渡部遼介オフィシャルブログ「Ryosuke’ Note」powered by アメブロ -314ページ目

30分

昨年撮影していた映画の初号試写があり、東京現像所へ。初号とは、劇場用にプリントした初物。
30分程度のオムニバスの一つだったけれど、この長さでまとめるのはいつもとはまた違った難しさがある(と思う)。

たまに日本でも、有名な監督がこのくらいの長さを撮ってとても苦労している。描くだけの価値をモチーフに見つけると、キャラクターの紹介や近況を説明していくこと、また観客が味わうだけの時間がどうしても必要だ。
だがその限られた中では、取捨選択のセンスが違った形で問われることになる。

いざ自分がかかわることになると、そうした省略がやけに目に付く。
だが、たとえ何時間の作品であろうが、語弊(ごへい)を恐れずに言えば映画は省略の芸術。それがちょっと大胆になっているだけ。
それらと向き合うには自分なりのコツがいる。

今回は監督が、ぼくの出演作を見て声をかけてくださった。
それ以上に嬉しいことは、ぼくには思いつかない。

門外漢(もんがいかん)の文化

舞台が映像より難しいと言われる所以(ゆえん)。。。大きな理由のひとつにシナリオの読解力(どっかいりょく)があると思う。
観客と同じ空間での華(はな)や発声等はもちろん必要だが、まず大切なのは、そのキャラクターの存在意義だ。

カット割りで、その場その場のフォローにより築き上げる映像と(本当はそうではないのだが)、全体像を把握して要所要所を成立させる舞台。

映像はシナリオを読めないモデルでも、俳優に仕立てることができる。しかし台詞を覚えた彼らを舞台に立たせても、どんな話なのか理解すら難しいだろう。
万が一、俳優を名乗る存在がそうであったなら、外部からの出演者とそう変わらなくなる。しかし、現状はそういう人が多いのも事実だ。

考えてみて欲しい。なぜ門外漢(もんがいかん)が役者をやることが多いのか。たとえば格闘家が映画に出演はしても、俳優がリングに上がることは認めないだろう?

俳優がほかの職業とは違い、なかなかプロフェッショナルだと認知されない文化が日本にはある。けど、本物がスゴいことを、本当はぼくもみんなも知っている。

確信できる間(あいだ)

日本にも世界にも素晴らしい俳優はいるが、基本的に自分は自分の作品が一番だと思っている。
これは自惚(うぬぼ)れではない。自分が見たい演技を自分がしているのだから当たり前のことだ。

もちろんさまざまな出会いがぼくを打ちのめしもするが、そうなればまたそれを受け入れ、一(ひと)回り大きくなって歩き出すだけのこと。


世の中には自分より売れている人が大勢いる。よりギャラを稼いでいる人もいるし、触れたこともないような素晴らしい企画に参加している同世代もいる。

そうして評価も知名度もある彼らが、自分からみて自分のイメージにより近い、と確信できるのなら、自分がやる意義はない。隠居(いんきょ)して彼らに任せたら良いじゃないか。


この仕事は好きだけで続けてはいけない。だから、そう確信できる間だけ、前に行こう。