『下手の横好き』 -2ページ目

2024年肥後本城攻め①

2024年11月22日(金) 熊本地震で延期していた肥後城攻めを敢行。

熊本城(熊本県熊本市中央区本丸)

<Wikipediaより>

室町時代の文明年間(1469年 - 1487年)に肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城(ちばじょう、現在の千葉城町)を

築いたのが始まりである。

 

地震の傷跡が痛々しい。

その後、出田氏の力が衰え、大永・享禄年間(1521年 - 1531年)に菊池氏は代わりに

託麻・飽田・山本・玉名4郡に所領を持つ鹿子木親員(寂心)に隈本城(くまもとじょう、現在の古城町)を

築かせて入れた。

寂心は藤崎八旛宮の遷宮を行い、1529年(享禄2年)に後奈良天皇の綸旨

1542年(天文11年)には勅額の下賜を得ている。

1550年(天文19年)、豊後守護大友義鑑が家臣の謀反により殺されると、義鑑の弟で菊池氏を嗣ぎ

かつ義鑑と敵対していた守護菊池義武が隈本城に入り、寂心の孫・鹿子木鎮有はこれを迎え入れた。

しかし、義鑑の子・大友義鎮により追われ、以後は大友氏に協力した城親冬が居城とした。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州平定に際し、薩摩の島津氏に属していた親冬の孫・城久基は城を明け渡して

筑後国に移った。

秀吉の御伽衆・大村由己の『九州御動座記』には「此所は肥後の府中なり、城十郎太郎(久基)と云者相踏候

数年相拵たる名城なり」と記す。

また、秀吉が一柳直末に送った朱印状の中で「肥後は然るべき国に候間、羽柴陸奥守(佐々成政)おかせられ候

熊本名城に候間、居城として御普請仰せ付けられ候」と述べている。

 

補修のため、コンクリートで固められている部分がある。

新たに肥後の領主となり隈本城に入った佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を強行し

肥後国人一揆を引き起こす。

この時、隈本城は国人衆による猛攻を受けたが、城代の神保氏張が死守して落城は免れている。

1588年(天正16年)、成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥後北半国19万5,000石の領主となり隈本城に入った。

 

壁が剥がれ落ちている。

1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が

肥後54万石の領主となり熊本城に入った。

この時、忠利は天守に上り清正を祀る廟所がある本妙寺の方角に向かって遙拝したと伝えられる。

忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以後、歴代藩主はここを日常の居所とした。

加藤家の治世末期には、藩財政の疲弊や御家騒動により、城の修理もままならない状況であった。

細川家が肥後入部時には、熊本城は現在の本丸周辺のみ整備されていて二の丸の一部と三の丸の大半は未開発であった。 

このため細川忠利は入部後、直ちに熊本城の修繕を江戸幕府に申し出ている。

この修繕は建築物の修理に留まらず、本丸の増築(二様の石垣に跡が見られる)・二の丸の整備にもおよんで居る。

更に上級家臣の下屋敷地や中級家臣用地として順次、現・三の丸や壺川地域(江戸時代中期まで三の丸扱いされていた)

の開発が進められ、最後に西端の段山(現在の段山町周辺)の郭が完成したのは明治維新まで30年を切った天保年間である。

この時点で城内の櫓は焼失した森本櫓・硫黄櫓を除き62を数えていた。

熊本城は細川氏の治世下で江戸時代を通じて拡張され続けていた。

 

細川忠興以降、この兜好きやなぁ。

 

 

清正公、ありがとう。

 

夕食は馬刺し郷土居酒屋 一(HAJIME) 

 

そのあと、桂花ラーメン本店へ

ラーメンとチャーハン

 

1泊目は城のすぐ近く

天然温泉 六花の湯 ドーミーイン熊本(熊本県熊本市中央区本丸)

 

つづく

2024年播磨プチ城攻め②

2024年2月11日(日)

尼子勝久終焉の地へ

上月城(兵庫県佐用郡佐用町上月)

説明は、下記の写真を参照。

 

登城口に史料館があり、管理人さんが我々を上月氏か尼子氏の末裔と勘違いして

すごく親切に接してくれた。

 

あれが多治見家です(違う)

 

 

お次は

龍野城・鶏籠山城(兵庫県たつの市龍野町上霞城)

<Wikipediaより>

明応8年(1499年)に塩屋城の龍野赤松氏・赤松村秀が龍野に鶏籠山城を築いた。

以後は政秀、広貞、広秀と続いたが、天正5年(1577年)に開城して赤松氏から豊臣秀吉の手に渡り

播磨平定後、姫路城を本拠として整備した秀吉は新たに蜂須賀正勝を置いた。

江戸時代の万治元年(1658年)に京極高和の丸亀移転の際に破却されたが

寛文12年(1672年)に脇坂安政によって龍野城が再建された。

 

本丸御殿

 

古城(鶏籠山城)へ

前回は千葉の攻城で鎖骨付近を負傷しているとき

今回は痛風で足に激痛でかなり厳しいことになった。

 

最後は

明石城(兵庫県明石市明石公園)

<Wikipediaより>

1617年(元和3年)信濃松本藩主より明石藩主となった小笠原忠真は

明石城の西方、明石川河口西岸にあった船上城に入城した。

譜代大名たる小笠原氏10万石の居城として城郭を建設するよう、同年に第2代・将軍徳川秀忠より築城命令された。

小笠原忠真は、1632年(寛永9年)豊前小倉藩(小倉城)に転封となった。

翌1633年(寛永10年)信濃松本藩より 松平庸直(戸田氏)が7万石で入城したが

急死したため松平光重が城主となった。

しかしその松平光重も1639年(寛永16年) が美濃加納藩(加納城)に転封となると

大久保忠職が7万石で入城したが、1649年(慶安2年)のわずか10年間で肥前唐津藩(唐津城)に転封する。

その後、丹波篠山藩より松平忠国が7万石で入城、その子・松平信之と共に名君として知られ

林崎掘割の用水路や一里塚の設置、海岸の防風林の造成、そして多くの新田の開発に努めた。

文化人でもあったらしく城内十景を選んでこの時に「喜春城」の名を付けた。

しかしその松平信之も、1679年(延宝7年)大和郡山藩(郡山城 (大和国))に転封となると

代わりに郡山城にいた本多政利が6万石で入城する。

しかし、領内を収める事ができず1682年(天和2年) 僅か3年後、苛政を責められ

陸奥岩瀬藩に1万石に減知転封となり、その後改易になった。

僅か50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わったが、本多氏転封の後、越前家の松平直明が6万石で入城し

以後明治維新まで10代、189年間親藩として松平氏の居城となった。

各城の遺材を集めて築城したせいか、老朽化が早く第2代藩主松平直常の1739年(元文4年)には大修築が行われた。

最後の明石城主は松平直致で、1874年(明治7年) 廃城令により廃城となる。

 

出張で何度も明石駅は通っていたが、ガッツリ見たのは初でした。

 

播磨プチ城攻め、終了。

2024年播磨プチ城攻め①

2024年2月10日(土) 播磨城攻め

平井山ノ上付城(秀吉本陣)(兵庫県三木市平井)

<三木市HPより>

三木合戦の際、羽柴秀吉が本陣とした付城である。

美嚢川と志染川の間の南西に面した山上に位置し、南西に三木城を望むことができる。
天正6年(1578)7月、織田信長の長男、信忠が三木城を支援する神吉城や志方城(ともに加古川市)を

攻略した後、築城したとされている。

8月に羽柴秀吉が入ると、10月15日に津田宗及を招いて茶会を開催した。

同22日に別所方が襲来して合戦が繰り広げられたが、別所長治の弟別所治定らが討死する等、別所方の敗北に終っている。

 

付城というには大規模な山城。

 

 

空堀

 

三木合戦の中心

三木城(兵庫県三木市上の丸町)

<Wikipediaより>

三木城の築城時期に関しては諸説あってはっきりしない。

そもそも君ヶ峰城が三木城の初見で、後に現在の地に移築されたのではないか、という説もある。

三木戦史「明応元年(1492年)九月三木ノ釜山城ヲ築キテ之二拠リ」とあるので

この地に三木城が築かれたのは、この明応元年前後ではないかと推定される。


この地に城を築いたのは別所則治で、突然歴史上に登場する。文明15年(1483年)冬、播磨守護赤松政則が山名政豊に大敗し堺に逃亡した。翌文明16年(1484年)2月に政則が家臣団により家督を廃されたが、別所則治は政則を擁して上京し、室町幕府大御所足利義政の助力を得て家督を復活させた。それ以来則治は数々の武功を挙げ政則より8郡が与えられ、その地域に三木城を築城し、別所氏は赤松氏家臣団の中で浦上氏に次ぐ実力者となったようである。

 

遺構は少ない。

 

1度来たことがあるのに、位置関係を完全に忘れていた...

 

 

 

初日最後は

赤穂城(赤穂市上仮屋)

到着が遅くなり展示等は見れなかった...

 

<Wikipediaより>

赤穂城の前身となる城郭は、池田長政が慶長5年(1600年)に築城したと伝わり

後世に「掻上城」(かきあげじょう)と呼ばれた。

これは絵図や発掘調査から、遺構が現存する後世の赤穂城本丸と

二之丸とほぼ同じ位置に存在したことが明らかになっている。

その後も池田家に赤穂郡代として仕えた垂水半左衛門勝重や、赤穂藩主となった池田政綱

池田輝興によって改修がなされたものの、簡略な城郭であったとされる。

赤穂城は1661年(寛文元年)に完成し、やがて3代浅野長矩の弟・長広に播磨国赤穂郡の新田3000石を分与

旗本の寄合に列するのは1694年(元禄7年)である。

長矩が勅使饗応役に任ぜられ、1701年(元禄14年)に江戸城中で吉良義央に斬りつけて刃傷事件を起こすと

浅野氏は改易となる。

城の明け渡しが行なわれるが、これに際して幕府へ赤穂城内の備品・武具の数が報告された。

赤穂藩5万石において、長槍50本、火縄銃50丁とその銃弾2000発、弓500張とその矢2000本

足軽用具足100領、門番用具足200領が記録されている。

江戸時代の城にどれほどの武具の蓄えがあったのかを知る事ができる数少ない例である。

翌元禄15年、家臣による吉良邸討ち入りが起こった(元禄赤穂事件)。

浅野氏家臣から赤穂城を預かった隣国の播磨龍野藩主・脇坂安照もまた在番中に

家老・脇坂民部の目代が刃傷事件を起こし、6月24日、赤穂城内で死傷者を出す(脇坂赤穂事件)。

また、城下の町人(主に子供)が水堀で釣りをしたり、百姓たちが二の丸の蔵米を奪おうとしたり

多数の領民が暴れて建物や石垣を壊したりした(三の丸で清水門が破損したと記される)。

民部はこれらを取り締まると共に米合計3036俵を城から移転した。

龍野に在国中の安照が幕府に城の破損状況を報告している。

幕閣の命で代官が派遣され、建物壁の落書消しや石垣修復が行なわれた。

そのほか城には多数の犬が居た記録が残る。

翌1702年(元禄15年)に永井直敬が3万3000石で入封した。 1706年(宝永3年)に当代の直敬は信濃国飯山藩へ転封となると、森長直が備中国西江原藩より2万石で入部。この森家は廃藩置県までの12代165年間、赤穂藩主として最も長く在封することになる。

 

宿は

いこいの宿 赤穂ハイツ(赤穂市尾崎2470-64)

 

つづく