【中日新聞 社会面】 4月13日
12日午後7時すぎ、愛知県一宮市相生2丁目の民家で、この家に住む無職塩田みえさん(65)が頭から血を流して死んでいると、帰宅した会社員の次男庄司さん(41)から110番通報があった。
庄司さんの妻裕恵さん(38)はパートに出ており、塩田さんは一人でいたとみられる。頭に数カ所殴られた跡があるといい、愛知県警は殺人事件とみて捜査を始めた。
相生署によると、塩田さんは息子の庄司さんと庄司さんの妻裕恵さんと3人暮らし。2階建て住宅の1階北側にある6畳仏間でうつぶせに倒れていた。
救急隊員が駆けつけたときには塩田さんはすでに死亡していた。室内で凶器とみられる血の付いた金づちが見つかったという。室内には土足痕と物色された跡があり、物取りによる犯行とみられている。
庄司さんによれば、日頃から塩田さんには多額の現金は預けておらず、それが凶行につながった可能性もあるとみている。
被害の状況は分かっていないが、仏壇の横に置いてあった、庄一さんの官帽子がなくなっていたという。同署は庄司さんらから事情を聴くとともに、13日に遺体を司法解剖して詳しい死因を調べる。
近所の女性(67)は「塩田さんは、夫で名古屋鉄道に勤務していた庄一さんを10年ほど前に交通事故で亡くしていた。物静かで、周りから恨みを買うような人ではない。こういう事件が起きると不安で眠れない」と話した。
***
菅原君と入れ違うように、お昼ちょうどに秋山さん親子がやってきた。
「秋山さん、そろそろかもしれませんね」声をかけると、秋山さんが顎を引くように頷いた。
「実は昨夜、亜弥には話したんです」
「そうですか。で、どうでした」
亜弥ちゃんは離れたところに座り、足をプラプラさせながら町並みを眺めている。その後ろ姿は、われわれが大人同士の話をしているということに気づいている背中だった。
「亜弥なりに納得してくれたようです」秋山さんは眩しそうに眼を細め、空を眺めた。今日も晴れ渡り、まばゆい日差しが展望台に降り注いでいた。
「そうですか」私は小さく頷きながら、無理なものを背負ってしまった亜弥ちゃんの細い背中を見た。
「お母さんが生きていればそれでいいって、そう言いましてね」
風に乗って鼻歌が聞こえてくる。けっして楽しくて口ずさんでいるわけではないだろうに。
「自動車事故のような気がしてならないんです」秋山さんはちょっと眉根を寄せた。ここで促す言葉を掛けてはならない。
「最後はしっかりお見送りさせていただきますよ」
「はい、よろしくお願いします」
「秋山さん、この町にはいろんな人たちがやってきます。いや迷い込んでくるといったほうがいいのかもしれません。もう長く、かつて住んでいた家と同じ造りのところに一人で暮らしている人たちも多い。その中でもこの丘に気づき惹かれるように登ってくる人たちは恵まれています。ここにおいでと声を掛けることは私にはできないのです」ゆっくりと地蔵公園の展望台を見渡した。秋山さんは静かに頷く。
「私たち親子が死んだのは冬だったのかもしれません」秋山さんの声に先を促すように手のひらで隣を指した。それに応えるように古びたベンチがギシッと鳴った。
「ハンガーに掛かっていたのが冬物だったからです。でも、目覚めた朝すぐにここに来たんですよねぇ」思い出すように口元をとがらせた。
「必ずしも季節や時間が連動しているとは限りません。この展望台で私も冬も過ごしたような気がするんですが、いつも初夏から夏のような気もします。季節なんてこの町を訪れる人たちには関係ないのでしょう」なるほど、とつぶやきが聞こえる。
「でも、駅長さんがいてくれて助かりました」
「いやなに、これが私の仕事です」
この展望台から今まで何人送り出してきただろう。不慮の事故でなくなった人、事件に巻き込まれた人、病死した人、自殺者、犯罪者。
「秋山さん、西に向かって歩いたことはありますか?」
「いえ、ないんですよ」
「この町の西側にJRの駅なんて、きっとないんですよ。岬に灯台が見えますよね」指さした右手の先を秋山さんの視線が追う。
「あれにたどり着くこともできないんです」
「あっても意味がない……そんな感じなんですかねぇ」
「そうです。この小さな町で完結してるんです。世界中探したってどこにもない、地図にない町なんです。だから西に向かって歩いていくとやがて東側の道路に出るんです」
「試したことがあるんですか」
「はい」塩田さんからそう聞いて歩いてみたことがあった。
「ずっと歩いていくとカーブがあるんです。それを曲がるとまたこの丘と灯台が見えるんですよ」
私はポケットを探り小銭を取り出した。
「亜弥ちゃん」私の呼びかけに亜弥ちゃんは振り返り、ちょっとだけ大人になったほほえみを浮かべた。
「喉は渇いてないかい? 何か買っておいで」亜弥ちゃんは、うん、とベンチから飛び降り、走ってきた。
「駅長さんは?」
「ああ、おじさんは大丈夫だよ。秋山さんもよかったらどうぞ」秋山さんは、いえ私はと手を振りほほえんだ。
「お兄ちゃんにさよならを言ってくる」小銭を握った亜弥ちゃんは、ピンクのワンピースと 長い髪を風になびかせながら走っていった。
「お母さんが生きていればそれでいいって、健気(けなげ)な言葉ですね。いいお子さんにお育てになった」私は万感の思いを込めて秋山さんに右手を差し出した。
ベンチに腰をおろし午後の12時50分を指した腕時計を確認した。今日で終わるなら時間は延ばさなくてはならないだろう。
「お母さん」亜弥ちゃんが呼びかける。これがあの子の最後の呼びかけになるのだろうか。吐いた息が少し震えた。
「亜弥、お父さんにつかまりなさい!」
その声に応えるように、亜弥ちゃんが父親の背中に左手を回してぎゅっと掴んだ。塩田さんにも聞いたことがないケースだが、秋山さんは自分の死の瞬間を思い出したのかもしれない。ちらりと腕時計をに目をやり、二人の後ろ姿を見つめた。
この丘にやってくる人たちがどのような死に方をしたのかは、私には分からない。それは本人たちも同様だ。直前までの記憶を持った人もいれば、数ヶ月単位の記憶を失っている人もいる。己の死にまつわる出来事が展開された期間の記憶を、きれいに失っているのだ。これを塩田さんは、ここでなぞることが必要だからだと言った。
だから私も自分の死に様は知らない。ただ、愛する人がいないことを相手が死んだと一様に思い込むらしい。その死の状況さえ知らないのに。
死の形がどうであれ救済されるのだと塩田さんは語っていた。自殺という人生設計はあり得ないから、それは時間がかかるがな、と付け加えて。
懺悔に値するようなことを自分がしてきたのなら、死の後にそれが見えるのだそうだ。人様に与えたものと同じ痛み、同じ苦しみを味わうんだ。それを地獄と言うんだよ。だが、必ず赦されるのだと。
二十年前、フラッシュバックのように見えた炎。私の死は火に関係があることだけは想像がつく。火といえば火事が思い浮かぶが、妻は神経質なくらいに火の元や戸締まりを確認する人だった。
だとするなら放火や他家からの延焼か。燃えてなくなってしまった我が家に私は住み続けているのだろうか。今考えても栓(せん)ないことだ。ただ、幸せに暮らしていた家族三人が、突然不幸に巻き込まれたことに変わりはない。
妻と子が無事に生き延びていればよいがと気にかかる。私はいつも、彼女らの年齢を数え続けてきたのだから。
「終わっちゃったよ」亜弥ちゃんが双眼鏡から目を離した。
いや終わってはいない。時間は延ばした。それを証明するように秋山さんは双眼鏡を見つめ続けている。おそらく亜弥ちゃんは眠ってしまったのだろう。
「止まれ! 止まれ! ここで曲がってしまえ!」秋山さんが声を張り上げた。その右足は明らかに車のブレーキを踏み、左手はハンドルを切っている。
「ダメだぁ! 亜弥、つかまれ!」
「お父さん……」亜弥ちゃんが不安そうに見上げる。いよいよ来たんだな、私は唇を引き締めた。
「あぁ……ごめん、いいんだな、これでいいんだよな」秋山さんが亜弥ちゃんの背中を撫でた。
きわめて珍しいケースだが、やはり彼はその時点にたどり着く前に、死の瞬間を完全に思い出している。そしてそれを回避しようとしていたのだ。何と悲劇的なことだろう。それは実際の死よりも苦しいことに違いない。しかし、それをなぞらぬことには先へは進めないのだ。私は痛ましさのあまりズボンの膝を掴んだ。
「駅長さん、ありがとうございました!」望遠鏡をのぞき込んだまま秋山さんが叫んだ。「秋山さん、亜弥ちゃん、また、どこかで会いましょう!」私は立ち上がり声をかけた。
「亜弥ちゃん、望遠鏡は見なくていいからお父さんにつかまっていなさい」私は呼びかけた。
亜弥ちゃんが振り返った。バイバイなの? 口がそう動いている。私は大きく頷いた。何事か思い詰めたように亜弥ちゃんが足元に視線を落とす。私はたまらず二人に向かって走った。
「この車やっぱり来た!」秋山さんの右足がまた動く。
「亜弥、亜弥、行くぞ!」右足を思い切り踏みこむ姿勢を取る秋山さんと、父親につかまる亜弥ちゃんの姿は、たどり着く前に展望台から消えた。
最後に恐怖と闘う秋山さんの肩を抱いていてあげればよかった。心細そうだった亜弥ちゃんの背中も……。
涙で景色がぼやけたとき、地蔵公園の蝉時雨が耳に蘇った。
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