2023年周防・長門本城攻め③
最終日
2023年11月25日(土)
萩城(萩市堀内)
<Wikipediaより>
戦国時代、指月山に津和野城主・吉見氏が出城を構え、のちに吉見正頼の隠棲所となった。
関ヶ原の戦いに西軍の総大将に就いたことにより、周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が
広島城に代わる新たな居城として、慶長9年(1604年)に築いた城。
完工は慶長13年(1608年)だが、築城者である毛利輝元は、慶長9年12月に未完成のまま入城していた。
石碑では指月城となっている。

指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と山頂にある山城(詰丸)で構成されている。
本丸の御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点であったが
明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共に破却され
石垣や堀(水堀)のみが現存している。
現存していた頃の姿は解体前に撮影された古写真で見ることができる。
さらには、破却された天守など建物の木造復元を行う動きもあるが、財源の問題で難しくなっている。
この土塁部分は吉見氏時代のものなのか?違うな
こちらの石碑は萩城。
高石垣の上から。
♬有馬兵衛の向陽閣へ(紅葉違いじゃが仕方がない)
海に出た
最後は
若山城(周南市福川)
<Wikipediaより>
14世紀中頃 陶弘政(陶氏2代)が吉敷郡陶村より都濃郡富田保に移った。
陶氏が富田保に入部したのは、同郡鷲頭庄(現・下松市)を拠点としていた大内氏庶流の
鷲頭氏への対抗とされており、若山城の築城はこの際に行われたとの説もある。

文明2年(1470年)、応仁の乱で大内政弘が西軍の将として京に出陣中
政弘の伯父である大内教幸が東軍に通じ反乱を起こした(道頓の乱)。
吉見氏など石見の国人もこの乱に呼応したため、大内領国の守りに就いていた陶弘護(陶氏7代)は
防備のため若山城を築いた。
陶弘護は大内教幸を破り反乱を鎮圧するが、後年宴の席で吉見信頼に刺殺された。

天文19年(1550年)に主君大内義隆と対立した陶隆房(陶晴賢)が、謀叛に備え城の修築を行った。
翌年、陶隆房が若山城にて挙兵した。
山口を襲って義隆を自害に追い込んだのち(大寧寺の変)、大友晴英(義隆の甥)を
豊後国から迎え大内義長として擁立、自身は晴賢と名を改め大内氏の実権を握った。
空堀をのぞき込む。高低差を上手く撮るのはいつまでたっても難しい。

天文24年(1555年)、安芸国へ軍を進めた陶晴賢が厳島の戦いで毛利元就に大敗し自害。
若山城を守る晴賢の子長房は晴賢に遺恨のあった杉重輔とその手勢200余人に急襲され
三の郭を占拠された。
長房は城を脱出したが追撃され自刃(長房の死はほかに1556年・1557年など諸説あり)した。
本丸から夜市川と瀬戸内海の黒髪島が一望。
はい。承知いたしました。
終了。
2023年周防・長門本城攻め②
2023年11月24日(金)
大内氏館(山口市大殿大路)
<Wikipediaより>
大内氏24代当主の大内弘世が、山口を本拠と定め移り住んだ時に築かれた居館で
京都を模した山口の街に似つかわしく城ではなく館として建てられた。
そのため、詰の城として背後に高嶺城がある。


最盛期の館は堀を含めると東西160m・南北170m以上の規模を誇る方形の居館で
京都の将軍邸を模しているとも言われる。
初期は、館は溝と塀で囲まれている程度だったが、15世紀中頃には空堀と土塁による
ある程度の防御力を備えた城館になった。
堀はさらに南側にも伸びていることから、土塁で囲まれた部分よりさらに南にも関連する施設があったと推定されている。


館のすぐ北側には別邸として築山館(築山御殿)が築かれており、大内氏館は住居として
築山館は迎賓館的な役割の場として使われていたと思われる。
また、館の南東部には大きな池を持った庭園があり、北西部には枯山水の庭園
現在の龍福寺の南東でも詳細不明の庭園が存在していた。
大内義興馬上像
そして、その子義隆で事実上滅亡...
義隆辞世の句「討つ人も討るゝ人も諸共に如露亦如電応作如是観」
次の高嶺城に向かう途中、麿さんが山口市歴史民俗資料館に行きたいと言い出した。
皆、「どうせ土器とか農具とかしかないから...」と渋る中、訪問してみると
企画展「吉敷毛利家の軌跡ー郷土史料の新・再発見ー」が開催中。
プチに引き続き、小早川秀包に~出会った~(下条アトム風)
2種類の小早川(毛利)秀包肖像画
違いの説明
早世したけど家が残って良かった。
金吾も載ってるよ。
高嶺城(山口市上宇野令字高嶺)
<Wikipediaより>
高嶺城の築城を始めたのは、周防国・長門国を本拠とした戦国大名大内氏最後の当主、大内義長である。
鳥獣は保護しても、大内氏は保護されなかった...

大内義長は、天文20年(1551年)の大寧寺の変の後に陶隆房(のち晴賢)らに
迎えられて当主となったが、天文24年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢が敗れて自害し
大内氏の主力も壊滅的な被害を受けた。
これに乗じて攻勢を加える石見国の吉見正頼や安芸国の毛利元就に備えるべく
高嶺城は弘治2年(1556年)より築城が開始された。

しかし、毛利氏による攻勢(防長経略)は予想以上に早く、弘治3年(1557年)に毛利氏が山口に侵攻した際には、大内義長は未完成のままの高嶺城に拠らざるを得なくなる。結局、大内義長や重臣の内藤隆世はこの城を放棄して長門国の且山城へと逃れ、その地で自害することとなる。
破城の跡か。
比較的状態の良い石垣もある。
この日最後は、この城攻めツアー最大の難所
荒滝山城(宇部市大字東吉部字荒滝)
<Wikipediaより>
築城の時期は不明だが、戦国時代に大内氏・毛利氏の重臣内藤隆春が居城としていた記録が『注進案』に残る
(出土品も16世紀半ば〜後半のもの)。一説には天文年間(1532年〜1555年)に築いたとされる。
ざっくり過ぎる案内図、入賞まちがいなし。

弘治4年6月28日(1558年7月23日)の『岩武十左衛門家文書』の記録では、内藤家臣の岩武実秀が城番となる。
さらに1600年(慶長5年)頃までには益田元祥が城主となった。
益田元祥の首級ではありません。

江戸時代に入って廃城となるが、『注進案』によると跡地の山頂が狼煙場として使われたとされる。
1994年(平成6年)に当時の楠町指定文化財(史跡)となる。
2004年(平成16年)の市町村合併以後は宇部市指定文化財(史跡)となった。
2005年(平成17年)までに行われた発掘調査により、虎口・石積み・石段などが確認された。
2008年(平成20年)1月11日には山口県指定史跡となった。
絶景なのは良いが、遺構らしき遺構がなく、登り口が悪かったのか?。
久々に、ただの登山気分の城攻め。
頂上には明治大帝の像が建っている。
二日目の宿は一気に萩まで移動。
萩温泉郷 源泉の宿・萩本陣(萩市椿東385-8)
つづく
2023年周防・長門本城攻め①
2023年11月23日(木)周防・長門へ向かう。
岩国城(岩国市横山3)
<Wikipediaより>
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元は領地を大幅に削減され、広島城から萩城に移封となった。
同時に一族であり毛利家存続に注力(結果的に毛利家は領土を大幅に削減された)した吉川広家も
同時に米子城から当地に3万石で封じられた。

慶長5年10月には家臣団が、慶長6年(1601年)には広家がこの地に赴任した。
広家赴任と同時に岩国城の築城が開始された。
麓に平時の居館となる「土居」と、戦時の城「横山城」が横山山上に築かれた。
築城には8年の歳月が費やされ、まず翌慶長7年(1602年)に土居が完成した。
土居完成とほぼ同時期に横山城の築城が開始され、慶長13年(1608年)に竣工した。
本丸には4重6階の唐造りの天守が建造された。

しかし、完成からわずか7年後の元和元年(1615年)に幕府の一国一城令により横山城が破却され廃城となった。
これは、周防国にはこの岩国城のみが存在していたが、長府藩の毛利秀元が居城の櫛崎城を破却したことに
合わせざるを得なかったことによる。
その後、麓の土居は岩国領の陣屋として、また慶応4年の立藩後はその陣屋として、明治維新まで存続した。
岩国領は本藩である長州藩より長期にわたって独立した支藩として認められず、陪臣として扱われた。
これは、関ヶ原の合戦時に吉川家のとった行動が、毛利家中で評価されなかったことと深く関わりがあるとする説があるが
実際には長府藩や徳山藩が長州藩主の子孫による分家として宗家継承権を有していたが、吉川家にはそれがなかった
などの事情があったとされている。
当藩は明治維新の年、慶応4年(1868年)にようやく独立の藩として認められ諸侯に列したが
明治4年(1871年)には廃藩置県によって廃藩とされたため、正式に独立した藩の藩庁として機能した時期はわずかだった。
刀剣が豊富な展示
これは!空弁当
天守から錦帯橋を望む
これは破却された横山城か?
南宮山から駆け下る吉川広家の想像像...ではありません。
宿に向かう途中に寄り道をする。
「獺祭」の蔵元。
初日の宿は
湯田温泉 防長苑(山口市熊野町4-29)
つづく




























































