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終わりの後

明け方までの打ち上げが終わり、朝から一人また一人と帰っていく。全員が揃(そろ)うことは、もう二度とない。
それが貴重だとか尊(とうと)いとか言うつもりもないが、だからなのかみんなが優しく見える。

何十人もがひとつの作品に向かっているとき、ぶつからないことはありえない。まして今回はプロデュース公演。結果的に数千人を動員した。
だれがだれを好きだとか嫌いだとかいう以上に、こだわっている部分があまりにも繊細(せんさい)なため、完全にすり合うことはない。また折り合いがつけばいいという話でもない。


帰りを惜しむ残った何人かで、制作の今井ちゃんの作品を見に紀伊國屋サザンシアターへ。
7Fは劇場だが、それより下は通常の紀伊国屋書店になっている。彼女は絵本を製作している。

初日ということもあり、展示されるまで近くでコーヒーを飲んだ。別の何人かは買い物にでかけたようだ。

気持ちのよい朝日が入り込んでくるカフェで、主宰(しゅさい)の工藤さんと話をした。
ひとつの作品をつくる場合、ひとりひとりの居場所は最初から決まっている。
とくに走り始めてからは、お互いに干渉されたくない、守りたい部分ができあがる。
舞台が終わったあとだからこそ、聞ける話もある。年齢も近いし、ぼくも率直(そっちょく)だ。

何人かの役者がいたが、みなだまって聞いていた。

千秋楽

このたびは、改訂版「ディア・パーヴロヴィチ」をご覧いただきまして、まことに有難うございました。

昨夜の打ち上げも終わり、また心機一転(しんきいってん)、次の準備に取り掛かっています。

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また、舞台ができるといいなあ。

唯一の方法

共演者のいる舞台では、お互いに頼れることこそが重要だ。
いやだれひとりいなくても、大道具小道具その他のイメージに身を預けられることが存在し続ける唯一の方法であることは、多少経験のある役者であればみな感じていることだ。

それなら何故、そうはしないのか?


オーディションのときには、いくつかの台詞をもらう。相手役はAD(アシスタントディレクター)などがしてくれる。

正直に言って、無対象でやったほうがよっぽどマシだ。これは批判ではなく、相手役に良くも悪くも影響を受けるのがいい役者だし、そもそもADは台詞を言える必要がないのだから。
海外に揉(も)まれてきた監督はそうした場へ、向こう同様、専門の俳優を連れてくる。または少なくとも、俳優同士を絡(から)ませる。

舞台では基本的な台本の読解力(どっかいりょく)、演技の上手下手以外にも、作り方自体に千差万別(せんさばんべつ)がある。
ジャッジがそれを見逃していると、すれ違いが頻繁に起こるし、感性の優れた演者ほどその弊害(へいがい)が大きくなる。

その後も放置していれば、やがて自衛(じえい)することを考えるようになる。誰も守ってはくれないのだから。

その上で冒頭(ぼうとう)の台詞を、もし言われたら。


それは出来ないんじゃなくて、みなやらないんだ。動物園の檻(おり)に入れられた虎(とら)に、なぜ自然の振る舞いをしないのだと諭(さと)してみても、きっと彼らは首をすくめるばかり。

今回は、そうしたことが少なかった。