カウンターに突っ伏すようにして眠っていた女は、ふと顔を上げて男を見た。
「みゃすたー、ターキーのビール割り」
「もう、やめときなよサキちゃん。それにさ、バーボンのビール割なんてどこで覚えてきたんだ。ビールでいいじゃないか」
「もう、い、い、の」
「よくないよ」
「うるしゃい。氷たっぷり、ターキー多めの、び、い、る、割り」
やれやれといった風情で、男は氷をたっぷり入れたタンブラーに生ビールを三分の一ほど注ぎ、残りをソーダで満たした。それをバースプーンでステアする手つきは、熟練のバーテンダーに見えた。
ワイルド・ターキーなど一滴も入っていないタンブラーを、男は女の前に置いた。
「ありがちゅ」
それを一口飲んだ女は、うみゃいと頷いた。そして、ため息ひとつを吐いて呟いた。
「最後の恋だと思ってた。わかんにゃいよね」
「うん?」
「マスターにはわかんにゃいよねー」
「なにが?」
「部屋に帰っても、だーれもいないんだよ。だーれも帰ってこないんだよ。まあ、結婚してたわけじゃにゃいけろさ。わかんにゃいよね」
「うん、わからないね。ひとりひとり、持っている物差しが違うからね」
「物差しの話じゃにゃい!」女はネックレスを引きちぎった。
「あーあ、派手にやったね。なにこれ」男は顔を寄せ、カウンターに散らばった小さな破片たちを眺めた。
「亀」
「亀? あ、ほんとだ亀だ」男が指先で触る。
「これをしてたら、幸せになれるってゆったのに」
「もらったの?」
「うん、むらった。ぷれじぇんと。おたんじょうび」
「ちっちゃい亀をたくさん首からぶら下げて幸せになるんだったら、苦労はないね」
「うるしゃい。いいよ、家に誰かが待ってる人はいいよ。奥さんはさあ、お風呂沸かしてんの」
「沸かしてない」
「あら、さびし」
「ひとりもんだからね」
「え? バツイチにゃの? あー分かった。浮気ら。浮気したんら、このエロじじい」
「サキちゃん、口が悪くなってるなあ、清楚な人だと思ってたのに」
「あみゃーい! 世の中にね、清楚な女なんて存在しないんだよ。みゃすたー純朴な少年みたいな夢みてんのね。清楚な女なんてね、ろこにもいにゃいんだよ、れさ、浮気して離婚されたんしょ」
「──だよ」
「ん? にゃに? メイろ喫茶? 娘さん、メイろ喫茶で働りゃいてんの」
「耳まで遠くなっちゃったか、サキちゃん。門松は冥土の旅の一里塚って知ってる?」
「知らにゃい」
「めでたくもあり、めでたくもなし。一休さんの作さ」
「ん?」
「遠くに行っちゃったんだよ。手の届かないところにね」
「うそ」
「なんで嘘つかなくちゃならないんだよ」
「いつ?」
「サキちゃんから見れば、遠い昔の話さ。そうだな、娘も生きていれば、サキちゃんと同じ年ぐらいだろう」
「ちょっと待って、にゃんで奥さんと別れたの」
「奥さんも冥土さ。事故だよ」
「やだ……ごめんマスター、嫌なこと思い出させちゃったかな」
「いいんだ。過ぎ去ったことさ。それより、深酒はやめなよ。酒で忘れられることなんてないのさ。それが、俺の学んだことだよ。さっきサキちゃん、最後の恋って言ったよね」
「うん」
「これからも、たくさん恋はできるよ。娘はさ、恋ひとつすることもなく、お父さん大好き! で終わっちゃったんだよ。それがさ、最初で最後の恋なんて、不憫じゃないか。かわいそすぎないか」
「マスター……泣かさないで」女はカウンターに付いた両腕に顔をうずめた。
「泣けばいいさ、涙はね、神様のくれたとっておきのシャワーさ。色んなものを洗い流してくれる。サキちゃん。江利チエミって知ってるかい」
「知らない。ほんとごめんねマスター」
「いいんだよ。今流してあげるから聴いてごらん。俺、これを擦り切れるぐらい聴いて、毎晩泣いたんだ。夜が来るのが、怖かったんだ」
江利チエミ/酒場にて
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