沖縄ウォーゲーム会2025/4/12
2025年4月12日(土)
うるみん和室にて。
前回見学に来てくれたUさんが参戦。
「アンボンの戦い」を教えてもらう。

2024年肥後本城攻め③
2024年11月24日(日) 最終日、残念ながら西新宿鮫さんは仕事のため帰京。
人吉城(熊本県人吉市麓町)
源頼朝に仕えた遠江国相良荘国人の相良長頼は元久2年(1205年)肥後国人吉荘の地頭に任ぜられた。この地は平頼盛の家臣の矢瀬主馬佑が城を構え支配する所であった。主馬佑は長頼に反抗したため、鵜狩りと称して主馬佑を誘き寄せ謀殺した。
これを悲しんだ主馬佑の母・津賀は恨みをもって自害し、亡霊となって祟ったという。
後に三の丸には鎮魂の為に「お津賀の社」が建立された(現在は残っていない)。

長頼は主馬佑の城を拡張し人吉城の基礎を造った。築城の際、三日月型の模様の入った石が出土した。
このため、この城の別名を「繊月城」「三日月城」とも言う。
水害の修復中
戦国時代になると相良氏は球磨地方を統一する。
しかし、家督問題で内訌が生じた後の大永6年(1526年)7月14日、
日向真幸院を治める北原氏が率いた大軍(一向宗を率いていたともいわれる)により人吉城は包囲される。
相良義滋は策を用いて北原氏を追い返し事なきを得たが、
これが相良氏入城後の人吉城が他家に攻められた唯一の出来事となった。

その後、19代当主の相良義陽によって天正年間(1573年 - 1593年)より城の大改修が始められた。
途中に度々改修の中断があり、22代頼寛の寛永16年(1639年)漸く近代城郭に生まれ変わった。

戦国時代の相良氏は南の島津氏や北原氏、北の名和氏や大友氏などに絶えず脅かされよく耐えていたが
天正9年(1581年)に島津氏に降伏し臣従する。
その後、義陽の子・相良頼房は天正15年(1587年)羽柴秀吉の九州征伐の際に奮戦するもこれに降伏、
家臣・深水長智の交渉により再び独立領主として人吉城と領地を安堵された。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初は石田三成方(西軍)に付き伏見城などを攻めるが、
本戦で石田方が敗れると徳川方(東軍)に内応し戦功を挙げ、徳川家康より2万2千石の領地を安堵された。
最後は
堅志田城(熊本県下益城郡美里町中郡字城山)
<Wikipediaより>
阿蘇惟長(菊池武経)は弟の阿蘇惟豊に敗れて本拠を失い、惟長の子・惟前は大永3年(1523年)に当城に入った。
惟前は相良氏と結んでいたが天文12年(1543年)に落城し、当城は惟豊方の支配下となった。
天正10年(1582年)に島津氏が八代城まで進出した後は阿蘇領の最前線となる。

しかし、阿蘇領は一宮の神領であることから、島津義久は攻撃を躊躇い、
くじ引きを行うことで、神に攻撃してもよいかどうかを問うた。
天正11年10月5日、くじ引きによって攻撃が決定される。
だが、再び神領への攻撃に疑念を感じた島津義久が、10月17日、薩摩郡山寺にて二度目の神慮を占う。
すると白くじが出たので、攻撃を中止。

このため島津氏は押えの城として花の山城を築き、戦線は膠着した。
天正13年(1585年)に甲斐親直が死ぬと甲斐親英は花の山城を攻め、合戦が再開された。
同年に当城は攻め落とされて島津氏の番城となり、豊臣秀吉による九州征伐から肥後国人一揆の間に廃城となったとされる。
地震の被害で崩落部分が多く、行けるところまで草をこいで行ってみたが
見どころの場所には行けなかった...
熊本、人吉の復興を願いつつ、肥後城攻め、これにて終了。
2024年肥後本城攻め②
2024年11月23日(土) 2日目最初は
宇土・宇土古城(熊本県宇土市古城町、神馬町)
<Wikipediaより>
西岡台の正確な築城年代は詳らかでない。
一説には永承3年(1048年)、関白藤原頼通下向の際に築かれたという。

南北朝時代の城主であった宇土高俊は、肥後国へ下向した懐良親王を網津湊に迎え、
隈府へ送ると、自身は終始南朝方としてふるまい、北朝方阿蘇大宮司領であった隣の郡浦荘を押領するなど、
宇土半島を中心に活動した。

室町時代後半、宇土忠豊の養子として肥後国守護の菊池氏から宇土為光が入る。
その為光は文明16年(1484年)・明応8年(1499年)と守護職押領を企てるが失敗する。
文亀元年(1501年)、為光は3度守護職押領を企て、ついに成功し肥後国守護となる。
しかし文亀3年(1503年)、亡命していた菊池本家の22代菊池能運の反撃に遭い、
西岡台へ籠城するが破れ、殺害された。西岡台には菊池氏家臣の城為冬が入城するが、
永正元年(1504年)に能運が急死すると為冬は菊池へ引き上げ、空城となった西岡台には、
為光の娘婿となっていた名和顕忠が入った。名和氏はその後、約80年間にわたり西岡台の城主となる。

天正15年(1587年)に行われた豊臣秀吉の九州征伐に際し、
宇土名和氏の6代名和顕孝は当初島津氏に属していたがすぐに秀吉に降伏し、
所領を安堵されるが、同年に起きた肥後国人一揆に際しては、肥後国主に封ぜられた佐々成政へ
合力せず中立を保ったことを咎められた。
顕孝はみずから釈明すべく大坂へ赴くが、城代を任せた弟の名和顕輝が秀吉軍の開城勧告を拒否したため
討伐され改易となり、名和氏の時代は終わった。
天正16年(1588年)小西行長は、肥後国宇土郡・益城郡・八代郡あわせて17万5千石(諸説あり)を所領すると、
宇土古城の東にあった高さ約13mの城山(宇土市古城町)に城地を移し、新城を築く計画を立てた。
しかし、普請に際して天草の国人衆が助力を拒否したことから天草国人一揆が生じたため、
実際の普請開始は翌天正17年(1589年)頃からと見られている。

行長の手になる宇土城は、城郭本体だけでなく、城・武家屋敷・城下町が水堀と運河によって
一体的に結合されることで「惣構」を形成するという防御的な性格を有していたことが、
市内各所の発掘調査によって明らかになりつつある。

慶長5年(1600年)7月、上方へ出陣していた行長が西軍(石田方)に呼応すると、
加藤清正は徳川家康から8月12日付で肥後・筑後切り取り次第の御内書を取り付ける。
9月15日、清正は豊前国の黒田如水応援のため豊後国へ出陣した。
しかし、豊後戦線が如水優位になると直ちに軍を反転し、宇土城攻撃に取りかかる。

9月19日に前哨戦である石ノ瀬口の戦闘が始まると、翌20日には城下での戦闘となり、
清正が宇土へ到着した。21日には5方向からの宇土城惣攻めが開始された。
城の北側、瓢箪渕と呼ばれる大濠を舟で押しわたってきた攻め手を大筒で撃退するなど、
小西勢は奮闘するも、10月2日には三ノ丸まで抜かれ、本丸・二ノ丸の攻防戦に入った。
10月13日、城代小西隼人は宇土城開城に合意し、翌14日に戦闘は終結した。
隼人は城内で切腹したとも、隈本城下へ移され謀殺されたとも伝わり消息は判然としないが、

戦後、清正は宇土城を自身の隠居城と定め、おもに主曲輪の改修を行ったが[10]、行長時代の遺構を埋めつぶした上に清正時代の遺構が作られていたことが本丸における発掘調査によって確認されており、かなり大がかりな工事を行なったであろうことが窺える。その後、清正が慶長16年(1611年)に死去すると、翌慶長17年(1612年)、宇土城は水俣城・矢部城とともに破却された。
続いては
八代城(熊本県八代市松江城町)
<Wikipediaより>
宇土城主となって古麓城を廃した小西行長は、家臣の小西行重に命じて球磨川の三角州に
総石垣造りの麦島城を築城させた。麦島の地は北西側が大きな入江となっており、
後に開削された前川によって中洲となった。平城の中でも水城(みずじろ)と呼ばれる
水運・水利を最大限に活用した特異な城で、船で直接海からも出入りできたと考えられている。
豊臣秀吉の直轄地とされ貿易港徳渕津が近くにあって、海上交通の要所であった。
天正20年(1592年)6月、文禄の役の間隙を縫って梅北一揆が麦島城に攻め寄せたが撃退している。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに敗れた行長が刑死し、小西家は改易となった。
球磨郡・天草郡を除く肥後52万石を与えられた熊本城主加藤清正は、重臣加藤正方(片岡正方)を
城代として麦島城に入れた。元和の一国一城令によって熊本藩内の南関城・内牧城・佐敷城などが取り壊されても、
麦島城は例外的に存続が認められていたが、元和5年(1619年)の大地震のために倒壊し廃城となった。
麦島城時代に認められた一国二城体制は継続されたことは、一国一城令(1615年)の中では
全国的にも異例のことであった。熊本藩内に2つの城(熊本城、八代城)の存在が許された理由は、
南の大藩・薩摩藩および隣藩・人吉藩への備えとしてというのが通説であるが、
島原の乱の舞台となった天草のキリシタン弾圧の備えまたは小西時代に増えた領内のキリシタンへの備え
としてだとか、またこの時期にしばしば現れた異国船への備えとしてだとか
あるいは秀吉恩顧である加藤藩の財政を逼迫させるためだとか、その他に諸説もある。
いずれにしろ幕府が特例を認めなければ現在の八代城は存在しなかった。
2日目最後は
佐敷城(熊本県葦北郡芦北町大字佐敷字下町(城山公園))
<Wikipediaより>
佐敷城の名は在地の豪族である佐敷氏が拠る城として南北朝時代から歴史書に登場するが、
その所在地は今日の佐敷城址ではなく、その東に位置する「東の城」が中世の佐敷城であったという説が有力である。
この中世佐敷城を巡って八代を本拠とする名和氏と球磨から勢力を伸ばした相良氏との間で
争奪が繰り返されたが、1459年(長禄3年)肥後守護である菊池為邦により相良氏の葦北領有が公認される。


1581年(天正9年)、島津義久は相良義陽と水俣で戦ってこれを降し、葦北郡を割譲させて
家臣の宮原景種を佐敷城代とする。
次いで八代郡も併合した島津氏は肥後へ進出する道が開け、以後盛んに九州各地を経略したが、
1587年(天正15年)に豊臣秀吉の九州征伐を受けたことにより、肥後の諸城を放棄して撤退を余儀なくされた。

豊臣政権の下で肥後の領主に任じられた佐々成政の統治は国人一揆によって短期に終わり、
1588年(天正16年)葦北郡は肥後北部の半国を拝領した加藤清正の飛び領地となる。
加藤清正は花岡山に石垣を巡らした近世の佐敷城を築き上げ、加藤重次を城代として置いた。
1592年(文禄元年)6月、城代の加藤重次が文禄の役に従軍して不在であることに乗じて
島津歳久の家臣である梅北国兼が佐敷城を占拠したが、井上吉弘など留守役の働きで梅北国兼は討ち取られ、
佐敷城は奪還された(梅北一揆)。

朝鮮の役から帰国した加藤氏は島津氏への押さえとして佐敷城のさらなる普請を行うが、
はたして1600年(慶長5年)に関ヶ原の戦いが起こると、西軍方の小西氏と島津氏に挟まれた葦北郡は孤立し、
佐敷城は島津忠長の軍によって包囲される。
加藤重次は、関ヶ原における西軍敗北の報が伝わり島津軍が兵を引くまでの約一ヵ月間佐敷城を守りきった。
その後も佐敷城の増改築は続けられたが、1615年(元和元年)に一国一城令が布告され、
佐敷城は石垣を崩されて廃城となった。天守は熊本城内へ移設されたという。
2泊目の宿は
湯浦温泉 亀井荘(熊本県芦北郡芦北町湯浦66)
過去最高の魚の美味さ!鯛に太刀魚
初めて食した「まて貝」(左端の細長いやつ)
つづく




































