高田屋嘉兵衛資料館。函館市末広町13。2010(平成22)年6月11日

 

函館赤レンガ倉庫の金森洋物館の後ろ(南)にある2棟の蔵。『関根要太郎研究室@はこだて>函館高田屋嘉兵衛資料館』によると、「明治期と大正期竣工の昆布蔵を再生させた建造物」。写真左のほうが「1号館」で1903(明治36)年の竣工、石造り平屋。右の「2号館」は1923(大正12)年築で鉄筋コンクリート造平屋、1号館の外観に合わせたデザインにしている。

建物は高田屋嘉兵衛との直接の関係はないが、高田屋造船所の跡地とされる場所で、1号館は北前船のバラスト(重りの石)が用いられている。

資料館は「池見石油店」という会社が運営している。池見石油店の先代が高田屋に感銘して資料を収集し、1986(昭和61)年に開館した。

高田屋嘉兵衛は、司馬遼太郎の『菜の花の沖』(文春文庫で6巻)が有名。ぼくも読んではいるが、内容は大方忘れた。

NIPPONIA HOTEL函館 港町。函館市豊川町11。2010(平成22)年6月11日

 

 

BAYはこだての後ろに建っている倉庫。「NIPPONIA HOTEL函館 港町」は2021年の開業なので、撮影時はただの倉庫、しかも使われてもいなかったらしい。

ホテルに改装したとき、株式会社NOTEという会社が設計している。そのNOTEによる『築100年以上のレンガ倉庫を改装しホテルへ』というサイトによると、「かつて昆布問屋の倉庫として利用された後、長期間活用されていなかった建物」「既存の外壁モルタルを掻き落とし、本来のレンガ造りの外観を復元」とある。また、耐震工事として、レンガ壁の内側に独立した木造の客室棟を新たに建てる「入れ子構造」にした。

この改修工事に対して、2023年に「第26回函館市都市景観賞(建築物部門)」を受賞した。この賞は、函館市が、歴史的な街並みや優れた都市景観の形成に貢献した建築物や活動を表彰する制度。

 

運河越しに見る倉庫。南側の外壁は今もモルタル壁。その外観だった時代を伝える処置だったと思える。2010(平成22)年6月10日

 

BAYはこだて1号倉庫。函館市豊川町(とよかわちょう)11

2007(平成19)年9月24日

 

「BAYはこだて」は「金森赤レンガ倉庫」を構成する観光施設だが、そうなったのは2003(平成15)年、日本郵船より金森赤レンガ倉庫(会社)に譲渡されてからだ。運河を挟んで、西の1号倉庫と東の2号倉庫とがある。

金森赤レンガ倉庫>よくある質問』には、「BAYはこだての倉庫は、三菱商会函館支社の倉庫として明治15年(1882年)に建てられました。金森倉庫と違い、自社の荷物を保管するために建てられた倉庫です。その後、明治18年(1885年)に、三菱商会と共同運輸が合併し、新会社「日本郵船会社」が誕生、日本郵船函館支店となりました。」とある。1882年築の倉庫が残っていたとは考えにくい。もしそうだとすれば、「函館最古の倉庫」という紹介文が出てきそうなものだ。

金森赤レンガ倉庫(建物)は、1907(明治40)年の大火で焼失した後、1909(明治42)年に建て直されている。日本郵船倉庫も同様だったのか、とも思える。

 

BAYはこだて1号倉庫。函館市豊川町11。2010(平成22)年6月11日

 

 

BAYはこだて2号倉庫。函館市豊川町11。2010(平成22)年6月10日

 

2号倉庫は外壁だけが残されて、実質赤レンガ塀。その塀の中にレストラン、教会、売店などの3棟の建物が建っている。

金森34番倉庫。函館市末広町(すえひろちょう)14。2007(平成19)年9月24日

 

ベイエリアに並ぶ函館赤レンガ倉庫の西端にある倉庫が「金森34番倉庫」で、今でも倉庫として使われている。間口は他の倉庫より広いくらいだが、奥行きは間口より少し長いくらいのサイズだ。『関根要太郎研究室@はこだて>函館金森34番倉庫』と『』によると、設計:木田保造(木田組)、施工:木田保造(木田組)、竣工:大正5(1916)年、構造:鉄筋コンクリート造2階建て。「荷捌きを効率化するための二階ピロティーが付けられているのは、他の赤レンガ倉庫と違うところ。またピロティー上にはセセッション的な装飾が施され、大正初期の建築ならではの明るさを醸し出しているのも、この作品の特徴」ということだ。

なお、『新版 日本近代建築総覧』(日本建築学会編、技報堂、1983年)では「函館運輸倉庫倉庫(旧金森商船㈱倉庫)、函館市末広町14-12、建築年=大正5年、構造=RC2、設計者=木田組、施工者=木田組」で載っている。1909年築の函館赤レンガ倉庫の方は載っていないので、知らないとちょっとややこしい。

函館赤レンガ倉庫。函館市末広町13、14。2010(平成22)年6月9日

 

金森洋物館。函館市末広町13。2010(平成22)年6月10日

 

函館観光の中心と言っていいベイエリアの函館赤レンガ倉庫群は、『金森赤レンガ倉庫』や『ウィキペディア>金森赤レンガ倉庫』によれば、その歴史は以下のような経過をたどっている。

現在の金森商船株式会社は1887(明治20)年から倉庫業を始める。事業は順調に発展して明治30年頃には21棟の倉庫をもつまでになる。ところが1907年(明治40年)8月の大火で6棟の倉庫を焼失した。それを建て直したのが現在も残る赤レンガ倉庫で、1909(明治42)年5月には完成した。『関根要太郎研究室@はこだて>函館金森赤レンガ倉庫群』によれば建物の仕様は、設計・施行=不詳、構造=木骨煉瓦造平屋。

昭和後期になると、輸送形態の変化や北洋漁業縮小などの事情によって倉庫業は衰退していく。函館港の港湾機能も当地区から離れた北東部に移行していったという。また、青函トンネルの開通が昭和63年3月、青函連絡船が廃止されたのが昭和63年9月だ。一方で古い建物が「伝統的建造物」として注目されるようになる。

金森商船はこれらの状況に対応して、倉庫群の一部を観光客向けの施設に改装していく。1988年(昭和63年)に倉庫の一角が「函館ヒストリープラザ」に、1989(平成元)年に「金森船具店」を改装して「金森美術館」がオープン。1994(平成6)年に「金森洋物館」が開店、といった具合だ。

 

函館ヒストリープラザ。函館市末広町14。2010(平成22)年6月10日

2棟の倉庫の間に小さな倉庫があるが、これは倉庫の間の通路に屋根をかぶせただけのものではないかと疑っている。

 

金森洋物館南棟。函館市末広町13。2010(平成22)年6月11日

金森洋物館は正面から見ると2棟が並んでいるわけだが、横から見ると中央辺りで前と後ろに別れ、2棟が縦に並んでいて全部で4棟から成る。近年の改装かもしれない。

 

函館ヒストリープラザ北棟。函館市末広町14。2007(平成19)年9月24日

水路閣。京都市左京区南禅寺福地町(ふくちちょう)。1992(平成4)年8月6日

 

琵琶湖疎水は南から南禅寺の辺りまで来ると、蹴上(蹴上インクラインの上)で疎水分線を分岐する。水路閣は疎水分線が南禅寺の境内を横断するための水道橋だ。

『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会、昭和59年、2800円)では「設計=田辺朔郎、施行=大倉組・藤田組・京都建築組、竣工年=明治21(1890)年、構造=煉瓦造、所在地=左京区南禅寺風呂山町」。

ぼくはインクラインが水路閣の西にあるので、水もそちらへ流れているように思っていた。琵琶湖疎水の流路を確認してみると、疎水分線は蹴上から分かれて水路閣を通り、北へ向きを変えて哲学の道に沿って流れていくのだった。

 

第4トンネル入口。流れはトンネルに入った後、哲学の道の南端で顔を出す。

手越医院。京都市東山区四条下る小松町154。2008(平成20)年3月11日

 

鴨川の東を南北に通っている大和大路通から東へ向かう八坂通に入ってすぐのところ。写真左の洋館が手越(てごし)医院。写真の長屋は四軒長屋と思われるが、ストリートビューを見ると、左端の1軒とその左の日本家屋は2017年頃に建て替わった。この部分は手越医院の住居になるのかも知れない。

長屋の右の2軒は2022年には取り壊されている。残った1軒は「一期一会」の看板が掛かっている。針灸治療院らしい。

手越医院は「ドイツ民家風」の外観の洋館。2階以上はレンガ風のタイル貼り。1階の壁は改修されてのものかもしれない。アーチ窓が並ぶのが特徴だ。2階の屋根に見えるのはバルコニーになっている。

レトロな建物を訪ねて>京都の手越医院』によると、昭和初期の建築で、設計・施行者は不明、木造2・3階建。後ろの3階建部分は病棟のようだ、としている。

京都市立六原小学校。京都市東山区松原通大和大路東入る轆轤町(ろくろちょう)

2008(平成20)年3月11日

 

六原(ろくはら)小学校は1869年(明治2年)に開校した番組小学校設のひとつ。2011(平成23)年4月に、近隣の5小学校と2中学校が合併して「京都市立開晴小中学校」となった。

写真の校舎は『レトロな建物を訪ねて>京都市立六原小学校』によれば、1930(昭和5)年竣工、設計:京都市営繕課、施行:不明、構造:鉄筋コンクリート造3階建。東面に少し変わった形の正面玄関があり、その右(北)から西へ長く校舎が伸びるL字形平面をしていた。

 

京都市立新道小学校。京都市東山区小松町(こまつちょう)146

2008(平成20)年3月11日

 

市立新道(しんみち)小学校は「番組小学校」として1869(明治2)年に開校した。生徒数の減少により、2011(平成23)年3月で開晴小中学校に統合された。校舎はその後10年間、NPO法人などが使用していたらしい。2021(令和3)年にNTT都市開発による再開発が決まり、11月に取り壊された。

写真の校舎は、『貴族の部屋>新道小学校』によれば、竣工=1937(昭和12)年、設計=京都市営繕課、施工=松村組。

 

 

 

 

長楽館。京都市東山区祇園町(ぎおんまち)南側。2008(平成20)年3月10日

 

長楽館>歴史』によれば、村井吉兵衛が長楽館の建設に着手したのは1904(明治37)年(完成は1909年5月)。「煙草専売法」の施行は1904(明治37)年7月で、村井銀行の設立も1904年。1,120万円の補償金を元に、手広く事業を進め始めたのが1904年になるのだろう。2月に日露戦争が勃発している。

村井吉兵衛は1926(大正15)年1月、64歳で死去。早死にである。1927(昭和2)年3月、村井銀行は昭和金融恐慌の時期に破産し、関連会社も次々と潰れていったと思われる。同年、長楽館も売却される。吉兵衛は予感していたかもしれないが、現実に直視しないですんだのかもしれない。

本館の建物は、1909(明治42)年竣工、設計=J. M. ガーディナー、施行=清水組、構造=鉄骨石造3階建。

 

 

 

長楽館別館。2008(平成20)年3月10日

 

外観に惑わされて本館と同じ時期の建物かと思って写真に撮ったのだが、この建物については資料が見当たらない。どうも事務所棟だと思われる。寮にもなっているのかもしれない。1960年頃の建築だろうか。