石鎚村(千足山村)の成藪集落跡へ | ア-ルの写真記

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今から400年以上も前、豊臣秀吉の四国征伐で追われた兵士たちが山中に逃れて行き、三ヶ森山(1378m)山頂近くにある池ノ窪というところに住み始めた、という伝承が残るという。

やがて戦いは静まり次第に世の中が落ちつき始めると、逃れてきた人達はだんだんと山から下がっていき、水の便のいい場所に居を構え、作物を作り始めたのが成藪集落の始まりといわれている。

成薮集落は山深いところにあり、昔は易々には行くことが出来なかったが、今は集落の中を車が通れる林道が走っている。

しばらくぶりに行ってみた。

2018年11月のこと。

 

ゴツゴツとした大きな石がいくつも転がっている。

ここは加茂川上流の支流にある。

この谷川近くに成藪集落跡は在る。

 

このあたりの紅葉シーズンに合わせ行ったわけではなかったが、丁度美しい紅葉の景色にめぐり会え、その美しさを充分に堪能した一日でもあった。

(2018年11月8日撮)

 

 

大きな岩が真二つに割れているように見える。

成藪に行く途中で見た。

 

 

 

 

成藪にて。

 

 

石鎚村は、集落の入り口あたりに六地蔵があるところが多いが、成藪集落の入り口あたりにも六地蔵がある。

ここの六地蔵は石鎚村内にある他の六地蔵と比べて比較的新しい年代に造られた六地蔵のようだ。

昭和の時代かもしれない。

おそらくもっともっと古くから六地蔵はあっただろうが、度々襲う洪水などで何度か流されもしたことだろうと思う。

右の二つの地蔵は左の四体よりまだ新しそうだ。

六地蔵は車が通れる林道脇に今はあるが、集落に人が住んでいた頃は集落内の古道脇にあったのだろう。

人の目につきやすく、お参りしやすいようにと、集落出身者の人がここに持ってきて安置したのだろう。

 

 

六地蔵のあるあたりから上に向かって古道があるようだ。

往還なのだろう。

昔このあたりには何軒か家があり、畑が広がっていたのだろうが、家跡は成藪で一軒しか見なかった。

後日、成藪あたりをグーグルマップで俯瞰していると林の中に埋もれた家がまだ他にもあるようだった。

六地蔵の後ろにある石垣上に、植林をした木だろうが、大きく太り木の根元が石を鷲づかみするようにして根をはっていた。

 

 

六地蔵の在るところを通り越し少し登ると、石垣で囲んだ中に地蔵が安置されている。

成藪集落のすぐ下の隣集落、太平(おおなる)集落では、同じような形の地蔵が六地蔵と横一列に並び座っていた。

成藪集落では六地蔵とは少し離れた別の場所にあった。

 

地蔵さんのあるところからさらに上がっていくと、古道の脇に石を積み上げて作った石台がここにも在る。

燈籠で、上には火袋が在ったはずだが、今は上にない。

風雨で吹き飛ばされてしまったのだろうか。

石鎚村ではこの燈籠のことを野灯(やとう)と呼ぶようだ。

ここからは、石灯籠の向こうに石鎚山がある方を望めるはずだが、植林された木々に阻まれて見えなかった。

ここも、石鎚村にいくつかある野灯(やとう)さんのようにお盆や正月、秋祭りなどに火を灯し石鎚を拝む、遙拝所だったのだろうか。

この燈籠の横を道が走っている。

下って行けばお隣の集落、大平集落や氏神の石素神社に続いていくのだろう。反対の方向、山上に向かって行けば、山越えをして旧桜樹村明河の明長寺という寺あたりに通じる道が古い地図を見るとある。

今は人は通らず、道はほとんど消えているという。

昔は桜樹村と千足山村とを結ぶ、往来盛んな道だっただろうと推測する。

 

燈籠の左側に道幅1㍍程の道が山肌を横切るように走ているのが今もはっきりとわかる。

 

急峻な山肌を切り拓いた広大な土地に、石を幾重にも高く積み上げ長く続く石垣や、上り下りするための石段道がたくさん残っている。

ここに住んだ人たちが、山を下りる時に植林した木が大きく太り、あたり一面を覆い茂っている。

かつてこのあたり一面は、自給自足で生活していくための畑だったのだろう。 

昭和25年に5戸22人が住んでいたが、昭和53年廃集落 。

 

 

 

家跡

 

 

 

深い谷川に架かる昭和28年完成の御御来迎橋を渡って帰る。