淀屋橋政経ビル。大阪市中央区北浜4-8
1992(平成4)年8月4日

土佐堀通の淀屋橋交差点から東へすぐのところ。この辺りは、住所は北浜でも「淀屋橋」と言われるのが一般的らしい。
写真左のビルは「日生淀屋橋ビル」。2019年には取り壊されて2022年に「日本生命淀屋橋ビル」(2022年8月築、地上25地下1階建)が建った。写真右のビルは「オリックス淀屋橋ビル」(1991年3月築、地上9階地下2階建)で、政経ビルが解体された後、オリックス淀屋橋ビルの増築部分(2006年7月築)になった。
今はなき大阪の近代建築>淀屋橋政経ビル』によると、「設計者:不祥、建築年:1935(昭和10)年頃、構造:鉄骨コンクリート造、地下1階、旧住所:大阪市東区北浜4-8」。2004年2月に火災で内部を焼失して解体されたという。


つねなりすたじお。大阪市中央区北浜2-1。1992(平成4)年8月4日

土佐堀通の北浜2交差点から東へ50mほどのところ。現在は「つねなりビル」(1997年10月築、9階地下1階建)に建て替わっている。
『近代建築ガイドブック[関西編]』(昭和59年、鹿島出版会、2800円)では「つねなりすたじお 設計・施行=不祥、建築年=大正2年(1913)頃、構造=煉瓦造2階建、所在地=東区北浜3-40」。
消えた建築>つねなりスタジオ』によれば、設計者は吉本与志雄。彼はネット検索すると「徳川美術館」(名古屋、1935年)の設計者として出てくる。また、『蔵前工業会館』(新橋、昭和6年)があった。『消えた建築』の写真では建物は左右のビルより少しバックしたところに建っていて、前のスペースに車を止めている。建物右端から煉瓦塀が突き出していて、そこに「つねなり すたじお」の厚みのある文字が貼り付けてある。


旧近畿建築会館。大阪市中央区北浜2-1。1992(平成4)年8月4日

土佐堀川の方から撮った土佐堀通に並んでいた家並みの裏側。建物は右から、日本文化会館ビル、つねなりすたじお、北浜ゲイトビル、ヒサヤ大黒堂、旧近畿建築会館、ヤマニビル(北浜ビジネス会館)。写っている3棟のビルは今もそのまま。
ヒサヤ大黒堂と旧近畿建築会館は「サンメゾン北浜ラヴィッサ」(2006年2月築、18階地下1階建31戸)というマンションに建て替わって、ヒサヤ大黒堂はその2階に本社を置いている。

旧近畿建築会館。大阪市中央区北浜2-1。
1992(平成4)年8月4日

『近代建築ガイドブック[関西編]』(昭和59年、鹿島出版会、2800円)には、「旧近畿建築会館(伊藤邸)、設計=宗建築事務所(大倉三郎)、施行=不祥、建築年=大正15年(1926)、構造=RC造3階建、所在地=東区北浜3-37」。
大倉三郎については同書の解説に「京大卒で大正12年から昭和2年まで大阪の宗兵衛の事務所に籍を置いた学究肌の建築家で、その後京大営繕課に移っているが、この間の宗事務所に新鮮な作風を吹込み、独特の温かみのある作品を数多くのこしている」としている。
建物についてはやはり同書に上の文に続いて「医師の診療所付住宅であったというが、外観はスパニッシュ風でまとめられ、内部は簡素ながら、要所に魅力的な装飾を配している。1階を入ったところの階段親柱の彫刻は、大倉の好んだモチーフのひとつ」とある。
今はなき大阪の近代建築>ヒサヤ大黒堂玄武会館』によれば、解体前にはヒサヤ大黒堂が「玄武会館」として使っていたという。2003年12月に解体され、その写真が載っていて西側側面が記録されている。

日産生命。大阪市中央区北浜2-1
1992(平成4)年8月4日

土佐堀通の北浜1交差点から西へ100mほどのところにあったビル。
『ウィキペディア>日産生命保険』には、日産生命保険相互会社は「バブル経済の崩壊の影響などにより、1997年(平成9年)4月25日に倒産。戦後初の生命保険会社の経営破綻となった」「当社の破綻を皮切りに、東邦生命保険(1999年6月破綻)、第百生命保険(2000年5月破綻)、大正生命保険 (同年8月破綻)、千代田生命保険(同年10月破綻)、協栄生命保険(同年10月破綻)、東京生命保険(2001年3月破綻)と、中堅生命保険会社7社の経営破綻が続き「生保破綻ドミノ」と呼ばれた。いわゆる「護送船団方式」と呼ばれる金融保護政策が、バブル崩壊後は銀行に続き保険業界でも崩れ去ることとなった」とある。
写真のビルは大阪支店だったと思われる。建物自体の詳細は不明。ビル中央の階段室に続く塔屋がアールデコを思わせて独特。
現在は「光世証券本社ビル」(2001年竣工)に建て替わっている。



西田三郎商店、広田商事、桂隆産業
大阪市中央区北浜1-1
1992(平成4)年8月4日

大阪証券取引所の土佐堀通に対して向かい側に、3棟の洋館が並んでいた。上の写真では、桂隆産業は街路樹の後に隠れてしまっている。『近代建築ガイドブック[関西編]』(昭和59年、鹿島出版会、2800円)では3棟がまとめて記されていて「設計・施行=不祥、建築年=明治末~大正初期、構造=煉瓦造2階建(大川側に地下室付)、所在地=東区北浜2-75」。「それぞれに個性的な衣装を凝らしながら軒を接して並ぶ証券取引業者の店舗で、濃厚な時代色を感じさせる。一番東の桂隆産業が一番垢ぬけた意匠であるが、それにしても奇抜な、あまり本格的洋風建築に見られない独特の意匠である…」と解説されている。
現在は、西田三郎商店と広田商事だったところに「エムズ北浜ビルディング」(2007年4月築、8階建)というオフィスビルが建っている。
桂隆産業の建物は健在で「北浜レトロビル」の名称に変わり、「北浜レトロ」というティーサロンになって繁盛している。『北浜レトロ>歴史』によると、「明治45年(1912年)、大林組の設計・施工によって北浜の株式関係者の集会所『株友会倶楽部』として建てられた」「第二次世界大戦後は、建築資材の専門商社「桂隆産業株式会社(平成6年倒産)」の本社社屋として利用されてきた。平成9年(1997年)、単身渡英し独力で当時のインテリア・デコレーション学んだ現オーナーの指揮のもと大規模な保存・改修工事を経て、建築当時の姿と雰囲気そのままに『北浜レトロビルヂング』として甦った」とある。

大阪証券取引所付属館
大阪市中央区北浜1-7
1992(平成4)年8月4日

大阪証券取引所市場館の後に建っていた証券取引所の事務所棟。設計・施行は市場館と同じ長谷部竹腰建築事務所・大林組で、外観も市場館に沿ったものだという(『建築と社会2013.7』大阪株式取引所)。構造は鉄骨鉄筋コンクリート、7階地下1階建。着工したのは、市場館が昭和10年4月に竣工した後の同年8月で、竣工は1937年(昭和12年)5月8日。
『ウィキペディア>大阪証券ビル本館』によると、戦後、連合国軍最高司令官総司令部が接収し、建物管理会社として設立された「平和不動産会社」が大阪証券取引所に賃借した。「1952年(昭和27年)9月6日には接収が解除され、1953年(昭和28年)4月20日より改装工事に着手されて同年7月17日完成記念の催しが行われた」とある。
付属館が建て直されて「大阪証券ビル本館」と称することになったのは2000年以降らしいが、はっきりしないらしい。


大阪証券取引所。大阪市中央区北浜1-8。1992(平成4)年8月4日

「北浜」といえば、写真の大阪証券取引所の建物が想起されるかと思う。北浜を含む地区で言うと「船場(せんば)」になる。船場は土佐堀川、東横堀川、西横堀川(埋め立て、阪神高速1号)、長堀川(埋め立て、長堀通)で囲まれた地区で、江戸期から大阪の商業の中心地だった。北浜は船場の北西にあって金融街である。住所では東西に細長く、淀屋橋の西まで入ってしまうが、北浜3,4丁目は、かつては大川町(おおかわちょう)という別の町名だったので普通に言う北浜には入らないという。

大阪証券取引所は、『近代建築ガイドブック[関西編]』(昭和59年、鹿島出版会、2800円)では「設計=長谷部竹越建築事務所、施行=大林組、建築年=昭和10年、構造=鉄筋コンクリート造6階建、所在地=東区北浜2-1(1989年2月に東区と南区が合併して中央区になった)」、解説に「住友銀行本店建設のために置かれていた住友工作部が、建物完成のため解散し、その中心であった長谷部鋭吉と竹越健三が新たに事務所を設立、その第一作となったのがこの建物である」とある。
写真の大阪証券取引所は「市場館立会場(たちあいば)」ともいい、場立ち2000人を収容する大空間に小判型の玄関ホールが付いたもの。事務所は別棟で市場館の後に建てられた。

 
左:土佐堀通側後方。右:堺筋南側

『ウィキペディア>大阪証券ビル市場館』によると、取引所機能の電算化により立会場は1999年(平成11年)7月で廃止された。建物も2000年(平成12年)3月閉館となり2001年(平成13年)10月より取り壊しに。建て直された「大阪証券取引所ビル」は2004年11月の竣工、24階地下2階建。北浜1交差点に向いたエントランスホールの半円形に柱が並ぶ外観は復元された。景観もかなり保持されたように感じる。


甚平。台東区西浅草2-11。2008(平成20)年3月2日

国際通りの、雷門1交差点北の1本西の裏通り。角のモルタル塗り看板建築は四軒長屋のようだ。戦後間もない頃の建築だろう。角の「寿司」の看板が残っている店は「吾妻寿司」。日本料理の「甚平」は、建物が解体された2015年まで営業していた。1986(昭和61)年の住宅地図では左(南)から「とん竹、あゆみ、甚平、吾妻鮨」。
写真左(南)の「ホテル幸和」は入口を和風にしている。ビジネスホテルのようではないので、ラブホテルだろうか? 2013年9月で閉店した。現在は「マンション幸和」(2017年7月築、10階建26戸)に建て替わっている。1966(昭和41)年の住宅地図では、建物は異なるだろうが「国際トルコセンター」となっていた。


甚平。台東区西浅草2-11。2008(平成20)年3月2日

 
河南(かわなみ)ビル。兵庫県神戸市中央区三宮町2。1992(平成4)年8月5日

アーケード街の三宮本通商店街のトアロードからの入口角にある店舗ビル。『大国社>河南ビル』によると、1935(昭和10)年頃の建築で、設計は原科建築事務所で施工は竹中工務店。RC造3階地下1階建。外観のデザインに凝っていて、特に丸窓と正面中央の額縁のような枠が眼を引く。アールデコを採り入れたかどうかは分らないが、当時のモダンデザインなのだろう。
看板にあるように「株式会社河南工芸社」の店舗として建てられた。河南工芸社は輸入アンティークアインテリアを販売する会社で2019年まで存続していた。その後ビルは改装されたが古いものは極力残すということで施行された。2021年に女性ファッションの「Mother’s Industry」の神戸店が開業した。


杉原産業。兵庫県神戸市中央区栄町通3-6。1992(平成4)年8月5日

栄町通りの、タワー・ロードとの栄町通4交差点のすぐ東にあった洋館。『近代建築ガイドブック[関西編]』(昭和59年、鹿島出版会、2800円)では「杉原産業株式会社(株式会社湯浅商店)、設計・施行・建築年=不祥、構造=レンガ造2階建」。レンガ造なら大正期に建てられたのかもしれない。
杉原産業(業態は不明)の建物が解体されたのは阪神淡路大震災(1995.01.17)の後である。震災文庫>栄町通3丁目の西洋建築「杉原産業ビル」で、震災直後(1月20日)の写真が見られる。特に被災したようには見えないが、使い続けるのは無理だったのかもしれない。現在は「ポートビル」(関西みらい銀行神戸支店)という5階建のビルが建っている。