国道11号を車で走り、西条市氷見から逸れて石鎚登山ロープウエイ方面に行く道をどんどん上がって行くと、前方に大きな鳥居が道をまたぐようにしてたっている。そこをくぐり抜け行くと丁字路で、県道12号に合流。右に曲がり石鎚登山ロープウエイ乗り場方面へ。石鎚登山ロープウエイ乗り場前を通り越し数分で、路線バスの終点、西之川の停留所に着く。
閉店してからもう何十年になるだろうか、バスの切符やみあげものなど売っていた藤原商店の建物が残る。
運転免許証をまだ持ってなかったころは、ここまでバスで来て、西之川や東之川の登山口から瓶ヶ森に何度も登った。
藤原店跡の橫に、鉄筋コンクリート製の大宮橋がある。
ちょっと離れて橋下を橫側から見ればよくわかるが、しゃれたデザインを施していて豪華に見える。
その橋を渡り、30分ほど歩くと東之川集落跡に着く。
東之川からは、瓶ヶ森に行く登山道がある。
瓶ヶ森に初めて登ったときは、東之川の登山口から行き、県営ヒュッテ(当時幾島氏管理)に宿泊したことを覚えている。
西之川からも瓶に行く道がある。
このルートは、最後の登り坂となる高低差500㍍ほどが急坂でしんどいが、登りきると近くに瓶壺があり、おいしい水が飲めるし宿泊できる白石小屋もある。
瓶壺のおいしい水を飲みたいがため、西之川から登ることが多かった。
土木学会選奨 大宮橋を渡り東之川集落へ
昭和2年完成の大宮橋は、鉄筋コンクリート製の開腹式上路アーチ橋で、アーチリブと道路床版をつなぐ支柱上部の装飾や、支柱間のアーチなどが美しい橋であることから、2005年に土木学会選奨土木遺産に認定されている。
こんな山間になぜ手の込んだ豪華な橋を造ったのだろうか、と思った時期があったが、いきさつを知り疑問は晴れた。
当初は愛媛の西条側から高知に抜ける道は、大保木村西之川から大宮橋を通り東之川へ、さらにそこから高知まで抜ける計画だったようだ。
しかしながら、加茂村を通り高知に行く道路を建設してほしい、という要請が加茂村からもあり、双方で誘致合戦が繰り広げられた。
政治力学や諸事情がからみあった結果なのだろう。愛媛の西条と高知を繋ぐ道路は、加茂村を通り寒風山トンネルを抜けていく国道194号のルートに最終的に決まった。
もし、西条と高知を結ぶ国道194号線がこの大宮橋を通って高知県に向かって開通していれば、この橋はもっと大きな役割を果たすはずだった。
大宮橋は2005年に土木学会選奨土木遺産に認定された、というプレートが橋の手前にある。
大宮橋を越えたらすぐ左側に元大宮小学校の校舎の一部と運動場が見えてくる。(2012.3撮影)
この学校跡は
昭和10年に高宮、東之川、西之川尋常小学校の3校が統合して開校
昭和22年に高宮小学校となり
昭和49年に高嶺小学校高宮分校となる
昭和55年3月に閉校となった。
高嶺小学校高宮分校校庭跡
(今は付け替え道路が運動場を横切っている)
小学校の道を隔てた向こう側に西之川の氏神 大宮神社がある。
2012年9月4日 西之川から東之川へ通じる唯一の車道は、大規模ながけくずれのため通行不能となった。
曲がり角あたりから向こうが、大規模な崩落現場となっている。
幅100m、長さ150m、斜面勾配35°の大規模な崩壊。
崩壊したと聞いて現場に行った。
あまりにも崩落規模が大きく、道路の付け替え工事の方が賢明と判断したようだ。
谷川に新たな橋など建設し付け替え工事が始まるが、再び車で通れるまでに約3年の長い年月を要した。
大規模な山の斜面崩壊で約3年間車の通行が出来ず、東之川に住み続けてきた最後の夫婦はついに町に下りた。
石鎚登山ロープウエイのゴンドラから見下ろす。
谷筋を東之川へ行く車道を塞ぐ大規模な崩落現場。
西之川から東之川に行く途中、谷川下方を見ると赤橋が見える。
谷に架かる赤橋を渡たり上がっていくと神社が見えはじめた。
東之川の氏神、高智八幡神社。
東之川の高智八幡人神社の春祭り。
東之川に住む人はいなくなったが、神社の祭りの日はおおぜいの人たちが集う。
高智八幡神社境内に祀ってあるお稲荷さん。
元々は、東之川のおたるの滝の上に祀ってあったが
大正時代に高智八幡神社境内に移し祀っているという。
神社拝殿横にあるお稲荷さん。
高智八幡神社にある、石を積み上げた趣のある石灯籠。
高智八幡神社からさらに奥へと行くと、家が見えてきた。
このあたりが東之川集落だ。
さらに川に沿ってある道を上がって行くと、寺川代吉翁の大きな頌徳碑が目に入る。「おたるの滝」へ行く道標も近くにある。
寺川代吉氏は永年にわたり村会議員を勤め、東之川の道路拡張やバス路線開通に尽力するなど多くの業績を残した人で、その功績を讃え碑を建立している。
東之川まで車道もなかった昭和の初期まで、東之川の人たちは標高約950㍍もある前田峠を越え、中奥にあった尋常小学校や千野々へと続く長い道のりを往来したという。
林業や鉱業で賑わった時期は、村外から東之川や西之川に多くの人たちが集まってきたという。
両集落は急峻な山肌に挟まれた地で、平坦な地は少なく、村内の耕作出来る面積は人口の割に狭すぎた。
自給自足があたりまえの時代、村内の収穫量だけでは賄いきれなかった。
そのため東之川や西之川の人たちの中には、標高1400㍍ほどもある県境のシラサ峠を越え、高知県寺川地方の「にのわれ」というところまで行き、焼き畑耕作をして食料や換金出来る農産物を作ったという。
そんなおうちが、多い時期は三十軒ほどあったという。
西之川や東之川からはるばる峠を越えての出作りは戦後まで続いたという。
西之川に住んだI氏は、幼いころ親に連れられハト谷の険しい道を歩き、シラサ峠を越え高知寺川の白猪谷近くにある「にのわれ」というところに行ったことがあるという。
シラサ峠を越え耕作地に着くのに3時間余りかかった、と話してくれた。
農耕が多忙な時期は、寺川の白猪谷あたりに建てた小屋で寝泊し、収穫した農産物なども仮置きしたいう。
藩政時代、土佐の寺川地方あたりには原生林が豊富にあり、その良材を求め、西条藩や松山藩あたりから峠などを越えて来て盗伐を頻繁にくり返したという。
盗伐を取り締まる側との間でトラブルが多発し、死者が出る事件もあった。盗伐などを取り締まる土佐藩の役人、松本直吉はあるとき盗伐者に襲われ殺されてしまった。
その役人を祀る墓が今も寺川に残っている。
寺川に残る武士 松本直吉の墓
昭和の34年頃、東之川まで来る路線バスが、村人たちの多額の寄付や土地提供などの援助で開通している。
寄付金でバスの車庫や道路幅延長工事などもおこなっているようだ。
寺川代吉翁の頌徳碑前を通り、道を少し上がって行くと左側に畑がある。
崩落が起きるまで東之川におられた方の畑だ。(2012年の斜面崩壊前に撮影)
畑のすぐ上に、最後まで住んでおられた人の家がある。
道を挟んだ前には、住友共電の水力発電用の取水口がある。
ここで取水した水は、山中を貫いたトンネルで大保木の千野々の発電所まで送られている。
それを維持管理するための事務所兼社宅のような建物があるが、かなり前から無人のようだ。
草が一面に生えている。
以前、このあたりが東之川のバス停でバスの車庫もあったと記憶している。
林道の右側にある建物は住友共電の建物。
これから奥に行く林道は、途中で行き止まりになっている。
畑
東之川にある水車小屋。
土砂が小屋内に流れ込んでいて、もう機能していない。
東之川ではもう一カ所、おたるの滝近くにあるが朽ちていた。
石段道がある。
瓶ヶ森から石鎚山へ行く2泊3日の縦走登山合宿に参加し、初めて石鎚山頂に立ったのは16歳のとき。その時はこの石段道を上がって行った。
ここは、記念すべき石鎚山系初登山の登り口。
初登山で東之川に来たときは、多くの人たちが暮らし、子供たちの元気な声も聞こえた。
従兄弟に借りたリュックを背負い、梅雨明けのきつい日射しを浴び、汗を流しながら登った。
見るからに硬くて重そうな石を、上手に積んだ足下の石段が珍しくて、しばらく見ながら登っていったことを覚えている。
この道は途中が崩落し、もう何十年も前から通行不能だ。
今は駐車場前に架かる鉄製の橋を渡って瓶に行く。
何軒かの民家が残っている。
レンガで造られた風呂の焚き口。
昔は雑木や薪で風呂を沸かしていた。
忘れかけていた懐かしい光景だ。
飯を炊く釜と蓋だ。
小学生の頃、五人家族のご飯を炊いていた釜はこのくらいの大きさはあった?と思う。
吹き上がっても蓋が浮き上がらないようにか、蓋は重しのように重かったことを覚えている。
さらに上って行くと、高く積み上げられた石垣群が広がる。
石垣の上は平坦で、元は畑や家があったのだろうか。
それとも、鉱山事務所や社宅があったのだろうか。
今は一面植林された木々が覆っている。
頑丈そうな石段道や排水路を東之川ではいくつも見る。
緻密に設計し、プロの石工が石段道や石垣などを築いたのだろう。造形が美しく頑丈な石垣群が並ぶ集落だ。
東之川にはかつて三菱系の鉱山があり、林業も盛んで映画館もあるなど、賑わいをみせた時代があった。と村出身の複数の古老たちから聞いた。
この石垣群は鉱山関係者が関わり造ったかもしれない。
「おたるの滝」がある方に行ってみる。
途中の谷川沿いの岸は大小様々な石を組み込んで護岸工事が施されている。
おたるの滝
昔、正月に石鎚の成就社に初詣 (その当時、 本殿は火災により焼失、丁度再建工事中) の帰り、この滝を見に来たのを覚えている。
当時は滝が見やすいようにと、谷の縁をコンクリートで平らに固めた簡単な展望台があったが、後の豪雨で流されてしまったようだ。おたるの滝は近隣では名が知られていて、訪れる人は多かったが、今は少なくなった。
おたるの滝の上に行ってみた。
滝上から下を見下ろすと、こんな状況。
浸食で岩がえぐられ深さ1メートルたらずの甌穴ができている。
そこから一気に数十メートル下に水が流れ落ちる。
滝の上は向こう岸に渡る石橋がある。
その先に道はまだ続いていて、瓶ヶ森に行く道や菖蒲峠に行く道と途中で合流するが、今はその道を通る人はいないという。
橋の寄付者名が刻んである。
東之川に住んだ工藤徳太郎氏の名が刻んである。
滝上の突き出た岩肌に、セメントで囲った桶のような物がみえる。滝上の水をこちらにも分流し、水車を回したり飲料水などに使うため、滝下の民家まで樋で送っていたようだ。
曲がり腐りかけの樋が手前に残っている。
おたるの滝上は神聖な場所だったのだろう。
昔は金比羅さん、天神さん、お稲荷さんは滝上に祀ってあった。
三方と天井を石で囲った石室のようなものが残っている。
3つのうちのひとつがあったのだろう。
大正時代に3つとも東之川の高智八幡神社に移している。
滝上には四角い石積みもある。
上は80cm四方位で平らなになっている。
一見して旧石鎚村の特徴ある野灯(石灯籠)を思い浮かべた。
これも石灯籠だろうか?
旧の石鎚村では6カ所で石を積み上げて造った石灯籠を見たが、大保木ではこのような石積みを初めて見た。
灯籠であれば、この上に火袋があったはずだが見当たらない。
火袋を置く台にしてはすこし広いような気もする。
ここにお稲荷さんか?何かを祀っていたのだろうか?
高智八幡神社の横に祀ってあるお稲荷さんの社は村の規模からして大きいな、と思った。東之川に三菱系の鉱山があった時代、会社やそこで働く村の人たちは、お稲荷さんを特に大切にしていたのだろう。
この石積みの台の向こう側におたるの滝の上部がある。
おたるの滝の水が流れ落ちる谷川の反対側に行ってみる。
こちらの山肌の斜面にも、高く積み上げられた長い石垣群が、奥の方まで広がっている。
ここも上の方は畑が広がっていたのだろう。
ここの石垣は硬くて重い石でできていて頑丈に出来ていると思っていたのに、崩れ始めているところがあった。
東之川には、まことの道の道場だった建物が残っている。
上から見た建物。
かつて東の川も西之川と同じく林業や鉱業で栄え、たくさん人も暮らしていたので、東の川の石垣群が広範囲にわたってある。
上に畑が広がり民家などがあったのだろう。
東之川に広がる石垣の石質はみるからに硬そうだ。このあたりの石は『伊予の青石』と呼ばれ、庭石としても人気が高いという。
石垣などが丁寧に積まれ整えられて並ぶ造形美は素晴らしい。
ここも高い技術を持った石工が積んだ石垣なのだろう。
後世に残したい価値ある有形文化遺産だと思う。
コンクリート製の橋の欄干にタイルが施してある。
同じような配色の貼り方をしたタイル張りが、大保木小学校の門柱にもあった。
おそらく同じ職人が仕事をしたのだろう。
よく似ている。
同級生が「父親は昔このあたりに住んでいた。」と話してくれた。
穀物を干すためのいなきが残っている。
雨よけの屋根が着いている。
トウモロコシ、麦などを干していたのだろう?
今もきれいな形で残っている。
お城のように高く積まれた石垣、末広がりの美しい曲線美を描く石垣。
一面に植林した木が成長し、集落を覆い尽くし見通しは悪い。
石垣の集落の石段をどんどん上がっていく。
どこまで続くのだろうか。
又、家が見えてきた。
このあたりに住んだ人たちは毎日上り下りするのが大変だっただろう、と思う。
この階段をさらに上がっていけば、前田峠に行くようだ。
峠を越え向こう側に下りていけば、昭和55年に廃集落となった前田集落跡や水力発電所がある千野々に行く。
前田集落には多い時で40軒程の家があった、とかつて前田集落に住んでいた女性はいう。
今は、家や畑だった所に植林したたくさんの木が大きく育ち、東の川集落全体を覆い尽くし、東之川の全貌は見えないが、石垣の上に畑が広がり民家があったころは素晴らしい眺めだったに違いない。
東之川からの帰り道、御塔谷渓谷が見えた。
その奥に雪化粧した石鎚山の姿がかすかに見える。
東之川から前田峠へ ↓
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