風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」 -140ページ目


「夢ってさぁ、いったいなんだろうね」
ネクタイを緩めながら、僕はテーブルの向かいに座る神崎(かんざき)に問いかけた。神崎は生ビールのジョッキを持つ手を止めて首を傾げたあと、考え込むようにその肘をテーブルについた。
壁際の二人席だからひどく狭い。行きつけのチェーン店化されていない薄汚れた居酒屋は、僕たちと同じサラリーマンや学生風の若者、労働者風のおじさんたちで今日も賑わっていた。焼き場から煙が盛大に上がり、ホッピーと声を上げるおじさんが混雑感に拍車を掛ける。

「はい、軟骨塩おまちどうさまー」
神崎は中年の店員が運んできた豚の軟骨の塩焼きを一本取り、トンボの目くらましのようにクルクルと回しながら、
「うーんとね、潜在意識? 深層心理だったっけなぁ、ま、どっちでもいいや。よく憶えてないけど、それが何か言ってるんだよ、そんなのを読んだことがある。どこまで本当なのかは知らないけどな」
神崎はうんうんと頷いて練り辛子をなすりつけた豚軟骨を噛んで引き抜いた。
「潜在意識かぁ」僕は枝豆を口に運び、煙に燻(いぶ)され飴色に変色している天井を見つめた。

「なにか嫌な夢でも見るのか?」
ビールの泡で濡れる口元をおしぼりで拭い、もさもさと軟骨を噛む神崎の目が一瞬怪しさを帯びた。
「あの淳一郎さんに迫られる夢とかさ。片倉くうーんって」神崎は右手をくねくねさせた。
「やめてくれよ」僕は目の前のハエでも追い払うように右手を振った。

淳一郎さんとは、会社の上司である課長の名前だった。嘘か誠かそんな噂も立っていた。確かに、しゃべり口調がどこかのメイクアップアーティストに似ていなくもなかったからだが。
「でもさぁ、あの噂って本当なのかね」僕は野沢菜の漬け物を口に運んだ。
「山本がさ、この間入院したろ? あれ原因知ってるか?」神崎がテーブル越しに顔を寄せた。
「胃だか腸だかの潰瘍だろ」
「表向きはな。しかしてその真相は」箸でチーンと小皿を叩いて、
「痔だってさ」と何だか酸っぱそうに口元をすぼめた。
「課長と山本の痔は関係ないだろ」
「でも、そこはかとなく面白いだろ。な、そこはかとなく妄想を呼ぶよな。それより(わき)肉系も食わないと栄養偏るぞ。豚の軟骨うまいんだから」
「喉だろ?」
「喉って言うなよ喉って。いかにも不味そうじゃないか。ま、気管もあるけどな」

神崎は僕のことを「わき」と呼ぶ。和樹だと訂正を求めても聞き入れる様子はないから、そのまま受け入れることにした。同期入社で妙に気が合うせいもあり二人で酒を飲むことも多かった。ふざけたことを言うわりには、至極まっとうな精神構造を持った男だった。

「それはそうと法要なんだってな」おまえもお代わりだな、生二つくださーい。神崎が手をあげる。
「うん、そう。姉の二十三回忌なんだ。それに合わせて夏休みをもらうよ」
「二十三回忌?!」神崎は驚いたように目を見開いた。
「じゃあずいぶん小さい頃に亡くなったんだな」
「そう、6歳の時に死んじゃった」
「おまえがか?」
「いや、僕の姉が6歳の時」
「そうかー、わきの両親も大変だったろうなぁ」神崎は遠くを見る目をした。
れ以上この話に触れたくなかった僕は、話題をそらすことにした。

「はい、生お待ちどうさま」店員がしずくのしたたるジョッキをテーブルに置いた。
「どう、うまくいってんの」僕の立てた小指に、
「おまえ、相変わらず表現が古いなぁ」と笑ったあとに、おまえもしかして、アベックとか朝シャンとか使ってないか、死語だぞと真顔になった。

「しかし、年上女房もいいもんだ」神崎は口元を引き結び、うんうんと頷いた。
「結婚するのか? 俺たちまだ24だぜ」
「いやなに、結婚するって決めたわけじゃないけど、きんのわらじもいいかなぁって」
「うーん、その言葉を知ってるのは偉いけどなぁ」僕はもずく酢の小鉢を手に取った。
「出たな、うんちく野郎! で、何が正解なんだ?」
「かねのわらじだよ」
「へ、そうなの?」神崎が妙に濃い眉をへの字に曲げた。
「お金か?」
「金属、すり減らない鉄だよ。年上の女房はそれを履いてでも探せってこと」
「おまえ、絶対おじいちゃん子だろ」

この夜、僕は夢の中のあの坂道を今度歩いてみようと決めた。決めたからと行って行動に移せる確証はない。何故なら、歩けるのなら、これまでだってそうしていただろうと思えるからだ。


          ☀☀☀


やがてその日はやってきた。梅雨も明け連日暑い日が続いていた。テレビの気象予報士は熱帯夜だと伝えていた。

僕はあの坂道の途中に佇んでいた。夢の中にいるのだと妙にはっきりした意識で分かる。坂の下を見ると、やはり右カーブを切っていてその先は見えない。坂の上を見れば壁がそそり立つような圧迫感だ。
そして夢の中で思う。やはりこれは現実に存在する坂道ではなかったのだなと。油断すれば滑り落ちてしまいそうな傾斜は、4WDの車だって下手をすれば仰向けに転がり落ちていってしまうだろう。こんな道は世界中探したってあるはずもなかった。

僕は寒さで目が覚めた。タオルケットを引っ張り肌がけ布団をかぶる。そのときエアコンが稼働していることに気がつき、枕元のリモコンを探ってスイッチを切った。どうやら寝ているときにたまらず点けてしまったようだ。夢の第一夜は途中で終わった。




応援クリックポチッとお願いします。

にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ



$あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」-坂道





同じ夢を繰り返し見るという現象は、思春期の頃などに誰しも経験したことがようで、それが僕のように大人になってからも引き続き見るという人も案外多いらしい。
夢というのは脈絡がないことが多いのだけれど、ある程度のストーリー性を持っているようにみえる。

そんな中、僕が過去に幾度も見た夢は、まるでデジタルフォトフレームのスライドショーのように、ひとつひとつが独立していて、流れるような動きを持たない。その夢の中で僕はアクションを起こしたことはなく、ただ、その切り替わる場面を見ている。

場所は見知らぬ町の坂道で、僕はその途中に立っている。それはかなりの急カーブを描く傾斜の強い舗装された道路だ。上からの眺めは時計回りで、坂下の景色はカーブの先に消えている。
それこそサッカーボールのようなものを弾ませたら、勢いがつきすぎて民家の屋根を飛び越しかねないほどだ。強いてたとえるなら上信越道の一部や日光のいろは坂が近いかもしれないけれど、そこはけっして山の中の一本道ではない。

坂を見上げることも見下ろすこともできるけれど、なぜだか僕は動かない。動こうとする意志すらないようにも感じる。
見知らぬというのは場所を特定できないからそう表現せざるを得ないからで、僕はかつてその坂道を見たことがあると感じていた。これをデジャヴュと呼ぶのは正しくはないかもしれないけれど、僕の中でそれは夢の中の既視感だった。


          ***


「夏休みは取れそうなの?」
耳に当てた携帯電話から母の声がする。僕はテーブルから取り上げたリモコンでテレビの音量を絞った。
梅雨はまだ明けない。ゲリラ豪雨のようなものは多かったが、総雨量としては今年はどうやら空梅雨のようだった。

この夏は法要がある。姉の二十三回忌だ。四歳違いの姉が亡くなってからすでに二十二年の月日が流れた。生きていればそろそろ三十路に怯える歳になったろう。
「うん、休みはもらってあるよ」
わざわざ夏休みを取らずとも実家は東京から日帰りのできるところにあった。なにしろ北の外れとはいえ埼玉県なのだ。それでもやはり休みを入れた。
「そう、それはよかったわ。あとそれからね、15日から出かけるからお父さんもお母さんもいないわよ。それも伝えときたかったの」
「ふうん、珍しいね、夫婦で旅行にでも行くの?」
「法要よ。松山まで帰ってしばらくあっちにいるわ」
「法要続きだね」
「まあね、こっちは二十七回忌よ」母はやれやれといった風情の声を出した。

愛媛の松山は母の生まれ故郷だった。家族そろって行ったことがあるらしいが、僕がうんと小さい頃だったため記憶には残っていない。
「しばらくって、何日間ぐらい留守にするの?」僕は再びリモコンに手を伸ばしチャンネルを変えた。
「決めてないわ。三、四日いてお父さんと一緒に帰ってくるかもしれないし、そのままあたしだけ七月中ぐらいのんびりするかも。和樹(かずき)も一緒に行く?」
「そんなにぽんぽん休めるわけないよ。松山に帰るのなんて久しぶりでしょう? たまにはのんびりして、帰りはなっちゃんの法要に間に合うぐらいでいいんじゃないの」
「そうもいかないわよー、お父さんどうするのよ。食事が目玉焼きと納豆だけになっちゃうわ」電話口で母は体型に似た豪快さと陽気さで笑った。

「卵焼きと納豆なんて上出来だよ。ベーコン入れたらパーフェクトだ」
「あらあんた、またちゃんと食べてないんじゃないの?」
このままだとまた小言が始まると判断した僕は、15日からだね、と念を押す。案の定小言は忘れて、そうそうと返事が返ってきた。
ひとつ思いついて訊いてみた。
「あのさ、坂道知らない? 上から見ると右カーブしてるすごい坂道なんだけど」
右手の人差し指でなぞったテーブルを、缶ビールの表面に付いた水滴のしずくが急カーブを描いた。

「すごい坂道?」うーんと口にして、母はしばらく黙り込んだ。
「写真でもあれば分かるかもしれないけど、この辺にそんな坂道はないわよね」
それは僕だって実家の附近は考えてみた。ただ、松山にそんなところがありはしないかと、ふと思ったのだ。
「その坂道がどうかしたの」
「夢に出てくるんだ」
「あんたの夢なんか分かるわけないじゃない」母はまた電話口で大声を出して笑い、ちゃんと食事をとりなさいよと言って電話は切れた。

僕は四つ違いの姉のことを、その当時から「なっちゃん」と呼んでいたらしい。片倉七海(かたくらななみ)、これが、楽しみにしていたランドセルを背負うこともなく、6才でこの世を去った姉の名前だった。
なっちゃんは和樹に絵本の読み聞かせをしたのよ、と母に何度か聞かされた。たどたどしいしゃべりで一生懸命読んでたわ。読むと言うより話の内容を暗記してたんだろうけどね。
あんたは同じページをせがんでたわ。かず君そこさっき読んだよーって口をとがらすなっちゃんの言葉も聞かずにね。

僕は椅子から立ち上がり、本棚に置いてある写真立てを手に取った。写真の中のなっちゃんは、お姉さんから同い年になり、妹になり、ちょっと年の離れた妹になり、やがて、姪っ子と呼ばざるを得ない年の差になった。
学校に行く朝は行ってきますと挨拶をし、帰ったらただいまを言った。父母に言われたのか、自ら進んで始めたのかは定かではない。ただ、この写真は僕が選んだのだそうだ。このなっちゃんの顔が一番慈愛に満ちているように感じるのは、今も昔も変わらなかった。

15センチ×20センチのフレームに収まる小さな波打ち際で、体に通した浮き輪を右手でつかみ、左腕を僕の首元に回して、自らの頬に引き寄せるようにして笑っているなっちゃん。日焼けしたTシャツの跡が二の腕を二色に塗り分け、ひまわり柄の水着とお揃いの水泳帽が水に濡れて光っている。

その隣でなっちゃんにもたれかかるようにして日差しに眉をしかめ、頬の辺りで形にならないピースサインをしている僕は、赤ん坊がちょっと大きくなった程度にしか見えない。
この日、いや、正確にはこの午後に姉は帰らぬ人になった。あのとき僕はたったの2才だった。そのせいもあり記憶らしい記憶は残っていない。
ただ、海で溺れた僕を助けようとして、姉のなっちゃんは海の底に沈んで死んだ。それだけは知っていた。
それは僕が背負った、骨のきしむような十字架だった。






応援クリックポチッとお願いします。

にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ


$あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」-ひまわり


振り返ると、錫杖(しゃくじょう)の音にでも驚いたのか地蔵の傍らにじっと佇む人影が見える。私は驚かさぬようにゆっくりと足を踏み出した。
地蔵に手を合わせ頭(こうべ)を垂れる後ろ姿が、やがてこちらに向き直った。歩み寄る私を確認したその顔に困惑の色を浮かべている。私は帽子をかぶり直し、両足をそろえて敬礼をした。
作業ズボンにランニングシャツ。頭には鉄道の官帽子。首には汗拭き用のタオル。この珍妙なスタイルに気を許したのか、小首を傾(かし)げたあと、真っ直ぐに体を向けて敬礼を返してきた。

短めの髪に卵のような輪郭。細身のジーンズに一見ゴム長靴のようにも見える茶色いレインブーツ。人は亡くなる前のきれいな姿でやってくる。
その左手には淡いブルーに濃い水玉を散らした閉じた傘。オリーブグリーンのミリタリー調のハーフコートは季節外れだ。そのせいか額に粒の汗を浮かべている。
私がタオルで汗を拭いながら歩いていることで思い出したのか、ショルダーバッグから取り出したハンカチで額を押さえた。その姿がだんだんと近づいてくる。足を止め、間近であらためて姿を確認して、私は声をかけた。

「お地蔵さんに興味がおありですか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど」口元で右手を小さく振りながら左を振り返り、傍らの地蔵に目をやる。
鳴きやまぬ蝉の声を縫うように、私は地蔵を見る彼女の肩口に問いかけた。
「大久保明日香さんですね」
ショートヘアーが揺れ、驚いたようにこちらを見つめた目がひときわ大きく開かれた。しばしの沈黙を、短い命しか持たぬ蝉の声が隙間なく埋めてゆく。

「菅原明人君の恋人の、大久保明日香さんですね」
彼女は戸惑いを全身から滲(にじ)ませながらも、はいと頷いた。そして、なぜ、と唇が動く。
私はどこを示すでもなく、片手を横に上げた。
「ここが地蔵公園です」

私は今日、二人にすべてを話そうと決めた。なぜなら、すでに視界の端に動くものを捉えていたからだ。
その影は木々に見え隠れする坂道を、汗を拭いながら俯き加減に歩いてくる。彼はあえて遠回りまでして、一番きつい坂を上がってくる。己を研ぎ、何かを慰め、何かに詫びる行者のように。
横にずらした視線に気がつき彼女が右後方を振り返るのと、菅原君がビクッと肩を震わせて立ち止まったのは同時だった。
彼の端正な顔は、私がかつて見たこともないものへと変わってゆく。泣いているようにも笑っているようにも、困っているようにも見える顔。

両手を胸の辺りに上げ、歩みを覚えた幼な子のようによたよたと歩いてくる菅原君。それを見つめる彼女の細い後ろ姿。日の光を浴びた髪がゆっくりと左右に揺れている。

突如わき起こった一陣の風が展望台を吹き抜けてゆく。驚いたようにひときわ大きく枝葉を揺らす木々が竜のように舞い、彼女の髪を巻き上げ、やがてまた静かになった。
彼女の左手から離れたブルーの傘がいったん地面に立ち、やがてバサリと音を立てた。ショルダーバッグが肩から滑り落ち、その両手がゆっくりと横へ広げられた。まるで巣立ちを試す鳥のように。
私が背中を押すまでもなく、踏み出すレインブーツが鈍い音を立てた。

こんなこともあるんだ。
呟いた私に、木漏れ日が揺らす地蔵の顔が、少しだけ微笑んだように見えた。

彼女が菅原君の元へたどり着いた。ぎこちない二人。戸惑うように見つめ合う二人。両手をだらりと下ろした彼女が、彼の胸に倒れるように顔を埋めた。その肩を彼が壊れ物でも扱うようにそっと支えた。
光に満たされる中、いだきあい、ひとつに溶けあい、人目を忍ぶようにむせび泣く輝きに向かって、私はそっと言葉を投げた。

ようこそ地蔵公園へ。

ここは天国へ通じるもうひとつの扉。
無垢で罪無き世界、イノセント・ワールド。


─FIN─




応援クリックポチッとお願いします。

にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ





innocent world  Mr.Children

作詞:桜井和寿 作曲:桜井和寿

黄昏の街を背に 抱き合えたあの頃が 胸をかすめる
軽はずみな言葉が 時に人を傷つけた そして君は居ないよ
窓に反射する(うつる) 哀れな自分(おとこ)が
愛(いとお)しくもあるこの頃では
Ah 僕は僕のままで ゆずれぬ夢を抱えて
どこまでも歩き続けて行くよ いいだろう?
Mr. myself

いつの日も この胸に流れてる メロディー
軽やかに 緩やかに 心を伝うよ
日のあたる坂道を昇る その前に
また何処かで 会えるといいな イノセント ワールド

$あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」

その病院は県境を流れる大きな川の近くに建っていた。見上げるほど高い土手を上がると、舗装されたサイクリングコースが左右にずっと続いていた。眼下に広がる河川敷には土がむき出しの野球のグラウンドが何面も見えた。

春の頃には野草が色とりどりの花を咲かせるのだろう。けれど今は、土色に変わった草が風にふるふると震えるだけだった。
川面を渡る風はやけに冷たかった。

告げる勇気と告げぬ思いやり。
その二択を比べることのむなしさに、僕はコートの襟を立てた。
僕たちがとった手段はそのどれでもなかったことに、否が応でも気づかされたからだ。

          ***

〝励ましのメールありがとう。元気が出ました。('-'*)アリガトネ♪
慌ただしい入院でした。すぐに骨髄穿刺。
今回も痛かったぁ~(;ω;)ウッ
その後インフォームドコンセント。グリベック薬の説明を受けました。
今日はレントゲンや心電図の検査がありました。明日はいよいよ髄液を抜きます (;´Д⊂)ウッ 
今からどんよりと沈み込んでいますが、もらった元気と笑顔を思い出して頑張ります。髄液を抜くのがどれだけ大変なのか書く? その前の麻酔の注射も。
えへ、あなたが頭を掻きむしりながら一緒に苦しむ様子が目に浮かぶからやめおきましょうね。
あなたがいるからわたしはいますo(^▽^)oキャハハハ〟

〈僕が代わってあげたいけれど、それができないのがとても悔しくて胸が痛いです。
頑張って!*(>k<)*〉

〝頑張りますよ~お仕事忙しそうだね。
あまり無理をしないようにくれぐれも体に気をつけてね。
p(*^-^*)q がんばっ♪〟

〈焦らずゆっくり治療してね。祈完全回復!
 ( ^▽^)σ)゜ー゜)プニッ〉

〝治します! ∩`・◇・)ハイッ!!〟

〝配膳の音が聞こえてきたら、病室のみんながそわそわし始めます。
遠足のお弁当タイムの園児みたい (^m^ )クスッ〟

〈以前入院経験のある父が同じことを言ってたよ、食事が唯一の楽しみだったって (´艸`)
誕生日が近づいてきたね。
今回は入院中の誕生日になるけど我慢だよ!
ガンバo(`・∀・´)○ダァー!〉

〝そだね~乙女はまた歳という名のちょっと怖いごちそうを食べます ヾ(;´▽`A``アセアセ
今日の午後から腹部のエコー検査があるので、ただいま禁食中。
不思議とお腹は空きません。
痩せるかなぁ ♪~♪ d(⌒o⌒)b ♪~♪〟

〝腹部のエコー検査が終わりました。
お腹にジェルを塗られてぐるぐるされながら、先生の吸って~吐いて~という声と聞いていると、なんだか催眠術にでもかかったみたいに眠くなります ウトウト(○-v-))ノ〟

〝建物の端っこにガラスで仕切られたちょっとした喫煙室があって、そこから土手が見えます。暖かい季節ならタンポポやシロツメクサも生えるんだろうなぁ。そこに点滴のスタンドをがらがら引きながらタバコを吸いに来るおじさんもいます。
中には止められている人もいるのかも (。-ω-)y-~〟

〝明日は家族と先生を交えて、新薬のお話をします。
どちらにするにしても副作用は免れないからです。
从´_υ`从ショボーン〟

〝新薬が決まりました。いずれにせよ使わないわけにはいかないし イテマエーε=(/*~▽)/〟

●僕の、いや、僕たちの間違いはここから起こった。メールの着信音と共に震える携帯電話に、僕はこれ以上耐えられなかったからだ。

〈ごめんね~仕事が忙しくてなかなかメールもできなくてごめんなさい。お薬が効くといいね。祈っています (o・_・)ノ”(ノ_<。)〉

〝[壁]スッ≡( ̄ー『+』ゝ発見!! 久々のメール嬉しかった。ありがとう O(≧∇≦)O イエイ!!〟

〝今日は病室を移動しました。以前のところはおじいちゃんの多い病室で、中に一日中咳き込んでいる人がいたので気を遣ってくれたようです。ここは北向きなのかな? 窓を開けているとちょっと肌寒いです。でもわたしの意志で閉めるわけにもいきません σ(TεT;)〟

〈病室移動したんだね。また窓際なのかな? 寒いようだったら断ってちょっと閉めたらいいよ。そうだそうだ看護婦さんに閉めてもらってもいいしね。風邪を引いたら大変だ。
(°_°;)ハラハラ(; °_°)〉

〝はい、分かりました。そうします。でも、向かいにはマンションがあって、下には大きい道路が通っているので生活の匂いは以前のところよりも感じられます。
そうそう、凄く小さいけれどマンションの横に公園もあって、木立の向こうに子供たちや親子連れの姿も垣間見ることができます。
早く元気になってあそこに行ってみたいなぁと思っています。もしも退院の日に迎えに来られるようだったら、一緒に行ってみたいですo(*^▽^*)o〟

〈仕事が落ち着くようだったら迎えに行きます (⌒_⌒)ニコ〉

〝ノートPCがあるから楽しく過ごせるようになりました。デスクトップを買った時にノートを処分したことを後悔していたところでした。お父様には感謝していたと、くれぐれもよろしく伝えて下さい。夜9時の消灯なので、朝が待ち遠しいです。
(ノ∇・、)クスン〟

●僕たちは一日、また一日と大切な何かを先延ばしにした。

〝今年のお正月は無事退院して一緒に過ごせるかなぁ。
ヾ(´▽`*;)ゝ"〟

●そんなことは無理だと分かっている。

〈そうだね。絶対一緒に過ごせるよ (^_-)v〉

〝やった、やったー! 今度の土日一時帰宅するかい? って先生がぁ~~~~~~~~~~っ (●*>凵<p喜q)*゜・。+゜
生きることの意味と喜びを教えてくれたのはあなただから、一番最初に会いたい! 君が生きることは僕が生きることだよ、そう言ってくれたあの言葉をずっと噛みしめています。この手を離さないでいてね (*'-'*)エヘヘ〟

●今日と思っていた。今日伝えるつもりで足を運んだ。君に負担を掛けないようにと、僕たちが嘘をついたてきたことを。

明日、土日の一時帰宅をしてくるこの娘に是が非でも伝えなければならないことがある。
慢性骨髄性白血病と闘うこの娘に、僕の息子、いや、君の恋人は、君が入院して6日目の誕生日の朝に、君へのプレゼントの婚約指輪を大事そうに携えたまま、事故で死んだよと……。

この世界のどこかに神さまがいたとしても、僕は神など信じない。

今は亡き愛する息子の携帯電話を閉じて振り返った建物は、立ちふさがる壁のように、悲しい白さでそびえていた。

応援クリックポチッとお願いします。

短編小説 ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ

やさしさで溢れるように JUJU



「やさしさで溢れるように」
唄 JUJU
作詞 Shinquo Ogura/Seiji Kameda 
作曲 Shinquo Ogura

目が覚めればいつも 変わらない景色の中にいて
大切なことさえ 見えなくなってしまうよ

生きてる意味も その喜びも
あなたが教えてくれたことで
「大丈夫かも」 って言える気がするよ
今すぐ逢いたい その笑顔に

あなたを包むすべてが やさしさで溢れるように
わたしは強く迷わず あなたを愛し続けるよ
どんなときも そばにいるよ

$あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」-江戸川土手


耳元を風が吹き過ぎ、展望台を夏の光が照らし出す。木々が奏でる葉擦れの音は、放課後の教室に漂うざわめきにも似て、気だるげに行き過ぎた。
秋山さんの発した最後の言葉は、あの親子が車同士の衝突事故の類に巻き込まれて世を去ったであろうことを教えてくれた。母親は何らかの都合で同乗していなかったか、運良く助かったとみえる。しかし、助かることが幸運とは言い難い別れが世の中にはある。

寿命を生ききるのが人間の勤めであり幸せなのだと、塩田さんは語った。死は悲しむべきことではないと。
塩田さんがここから消えた日も今日のような青空だった。最後に驚愕するような短い声を発したから、あの人も突発的な事故で命を落としたのだろう。

人の死は運命なんだよ。原因はどうあれその寿命通りに死んでゆくのが定めだ。摂生につとめようが不摂生に生きようが寿命に変わりはない。それと同じく、誠実に生きようとも不誠実に振る舞おうとも定まった日にこの世を去るのさ。変わるのは安藤さん、人生の質だ。そしてそれこそが一番大切なんだよ。

塩田さんが教えてくれたこの言葉を、私も多くの人に伝えてきた。私も老いた。そして、いささか長くなりすぎた。誰か代わりになる人を欲したとて、おいそれとは見つからないだろう。しかし、自分に訪れた死がどのような形であれ、もう受け止めさせて欲しいと願う。
彼はすべてを理解して、この仕事を引き受けてくれるだろうか。それとも先を急ぐだろうか。断られるのなら、もう少し頑張るしかない。

展望台に向かい、私は手を合わせた。


故知般若波羅蜜多(こち はんにゃ はらみった)=このゆえに偉大なる智慧を意味する般若波羅蜜多は

是大神呪 是大明呪(ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ)=神秘的呪文であり 無知の闇を照らす呪文であり

是無上呪 是無等等呪(ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ)=最高の呪文であり 他に比類なき呪文である

能除一切苦 真実不虚(のうじょいっさいく しんじつふこ)=この呪文が一切の苦厄を取り除くことは真実であって偽りではない

故説般若波羅蜜多呪 即説呪日(こせつはんにゃはらみった しゅそくせつしゅわっ)=そこで偉大なる智慧の呪文を示そう さあ呪文を唱えよう

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃ てい)=往ける者よ 往ける者よ 悟りの境地に往ける者よ

私は習わぬ経を無心で唱えた。
そのとき、大風が吹いたとて鳴るはずもない地蔵の錫杖(しゃくじょう)が、しゃりんと乾いた音を立てた。

菩提薩婆訶 般若心経(ぼじそわか はんにゃしんぎょう)=悟りよ 幸あれ! これぞ悟りへ導く智慧の要の教えなり


目を開け展望台を眺め、空を見上げた。ついさっきまでなに疑うことなく会話を交わした失った我が子と同い年の亜弥ちゃん。しかし、もう二度と聞くことのかなわぬ声、この目にすることのできない姿。その声に渇きを覚えて空と雲の間になぞってみた。







応援クリックポチッとお願いします。

にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ



$あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」-展望台


「寝ちゃったみたいね」
妻の声に角度を変えたルームミラーには、後部座席で横になる亜弥の姿が映った。どっちに似たのか、一度眠ってしまうと頑として目を覚まさない子だった。
「でも、思った以上に美味しかったわ、あそこのお店」
今夜は久しぶりに家族三人で食事に出かけた帰りだった。
「食事の後片付けやら、洗い物もしなくていいしな」笑って付け足すと、
「そうそう、それが一番のご褒美」と、笑いながら手を叩いた。夕餉(ゆうげ)の家事から解放されたことを、妻はことのほか喜んでいた。
「いつも申しわけないね、食べっぱなしで」
「改まってなに言ってるのよ」ふん、と言った割には嬉しそうな横顔だった。
「でも、やっぱり残しちゃったわ」
「なにを?」
「ピーマンよ。にんじんもそうだけどさ。亜弥の好き嫌いがねぇ……だってさぁピーマンを抜いたら絶対青椒牛肉絲じゃないわよ」ため息混じりに呟いた。
「にんじんやピーマンを食べなくたって死にゃあしないさ。無理強いが一番よくないよ」
「あーあ、甘い父親だなぁ」

七つ下がりの雨。夕方から降り始めた雨は間断なく降り続いていた。しぶきを上げながら倦むこともなく路面を叩く雨は、街灯の光と対向車のヘッドライトに照らされたアスファルトを白く塗り替える。静かな車内はタイヤが水を咬む音と、ワイパーが動く音だけが響いた。
「あの車、なんか変だな」顎をしゃくった前方には、黄色い軽乗用車が足下の定まらない走り方をしている。
「ちょっとよろけてるわね。黄色いエッセなんて女性の初心者かしら」妻がのぞき込むように身を乗り出した。
「追い抜いた方がいいな。それとも先に行かすか……事故ったらたまったもんじゃない」
車間距離を取りながら様子を見た。やがてテールランプを赤くして止まったエッセをヘッドライトが照らした。後方を確認して横を通り過ぎた。路面に溜まった雨をタイヤが切り裂く音がした。
そのときだった。
「ださい!」と叫びにも似た声が篠突く雨を縫って車内に届いた。
「なんか言ってるわよ。それに男の人だわ。不気味だわあの声」ルームミラーを見ると、遠ざかるエッセの窓から男が身を乗り出し、さかんに手を振っているのが見えた。
「おいおい、まさか引っ張ってくれって言うんじゃないよな」
「でも、故障で困ってるなら見過ごせないわねぇ。あぁあぁずぶ濡れになっちゃうわあの人」妻の声に車を止め、ギアをバックに入れた。あ、と妻は口を開いた。
「酒臭かったら戻ってきてよ。飲酒運転に関わり合うのは嫌だわ」
「分かった」と答えてサイドウィンドウを開けた。

「どうしました?!」手庇(てびさし)をかざして窓から半分顔を出した。
「助けてください!」濡れた前髪を振り乱しながら叫ぶ若い男の顔は、ただならぬものがあった。
「え?! どうしたんですか?!」私は大きめの声を返した。
「刺されました!」
「なに! 刺されたぁ?!」
男の顔は人を騙して喜ぶふうはみじんもなかった。あれほど驚愕と苦悶に歪む人間の顔を、私はかつて見たことがない。窓を閉めすぐさま車を降りて駆け寄った。
「動けるか? 今救急車を呼んであげるから」
「僕じゃないんです。明日香が……」震える青年の髪から雨のしぶきが飛んだ。
「知らない男に刺されたんです! 近くに病院はありませんか! 救急車を呼ぼうとしたら携帯がバッテリー切れなんです!」
助手席には、シートに頽(くずお)れる女性の姿があった。
「大丈夫か?!」私はエッセに顔を突っ込んだ。肩を背中を冷たい雨が叩く。ドアにもたせかけたショートヘアーが少しだけ揺れた。まだ息はある。素人がむやみに動かさない方がいいだろう。
「あっくん……ご、めんね」女性の震える声が車内に消え入る。
「しゃべるな明日香!」
「あたし……犯人……知ってる……かも……」
「そんなものは後でいい! じっとしてろ、死んじゃうぞ!」たれる鼻水もかまわぬ男の顔は、泣き崩れる寸前の般若の面を思わせた。
痛いとも言わず、時ひくっと体を震わす女性。出血がひどいに違いない。確か行動半径の中に救急病院があった。救急車を呼ぶより早いはずだ。私は混乱する頭の中で最短距離を探した。

「凶器は奪ってあります。手袋をしてたから犯人の指紋は残っていないかもしれませんが」
「運転はできるな?!」
無理だと答えが返ってきたら、私がエッセを運転するしかない。体を震わす青年がハンドル操作を誤ったら最後、彼女は助かるまい。ワゴンは妻に運転させてそのまま家に帰そう。
「はいできます。ありますか病院! お願いします! 後ろを追いかけます。僕が気づくのが遅れたばっかりに」
「泣いてる暇はないぞ! 彼女のシートベルトを締めて、しっかりついてくるんだ!」
私は車に戻り、雨に濡れためがねを予備のものと交換してスズキのワゴンRを発進させた。

「人が刺されてる。○○病院は救急だったよな」シートベルトを締めながら妻に問いかけた。
「え、どういうこと!」
「話は後だ、人の命がかかってる」
雨ににじむリアウィンドウから、黄色いエッセを視界に捉えつつハンドルを握りしめた。
「病院に着いたら警察には連絡してもらおう。俺がしたっていいし。助手席に乗っている彼女が刺されたらしい。犯人はどうやら顔見知りのようだ」
顔見知りとつぶやき、妻が息をのむ気配があった。

僕が気づくのが遅れたばかりに。青年はそう言っていた。そして彼女はシートベルトを締めてはいなかった。刺された彼女を車に乗せたか、彼女が乗り込んだ刹那男に襲われたのだろう。知ってるかもと言った。犯人はたちの悪いストーカーか知人だろう。縁起でもない話だが、万が一のために犯人の名前は聞いておいた方がよかっただろうか。
妻はスピードを上げる車に怯えるように手すりを掴んだ。制限速度などとうに超えていた。フロントガラスを打つ雨はますます勢いを増し、視界を悪くしていった。

交差点が見えてきた。間に合う。黄色に変わった信号を見てさらに速度を上げた。エッセは付いてこられるだろうか。しかしここはさほど交通量の多い道路ではない。ミラーで後方を確認して交差点に目をやった時、黒っぽい乗用車が左から右へと猛スピードで突っ込んできた。明らかに向こうの信号は赤。
「なんだこの車!」
ブレーキに乗せた右足が重たい空気を踏んだ。動きが緩慢なものに変わる。周りの音が消えてゆく。乗用車のボディがゆっくりと前に迫る。さらにブレーキを踏み込みハンドルを操作したが、制御が効かない。ヘッドライトは古びた乗用車の後部座席から両目を見開きこちらを向く若い女性を映し出した。かばうように男の手がその体を引っ張っり窓から姿が消えた。

ぶつかる。早く行け、早く!
雨を後方にはじき飛ばす乗用車の後輪が見えた。早く行ってくれ。口をぱくつかせるが声は耳には届かない。
テールランプが目前に見えた。自由を失った車が斜めに滑り、ゆっくりと目前に道が開けた。雨の路面を滑るよう尻を振り、交差点を過ぎた。ヘッドライトがゆるりと前方の電柱を捉えた。
右を見た。対向車はない。バックミラーを見た。黄色いエッセがゆっくりと後方に迫っていた。
「亜弥を頼む」
コールタールのように粘つく声も、光りと闇に吸い取られてゆく。やはりハンドル操作は効かない。ワイパーの動きをあざ笑うかのように、雨の粒がプロントガラスに打ちつける。
ヘッドライトに照らされた電柱が、手を伸ばせば届く距離に白く輝いて迫った。視界が大きく左に傾く。
妻がシートベルトを外し後部座席に向かおうとしたとき、スローモーションの世界は終わり、衝撃がすべてを消し去った。





応援クリックポチッとお願いします。
にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ


$あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」-展望台
「さぁ、あなたの心の重しを取りましょう」きらきらと光る妖精が目の前に舞い降りた。
「あなたの一番の悩みはなんですか?」小首を傾げながら微笑む妖精の問いに、私は口を開いた。
「悩みがありすぎてよく分かりません」

「友達はいますか?」しばらく考えた私は首を振った。
「分かりません」

ふむふむと頷いた妖精は、では、質問を変えます! と人差し指を立てた。
「この世で誰が一番憎いですか?」
私は即座に「いません」と答えた。

「それはよろしい。とてもすてきです」、と妖精は笑った。
「質問だけで答えはないんですか?」
いたずらっぽい笑みを浮かべた妖精はまた人差し指を立てた。

「悩みがひとつ解決したら、その先にまた悩みが出てくるのですね?」
「そんな感じです」
「ということは、人はひとつのことでしか悩めない、ということになりませんか?」
「それが何か解決策になるんですか?」
「100の悩みがあっても、目の前に立ちふさがるのはひとつです」
「そうかもしれません」
「残りの99はあなたの心が消したのです」

「意味が分かりません。それに、世の中には解決しない悩みもあります」
「ありません」妖精はにっこりと笑みを浮かべながらも断言した。
「10年前のことであなたは悩みますか? 5年前のことではどうでしょう?」
「悩みはしません。悔やむことはありますが」
「それはもう、悩みでありません。それをあなたは、すべて解決してきましたか?」
「覚えていません」
「すべてを解決などしてきてはいないのです。解決しなくても消える可能性があるのが悩みです。悩むも悩まぬも、あなたの心が決めます。明日を切り開く答えはすべて、あなたの手の中にあるのです」


        ***


「上着、脱いでいいかい?」
「どうぞお楽に」みずきが両肩をひょいとすぼめた。
ダブルのジャケットを脱ぐと、ウエイトレスがすかさず両手を差し出した。
「ごめんね、クロークに預けてくればよかった」
年若いウエイトレスは、いいえ、と微笑んだ。
「みずきは今夜もマティーニか?」
私の問いかけに彼女は短い髪を揺らした。古びたバーのカウンター席だった。
オークの使い込んだ風合いが、店内の沈んだブラウンによく溶け合い、カウンターの奥一面には、バックライトに照らされたボトルの数々が小気味よいぐらいに整然と並んでいた。
奥の中央にステージが設(しつら)えられた店内のキャパシティは80人ほどだろうか。
バンドマンは休憩時間とあってピアノとドラムとウッドベースが店内照明に鈍く映えていた。

「たまにはテキーラが飲みたいわね」
しっとりと潤んだ瞳をこちらに向けると、耳に付いている小さいシルバーリングのピアスがきらりと揺れた。
何年前だろう、どこかの路面店でおふざけのように買ってあげたこのピアスを、みずきはいたく気に入っていた。

世間でいかに評価された物を着ているか、身につけているか、そんなものに価値観を見いだそうとする人間は病んでいるわ。そんなことはどうでもいいの。身につける本人が気に入っていればそれでいいのよ。そこに出来合いの何かをはめ込もうとする人間は哀しいわ。つまらない限定と押しつけは、人を矮小(わいしょう)にするのよ。

「マルガリータか、珍しいな」みずきはまた首を振った。
「というか、キンキンに冷えたテキーラに真っ二つのライムと塩が欲しいわ」人差し指でナイフのまねをする。
「冷えたのがなければオンザロックでも」
「なんかやけになってるのか?」笑いかける私に、ふふっとみずきの含み笑いが返ってきた。
「ヤケにならない方がいいのは、あなたよ」
「よせよ」
ほんと、よしてよねぇ。みずきの言葉がかぶってくる。
「うじうじと悩んで過ごせるほど人生は長くはないわ」

「だったらアニェホがいいね」
「ううん、熟成なんてされてないのがいい、安いのでいいのよ。ブランコでいいわ。チビチビじゃなくてクッと飲みたい」口元でグラスを傾ける仕草に私は微笑んで頷いた。
華奢な体に細いあご。わたしはみずきの口から紡(つむ)ぎ出される物語が大好きだった。

「ブランコのテキーラは冷えてますか?」
「申しわけございません。2年前までは冷やしてあったのですが」
昨日や一昨日ならいざ知らず、2年前とはおかしなことを言うバーテンダーだ。
「じゃあ、グレンフィディックのオンザロックをダブルで。それと隣にブランコのテキーラのオンザロックと、ライムを半分に切ったものと塩を」

「サングリアはつけますか?」バーテンダーの柔らかい声が聞こえる。
黒いベストに、嫌みにならない程度に糊の利いたワイシャツ。襟元には長年使い込んだ風情の蝶ネクタイ。髪の大半は白いものが占め、同じ色合いの蓄えた髭(ひげ)が老練な雰囲気を醸(かも)し出している。
髭を真一文字に引いて微笑んだ老バーテンダーの問いに、彼女はいらないわと呟いた。
即座にサングリアと口にする辺りは手慣れたバーテンダーだ。サングリアと言っても、赤ワインにフルーツを入れたものではない。トマトジュースに唐辛子や塩などを加えものだ。口に含んだ田舎くさいテキーラとこいつを口中でクツクツとシェイクするとえもいわれぬ芳醇な味になる。

「メキシコに?」私の問いに老バーテンダーは、ずいぶん昔ですがと苦笑した。このやりとりだけで今夜は上等な夜だった。
「どうぞ」隣の席にテキーラとライムと塩を置きながらバーテンダーは軽く頭を下げた。

「早いものです」グレンフィディックのオンザロックとチェイサーのグラスを置きながらバーテンダーが眉根を寄せた。
「今日は命日でしたね」
「ご存じでしたか」
「ええ、あの人の歌はよかった。人の心と魂を揺さぶりました。だから、あなたもお見かけしたことがあるんですよ」
「あぁ、私を知っていたんですね。でしたら一杯だけおつきあいしていただけませんか?」
「飲み過ぎはダメよ」即座にみずきの声がする。私は左の頬だけで笑ってみせた。

ベストのポケットから金色の懐中時計を取り出したバーテンダーは、はい、と口元を引き結んだ。掟破りですがと。
バーテンダーが自ら入れたアルマニャックのグラスと、目尻の辺りで乾杯をする。
「みずきさんも乾杯」バーテンはカウンターに置かれたテキーラに軽くグラスを合わせた。
「本当に早いものです。もう2年が過ぎてしまいました」グレンフィディックのグラスを回すとカランと音がした。
「そうですね。もう一度あの人の歌が聴きたいものです」バーテンダーは誰もいないステージに顔を向けた。そして、そこで歌っている人を見るようにきゅっと眼を細めた。横顔がボトル棚の光りに照らされて、細いシルエットになった。
そのときようやく2年前までブランコのテキーラを冷やしていたという意味に気がついた。

「みずきさんの歌が」
バーテンダーの声に、私は隣の席にそっと手を乗せた。温もりのないレザーチェアーの感触だけが、左の手のひらを押し返してきた。

─FIN─




応援クリックポチッとお願いします。

にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ


EGO-WRAPPIN' - Midnight Dejavu~色彩のブルース~





作曲:Masaki Mori & Yoshie Nakano
作詞:Yoshie Nakano

昨日の夢 オレンジ色の翳り
今日の夢 沈黙の気配示す
アルコールの川をゆっくり渡る
長ぐつのリズム 心で酔いましょう

鉛の指から流れるメロディー
激しく染める光の渦
あかりの色が奏でるブルース
やさしく泣いてる吐息に 甘えさせて…

目に浮かぶ 裏通りの風景画
ひしめきあう しゃがれた声の洪水
モノクロームの中に封じ込めた姿を
遠い約束 リズムでかわしましょう

吐きだす言葉に 熱いメロディー
切なくよみがえる デジャブの香り
心を溶かす 色彩のブルース
甘くささやいた吐息が 眠るまで…

鉛の指から流れるメロディー
激しく染める光の渦
あかりの色が奏でるブルース
やさしく泣いてる吐息に 甘えさせて…

吐きだす言葉に 熱いメロディー
切なくよみがえる デジャブの香り
心を溶かす 色彩のブルース
甘くささやいた吐息が 眠るまで…


$あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」-テキーラ・オン・ザ・ロック

【中日新聞 社会面】 4月13日
12日午後7時すぎ、愛知県一宮市相生2丁目の民家で、この家に住む無職塩田みえさん(65)が頭から血を流して死んでいると、帰宅した会社員の次男庄司さん(41)から110番通報があった。
庄司さんの妻裕恵さん(38)はパートに出ており、塩田さんは一人でいたとみられる。頭に数カ所殴られた跡があるといい、愛知県警は殺人事件とみて捜査を始めた。
相生署によると、塩田さんは息子の庄司さんと庄司さんの妻裕恵さんと3人暮らし。2階建て住宅の1階北側にある6畳仏間でうつぶせに倒れていた。
救急隊員が駆けつけたときには塩田さんはすでに死亡していた。室内で凶器とみられる血の付いた金づちが見つかったという。室内には土足痕と物色された跡があり、物取りによる犯行とみられている。
庄司さんによれば、日頃から塩田さんには多額の現金は預けておらず、それが凶行につながった可能性もあるとみている。
被害の状況は分かっていないが、仏壇の横に置いてあった、庄一さんの官帽子がなくなっていたという。同署は庄司さんらから事情を聴くとともに、13日に遺体を司法解剖して詳しい死因を調べる。
近所の女性(67)は「塩田さんは、夫で名古屋鉄道に勤務していた庄一さんを10年ほど前に交通事故で亡くしていた。物静かで、周りから恨みを買うような人ではない。こういう事件が起きると不安で眠れない」と話した。

               ***

菅原君と入れ違うように、お昼ちょうどに秋山さん親子がやってきた。
「秋山さん、そろそろかもしれませんね」声をかけると、秋山さんが顎を引くように頷いた。
「実は昨夜、亜弥には話したんです」
「そうですか。で、どうでした」
亜弥ちゃんは離れたところに座り、足をプラプラさせながら町並みを眺めている。その後ろ姿は、われわれが大人同士の話をしているということに気づいている背中だった。

「亜弥なりに納得してくれたようです」秋山さんは眩しそうに眼を細め、空を眺めた。今日も晴れ渡り、まばゆい日差しが展望台に降り注いでいた。
「そうですか」私は小さく頷きながら、無理なものを背負ってしまった亜弥ちゃんの細い背中を見た。
「お母さんが生きていればそれでいいって、そう言いましてね」
風に乗って鼻歌が聞こえてくる。けっして楽しくて口ずさんでいるわけではないだろうに。

「自動車事故のような気がしてならないんです」秋山さんはちょっと眉根を寄せた。ここで促す言葉を掛けてはならない。
「最後はしっかりお見送りさせていただきますよ」
「はい、よろしくお願いします」
「秋山さん、この町にはいろんな人たちがやってきます。いや迷い込んでくるといったほうがいいのかもしれません。もう長く、かつて住んでいた家と同じ造りのところに一人で暮らしている人たちも多い。その中でもこの丘に気づき惹かれるように登ってくる人たちは恵まれています。ここにおいでと声を掛けることは私にはできないのです」ゆっくりと地蔵公園の展望台を見渡した。秋山さんは静かに頷く。

「私たち親子が死んだのは冬だったのかもしれません」秋山さんの声に先を促すように手のひらで隣を指した。それに応えるように古びたベンチがギシッと鳴った。
「ハンガーに掛かっていたのが冬物だったからです。でも、目覚めた朝すぐにここに来たんですよねぇ」思い出すように口元をとがらせた。
「必ずしも季節や時間が連動しているとは限りません。この展望台で私も冬も過ごしたような気がするんですが、いつも初夏から夏のような気もします。季節なんてこの町を訪れる人たちには関係ないのでしょう」なるほど、とつぶやきが聞こえる。
「でも、駅長さんがいてくれて助かりました」
「いやなに、これが私の仕事です」

この展望台から今まで何人送り出してきただろう。不慮の事故でなくなった人、事件に巻き込まれた人、病死した人、自殺者、犯罪者。
「秋山さん、西に向かって歩いたことはありますか?」
「いえ、ないんですよ」
「この町の西側にJRの駅なんて、きっとないんですよ。岬に灯台が見えますよね」指さした右手の先を秋山さんの視線が追う。
「あれにたどり着くこともできないんです」
「あっても意味がない……そんな感じなんですかねぇ」
「そうです。この小さな町で完結してるんです。世界中探したってどこにもない、地図にない町なんです。だから西に向かって歩いていくとやがて東側の道路に出るんです」
「試したことがあるんですか」
「はい」塩田さんからそう聞いて歩いてみたことがあった。
「ずっと歩いていくとカーブがあるんです。それを曲がるとまたこの丘と灯台が見えるんですよ」

私はポケットを探り小銭を取り出した。
「亜弥ちゃん」私の呼びかけに亜弥ちゃんは振り返り、ちょっとだけ大人になったほほえみを浮かべた。
「喉は渇いてないかい? 何か買っておいで」亜弥ちゃんは、うん、とベンチから飛び降り、走ってきた。

「駅長さんは?」
「ああ、おじさんは大丈夫だよ。秋山さんもよかったらどうぞ」秋山さんは、いえ私はと手を振りほほえんだ。
「お兄ちゃんにさよならを言ってくる」小銭を握った亜弥ちゃんは、ピンクのワンピースと 長い髪を風になびかせながら走っていった。
「お母さんが生きていればそれでいいって、健気(けなげ)な言葉ですね。いいお子さんにお育てになった」私は万感の思いを込めて秋山さんに右手を差し出した。

ベンチに腰をおろし午後の12時50分を指した腕時計を確認した。今日で終わるなら時間は延ばさなくてはならないだろう。
「お母さん」亜弥ちゃんが呼びかける。これがあの子の最後の呼びかけになるのだろうか。吐いた息が少し震えた。

「亜弥、お父さんにつかまりなさい!」
その声に応えるように、亜弥ちゃんが父親の背中に左手を回してぎゅっと掴んだ。塩田さんにも聞いたことがないケースだが、秋山さんは自分の死の瞬間を思い出したのかもしれない。ちらりと腕時計をに目をやり、二人の後ろ姿を見つめた。

この丘にやってくる人たちがどのような死に方をしたのかは、私には分からない。それは本人たちも同様だ。直前までの記憶を持った人もいれば、数ヶ月単位の記憶を失っている人もいる。己の死にまつわる出来事が展開された期間の記憶を、きれいに失っているのだ。これを塩田さんは、ここでなぞることが必要だからだと言った。
だから私も自分の死に様は知らない。ただ、愛する人がいないことを相手が死んだと一様に思い込むらしい。その死の状況さえ知らないのに。

死の形がどうであれ救済されるのだと塩田さんは語っていた。自殺という人生設計はあり得ないから、それは時間がかかるがな、と付け加えて。
懺悔に値するようなことを自分がしてきたのなら、死の後にそれが見えるのだそうだ。人様に与えたものと同じ痛み、同じ苦しみを味わうんだ。それを地獄と言うんだよ。だが、必ず赦されるのだと。

二十年前、フラッシュバックのように見えた炎。私の死は火に関係があることだけは想像がつく。火といえば火事が思い浮かぶが、妻は神経質なくらいに火の元や戸締まりを確認する人だった。
だとするなら放火や他家からの延焼か。燃えてなくなってしまった我が家に私は住み続けているのだろうか。今考えても栓(せん)ないことだ。ただ、幸せに暮らしていた家族三人が、突然不幸に巻き込まれたことに変わりはない。
妻と子が無事に生き延びていればよいがと気にかかる。私はいつも、彼女らの年齢を数え続けてきたのだから。

「終わっちゃったよ」亜弥ちゃんが双眼鏡から目を離した。
いや終わってはいない。時間は延ばした。それを証明するように秋山さんは双眼鏡を見つめ続けている。おそらく亜弥ちゃんは眠ってしまったのだろう。

「止まれ! 止まれ! ここで曲がってしまえ!」秋山さんが声を張り上げた。その右足は明らかに車のブレーキを踏み、左手はハンドルを切っている。
「ダメだぁ! 亜弥、つかまれ!」
「お父さん……」亜弥ちゃんが不安そうに見上げる。いよいよ来たんだな、私は唇を引き締めた。
「あぁ……ごめん、いいんだな、これでいいんだよな」秋山さんが亜弥ちゃんの背中を撫でた。
きわめて珍しいケースだが、やはり彼はその時点にたどり着く前に、死の瞬間を完全に思い出している。そしてそれを回避しようとしていたのだ。何と悲劇的なことだろう。それは実際の死よりも苦しいことに違いない。しかし、それをなぞらぬことには先へは進めないのだ。私は痛ましさのあまりズボンの膝を掴んだ。

「駅長さん、ありがとうございました!」望遠鏡をのぞき込んだまま秋山さんが叫んだ。「秋山さん、亜弥ちゃん、また、どこかで会いましょう!」私は立ち上がり声をかけた。
「亜弥ちゃん、望遠鏡は見なくていいからお父さんにつかまっていなさい」私は呼びかけた。
亜弥ちゃんが振り返った。バイバイなの? 口がそう動いている。私は大きく頷いた。何事か思い詰めたように亜弥ちゃんが足元に視線を落とす。私はたまらず二人に向かって走った。

「この車やっぱり来た!」秋山さんの右足がまた動く。
「亜弥、亜弥、行くぞ!」右足を思い切り踏みこむ姿勢を取る秋山さんと、父親につかまる亜弥ちゃんの姿は、たどり着く前に展望台から消えた。

最後に恐怖と闘う秋山さんの肩を抱いていてあげればよかった。心細そうだった亜弥ちゃんの背中も……。
涙で景色がぼやけたとき、地蔵公園の蝉時雨が耳に蘇った。





ポチッとお願いします。
にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ



【読売新聞 社会面】 11月12日
7日、荒川区町屋の交差点付近における追突事故の続報。
軽乗用車を運転中、事故で死亡した菅原明人さん(23)の車内から刃渡り15センチの包丁が見つかり、鑑定の結果、付着していた血液が同乗者の大久保明日香さん(20)のものと判明。大久保さんは脇腹に刺し傷があり、爪にこびりついていた皮膚片から抵抗の形跡と見て、荒川署はDNA鑑定を急いでいる。
凶器とみられる真新しい包丁からは菅原さんの指紋が採取され入手経路を調べている。友人らの話によると、菅原さんと大久保さんは一時期交際があり、大久保さんは最近ストーカーの陰に怯えていたという。
同署は交友関係も含め捜査を進めると共に、大久保さんの回復を待って事情聴取を行うとしている。

          ***

「終わっちゃったね!」亜弥ちゃんのことさら明るさを装う声がした。
それを潮時のように、ベンチから菅原君が立ち上がった。
「また来ます」頭を下げた菅原君に、私はまたおいでと声をかけた。

「亜弥ちゃん、これを持って行きなさい。広場が暑いようだったらお店で食べてもいいよ」好物だという唐揚げと卵焼きの入ったおにぎり弁当だ。
亜弥ちゃんはその包みを頬の辺りに上げ、ありがとうと笑った。
「いろいろありがとうございます。ゆっくり時間を空けてきたいのですが」と秋山さんは苦笑した。私は頷いた。たった6歳の子供に曲がりくねった真実を理解させるのは難しいことだ。
「違うよーお父さんが訊くんだよ。展望台に行くかって」亜弥ちゃんは下唇をつきだし、長い手足をもてあますように振った。

               ***

「塩田さん、終わる!」
双眼鏡を掴み私は叫んだ。妻と子が穏やかな顔でこちらを見たのだ。過ぎ去った暮らしに接して、すでに二ヶ月が経過していた。
「終わらん! おまえが死の時を見るまで終わらんぞ。もし懺悔があるならその機会も来る」
そのとき私は、眼前にわき起こる炎と嫌な匂いをかいだ気がした。

「ワシもそろそろ歳だ。引導を渡してくれる人はおらんものかね」
塩田さんが呟いたのがあのときだった。全てを聞いて理解した後だったから、私への期待もあったのだろう。私はといえば、未練に似た思いもあったし恐怖心もあった。そのない交ぜの思いが渦巻く中で、やりましょうかという言葉が口をついて出た。
「そうか、あんたが引き受けてくれるならそれが一番だ、いいのか?」私は、塩田さんの憂い顔に頷いた。
「ワシのように、成仏が遅くなるぞ」
私が本当に、この町の駅長の息子だったのか確かめるすべはない。
私が本当に、この丘で幼い頃に遊び、あの砂浜で子供を遊ばせたかも同じだ。

               ***

「今日も来ちゃいました」振り返ると菅原君が立っていた。午前9時、今日はずいぶん早い到着だ。
「来たいときに来ればいいさ」私は立ち上がり、伸ばした腰を拳の甲で叩いた。
「どうしようかなぁって思ってるんです」と展望台を見やり,「覗こうかどうしようか、朝から迷ってるんですよ」と苦そうな笑みを浮かべた。
確かに、連日覗けば別れのときもそれだけ早まる。それは彼とて知っていた。

ともすれば、人は別離という名の切り替えポイントがこの世に存在することを忘れる。愛し合う恋人同士もいつか別れる。熱の冷めた婚姻関係の男女もその可能性はある。しかし、もっと大きい、越えようのない別れがある。それは死別だ。
人はいつか必ず死ぬ。そしてそれは何の前触れもなく唐突に訪れることもある。分岐点を離れたレールは今生では二度と交わらない。なのに、その肝心なものをまるで記憶でも失ったかのように人は置き去りにする。彼は今、それをかみしめているに違いない。

「駅長さんの分も買ってきたんですよ」
菅原君は白い歯を見せて肩掛け鞄から缶コーヒーとお茶を取り出した。差し出されたお茶のペットボトルを私は受け取った。
「おしゃべりだけでもいいじゃないか。ありがたく頂くよ」ペットボトルのキャップをねじった。
「ですよね。話だけでもいいんですよね」子供のような笑顔だった。彼だってもっと話したい想いがあるだろう。

「クリスマスにけんか別れしたんだったね」私は話を向けた。菅原君は照れくさそうに鼻をつまんだ。
「けんか別れじゃないけど、でも、まあ、そんな感じかな。その後に彼氏ができたって噂も立ったりして、内心きつかったですよ、もう終わりなのかなぁって。友達にもさりげなく訊いて回ったりして、落ち着かない日々でした。
でも、単なる噂でした。彼女、僕が声を掛けてくれるることを待ってたんです。どこまで出かけてたの? ずいぶん遅かったのねって言われちゃいました」
「出かけたことにされたか」私は声を上げて笑った。
彼にも、実は死んでいるのは君の方だと告げるときが遠からずやってくる。短い命を惜しむように、展望台に蝉時雨が降り注ぐ。





ポチッとお願いします。
にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ

【読売新聞 社会面】 11月8日
7日午後9時半頃、荒川区町屋の交差点付近において、同区に住む会社員秋山慎太郎さん(39)運転の軽ワゴン車と、練馬区に住む会社員菅原明人さん(23)運転の軽乗用車が追突事故。菅原さんは頭などを強く打ち死亡。秋山さんも全身を強く打ち間もなく死亡した。
軽乗用車助手席にいた大学生、大久保明日香さん(20)は肋骨などを折り出血も多く重体。軽ワゴン車助手席にいた秋山さんの妻絵美子さん(35)は車外に投げ出され右肩の骨を折るなどして重傷。後部座席にいたとみられる長女亜弥さん(6)は助手席の下で見つかり全身打撲の重体である。
荒川署によると、現場は片側一車線の緩いカーブの交差点で、秋山さんの軽ワゴン車が歩道に乗り上げる形で電柱に激突。菅原さんの軽乗用車がワゴン車に追突したとみられる。
昨夜の現場は激しい雨が降り、軽ワゴン車のブレーキ痕が交差点進入直前からあることから、秋山さんの前方不注意による信号見落としか、交差点付近で何らかのトラブルが発生したのではないかとみている。
同署では、目撃者の情報を集めると共に、詳しい事故原因を調べている。

          ***

「見えたかね」
静かな声に振り返ると、後ろに塩田さんが立っていた。その姿は、教え子の受験をじっと見守っていた老教師のようでもあった。
「はい、見えました」頭の整理がつかず呆然としたまま、私はかすれた声で言葉を返した。
「根を詰めずに来たらいい。会いたくなったらまた来ればいいさ」塩田さんは頷き、背中を見せて歩き始めた。
訊きたいことは胸の奥から溢れるように湧いて出たが、一切の質問を拒否する頑なさが彼の肩口からにじんでいた。
「今日は頭を休めなさい。心を落ち着けなさい。少しずつ教えてやろう。少しずつだ」振り向くことなく、塩田さんは遠ざかっていった。

この丘にある展望台の望遠鏡は、過去を垣間見せてくれる覗き鏡だった。その後の塩田さんの説明によれば、必要がある人にしか見えないということだった。見る必要とは何かといえば、それは、未練、そして後悔だった。未練の心があるならばそれを解き放ち、後悔の懺悔は慰めをもたらす。
「ときがくれば、向こうの世界の愛する人たちがこっちを見る。そうさなあ、まるで、これでおしまいだよ、とでも言うようにな。ワシはそこで止めたままだよ、何せ恐がりだからな」塩田さんは大きい口を開けて笑った。

そうやって私はこの望遠鏡の前に立ち、妻と生まれてきた娘と三人、むつまじく暮らす我が家を見てきた。許された時間はたったの五分間、それも日に一度しか会うことはできない。
それからというもの、この展望台に来ることが唯一の楽しみになった。期せずして訪れた邂逅(かいこう)は心の慰めになった。

「未練があるなら、それをやり直すことはできるんですか?」
「それはできない。ありのままを見るだけだ」
楽しくも心の痛むひとときが終われば塩田さんに質問を投げかけ、答えは的確に返ってきた。その話の中で、この望遠鏡の仕組みと意義を教えてもらったのだ。
欠かすことなく通い詰めたある日、死んでしまった妻と娘がこっちを見た。ほほえみを浮かべて、見たのだった。
そのとき娘は6歳、妻は34歳、私は41歳だった。その娘ももう、嫁に行く歳だろう。

「もう一回見る。もう一回!」亜弥ちゃんの声がする。見ると台の上でしきりに足踏みをしている。主義主張を表に出さないあの子にしては珍しいことだった。
幾度でも幾時間でも、かけがえのない人との逢瀬を願うのは人として当たり前の感情だ。ましてや彼らは、死という越えがたい壁に分かたれてしまった。その哀憐(あいれん)の情は、深い海より計り知れず、ひとたび吹けば赤々と燃える炭火のように強い。これは誰にも止めようのない、人が抱える本能という名の悲しみだった。
遠くからシネマでも見るように眺めるだけだった母親が、今日は彼らの方を見たはずだ。思いはよけいに募る。
愛する人の死をかみ砕き、そしてそれを飲み下すことは、人のもっとも不得意とする試練だ。こちらの思惑など顧みることなくとうとうと流れる時間が、忘却の筆で記憶のカンバスを塗りつぶさぬかぎり、色と形を変えながら悲しみは続く。

戸惑ったように振り向く秋山さんを見つめながら、私はゆっくりと頷いた。それを可能にできるのは、塩田さんから譲り受けた私だけの力だった。
「駅長さんが見てもいいって。ありがとうを言いなさい」秋山さんの声にかぶるように、亜弥ちゃんのありがとうの声と弾けるような笑顔が返ってきた。
これでいいんだ。私は自分に言い聞かせた。

全部で四つある望遠鏡のひとつにジーンズにTシャツ姿の年若い男が取り付いている。菅原という名のまだ23歳の若者だった。 
彼は静かにやってきて、愛おしげに望遠鏡をのぞき込み、また静かに去っていく。

「今年成人式だったんですよ。これから楽しい人生が待っていたはずなのに……」
初めて望遠鏡に接した日、菅原君は寂しそうに口元をゆがめた。彼が恋人のことを、表現をあぐねるほどに慈しんでいたことは痛いほど伝わってくる。
「一度分かれたことがあったんですよね」ベンチに座った彼は足下の草をむしり、苦いほほえみを浮かべた。彼の口調はいつも静かだ。
「クリスマスのことです」長い沈黙の後、注ぎ続ける水がいつしかグラスから溢れるように彼は口を開いた。

「張り切ってディナーを予約したんです。と言っても一流ホテルとかじゃなくて、町場のレストランでしたけど」
そこはたいそう流行っているイタリアンのレストランだったという。
「でも、なんて言うんですか? ダブルブッキングですか?」
弾んだ気持ちで訪れた店に二人の席はなかった。当然店側は慌てるが、席は空いていない。それに予約なしの客も店の入り口の椅子に大勢座っていた。あいにくその日は雨だったため、恐縮する支配人に二人が与えられたのが、二階へ上がる階段の脇だった。
「やっと順番が回ってきたけど、彼女は黙々と食べるだけだったんです。まるで、大食い選手権みたいに」情景を思い出したのか、そこで初めて彼は口元に笑みを浮かべた。
「お詫び一品もあったし、予定にないデザートも出てきて普段の彼女なら小さくガッツボーズでも出そうなものなのに、平らげることだけに集中してるみたいでした。話しかけても返事はありませんでした」
「でも、それは君が悪いわけじゃない」
「ええ、そんなこと彼女だって分かりきってるんです。僕にも彼女にも落ち度はなかった。つまらないといえば言葉は悪いけど、ただの感情の行き違いだったんです。何より僕のフォローも足りなかったんです」
「だから、復活したんだろう?」私の問いかけに苦笑しながら頷き、
「今年のクリスマスこそは、と思ってたんですが」と小さい声で付け加えた。
あれから一ヶ月ほどが経つ。彼ら二人の人生ドラマの結末はどこへ向かうのだろう。

「どうも、ありがとうございました」望遠鏡を離れ、こちらに歩いてくる菅原君が律儀に頭を下げた。
「ほれ、これを飲みなさい」彼のために、さっき店からよく冷えた缶コーヒーを持ってきていた。
「ああ、ありがとうございます。では遠慮なくいただきます」菅原君が隣に腰を下ろし、缶のプルトップを引いた。
「二度目も見られるんですね」望遠鏡に取り付く秋山さんと亜弥ちゃんの後ろ姿を見ながら、菅原君がぽつりと呟いた。
君も見たいかと喉まで出かかったが、よい提案ではないことに気づいて口をつぐんだ。
「あぁ、あの親子はもう送り日が近いんだ」
「そうだったんですか」ちょっと眉をしかめ、菅原君は悲しそうに首を振った。
そのうち彼にも伝えなくてはならない。彼は信じてくれるだろうか。しかし、伝えることが私の義務だった。それが、塩田さんから引き継いだ仕事だからだ。





ポチッとお願いします。
にほんブログ村 小説ブログ 短編小説へ