口に運びかけた五角形のオールドファッショングラスの中で、琥珀色の液体をまとったロックアイスが軽やかな音を立てた。
ほのかに甘みを感じさせてくれるその液体を口に含み、ゆっくりと飲み下す。舌先から胸元へ焼けるような刺激が通り過ぎた後、オーク樽とカラメル、バニラのフレーバーが口中と鼻腔に満ちる。
グラスを置き、煙草に手を伸ばしたとき、耳元で声がした。
「ジャジャーン!」
「まぁた、お前かよ」振り向きもせず、僕はゆっくりと首を振った。
うわ、またときたかぁ……
肩口をふわりと舞い、テーブルの上に仁王立ちした身の丈15センチぐらいの成人だか未成年だか判別しがたい女の子は、ま、いいわと呟き、うふふと笑った。
それから白くてふっくらとした自分の左頬をツンツンとつついた。
「うん? 今度は何の真似だい」
「チュよチュ」
「チュ?」
「お礼のチュ」口元をとがらせる。
「お礼のチュ?」
「そそ」
「あんたにお礼を言わなければならないようなことを、僕はしてもらったっけ?」
ひえ、妖精界のマドンナに向かってあんたかぁ……
下唇をとがらせた成人だか未成年だか判別しがたい女の子は、ふっと息を吐くと同時に気を取り直したように両手を後ろで組んであごを引いた。
「あるときあなたは一冊の本を手にした」
「本? だいたいあるとき僕は一冊の本を手にするんだけど……いったいどれのことだろう」椅子の背に背中を預け、本棚を見た。
「じーっと立ち読みしてたでしょ。食い入るように見てたわ。まるでグラビアの水着からこぼれる誰かさんのおっぱいに食いつくみたいに」
「それ、たとえがおかしくない?」
「ちっとも」
「そか、ま、いいや。で、いつの話しなんだろう」
「3年前。決してお勧めはしないけど煙草吸ってもいいのよ。手が宙で止まっているわ」
ああ……それはどうも。
僕はマルボロに火を付けた。
「しかし、随分古い話を持ち出すんだな……3年前に手にした本ねぇ……」
僕は紫に煙るマルボロの煙の向こうに霞(かす)む書棚を、なおも見た。
なにやら目論(もくろ)み顔の、成人だか未成年だか判別しがたい妖精は、空気音とともに鼻先を持ち上げたかと思うと、人差し指を立ててひときわ大きな声を出した。
「この世に克服できない悩みはありません!」
「しっ! ちょっとうるさいんだけど。もう夜中だよ」僕は人差し指を唇に当てた。
「あら、転調に失敗しちゃった。失礼」
「克服できない悩みはないかぁ……読んだような気がするなあ」
「今もあなたの本棚にちゃんと収まっているわ。あなたの永遠の生命の中にもね。だからあなたは今、呑気(のんき)にお酒を飲んでいるわ」
妖精はふわりと舞い背中を見せた。羽が緩やかに上下している。
「もしも人生が初めから終わりまで楽にいったら、もしも乗り越えるべき困難もなく、耐え忍ぶべき試練もなく、克服すべき障害もないとしたら」
一人で悦に入(い)って身振り手振りを交えている。それも後ろ向きのままに。
ミュージカルかと突っ込みを入れたくなったが、やめた。
「お尻ちっちゃいんだね」
「突っ込みどころはそこじゃない!」
妖精はキッと振り返り、肩越しに見せた眉を凛々(りり)しくさせた。
「あぁあぁ……読んだ読んだ。誰の本だかは忘れちゃったけどね。で、続きは?」
「そこには何の進歩も得られないことになります」
妖精の肩が再び上がった。どうやら再び大きく息を吸ったようだ。
「おっきい声は出さなくても聞こえてるから。夜中だし」
「あらそう」
くるりと振り向いた妖精は微笑み、ワイルド・ターキーの瓶の上にふわりと座った。
「この世に克服できない悩みはありません。ですから、悩んではいけないのです。
征服できない困難はないのです。
力の及ばないほど大きな出来事は、何ひとつ起きないのです」
妖精は一つひとつ念を押すかのように、人差し指を顔の横で振った。
「それが何でお礼のチュウに繋がるのかな」
「あの本に導いたのは、何を隠そう、わ・た・し」
言葉に合わせるように鼻の先を三度つついた。
「あの時のあなたが普通の書店に行くとも思えなかったから、古本屋に並べさせるのに随分苦労したのよ。
だってわたしが直接置きに行くわけにもいかないしね。でもあなたは、きっと買うって思った。ご飯を抜いてでも、買うって信じた」
「だから、その本を売りに行った人にも細工をしたと?」
「細工というと怪しげだけれどね」妖精は小鼻をうごめかしながらコクコクと頷いた。
「あなたは、端から端まですべての背表紙を読んでいったわ。そして、時々抜き出しては何行か読んで棚に戻した。あなたは数時間をそこで過ごした」
「うんうん、3年前は確かに暇だった。時間はあったけど、お金はなかった」
「さあ、力強く前進してください」
妖精は再び舞い上がった。
「最善を尽くすことです。それ以上のことは人間に求められていません。しくじった時は立ち直ればよいのです。以上!」
その言葉を、僕は確かに、思い出していた。
「さあ、これからはわたしの助言よ。
あなたを打ちのめそうとするすべてのものは、自分自身の中から現れることをあなたはすでに知っているわ。
だから、怨んでも憎んでも、愚痴を言っても陰口をたたいても何も好転しないどころか、かえって泥沼にはまることもね。
肉体に縛られた自我を捨て去りなさい。真我に目覚めなさい。
暴力、虐待、欺瞞(ぎまん)、搾取、妬(ねた)み嫉(そね)み、裏切り、無関心、果てしのない欲望、愛を忘れた利己の世界。あなたの目に映る世界があなたの目に好ましくないのなら、その責任は他の誰でもなくあなたにあるわ。
ちなみに好きな言葉は何?」
「大丈夫」
「うん、あなたもいくらか進歩したわ。
さぁ、あなたは無敵よ。自由に生きなさい。恐れることなく進みなさい。いつでも愛を忘れず優しく清らかに生きなさい。困った人には手を差しのべなさい。
助けることができたかどうかより、すべての計算を捨て去って全力で手を差し出す勇気が何より大切なのよ。それがきっとあなたが生まれてきた意味を教えてくれるはず。
この世は幻想よ。それでもなお、今という一瞬を正しく生きなさい。
以上の助言は妖精toあなたよ。
あ、それから、知っていると思うけど、最善を尽くすって、思うほど簡単なことじゃないからね。だから、ここぞというときは最大限の力を発揮しなさい。
いつも自分に問いかけなさい。これが最善か? これで全力なのか? とね。それは疲れることだけれど、心が、精神が、魂が、喜ぶわ。それは必ずその身を軽くしてくれる。
それ以外の時は、遊びなさい。人生を楽しみなさい。幸せになりなさい。
あなたの中に眠る、あどけない、疲れを知らない少年を蘇(よみがえ)らせなさい。
わたしはいつも、あなたのそばにいるわ。あまり気のりしていないようだから、チュは今度にお預けね」
煙草を灰皿に置き、本棚に向かった。ひと通り眺め回してから一冊の本を抜き出した。
正方形に近い小振りのその本は、他の文庫本からはみ出た部分が茶ばんでいた。
シルバーバーチ〝今日のことば〟
帯に「いつも あなたの そばに」と書かれていた。
うふふ、と成人だか未成年だか判別しがたい妖精の、優しげな笑い声が聞こえた気がした。
─ FIN ─
引用 シルバーバーチ「今日のことば」近藤千雄 訳編 103頁 株式会社ハート出版
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