八木通商。大阪市中央区今橋3-2。1992(平成4)年8月4日

 

写真右奥のビルが日本生命今橋ビル(1985年10月築、14階地下2階)だから、三休橋筋から北を見ている。写真左は浮世小路との交差点。八木通商(大坂農工銀行)はネット上で多数紹介されている。それらをまとめると以下のようになる。

当初は大坂農工銀行本店として、1917(大正4)年に建てられた。設計は辰野・片岡建築事務所、施工は清水組。RC2階建で赤レンガと白い石張りの「辰野式」の外観だった。

1929(昭和4)年に国枝博の設計で改築され、写真の外観に替わった。この改築は山休橋筋が拡幅されたためである(33大坂農工銀行 平井直樹)。建物はテラコッタによるイスラム建築のようなアラベスクの装飾が特徴。3階の増築はいつのものか不明。

大坂農工銀行は1937(昭和12)年に日本勧業銀行へ併合され、その大阪支店となった。八木通商(繊維商社)になったのは1968(昭和43)年。

現在は、「グランサンクタス淀屋橋」(2013年7月築、13階地下1階、60戸)というマンションに建て替わった。そのマンションは低層階の外壁はできる限り残し、その上の外観も低層部に合わせてデザインされて、全体としても調和している。賃貸料が少しぐらい高くても住みたくなるような外観だ。

 

 

左:東(三休橋筋)側玄関、右:北(今橋通)側玄関


三和今橋ビル。大阪市中央区今橋2-6

1992(平成4)年8月4日

 

上の写真は中橋筋と今橋通の交差点から撮った物もので、左奥が南。建物は『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版社、昭和59年、2800円)では「三和今橋ビル(鴻池銀行本店)、設計=長野宇平治、施工=大林組(基礎は竹中組)、建築年=大正13年(1924)、構造=鉄筋コンクリート造5階(地下1階)建、所在地=東区今橋3-21」で、「様式建築の名手長野宇平治の傑作のひとつ。緻密なルネサンス様式でまとめられている」としている。荘厳・厳格な感じの古典様式の多い銀行建築と比べると、低層部は石積みでそれなりに威厳があるのだが、全体としてはルネサンス様式の明るく華やかな外観である。

『近代建築ガイドブック』では鴻池銀行の立地について「かつて今橋の2丁目から4丁目にかけては、豪商鴻池家の一族が軒を連ねていた場所であった。この敷地は別家の鴻池伊助の家があったとこで、本家は2丁目の現大坂美術クラブの土地で、つい先年まで江戸期の町屋がのこっていた」としている。

1933年12月に鴻池銀行は山口銀行、三十四銀行と合併して「三和銀行」になった。1955年11月に本店を建てて移るまで、写真の鴻池銀行本店だった建物を三和銀行本店としていたという。

2001年に取り壊され、「今橋スクエアビル」(2002年1月築、8階建)に建て替わった。

新井ビル。大阪市中央区今橋2-1。1992(平成4)年8月4日

 

大阪メトロ堺筋線または京阪電車の北浜駅を堺筋に出れば目の前に建っている。新井ビルはネットにも多数が取り上げられているから、ここで解説することもないが自分用の覚書きで書いておく。

報徳銀行大阪支店として1922(大正11)年に建てられた。設計は河合浩蔵(かわいこうぞう)、施工は清水組、RC4階地下1階建、旧住所は東区今橋(いまばし)2-5。外観は1階はドリス式オーダーを並べた銀行建築らしい古典様式。2階から上はタイル貼りで幾何学的に簡略された装飾で、ヨーロッパで起こった「セセッション」の影響を受けたスタイルという。

報徳銀行は1927(昭和2)年の金融恐慌で倒産、日本産業貯蓄銀行の大阪支店になったが、これも1933(昭和8)年に破産した。1934(昭和9)年に新井証券がビルを取得し「新井ビル」と命名した。北浜の金融街を構成する1棟だ。新井証券がどうなったのかは調べられなかった。

 

写真は改装中で全体の姿は撮れなかった。左の入口のテントが「弘得社」となっているのが取り柄の写真だ。ステーキレストランの「弘得社スエヒロ」は1976(昭和51)年の開店。2003(平成15)年に「KO’s」という店に、2005(平成17)年からは今の「五感」が営業している。

岡三証券大阪店。大阪市中央区今橋1-8

1992(平成4)年8月4日 

 

堺筋の今橋通(いまばしどおり)との交差点を東へ入ったところ。北浜の金融街といっていい場所になる。 『岡三証券大阪店』によれば、現存する写真のビルは、1954(昭和29)年に岡三証券の本社ビルとして竣工したもの。1965(昭和40)年に本社は東京に移して、「大阪店」になった。「大阪支店」は大坂に何店か別にある。2009(平成21)年4月に建物をリニューアルし、1階は多目的ホールに直した。外観は変えていないという。 写真右に写っているビル(テントに「大和證券」と読める)は、「イトーピア北浜スウィートマーク」(2005年2月築、24階地下1階86戸)というマンションに替わっている。

 

住友ビルディング。大阪市中央区北浜4-6。1992(平成4)年8月4日

 

大坂の近代建築といえば、まず挙げられるのは中之島の「中央公会堂」だろうか。ぼくは「住友ビルディング」を挙げたい。外観は対照的な両者だが、一見地味に見えて内部の豪華さを感じさせる住友ビルに惹かれる。

『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版社、昭和59年、2800円)では「住友ビルディング、設計=住友工作部、施工=大林組、建築年=大正11(1922)年~昭和5(1930)年、構造=鉄筋コンクリート造5階建、所在地=東区大川町5-22・西横堀1」。

 

『日本近代建築の歴史』(村松貞次郎著、日本放送協会発行、昭和52年、750円)によると、関西の建築家のよる「関西建築士会」が結成されたのが大正6年。大正8年に「日本建築協会」と改名する。関西在中の建築家が中心だったが、京都帝大教授の武田五一をはじめ建設業の経営者やその設計部に属していた建築家も含まれた。その中には住友に属する建築家もいた。幅の広い懇親的な性格の組織だったという。そういう関西の建築家の世界から、大正から昭和にかけて、日本の様式建築を円熟化・簡素化し、新時代の造形へ進んでいった建築家たちを輩出していった、として住友ビルに関して以下のように述べている。

野口孫市・日高胖(ひだかゆたか)が基礎を築いた住友の営繕関係では長谷部鋭吉・竹腰健三が第二段階の展開の原動力となった。大正15年に竣工した住友ビルは、すでに近代的な構造・設備を内蔵しながら。様式的な意匠を採用し、しかもそれを単純化する試みに成功した作品として、明治以来の様式の学習期(その決算としての長野宇平治や岡田信一郎の作品も含めて)をはっきり脱却した段階を示している。いわば日本における様式建築の自立としかもその展開を示すものとして日本の近代建築史上に大書されるべき作品である。

大阪市立愛日小学校。大阪市中央区北浜4-3。1992(平成4)年8月4日

 

淀屋橋交差点の西南裏手にあった愛日(あいじつ)小学校は、1990(平成2)年に大阪市立集英小学校と統合され大阪市立開平小学校となって閉校した。写真はその2年後のもので、「大阪府…事務局/国民体育大会準備室」の看板が掛かっている。『ウィキペディア>大阪市立愛日小学校』によれば、校舎が解体されたのは2005年で、跡地は再開発され、「淀屋橋odona」や「三井住友海上大阪淀屋橋ビル」が建った。

『近代建築ガイドブック[関西編]』(昭和59年、鹿島出版会、2800円)では「設計者=不祥、施工=清水組、建築年=昭和4年(1929)、構造=鉄筋コンクリート造3階建、所在地=東区北浜5-36」。『ウィキペディア』では設計者を「建築家・横浜勉(1880-1960)」としている。

 

 

 

goo blogで2006年から始めた『ぼくの近代建築コレクション』を、こちらへ移行(引越し)しました。ブログのタイトルを変えたのは旧タイトルの「近代建築」が合っていないように思えたからですが、『昭和回顧録 建築編』も漢字ばかりが並んでいてあまりいいとはいえませんね。学術的にみられても困るのですが、いい案が浮かびません。

旧ブログでは、2枚の写真を横に並べるなどの体裁をHTMLで作っていたので、それが反映されるのか心配でしたがうまくいったようです。テーマ(カテゴリー)は引き継がれないので、これから修正していかなければなりません。それよりもコメントが問題で、引越しできないため、自分で復元していかなければなりません。まあ、おいおい進めていこうと思います。

目次のページを作ってしまっていましたが、やめてしまおうかと考えています。目次を利用する人はほとんどいないようだし、「索引」があるので目次は不要のように思います。

2025年5月7日以降、新しい記事は原則、Amebaブログの『昭和回顧録 建築編』に記載していきます。旧ブログ『ぼくの近代建築コレクショ』に引き続いて、よろしくお願いします。

八百入、鈴木輪業。東京都中央区月島3-23。2008(平成20)年10月7日

 

当ブログ前回の『理容タナカ、ひょうきん村』で「泉水」とした角の家の向かい側。八百入の左は鶏料理の「三好弥」。「月島三丁目北地区第一種市街地再開発事業」によって、2022年頃に取り壊された。

昭和25年頃の火保図では西河岸通四丁目7に「八百ヤ、鈴木自転車S」がある。八百入の建物はトタン貼りの看板建築というより、戦後の仮屋だろうか。壁の住所表示板には「岡崎テレビラジオ電気KK」の広告。鈴木輪業の横の壁に丸石自転車のマークが貼ってある。

  石原ビル。大阪市中央区北浜4-1

 1992(平成4)年8月4日

 

 淀屋橋交差点の南西角にあった石原時計店のビル。再開発のため2021年に取り壊された。『ウィキペディア>石原ビルディング』によると、御堂筋の道幅が広げられた後に、石原時計店(石原政造)により建てられた。1939(昭和14)年3月の完成。設計は眞水・三橋建築事務所。石原政造自身がビルの衣装を手掛けたという。構造はRC造8階地下2階建。 写真では腕時計のロンジンの広告が挙がっている。1983年頃よりで、それ以前はオメガを中心に扱っていたとか。2008年にセイコーの専門となり、ビルの解体時までグランドセイコーの広告だった。

 

 写真右端にわずかに写っているのは「ミズノ淀屋橋店」。1927(昭和2)年7月に「美津濃運動用品株式会社」の本社として建てられた。設計=岡部顕則、施行=竹中工務店、8階地下1階建。とてもそんな古いビルに見えないが、増築などの改修でファサードは改装されているのだろう。

 

コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

 

Unknown (Unknown)
2025-07-13 17:57:12
初めまして!今年30になるものです。
大阪で生まれて2018年まで暮らしておりました。
ミズノが懐かしく思わずコメントしてしまいました。
このビルは今でもあるのでしょうか?ミズノは閉業されているようですね、、幼い頃、ミズノのバーゲンに車で連れて行ってもらったのが懐かしいです。お隣にあった時計屋さんの縦に細長い看板も朧げな記憶ながら印象的で覚えております。
 

 

>投稿者様 (流一)
2025-07-16 09:34:31
写真は大阪に旅行したときに撮ったもので、私自身は大阪には縁がなく知識も無いので「ミズノ淀屋橋店」についてもなにも知りません。現在、石原ビルを含む一帯は再開発で、超高層ビルの建設中です。2025年12月竣工予定なので工事もだいぶ進んでいるのでしょうね。
7月4日にアップした「淀屋橋/大阪市北浜、中之島」の2枚目の写真に、ミズノの正面が小さく写っています。

理容タナカ、ひょうきん村。東京都中央区月島3-18。2008(平成20)年10月7日

 

「月島三丁目北地区第一種市街地再開発事業」によって、写真の低層の家並みは2022年頃に取り壊された。58階建1,286戸のタワーマンションが建つという。

写真左のマンションは「スタジオデン月島」(2004年6月築、10階建29戸)で、やはり再開発で解体されることになる。その右から、姫(和風スナック)、車庫、理容タナカ、酒処ひょうきん村、(1986年住宅地図では)泉水。

「姫」はすでに閉店しているようだ。「理容タナカ」は戦前からの店らしい。「ひょうきん村」の閉店の張り紙には「…昭和57年7月より約40年当地において…令和4年4月20日を持ちまして…」とあった。