白亜ビル。大阪市中央区道頓堀1-10

1992(平成4)年8月7日

 

道頓堀川のグリコサインがあるビルの並びの表側。道頓堀商店街の西の端で、写真左は御堂筋の道頓堀橋南詰交差点。写真のビルの向かい側に「大阪松竹座」がある。

写真右の2階建に見えるビルは大阪市消防局中央消防署道頓堀出張所。下の写真のように戦前築かと思えるようなビルで、後ろが道頓堀川に面しているとすると、名所になっているグリコの広告はこのビルの後ろにあったことになる。『ウィキペディア>道頓堀グリコサイン』には、「看板を掲出していたビルの建て替えにより1996年1月21日に点灯終了し、翌日より撤去された」とある。今のビルは1998年7月頃の竣工。

写真中央の「ペンギンバー」の袖看板のビルは「白亜ビル」で。戦前築かと思わせる外観である。ペンギンバーはまだ紹介したサイトが残っていて、1988年12月の開店で、2016年5月末日で閉店している。

 

大阪市消防局中央消防署道頓堀出張所。右の3階建ビルは戎橋交番。

1992(平成4)年8月7日

道頓堀川。大阪市中央区心斎橋筋2、道頓堀1。1992(平成4)年8月7日

写真は戎橋(えびすばし)から見た道頓堀川。右奥の橋は御堂筋の道頓堀橋。
写真で目立つのは「ウォーターカーテン」で、1989(平成元)年に戎橋の下流に設置されたもの。川の上に並ぶドームは噴水ではなさそうだが、なんだろう?
2001(平成13)年には、両岸に「とんぼりリバーウォーク」と命名された遊歩道が造られて、両岸の景観はかなり変わった。遊歩道は上下2段で、川の上に張り出している。沿岸の建物は、遊歩道からも出入りできるように出入り口を設ける飲食店も多く出てきたという。

写真左上に「グリコサイン」の足だけが写っている。『ウィキペディア>道頓堀グリコサイン』によると、写真の4代目(1972-1996年)の看板は「看板を掲出していたビル(大阪市中央消防署道頓堀出張所)の建て替えにより1996年1月21日に点灯終了し、翌日より撤去された」。この看板には「1粒300メートル」の文句を入れていた。次の5代目は「ビルの建て替えにあわせて掛け替えられ1998年7月6日に再点灯した」。現在の6代目は2014年10月23日から。

 

戎橋。大阪市中央区宗右衛門町、道頓堀1、心斎橋2。1992(平成4)年8月7日

 

道頓堀川に架かる戎橋(えびすばし)は、繁華街道頓堀の中心といっていい。写真は2007(平成19)年に架け替えられる前の橋。後ろのビルは、右が橋の東南袂の「かに道楽」のビル、左が村野藤吾設計1955年竣工の「コムラード・ドウトンビル」。両方とも現存している。

写真の戎橋は1925(大正14)年に完成した鉄骨鉄筋コンクーリト造、1スパンのアーチ橋。『ウィキペディア>戎橋』によると、「第1次都市計画事業による耐震対策事業」によるもので、「青銅製の格子を取り付けた「三連窓」の壁高欄などが特徴のモダニズム様式の橋」とある。

現在の橋は円形広場になっているのが特長で、観光客が名所の橋でとどまっていられるようになっている。

山本幸(株)。大阪市中央区南久宝寺町3-5。1992(平成4)年8月7日

 

心斎橋筋の南久宝寺町通(みなみきゅうほうじまちどおり)の交差点角にあった戦前築と思われる小さなビル。写真左へいくとすぐ御堂筋の南久宝寺町3交差点。商店街の入り口の看板は「せんば心斎橋」で、「せんば心斎橋筋商店街」。広くは「船場」になるわけだ。南久宝寺町1~4は、『ウィキペディア>南久宝寺町』には、「江戸時代から小間物問屋が集積した問屋街としての歴史を持ち、戦後は衣料品や服飾雑貨(カバン・袋物・傘・靴など)を扱う現金問屋街となった。バブル崩壊頃より閉店する問屋が増え、かつての活気は失われつつあるが、いまなお大阪では有数の問屋街の一つである。」とある。

「山本幸」という会社については、なにも分らない。ストリートビューから、建物は2010~2013年に取り壊され、現在は7台分のTimesの駐車場。

山本幸の対角線の向かいに「西海ビル」という建物がある。瓦葺きの切り妻屋根なので木造なのかもしれないが、外観はタイル貼りの壁の3階建ビルで、戦前築かと疑われる。

さらに、南久宝寺町通を東へ行った丼池筋との角の「萬栄」は、戦前築の4階建のビルに見える。

心斎橋歩道橋。大阪市中央区心斎橋筋1-13、南船場3-12。1992(平成4)年8月7日

 

「心斎橋」というと普通は繁華街の地名をいう。難波(なんぱ)・道頓堀・千日前などと共に「ミナミ」に含まれる。そんな当たり前のことを誰に言っているのかというと、ぼく自身に説明している。「御堂筋を中心に老舗百貨店・専門店・ラグジュアリーブランドの路面店などが集積する大阪を代表する高級繁華街」(ウィキペディア)である。

心斎橋は長堀川に架けられていた橋に由来する。川は1962(昭和37)年に埋め立てられ、1909(明治42)年に架けられた石橋も撤去された。1964(昭和39)年に歩道橋が設置され、そこに旧心斎橋(橋の心斎橋は地名と区別して「旧心斎橋」と表記する)の欄干やガス灯が移設された。

大阪メトロ長堀鶴見緑地線の工事に伴って歩道橋は撤去され、1997(平成9)年に地下街の「クリスタ長堀」が完成した。歩道橋の旧心斎橋の遺構は長堀通を渡る心斎橋筋の歩道に移設された。

旧心斎橋の橋脚(装飾柱)4基が「北区中之島1」(中之島公園と思われる)に保存されていることが最近判明した。(大阪市>大阪の近代橋梁遺産

 

『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会発行、昭和59年、2800円)では、歩道橋の写真を載せて「旧心斎橋 設計=大阪府土木部(意匠設計野口孫市)、施行=不祥、建造年=明治42年、構造=石造アーチ式、所在地=南区心斎橋筋1」としている。

 

写真正面のビルは「心斎橋プラザビル東館」(1981年竣工)。その左は「心斎橋プラザビル本館」(1973年竣工)。両ビルとも2022年に取り壊され、今は「心斎橋プロジェクト」の名前で再開発の最中。28階建のビルが2026年2月の完成予定だ。

 

大丸心斎橋店本館(左=北側、右=南西角)。大阪市中央区心斎橋筋1-7。1992(平成4)年8月7日

 

『近代建築ガイドブック[関西編]』(>鹿島出版会発行、昭和59年、2800円)では、「大丸百貨店 設計=ヴォーリズ建築事務所、施行=竹中工務店、建築年=1期:大正11年(1922年)、2期:大正14年(1925年)、3期:昭和8年(1933年)、構造=鉄骨鉄筋コンクリート造6階建、地下3階塔屋付、所在地=南区心斎橋筋1」。1期は東側心斎橋筋側の南半分、2期は東側の北半分、3期は西側御堂筋側。3期も南と北の順に3、4期と分けるのが普通らしい。階数も大正期に完成している東側は鉄筋コンクリート造6階及び地下1階、西側は鉄骨鉄筋コンクリート造8階及び地下3階で北西部に塔屋が付く。

『近代建築ガイドブック』の解説文を引用しておく。

多くのキリスト教建築を手がけてミッショナリー建築家といわれるヴォーリズの作品で、こうした商業建築にも独自の手法を発揮している。

 建物は心斎橋筋から御堂筋へのワンブロックを占めているが、一期二期で心斎橋筋側が完成し、地下鉄が梅田-心斎橋間に開通した昭和8年に御堂筋側半分が増築された。御堂筋側のファサードは重厚さと華やかさを合わせもつアメリカンゴシックスタイルの好例である。東西両ファサードの意匠の展開に着目したい。

 昭和3年に竣工した京都店もヴォーリズの百貨店建築を代表するもので、昭和38年に大改装されているが、部分的に当時の片鱗を留めている。

日本建築学会による『大丸心斎橋店本館の保存活用に関する要望書』(2014平成26年)では、「建築様式は心斎橋筋側ブロックではネオ・クラシック、御堂筋側ブロックはネオ・ゴシックを基とするが、共に低層部を御影石、最上階及び塔屋をテラコッタ、中間階外壁を茶褐色タイル仕上げとする3層の外観構成でまとまりがあり、ファサード(正面外観)中央に開かれた玄関部及び頂上部など石彫装飾、テラコッタによる華やかな意匠を備えている。その装飾的意匠は館内に展開し、とりわけ 1 階グランドフロアの高い天井周り、エレベーター、階段など、種々の様式的意匠からアール・デコなど注目すべき表現を有している。」としている。

また、「構造設計は当時において耐震設計の第一人者といわれた早大教授の内藤多仲である。本建築の柱間は20尺(中央部のみ24尺)の均等配置で、四方隅に耐震壁をバランスよく配置した耐震構造、耐火耐水計画についてなど、竣工時の建築概要に謳われている。 ……」とある。

つまり「建築意匠・構造・平面計画・設備に関する評価を勘案すると1920年代から1930年代にかけて日本の大都市に出現した百貨店建築として、その典型的存在であり、また、日本の近代建築史上に大きな影響力を持った米国人建築家ヴォーリズの代表作品として位置づけられ、そして、日本を代表する商都大阪のランドマークとなる建物としてきわめて貴重な存在であるといえる。」として建物の保存を望んでいる。

 

大丸心斎橋店本館は2019(令和元)年9月に建て替えられた。その際、御堂筋側の外壁をそっくり保存して御堂筋からの景観を保存継承した。新本館の高さを11階に抑えたのも景観を考えてのことだろうか。内部は1階フロアを主に、旧部材をできる限り再利用して復元しているようだ。

とにかく御堂筋側の外壁保存は大変な工事であっただろう。そんな苦労をしてまで5フロアの増築では割に合わないように思うが。やはり耐震構造にしないといけなかったのだろうか。

 

大阪市交通局曽根崎変電所。大阪市北区西天満2-7。1992(平成4)年8月5日

 

堂島川に架かる大江橋の北、つまり御堂筋が新御堂筋と分岐する交差点が梅新南交差点だが、その交差点の東南にあるのが写真の変電所。無人だが現役で動いているという。

現在の町名の曽根崎は梅新南の北、国道2号の北になるが、『ウィキペディア>西天満(にしてんま)』には、「1900年(明治33年)旧曾根崎村域に曾根崎永楽町・曾根崎上1 - 2丁目、旧北野村域に西梅ケ枝町、旧川崎村域に東梅ケ枝町が起立」「1944年(昭和19年)…曾根崎新地1丁目の御堂筋以東を真砂町へ編入、曾根崎永楽町の御堂筋以東および曾根崎上1 - 2丁目の曽根崎通以南に神明町を起立」などとあって、変電所のあるところは曽根崎と付く町名だったのかもしれない。

 

Osaka Metropolis>曽根崎変電所』によると、曽根崎変電所の建物は、大阪メトロ御堂筋線に電気を供給している変電所で、1936(昭和11)年の竣工。開業時には市電(路面電車)に給電していた。地下鉄に給電するようになったのは1962(昭和38)年だという。

 

建物の外観が独特で、変電所としての実用的なデザインとも思えない。『レトロな建物を訪ねて>大阪市交通局曽根崎変電所』では、設計・施工は不明で鉄筋コンクリート造2階建、一部3階。「いわゆる表現主義的モダニズムの香りがするデザイン」「ひときわ目を引く2階部分のコーベル(持ち送り)の列は構造的なものでなく、装飾的に使われているような気がする」としている。

 

 

『ウィキペディア>西天満』には「現在の2丁目7番には堂島を隔てる曽根崎川が流れ、上流から難波小橋・蜆橋が架かっていたが、1909年(明治42年)に埋め立てられた。」とある。変電所の南の、奥で南に曲がっている横丁のことだ。グーグルマップに「堂島上通」とある。

 

毎日新聞大阪本社。大阪市北区堂島1-6

1992(平成4)年8月5日

 

JR大阪駅西口から南へ向かう(車は北への一方交通)幹線道路が大阪市道南北線(四つ橋筋)で、国道2号線を桜橋交差点で越えると曽根崎新地、その先の東側に毎日新聞大阪本社の社屋があった。1992年12月にはJR大阪駅の西に新本社ビルを建てて移ったので、本記事の写真を撮った半年後には取り壊しが始まったのかもしれない。跡地には2000年3月に「堂島アバンザ」というオフィスビルが竣工した。その敷地に旧ビルの玄関部分がモニュメントとして残されている。ほぼ、玄関があった場所だ。

建物は『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会発行、昭和59年、2800円)では、「毎日新聞社本社、設計=片岡建築事務所、施行=大林組、建築年=1922(大正11)年、構造=鉄筋コンクリート造5階建、地下1階」。「片岡の当時の代表作として安定した古典的作風を示している」とある。

 

堂島、北新地に生きて』では、毎日新聞に勤めていた人が「大阪随一のネオン街・北新地に隣接する旧社屋」について語っている。隣は毎日放送が入った毎日大阪会館で、近くには朝日新聞社と産経新聞社の大阪本社があり、地方紙や電通の支社もあってマスコミ関係が集結していたという。

 

曽根崎新地は「北新地」というのが普通らしいが、『ウィキペディア>北新地』によると、「日本を代表する歓楽街で、東京の銀座と並ぶ高級飲食店街である。…風俗店やパチンコ店は皆無である。カジュアルで雑多な雰囲気のミナミエリア(難波・道頓堀など)とは性格を異にする街でもある。一般的には「大人の街」と定義される」とある。東京の銀座・有楽町も新聞社が集中した街だ。『堂島、北新地に生きて』でも、理由を付けては北新地に繰り出したという。

 

 

大阪鉄道管理局。大阪市北区大深町(おおふかちょう)1-1。1992(平成4)年8月5日

 

JR大阪駅の北、現在の「ヨドバシ梅田」のところにあったビル。1928(昭和3)年に「大阪鉄道局」として建てられた。1950(昭和25)年に「大阪鉄道管理局」となり、1987(昭和62)年に国鉄分割民営化で「西日本旅客鉄道」の成立とともにその本社として使われることになる。したがって「西日本旅客鉄道本社ビル」としたほうがいいのかもしれないが、1991(平成3)年に「JR西日本ビル」が建設されているのでそれと混同しないように古い名称にしておいた。

1989(平成元)年に国鉄清算事業団は本建物を解体撤去し敷地を売却することにしたため、JR西日本は芝田にJR西日本本社ビルを建て、1992年4月には引越しが完了している。したがって、1992年8月撮影の写真では解体の準備に入っていて、すでに足場が組まれている。

 

『ウィキペディア>JR西日本本社ビル』によると、「旧大阪鉄道管理局庁舎」は、設計=鉄道省工務局建築課、監督=神戸鉄道局工務課、設計主任担当=伊藤滋、構造設計担当=永田重朗。構造=鉄骨鉄筋コンクリート造5階、地下1階建、塔屋付。「平面計画は中廊下形式で広い中庭のある6角形。外観は茶色のスクラッチタイル張りで、腰には龍山石及び龍山石擬石が用いられた」とある。

 

跡地はバブル崩壊もあって1997年になってやっと競売が行なわれ、ヨドバシカメラが落札した。開業は2001年11月。関西地区の1号店である。それ以来、大阪の家電量販店として繁盛した。家電と言えば日本橋電気街(でんでんタウン)が有名だったが、その多くの店が撤退したという。今はサブカルで繁盛してきているらしい。

 

梅田阪急ビル(阪急百貨店)

大阪市北区角田町8。1992(平成4)年8月5日

 

JR大阪駅を含む繁華街・ビジネス街一帯を「梅田」という。角田町(かくだちょう)も普通は梅田と言われる。このへんのことは大阪を知らないぼくは、もっぱらウィキペディアの「梅田」や「角田町」の項目を見て知ることになる。実を言うと「阪急」と「阪神」の区別もろくに分っていないのである。今は建て替わってしまったが、写真の建物は「阪急百貨店(デパート)」で、普通には「阪急うめだ本店」と言っていたという。

『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版会発行、昭和59年、2800円)では、「阪急ビルディング、設計=竹中工務店・阿部建築事務所、施行=竹中工務店、建築年=1期:昭和4年7月、2期:昭和11年、構造=鉄筋コンクリート造7階建、地下1階、所在地=北区角田町」。ついでに解説文を引き写してしまうと、

阪急電車の前身、箕面有馬電気軌道株式会社が宝塚-箕面間を開いたのが明治34年、京阪神間の私鉄による郊外開発にやや遅れをとったものの、大正9年には神戸線を全通させ昭和2年より阪急電鉄網の拠点となる阪急ビルディングの建設が始められた。

 阪急は明治44年の宝塚温泉の開業、大正2年の宝塚唱歌隊(後の歌劇団)、さらに大正9年に竣工した旧阪急ビル内には直営のマーケットストアや食堂を設けるなど商業多角経営に積極的であった。そして昭和4年より開業した阪急ビル内にはマーケットが発達した阪急百貨店が開業した。ターミナルデパートの嚆矢とされた。

 近年列車ホームは北に移設されたが旧コンコースの天井モザイクなど内部にも華やかさを留めている。

阪急ビルディングの建築に就いて』というサイトによると、「阪急ビルディングの建設計画は、構造を阿部美樹志、意匠・平面計画を竹中工務店が担うという体制で進められていた」「一方、竹中工務店にあって、プロジェクトのまとめ役として奔走したのが、大正6(1917)年入社の鷲尾九郎(明治26(1893)年~昭和60(1985)年)であった」として、阿部美樹志と鷲尾九郎について解説されている。

 

梅田阪急ビル(阪急百貨店)。大阪市北区角田町8。1992(平成4)年8月5日

 

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ブログのお引越し (通りすがりの者です)
2025-08-15 16:35:57
あなたのブログはとても素晴らしいので、閉鎖されて消えるのがもったいないです。
どうかブログのお引越し手続きをなさってください。よろしくお願いします。
 

 

今気がつきました (先程の者です)
2025-08-15 16:43:44
すでにアメーバに引越されていたのですね。安心しました。
お騒がせしてすみませんでした。