

1980(昭和55)年、駅の改良工事によってホームは200m南へ移った。

2003(平成15)年、大阪球場(1950年築)跡地に「なんばバークス」開業。2011(平成23)年、新本館の増床や外装などのリニューアル工事が完成し全館開業した。

 

中座。大阪市中央区道頓堀1-7

1992(平成4)年8月7日

 

『ウィキペディア>中座(なかざ)』によると、1661(寛文元年)年開業の劇場。浪花座、角座、朝日座、弁天座とともに「道頓堀五座」と呼ばれた。1918(大正7)年、松竹が買収した。

写真の建物は1945年(昭和20年)3月13日の大阪大空襲により全焼した後、1948年(昭和23年)に再建されたもの。「木村組の大阪支店長、安倍恒夫の施工により」「藤山寛美が松竹新喜劇の上演の拠点にするなど、上方芸能を支えた」とある。

1999年(平成11年)に建物の老朽化と営業不振により閉館され、取り壊された。跡地には2004年(平成16年)2月に商業テナントビル「アルゼ道頓堀ビル」が竣工。2009年(平成21年)7月に「中座くいだおれビル」となり、くいだおれ太郎の居場所になり、「中座」の名前が復活した。

 

松竹浪花座別館。大阪市中央区道頓堀1-8

1992(平成4)年8月7日

 

道頓堀商店街の「中座くいだおれビル」の西の角に南へ入る横丁がある。Googleマップには「掘之側筋」とあって、そこを南へ90mいくと法善寺横丁だ。松竹浪花座別館は掘之側筋に入ってすぐの西側にある「道頓堀法善寺ビル」らしい。不動産情報によると道頓堀法善寺ビルは「1971年6月築、5階地下1階建」。現在は1階が「ツルハドラッグ」というドラッグストアで、外観はすっかり改修されている。写真のクラシックな外観のビルが1971年に建てられたのだろうかと不思議である。ぼくが場所を勘違いしているのかもしれない。

 

浪花座。阪市中央区道頓堀1-8。1992(平成4)年8月7日

 

道頓堀商店街の、戎橋筋の交差点角のツタヤのビルの隣に「浪花座」(演芸場・映画館)があった。写真の建物は、1910(明治43)年に建てられた建物が昭和20年3月13日の大空襲で 焼失した後、1952(昭和27)年に5階建のビルで新築されたもの。劇場・映画館は2002(平成14)年1月末に閉館、2004年に現在の8階建商業ビルに建て替わった。

雪本剛章』が浪花座を解説している。雪本剛章(ゆきもとたけあき)氏は昭和演芸を研究している人。1952年築のビルについても仕様が載っている。それによると、「5階建地下1階、(1階は映画館「松竹浪花座」、2階が演芸場「演芸の浪花座」)」。当初は映画館だったらしい。「1987年、「角座」(1984年閉館)を引き継ぐかたちで、1階を「演芸の浪花座」としてオープン。1994年、演芸場を2階に移す」などとある。

毒沼地のゾンビマン、映画館に現る!>道頓堀ピカデリー~浪花座』は洋画ロードショウ-の映画館としての浪花座を語っている。ぼくの写真では「浪花座2」だが、1970年代は「道頓堀ピカデリー」の名称で、80年代に「浪花座1」に、90年代に「浪花座2」と変わってきたという。それらの新聞などの広告も載せている。「80年代後半の浪花座2の劇場前」の写真が載っていて、ぼくの写真では判らない1階玄関の様子を見ることができる。

丸万ビル。大阪市中央区道頓堀1-18

1992(平成4)年8月7日

 

道頓堀川の南に平行している道頓堀商店街の夷橋筋との角にあったビル。音楽喫茶「ナンバ一番」があったビルとして有名。「丸万ビル」の名称は、『戎橋筋案内』を踏襲した。「かつて丸万中店と呼ばれた蒲鉾店は、昭和4年(1929)になって近代的なビルに建て替えられた」「後に三笠屋百貨店、太平マートを経て現在に至る」とある。写真では広告で覆われていて外観は分らない。『戎橋筋案内』のイラストではアーチの窓が並んでいるが様式建築のようには見えず、表現主義に近いように思える。

今はなき大阪の近代建築』によると、「名称=ナンバ一番(旧丸萬本家料理店)、設計者=銭高組、建築年=昭和4(1929)年、構造=鉄筋コンクリート造3(5?)階地下1建、所在地=大阪市南区道頓堀(現中央区道頓堀1丁目8)、備考=近代大阪の建築No.617」。1999年撮影の写真では「MARIATERESA」という洋品店が営業しているが、他の広告は取り外されていて、壁面には網がかけられ、廃墟にしかみえない。2000年頃に取り壊されたという。今はツタヤ戎橋店のビルが建っている。

道頓堀商店会会報2015年6月号』では「三笠ビル」としている。昭和22年、1階に洋装・生地販売の「太平マート」が開店し、ものがない時代だったので繁盛した。昭和30年代初め、地下に音楽喫茶(ライブハウス)「ナンバ一番」がオープンした。その頃の「タンゴの女王」藤沢嵐子の広告が出ているビルの写真はいろいろのサイトに引用されている。その後ナンバ一番はダンスホールだった4階に移り、そこからファニーズ(後のザ・タイガース)が出てくる。

 

大阪松竹座。大阪市中央区道頓堀1-9

1992(平成4)年8月7日

 

道頓堀が芝居街だった歴史を伝えるような劇場として名所になっている建物。現在の建物は、1997(平成9)年にファサードを保存して建て直されたもの。当記事の写真は1923(大正12)年に竣工した元の建物である。

『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会発行、昭和59年、2800円)によると、「大阪松竹座。設計=大林組(木村得三郎)、施行=大林組、建築年=1923(大正12)年、構造=鉄骨鉄筋コンクリート造5階建、所在地=南区道頓堀1-9」。外観については次のように記載されている。

松竹座のファサードは、サリバンのデザインを思わせる大壁面、大アーチが印象的で、頂部にカルツッシェを飾り、脇に壺飾をのせたアイオニックオーダーを配して、華やかさと共に不動の安定感を演出する構成は、折衷的様式建築の秀作といえよう。

 前面に鋳鉄製のマーキー(大庇)が設けられていたのだが、最近のあまりに過剰なカンバンの陰にかくされて存否は定かでない。テラコッタ(米国アトランティック社製)には一部分コバルトブルーやブラウンに彩釉されたものが使われている。これらポリクロームの細部にも注目したい。

 

『ウィキペディア>大阪松竹座』によれば、開業時は映画と松竹楽劇部のレビューの組み合わせで興行、後に「梅田の北野劇場と並ぶ、大阪の洋画の殿堂として優秀外国映画の上映を行ったほか、松竹楽劇部から発展した大阪松竹少女歌劇団 (OSSK) のレビューも行った」。戦後は「松竹映画の封切館として再開したが、その後洋画ロードショー館に転向」「1994年(平成6年)5月、劇場へ改装するため閉館」。

新築開業は1997(平成9)年2月で、「松竹制作の歌舞伎・新劇・松竹新喜劇を中心に、ジャニーズ公演、歌劇、ミュージカル、コンサート、落語会等も上演されている」。

 

先日8月29日の新聞に閉館の記事が載った。松竹の拠点劇場である大阪松竹座は、来年5月の公演で終了、その後の計画は未定、ということだ。

 

 

大阪松竹座。1992(平成4)年8月7日