日本銀行大阪支店。大阪市北区中之島2

1992(平成4)年8月4日

 

日本銀行大阪支店の旧館は、辰野金吾の設計で1903(明治36)年の竣工。設計には日銀建築技師だった葛西万司と長野宇平治も関わっている。施工は直営、基礎は大林組。構造は煉瓦・石造2階、地下1階建。

辰野金吾といえば、東京駅など赤レンガの壁に白い花崗岩の帯を巡らした「辰野式」の外観が有名だが、日銀大阪支店はそれ以前の時代の作品。やはり辰野の設計による日本銀行本店(1896明治29年)から7年後になるが、その外観を引き継ぐことが要求されたのかも知れない。1906年竣工の京都支店は辰野式だ。

様式は、新古典主義、ルネサンス、ネオ・バロックといろいろに言われるのは、辰野がいろいろな建築様式の装飾を持ち込んだため、ともいう。辰野は重厚な外観になるのを好まず、どっちかというと余計な装飾を付け加えて見る人を楽しませている、としている資料があった。

1982年に新館(1980年竣工)の建設に合わせて、老朽化していた旧館が建て替えられた。その際、西側以外の3面の外壁と屋根が復元された。改修工事といっても外観の保存が目的らしく、内部は貴賓室と大階段が復元されている。

中之島図書館2・3号書庫。大阪市北区中之島1-2。1992(平成4)年8月4日

 

大阪府立中之島図書館の裏側(東側)に4棟の建物が並んでいた。写真左から、事務棟、3号書庫、2号書庫、講堂・商工資料室。

2・3号書庫につては、『大阪府立図書館>中之島図書館 書庫紹介動画』で、建物の解説と各階の書架の写真を載せた5分ほどの動画が見られる。

それによると、2号書庫は、大正5年(1916)3月に増築、設計は大阪府営繕課、構造は煉瓦造、書庫棟は5階の積層構造。3号書庫は、昭和2年(1927)5月に増築、設計は大阪府営繕課、構造は鉄筋コンクリート造、書庫棟は5階の積層構造。

2・3号書庫と事務棟は、建替えのため2022(令和4)年に取り壊されて、2025年1月には新書庫がほぼ完成している。

事務棟は、1960(昭和35)年の竣工。

講堂・商工資料室は、『大阪府立中之島図書館』に、「昭和31年(1956)6月 商工資料室新館を増築、講堂と商工資料室を開設」とある建物。2004年4月に「関西大学中之島センター」が開設しているが、そのときに建て替わったものと思われる。2015年3月末閉鎖して、現在は「中之島図書館別館」となっている。

 

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Unknown (sakuzukikoyoi)
2025-08-06 17:26:46
別館旧商工資料室は建替えでは無く改修工事によるものです。蔵書が東京へ移転した後、2−3Fの閲覧室はセミナールームへ、吹抜け部分は既存不適格となっている部分にシャッターではなく、甲種防火ガラススクリーンで囲い防火区画を形成しています。事務棟にあった館長室が一連の建替えで別館に移動しています。3号館は解体の様子を見ると図面より壁が薄かった。 本館含め敷地全体の某設備は弊社関連会社が設置しています。以前は半分位でしたが新書庫を見学会で拝見したらウチのでした(笑)。

 

>sakuzukikoyoi様 (流一)
2025-08-09 10:34:12
ご教示ありがとうございます。
講堂・商工資料室を「…そのときに建て替わったものと思われる」と、推定していましたが、「…改修されて、現在は写真とは外観が少し異なる」と修正しました。

 

大阪府立中之島図書館

大阪市北区中之島1-2

1992(平成4)年8月4日

 

大阪府立中之島図書館の設計者は住友臨時建築部技師長の野口孫市で、1904(明治37)年2月竣工、石造・煉瓦造3階建。外観は、正面の階段を上った基壇上に四本のコリント式円柱、それに支えられた三角形のペディメント、その奥の建物の中央にドーム屋根がある中央ホール、という新古典主義である。 『日建設計>2-5 大阪図書館』には、「野口孫市は、西洋古典様式建築の核心を捉え、この図書館の設計にはパッラーディオ様式で取り組みました」として解説されている。16世紀にパッラーディオという人がイタリア北東部のヴィチェンツァに建てた「ヴィラ・ロトンダ」という建物を指す。欧米でそれが、「智恵の殿堂」という意味が込められた建築様式となり、図書館や大学などの「理想の原形」となっていた、という。 アメリカでもパッラーディオ様式の大学や図書館が建てられた。野口孫市はそれらを見ていて、その影響が指摘されている。

 『アメリカ建築案内』(東京大学建築学科 香山研究室編、工業調査会発行、平成元年、1980円)で、どんな物かを見てみると、コロンビア大学図書館(ニューヨーク、1897年)は規模が段違いに大きい。第4代大統領トマス・ジェファーソンが設計した「モンティチェロ」という自邸(1809年)は壁が茶色のタイルなのだろうか、古典主義の厳格さが少ないように見える。ニューポートのレッドウッド図書館(ピーター・ハリソン、1750年)が、外観が一番似ているが木造だからこぢんまりしたものらしい。

 

大阪市中央公会堂。大阪市北区中之島1。1992(平成4)年8月4日

 

近代建築が並ぶ中之島のシンボルが大阪市中央公会堂だろう。「中之島公会堂」と言われることも多いらしい。建設にあたってはコンペが行なわれ、岡田信一郎の案が採用されて、辰野片岡建築事務所が実施設計したとされる。構造は「煉瓦及び鉄筋コンクリート造3階建地下1階」、清水組の施工で1918(大正6)年の竣工。

株式仲買人岩本栄之助による100万円の寄付で建設は動き出す。1911(明治44)年のことで、同年8月に「財団法人公会堂建設事務所」が設立された。辰野金吾はその最初から建築顧問として関わっている。岡田案の採用も辰野が決めたと思う。正面の4本の大オーダーとその上の大アーチはそのまま実施されている。ネオ・バロックを基調とした壮麗なデザインだ。辰野は東京駅にみられる赤レンガと花崗岩の「辰野式」をここでも持ち出したようで、岡田のバロック的な要素をネオ・ルネッサンス風の意匠に変えたとされる。内部の細部には片岡安(かたおかやすし)のデザインが見られるという。

 

1999(平成11)年3月、耐震及び保存・復元工事が始まり、2002(平成14)年9月に完了した。同年12月に国の重要文化財に指定されている。

難波橋(なにわばし)。大阪市北区西天満、中央区北浜。1992(平成4)年8月4日

 

大川(堂島川、土佐堀川)に架かる堺筋の橋。「ライオン橋」の通称が分りやすい。仕様は、『近代建築ガイドブック[関西編]』(鹿島出版社、昭和59年、2800円)では「設計=大阪市電気鉄道部技術課、施工=大林組、建設年=1915(大正4)年、構造=鉄鋼及鉄筋コンクリート造」。

大阪市>難波橋』によると、「市電の第三期線として堺筋に架けられた。橋本体は鋼製2ヒンジアーチで、中之島公園と一体となった都市景観の創造が図られ、非常に装飾的な下部工、市章を組み込んだ高欄、華麗な照明灯、親柱上のライオン彫刻、さらに公園へ降りる広い石造りの階段など、最大限の意匠設計がなされている」とある。 現在の橋は1975(昭和50)年に架け替えられたもので、『大阪市>難波橋』では「装飾部分は旧来のものが使われており、また戦争中などに撤収された照明灯の復元、御影石による歩道の改装なども行われている」とある。そもそも橋本体の構造が鋼アーチだったものが合成桁に替えられたという。アーチ橋に見えるが、あれは外観だけの飾りなのだろうか?

水晶橋。大阪市北区西天満2-中之島1。1992(平成4)年8月4日 

 

水晶橋は堂島川の大江橋の東に架かっている歩行者専用橋。「堂島川可動堰」として1929(昭和4)年に完成した。大川、安治川は満潮時には逆流して水質が良くならないため、その流れを東・西横堀川へ導くための堰である。鉄筋コンクリート造のアーチ橋にしか見えないが、本体は堰だからその構造は鉄骨トラスではないかと思う。

建設 当時は付近に大阪市中央公会堂(現存)、大阪府立図書館(現存)、大阪市役所(大正10年、片岡安、昭和57年解体)などの近代建築が並び、その景観に相応しい外観が求められたのだろう。

堰の構造は『ウィキペディア>水晶橋』にリンクがある『土木建築工事画報』に詳しいのだが、内容が難しそうでぼくは読んでいない。 

可動堰は堂島川可動堰の他にも船場一帯に6箇所が設置され、満潮時・干潮時の時間とも関連させて運用された。可動堰の歴史と共にその辺のことが『建設コンサルタンツ協会誌>Consultanto 282号』の『おしゃれなアーチの組み合わせが美しい「水晶橋」』という記事に簡潔に載っている。 

その記事によると、戦時中は可動堰の運用は中止していたが、1955(昭和30)年に堂島川可動堰他の改修工事をして運転を再開した。1978(昭和53)年に東横堀川水門の建設に伴い、堂島川可動堰の運転は終わった。1982(昭和57)年に歩道橋としての改修工事が行なわれ、このとき「水晶橋」という名称も付いたようだ。可動堰本体が撤去されたのは2002(平成14)年のことである。

 

水晶橋。大阪市北区西天満2-中之島1。1992(平成4)年8月4日

淀屋橋。大阪市北区中之島1、2-中央区北浜3、4。1992(平成4)年8月4日

 

大阪の都市計画は、「第1次都市計画事業」が1921(大正10)年に決定し、街路や橋梁の整備を開始する。その事業の中心は御堂筋の拡幅で、大江橋と淀屋橋の架橋はそれに伴うものだ。この計画を中心になって推し進めたのが關一(せき はじめ)という人。東京なら「昭和通り」といえば後藤新平を連想するわけだが、大阪の人は、御堂筋といえば關一が思い浮かぶのだろうか?

梅田と難波を結ぶ御堂筋の幅を24間(約44m)にするというのは当時ではとんでもないことだったらしい。さらにすごいのは、同時に地下鉄を通したこと。御堂筋の開通は1937(昭和12)年5月。地下鉄はそれより早く、梅田-難波間は1935(昭和10)の開通。これによって御堂筋は大阪を代表する繁華街になった。

大江橋・淀屋橋はデザインを重視して懸賞募集したが、周囲の建物とも調和することが要求されたらしい。日本銀行大阪支店(明治36年、辰野金吾)と大阪市庁舎(大正10年、片岡安、昭和57年解体)である。1等当選した大谷龍雄の案に武田五一と元良勲が実地設計を指導した。簡単にいえば、設計=大阪市土木課、施工=大林組ということになるらしい。昭和10年4月の竣工、鉄筋コンクリート造のアーチ橋。

 

大中証券。大阪市中央区高麗橋2-6。1992(平成4)年8月4日

 

大中証券の建物は高麗橋通(写真手前左右の通り)と山休橋筋(写真右奥への通り)の交差点角に玄関を向けた赤煉瓦の建物。「大阪教育生命保険」の社屋として、1912(明治45)年に辰野片岡建築事務所の設計、施工は「直営」で建てられた。煉瓦造2階建で、レンガ壁に白い石材の横線を入れた「辰野式」の外観で、辰野金吾の設計と認識されているようだ。

大阪教育生命保険はその後、「昭和23年創業の地場証券である大中証券(その後ユニコム証券と改称後、平成14年に日本アジア証券(株)に経営統合)の本社屋となる」(思いつくまま>旧大阪教育生命保険>大中証券がこの建物に入ったのは1950年頃ではないだろうか。

2000年頃に、ビルオーナーは「シェ・ワダ」のコンペ案を採用して内部を大改装し、フレンチレストラン「シェ・ワダ高麗橋店」が開店したのが2002年。レストランは2008年に閉店、「オペラド・メーヌ高麗橋」(レストラン・結婚式場)に変わる。それも2021年には撤退して、現在は空家らしい。

 

高麗橋野村ビル

大阪市中央区高麗橋2-1

1992(平成4)年8月4日

 

安井武雄設計の建物は大阪には3棟が残っていて、大阪倶楽部(1924年)と大阪ガスビル(1933年)がまず挙げられるべきなのかもしれないが、堺筋の高麗橋野村ビル(1927年)もそれ以上に注目されているように思う。高麗橋野村ビルは外観のデザインが独特というか奇妙である。

窓と窓の間の壁がアールを持つ太い柱のようだ。各階の間の壁は前に傾いていて、上端に瓦を並べた帯が巡る。これらの壁は「モルタルの掻き落とし」だという。玄関周りの装飾がまた独特である。三日月は玄関脇の街灯。その柱は竹をモチーフにしたというがどうもそうは見えない。これら全体のデザインは安井が言う「自由様式」によるものなのだろうが、ぼくは正直に言うと少し引いてしまうところがある。

野村財閥を築いた野村徳七に任されて建てられた貸しビル。正面の幅はかなりあるが奥行きが小さいのが残念だ。施工は大林組、SRC造6階建(戦後に7階を増築)。

 

三越百貨店大阪店。大阪市中央区高麗橋1-7。1992(平成4)年8月4日

 

写真の三越百貨店が建った大正から昭和初期にかけては、堺筋が大坂で最も賑わった通りだった。高島屋、松坂屋、白木屋も堺筋に出店した。御堂筋が完成すると、繁華街はそちらに移ってしまった。堺筋はビジネス街として人出はあったが、一般の買い物客や観光客は「キタ」や「ミナミ」へ出かけてしまう。三越大阪店は最後まで頑張っていたわけだが、2005年5月に閉店した。

写真は1917(大正6)年に第1期工事で竣工した「西館」。設計は「直営」、施工は横河工務所。第2期工事で「東館」が1920(大正9)年に建つ。西館の東側、堺筋から見れば裏側にあった建物と思える。施工が竹中工務店。構造は鉄筋コンクリート造8階地下1階建。この2棟を一体化して「本館」と称したらしい。

さらにに1933(昭和8)年になって(『今はなき大坂の近代建築>三越大阪店』によと、1930(昭和5)年)横河民輔の設計、銭高組の施工で「南館(新館)」が増築された。上の写真で右端に写っている。

 

1995年の阪神淡路大震災で被災したため本館は取り壊される。三越大阪店が閉店した後、新館も取り壊された。跡地には「The Kitahama(北浜タワー)」(2009年3月築、54階建465戸)という高層マンションが建った。

 

 

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Unknown (x:sakuzukikoyoi)
2025-06-24 17:42:00
皆さんが知ってらっしゃる南館(新館)は昭和49年竣工、全面売場化昭和51年全面開業です。昭和5年は南1号館1期、南1号館2期昭和6年、南2号館昭和6-7年頃、南3号館昭和8年です。 これらを解体して建て替えたのが新館です。日本近代建築総覧の調査が入ったのは昭和48年、出版されたのが昭和51年頃ですので、調査時点で旧建物がありました。 ガイドブック等で誤ったままコピペされ続け今に至ります。

 

x:sakuzukikoyoi様 (流一)
2025-06-26 10:28:00
 
コメントの投稿、ありがとうございました。関西の記事では初めてのコメントかもしれません。
南館(新館)についての「昭和49年竣工、昭和51年全面開業」は、貴重な評言ですね。南館(新館)が建つ以前に、南1号館、南2号館、南3号館が建っていて、それらを解体して南館(新館)を建設したということですね? 外観は北側の旧館に倣ってわざわざ古く見えるようにデザインしたように見えます。
本文の「さらに1933(昭和8)年になって(『今はなき大坂の近代建築>三越大阪店』によと、1930(昭和5)年)横河民輔の設計、銭高組の施工で「南館(新館)」が増築された。上の写真で右端に写っている。」を
「上の写真で右端に写っている「南館」は、x:sakuzukikoyoi氏のコメントによると、昭和49年竣工、昭和51年全面開業。」と、訂正しました。