富士ラビット。京都市下京区七条通新町西入ル夷之町。2008(平成20)年3月9日

 

七条通にある近代建築として割と有名な建物。新町通との角にあり、京都駅からも近い。外観は古典的なオーダー、正面屋上のアーチ窓、ステンドグラスと様式的には統一感のない装飾が目を引く。思わずあちこちに目をやってしまう建物だ。

『近代名建築 京都写真館』(福島明博著、日本機関誌出版センター発行、1996年、1800円)によると、建築年=1925(大正14)年、設計=不祥、施行=大工、構造=鉄筋コンクリート煉瓦壁造3階建。本文には「京都の自動車販売会社の草分けであった日光社の社屋で、戦後は主としてスクーター販売したため」富士ラビットとなった。設計者・施工者について著者が電話で照会すると、三代目社長の久米田幸一郎氏が以下のように答えている。「この社屋を建てたのは祖父の久米田幸治郎。七条通で最初にできた洋風建築。設計したのは親戚の知り合いだが名前は不明。施工者は大工の棟梁が大工を集めて造った。構造は在来工法で、木の梁や柱の代わりに鉄筋を入れたコンクリートで作ったから柱が多く、使い勝手が悪い。壁は煉瓦を積み上げたものだが荷重はもたせていない。1階はガレージで2~3階が居室。屋上正面の丸いところは屋上に出る階段の踊り場」。

『京都・大阪・神戸名建築さんぽマップ』(円満寺洋介著、株式会社エナスレッジ発行、2023年、1800円+税)に、設計者として「愛仁建築設計事務所」と載っていた。『京都写真帳』で久米田氏は、設計図は金庫にしまってあるがビルの売買のときでないと金庫は開けられない、と言っているが、それが開示されたのだろうか。

下京民主商工会。京都市下京区新町東入夷之町(えびすのちょう)

1992(平成4)年8月6日

 

七条通りでは割と有名な富士ラビットのはす向かい。今は写真右の「樋板金」の看板の左の家がなくなって裏の駐車場の出入り口になっているが、他の家は残っている。京都では、町屋の街並みは30年経ってもあまり変わらないところが多いようだ。

写真右の「樋・板金加工」の看板の家は「志乃みや板金」。2024年12月のストリートビューでは屋根の上の看板が外されているが、2階の袖看板が残っている。その左の看板建築にした商店は看板の色合いから化粧品店か雑貨店だろうか。2009年のSVで、すでにない。「税金・融資・労働保険・経営・くらしの相談」の看板は「下京民主商工会」。二軒長屋の1軒を使っている。この家も2009年のSVで、すでに仕舞た屋。下京民主商工会は七条通りを西へ200mほど行った、やはり古い町屋に移っている。さらに左の家は看板の文字が読み取れない。2009年のSVではすでに今と同じ「はな串」という居酒屋になっている。

京都中央信用金庫本部別館。京都市下京区七条烏丸西入ル中居町(なかいちょう)113

2008(平成20)年3月9日

 

烏丸通りと七条通りの交差点(烏丸七条交差点)の北西角に建つビル。正面にアーチ窓と四つ葉型の窓を並べて古いビルと分るが、外壁が平面的でおとなしい目立たないビルだと思う。

関根要太郎研究室@はこだて>旧不動貯金銀行京都七条支店』によると、不動貯金銀行七条支店として1930(昭和5)年に建てられた。設計は関根要太郎(関根建築事務所)、施行は藤木工務店大阪本店、構造は鉄筋コンクリート造2階建て、中2階、一部地下1階。

戦後20数年ほどは、不動貯金銀行の後身にあたる協和銀行になっていたというから、京都中央信用金庫になったとは1970年頃なのだろうか。

 

セコム損保京都ビル

京都市下京区烏丸西入ル東境町(ひがしさかいちょう)

上:2008(平成20)年3月9日

左:1992(平成4)年8月6日

 

烏丸通りと七条通りの交差点(烏丸七条交差点)の南西角に建つビル。七条通り側の入口に「烏丸七条ビル」とあるから、それがビルの名称なのだが、ネットなどでは不動産情報以外では「セコム損保京都ビル」としてあるのが多い。

関根要太郎研究室@はこだて>京都七条の旧野村生命ビルディング』によると、1937(昭和12)年竣工、設計は安井武雄建築事務所、施工は竹中工務店。野村生命のビルとして建てられた。知らなければ昭和40年代頃のちょっと古いビルと見てしまうが、安井武雄は、大阪ガスビル、大阪倶楽部、高麗橋野村ビル、日本橋野村ビルなどの設計者だ。それを知って見ても、やはり普通のちょっと古いビルにしか見えない。

 

 

 

関西電力京都支店

京都市下京区塩小路真町東入ル東塩小路町(ひがししおこうじちょう)

1992(平成4)年8月6日

 

京都駅の京都駅ビル側の塩小路通(しおこうじどおり)にある、斬新な感じを受けるビル。正面玄関の右の黒御影石の壁に「京都関電ビルディング」のプレートがあり、それがビルの名称らしいが、ネットでは使っている人はいない。

1937(昭和12)年に京都電燈本社として建てられた。建設当時の京都電燈は、京都府屈指の大会社だったという。

『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会、昭和59年、2800円)では、設計者の武田五一とビルの外観などについて、以下のように書かれている。

 設計者の武田五一は、アール・ヌーヴォーやセセッションなどの新様式を精力的に日本に紹介した建築家として知られるが、昭和初頭の欧米旅行の後には近代主義建築の要素を含む建築もいくつか手がけており、これはその代表例。柱・梁の構造体を露出した外観だが、正面には黄色のタイルを貼り回し、京都駅に向かうコーナーには緩いカーブを描かせるなど、武田なりに近代主義建築を咀嚼している。新しいのは形態だけでなく、地下水を利用した空調設備、壁を使った間接照明など、設備面でも、当時としては画期的な新技術が導入されている。

『近代建築ガイドブック』の写真は、京都新阪急ホテルが建っていないため、角のカーブした箇所を中心にビル全体が写っている。その景観を意識してのデザインだったに違いない。

京都駅前の長屋(上方お宿八条)

京都市南区東九条上殿田町(ひがしくじょうかみとのだちょう)34

2008(平成20)年3月10日

 

京都駅八条口から南へすぐの裏通りにある長屋。1946年の空中写真を見ると、京都駅周辺にはビルなどはほとんどなく、木造の町屋が建並んでいる。駅の北側は一戸建ての町屋が、南側には長屋が多いように見える。写真の長屋はそんな戦前築の長屋が残ってきたのだろう。

ストリートビューでは、写真手前の1軒は2010年2月から2013年9月の間に取り壊されて駐車場になり、3軒目の家が2016年8月のSVに「上方お宿 八条」の暖簾が出ていて、宿泊設備になっている。

喫茶なかむら。京都市南区西九条院町(にしくじょういんまち)18

2008(平成20)年3月10日

 

「喫茶なかむら」は京都駅八条口の八条通から南へ向かっている新町通という横丁へ入ってすぐのところにあった喫茶店。ストリートビューを見ると、2018年2月から2019年5月の間で住宅に建て替わっている。2018年中に廃業したものと思われる。

『食べログ>喫茶なかむら』に重大な情報が載っていた。2011年9月の口コミに、店主に聞いたこととして、「少なくとも大正時代の建物で、工場として建てられ、その後は倉庫として利用されていた」「店主の父上が購入し、喫茶店を開店」とある。レンガ造のように見え、あるいは明治期の建物かとも疑える。

 

「なかむら」の前の新町通は裏通りにしか見えないが、『ウィキペディア>新町通』によると「北は玄以通(げんいどおり)から、南は京都駅で分断されるが、久世橋通の南まで延びている」「平安京の町小路にあたる」とある。『ウィキペディア>町小路』には、「江戸時代以降は新町通となる。鴨川が氾濫してもその影響の及ばない高台に属し、地勢的には当時の京都の一等地である。そしてそこ並んでいたのは商人の商家や職人の工房であり、」とある。昔はかなり重要な南北の通りだったらしい。

 

南海ビルディング(高島屋大阪店)。大阪市中央区難波5。1992(平成4)年8月7日

 

難波(なんば)の中心にある建物といっていいのだろう。周辺は再開発が進んで高層ビルが建て込んできたわけだが、南海ビルが新しいビルに建て替わったりしたら難波が難波ではなくなってしまう気がする。「ミナミ」にとっても重要な建物だろう。

南海ビルは南海電気鉄道の難波駅に建てられたターミナルビル。南海電鉄創立50周年の記念事業として、1932(昭和7)年7月の竣工。設計=久野節(くのみさお)、施行=大林組、構造=鉄筋コンクリート造8階建地下2階。そこへ高島屋百貨店が堺筋より移転してきて入居した。

百貨店らしい外観は、「14スパン連続アーチと、壺飾を冠したコリンシャンオーダーのピラスターで飾られたファサード」(『近代建築ガイドブック[関西編]』)を持つ。

1980(昭和55)年、駅の改良工事によってホームは200m南へ移った。

2003(平成15)年、大阪球場(1950年築)跡地に「なんばバークス」開業。2011(平成23)年、新本館の増床や外装などのリニューアル工事が完成し全館開業した。

 

中座。大阪市中央区道頓堀1-7

1992(平成4)年8月7日

 

『ウィキペディア>中座(なかざ)』によると、1661(寛文元年)年開業の劇場。浪花座、角座、朝日座、弁天座とともに「道頓堀五座」と呼ばれた。1918(大正7)年、松竹が買収した。

写真の建物は1945年(昭和20年)3月13日の大阪大空襲により全焼した後、1948年(昭和23年)に再建されたもの。「木村組の大阪支店長、安倍恒夫の施工により」「藤山寛美が松竹新喜劇の上演の拠点にするなど、上方芸能を支えた」とある。

1999年(平成11年)に建物の老朽化と営業不振により閉館され、取り壊された。跡地には2004年(平成16年)2月に商業テナントビル「アルゼ道頓堀ビル」が竣工。2009年(平成21年)7月に「中座くいだおれビル」となり、くいだおれ太郎の居場所になり、「中座」の名前が復活した。

 

松竹浪花座別館。大阪市中央区道頓堀1-8

1992(平成4)年8月7日

 

道頓堀商店街の「中座くいだおれビル」の西の角に南へ入る横丁がある。Googleマップには「掘之側筋」とあって、そこを南へ90mいくと法善寺横丁だ。松竹浪花座別館は掘之側筋に入ってすぐの西側にある「道頓堀法善寺ビル」らしい。不動産情報によると道頓堀法善寺ビルは「1971年6月築、5階地下1階建」。現在は1階が「ツルハドラッグ」というドラッグストアで、外観はすっかり改修されている。写真のクラシックな外観のビルが1971年に建てられたのだろうかと不思議である。ぼくが場所を勘違いしているのかもしれない。