幼い頃に見た夕焼けの赤、大好物だった母の手料理。季節ごとに咲く花の香り、木々を渡る鳥の声。コタツで食べたミカンの味、優しかったあの人の温もり。
人は実に様々なものを記憶にとどめている。だが、そのすべてが正しいとは限らない。それにも関わらすそうであったかのように信じ込むのは、日常において記憶が変化していくさまを人は実感することがないからだ。
己の頼りない記憶と残された写真や映像以外に、過ぎ去ったものを回想するすべはないのも原因のひとつなのだろう。しかし、意図しなくとも人の記憶というものは自分に都合の良い内容に変化してゆく。
思い出には、楽しいものもあれば辛いものもある。また、それぞれに歩んできた人生も違う。辛い経験を乗り越えてきた人もいれば、さしたる苦労もなく過ごしてきた人もいるだろう。ところが、その様々な人生模様でも、追憶の段階で変わらないものがある。それは楽しい思い出が6割ほどで、辛い記憶は1割に過ぎないといわれることだ。
誰にとっても思い出は、美しく変容を遂げるものなのだろう。だから人は明日に向かって生きていくのかもしれない。
***
「駅長さんっ!」
声に振り向くと、父親に手を引かれた女の子が立っていた。クルクルと動く利発そうな瞳と、少したれ気味の眉をした髪の長い子だ。年齢は確か6歳だったはずだ。ノースリーブのひまわり柄のワンピースを着ている。
「おぉ、亜弥ちゃん来たのか、今日はひまわりだねぇ、よく似合ってるよ」
亜弥ちゃんはふふと笑い、ピンクのサンダルを履いた片足で石でも蹴るような仕草をした。
「また来ました」
女の子の手を引いているのは、年の頃は40ぐらいの金縁で細身のめがねをかけた男性だ。そう、私がこの望遠鏡に出会った頃と同ぐらいの年齢だ。ボタンダウンのシャツにサマーカーディガンを羽織り、腕まくりをしている。その風貌はいかにも実直なサラリーマン風に見える。
「秋山さん、今日はからりといい天気になりましたね」声をかけると、本当ですねぇ、湿度が低くて気持ちいいです。と空を仰ぎ、秋山さんはまぶしそうに目を細めた。小走りに駆け出した亜弥ちゃんは台に乗り、くるりとこちらに体を向けた。
「お父さん、早く、早く! 半分こずつ見よ」さかんに手招きをする。
あの親子はいつもそうだった。顔を寄せ合い、一緒に望遠鏡をのぞき込むのだ。
風になびく髪を手で押さえる亜弥ちゃんの後ろ姿を見つめながら、神と仏の存在というものを私は考えてみた。
「こっちだよ! こっちこっち!」
望遠鏡をのぞき込んだままの亜弥ちゃんがさかんに手を振り、秋山さんが沈痛な面持ちで振り返った。ついに来たか……。
私の胸はチリリと痛んだ。
***
「覗いてみるかい」
ポケットから取り出したコインを差し出したのが塩田さんだった。あの頃の彼は70歳前後の年齢に見えた。
子供の頃にしか立ち寄ったことのなかった私だが、およそ丘の上の商店主らしからぬ上品で柔和な彼の顔は覚えていた。女房子供の相手もなかなかしてやることもできなかった私は、この丘に登ってくることさえしなかったのだ。そんな私の顔を、塩田さんが覚えていようはずもなかった。
二十年前の私は、どこへ行くあてもなくさまよい、この丘に登り、展望台の椅子に腰掛け、襲い来る絶望と闘っていた。
あのとき私は、這い上がることもできそうにない深くて暗い絶望の底に身を縮めていた。
「望遠鏡……ですか」私は力なく尋ねた。
「見てみるといい」塩田さんは目尻のシワを深くして、こっくりと頷いた。
なんて子供だましを……私は取り合う気もなかった。
「いいです」
「見てごらん。あんたがこの丘に登ってきたのはそのためなんだから」
この人はなんて訳の分からないことを言ってるんだ……。
しきりに差し出す小銭を断りポケットを探った私は、気の進まぬまま腰を上げ、塗料の剥がれかかった投入口にコイン押し込んだ。
少し腰を落として目を当てると、町並みが眼前に広がった。徐々に上に振ると海が見える。子供の頃に遊び、娘も遊ばせた遠浅の砂浜だ。岬の灯台の下では白い波が弾けている。
再び街並みに戻し、どこを見るともなくゆっくりと左右に振ってみた。するとそこに飛び込んできたのが見覚えのある家だった。
父が建て何度か補修をし今も住み続けているあの家だった。私は倍率を上げた。そのとき、二階のレースのカーテンの向こうに人影が動いているのが見えた。
そんなはずはない。すべて戸締まりはしてきたし、窓が開いているはずはないのだ。なんてこった、泥棒だ。
しかし、今から駆けつけたって間に合うはずもない。大切な物はどこにしまってあったろう。通帳、印鑑……高鳴る動悸が耳元でうるさく鳴ったが、思い出せない。
やがて、人影が3畳ほどのベランダに出てきた。
泥棒だ。
が、その姿はとても違和感があった。髪が長くスカートをはいている。
それは紛れもなく女性の姿だ。さらに倍率を上げた望遠鏡の向こうに私の目が捉えたものは、つい最近死んだ妻だった。
両手でプラスティックのかごを抱えている。そのかごをベランダに置き、洗濯物を干しだした。乱れる息で望遠鏡が揺れた。
妻がふいと部屋の方を振り返る。二言三言会話を交わしているようだ。軽く微笑んだ顔のまま妻が洗濯物に向き直る。
やがて男が顔を出した。そのとき私は、妻が若いということに気がついた。そして、顔を出したのが紛れもなく自分だということに。二人が笑いながら洗濯物を干す姿を、私は望遠鏡を握りしめ、目をこらして見つめ続けた。
妻の姿と着ているものから、私が三十歳ぐらいなのだと推定できる。そう、あの当時だから十年ほど前ということになる。男というのは自分の着ている服や相手の着衣から推し量れるほど記憶力がよくない。でも私には分かった、妻と子を亡くしてから何度もアルバムを開いたからだ。
この数年後に娘が生まれたのだ。私は食い入るようにして望遠鏡をのぞき続けた。そのとき機械的な音がして、視界が真っ暗になった。。
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