「おやっとさぁ(お疲れさま)ごわす。おいは明後日の第2次総攻撃に決まりもんした。先に靖国に行っとっで、杉浦さぁ(さん)も、きばいやったもんせ(がんばってください)。冥土への道には迷わんようになぁ」
昭和20年4月6日、『皇国の興廃はまさに此の一挙にあり』という、かの有名な連合艦隊指令長官の訓示を受けて、15:20戦艦大和は水上特攻部隊の旗艦として徳山港を出港した。
海軍の立てた計画は、4月6日と7日の第一次航空総攻撃で打撃を与え、戦艦大和が敵の上陸海岸に攻撃を仕掛けつつ、沖縄を守る第32軍が敵を海に追い落とすというものだった。制空権を失い、火力兵力の圧倒的な差から明らかに無謀な作戦だった。陸軍は総攻撃と呼び、海軍は菊水作戦と命名した。
重油の枯渇により、大和は片道の燃料しか積み込んではいなかったとされている。沖縄を往復するための4000トンに対して、軍令部は2000トン以内としたからだ。
が、その命令を現場の軍需部は黙殺した。武士が刀を抜き去った時、すでに刀を収めるべき鞘(さや)を捨てるという行為を、現場はさせたくなかったのに違いない。空タンクに残っている重油を手押しポンプを使って必死で揚げて、大和に搭載したのだ。
しかし軍需部の願い空しく、大和は出港の翌4月7日午後、米艦載機386機の波状攻撃を受けて沈没した。
鳴海は粗末な布団から起き上がった。奇妙な浮遊感と共にめまいが遅う。
「冥土に行く時は、親しかった誰かが迎えに来るそうだ」
「じゃったら、おいが迎えに行きもんそ。三途ん川の手前までなぁ」髭面が笑った。
「短い間じゃったが……」差し出された外園の手を握った。
「おいどんたちは最後まで戦友じゃっでな。時は違えどお国のために見事に散りもんそ。こいまであいがとさげもした(これまでありがとうございました)」
にこやかな顔だった。彼らは本気で、崖っぷちの日本を守ろうとしたのだとその表情から伺える。
「サチは」
「あぁ、もうあん娘(こ)らは帰ったど。杉浦さぁ、熱は下がりきらんでも、明日は富屋食堂でしょちゅ(焼酎)でん飲みもんそ。最後のだいやめ(晩酌)じゃ。トメさんにお別れもせんばならんでな」
☀☀☀
「寒くないかいすみれ。雪は止んだよ」
白い布の盛り上がりから、その手が胸の辺りで組まれていることが分かる。経過時間からして筋肉はすでに硬直しているだろう。
何度もそばまで手を寄せたが、その手に、その体に触れることは、やはり出来なかった。冷えた硬いすみれの体をこの手に覚え込ませることはどうしても出来なかった。
柔らかな温もりだけを記憶しておくことが、すみれの供養になると思えた。それこそがすみれだったから。
さよならをしないままいなくなってしまったすみれ。明日は楽しみにしていたお休みだったのに、あのスーパーの100円ショップやゲームコーナーに、すみれの笑顔が弾けることは2度とない。
2年前からではなく、きっと生まれた時から、自分は父親失格だったのだ。それをすみれが伝えてきた事故死だったのだ。
「鳴海さん、まだ熱が下がっていないのでおやすみになったほうがいいですよ」看護師の声がした。
☀☀☀
腹に響くエンジン音がとどろき、プロペラが巻き起こす風が耳当てを揺さぶる。翼に乗ると狭い操縦席に桜の小枝が飾ってあるのが見えた。それを口にくわえ、操縦席に乗り込んでからそっと膝の上に乗せ、結ばれていた紙を解いた。
君死にたまふことなかれ
またお会いしたいです。
杉浦中尉殿 それまでお元気で 中村佐智
与謝野晶子か、鳴海はふっと笑った。それにサチは中村佐智という名だったのか。しかし、死にゆく者にお元気でとは。
またお会いしたいとはどういう意味だろう? 杉浦の実家があるという東京に墓参に行くということだろうか。それとも靖国神社だろうか。杉浦という人物と中村佐智はこれまでどんな会話を交わしてきたのだろう。
夢から覚めればすみれのいない現実が再び待っている。妻の早紀にもそれを伝えなければならない。隼の機内には、少女たち手作りのマスコット人形が揺れている。鳴海は青く染まった知覧の空を見上げた。
「杉浦中尉殿、今までありがとうございました。ご武運を祈ります!」引き結んだ唇をぷるぷると震わせる整備兵に手を差し出した。遠慮がちに握り返してきたその手は、ごつごつとしていた。
「こちらこそありがとう。隼の調子はどうですか?!」エンジン音に負けないように鳴海も大声を出した。
「最高であります!」
「ありがとう。感謝します!」
プロペラが巻き起こす風によろめきながら、翼の上で整備兵が敬礼をした。鳴海も敬礼を返した。
外ではハンカチが振られる。ゆっくりと、あるいは小刻みに。中には盛りを過ぎた桜の小枝を手にする者もいる。もんぺ姿の知覧高等女学校の生徒でつくる『なでしこ学徒隊』だ。彼女らは校章の撫子からその名前を付けたそうだ。
鳴海は日の丸が描かれた鉢巻きを両手で引き絞った。兵舎を受け持った少女たちの名前が書かれている血染めの日の丸だった。彼女たちは小指を切り、滴る血で日の丸を描き、めいめい名前を書いた。
中村佐智。体に似合わずひときわ大きい朱文字が目に入った。それを額に当てぎゅっと締めた。
整備兵が帽子を回す。隼がゆっくりと風に向かって滑走を始めた。スロットルを全開にした機はゆるゆると滑走路を走る。横一列に並ぶ彼女らの中から、二歩、三歩とつんのめるように、小柄な姿が走り出た。
佐智だ。左手で口元を押さえ、千切れるほどにハンカチが振られている。鳴海は隼から敬礼をした。
「さよなら!」右手を挙げ、鳴海は微笑んだ。
隼の翼に追いすがるように小さな体が走ってきた。
「ダメじゃっち! ダメじゃっち!」隼の翼の後ろを併走する佐智。
「さよならは、ダメじゃっち!」
「佐智! 危ないぞ!」鳴海は声を張り上げた。
つまずいて、どうと倒れたその姿を置き去りにするように、滑走路を走る振動が薄れ、やがて伝わってこなくなった。隼は地上を離れたのだ。
沖縄までの距離は650キロ、飛行時間は2時間あまり。向かう先に薩摩富士と呼ばれる開聞岳(かいもんだけ)が見える。鳴海は身を乗り出すように後ろを振り返った。兵舎の上によじ登り、多くの女学生がまだハンカチを振り続けている。その中に佐智を探したが見つけられなかった。
左に遠ざかって行く開聞岳を、鳴海は何度も振り返った。大隅半島から先は海原だ。点在する島々が時折見えるだけで、これが最後の九州の地になる。
眼前には春の東シナ海が広がっている。もう地上へは戻れない。二度とこの足が大地を踏むことはない。海で泳ぐことも、飯を食うことも、布団で眠ることもない。いや、しかしこれは夢なのだ。
隼の操縦桿を握りしめ、「と号空中勤務必携」を暗唱する。
「─衝突の瞬間─頑張れ神も英霊も照覧し給うぞ 目などつぶって目標に逃げられてはならぬ 目は開いたままだ」
「と号」とは特別攻撃隊を意味する。機体もろとも敵艦に突撃してゆく兵士に目をつぶるなとは……。
☀☀☀
病室に行くと、ひとり部屋の静かな空気に溶け込むように、早紀は目を閉じていた。そばまで歩み寄りその顔を見つめた。意識が戻ったらなんと言えばいいのだろう。
すみれとの対面を終え病室で少し休んだ。その間に考えを巡らせたが、言葉は堂々巡りをするばかりで伝えるべき姿を現すことはなかった。
すみれが死んだことを早紀は噛み砕き、受け入れるだろうか。その葬儀にすら出られないことを納得するだろうか。窓の外は先ほどまでちらついていた雪が止み、濃淡を織り交ぜた灰色の空が広がっていた。
「あなた」妻の声に鳴海は不意を喰らった。
「ごめんなさい。あたしのせいで」
「いや、無事で何よりだよ」
「すみれはまだ治療中だそうです。まだ子供だから急激な加療はできないらしくて、時間がかかるそうです。様子を見に行くことはできるのかしら」早紀の声はか細く、その頬はやつれたように見えた。
「先生に訊いてみよう。それより体調はどうだい?」
「ええ、頭が重いけど大丈夫。あたしが会いに行っていいかどうかも訊いてください。意識が戻っていたらかわいそうだから、早く会いに行ってあげなくちゃ。あの子」早紀が窓の外に頭を向けた。
「あなたに似て寂しがりやだから」
言い終わるやいなや、妻は意識を失うように眠りに就いた。後遺症が残らないことを祈るだけだった。
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