「今日はどこかへ出かけるの?」階下に降りると、朝食の準備をする母が台所から振り返る。
「特に用事はないけど、ちょっとぶらっとしてくる。ごめんね、朝ご飯は帰ってから昼飯で食べるよ」
「うん、いいのよ。お父さんも食欲がないっていうから、これは夕飯の下ごしらえよ」
夕飯は何? とは訊けなかった。アリも僕も大好きだったものに決まっているから。
「遠くまで出かけるの?」
「いや、特には決めてないよ」
出かける先は、かつて住んでいた町の本屋、とは口にしなかった。すぐに読めそうな軽めの文庫本でも買って、僕らが幼かった頃に、家族でよく遊んだ公園でアリに語りかけよう。

「何かおなかに入れて行きなさいよ。トーストでも焼く? すぐにできるわよ」こめかみの汗を手の甲で押さえた母は、少し疲れた笑いを見せた。
「いや、僕も食欲ないし」
「そ」母は小さく呟き、缶コーヒーだけじゃダメよ、とまな板に向かった。
誰の悲しみが一番癒えていないのだろう。父だろうか、それともやはり、この人だろうか。襟元の後れ毛あたりに汗をにじませたその横顔を、僕は少しだけ見つめた。
今夜はきっと陰膳が並ぶ。どこかに出かけたわけでもないけれど、妹が旅先で飢えないように、無事に戻ってきますようにと。
「父さんは?」
「散歩してくるって、さっき出かけたわ」
今日が亜里沙の誕生日だということを、母はもちろん父だって知っている。けれど誰もが忘れたように振る舞う。
傷つけ合わぬように。それでも、忘れぬように。それぞれが言葉もなくこの日を祝い、心の内で深く弔う。
テーブルに乗る陰膳にしたって、誰も何も言わない。「多く作り過ぎちゃったから」母がぽそりと口にするだけだ。

家を出たとたんに、8月の日差しが襲ってくる。今日も暑くなりそうだ。
日陰を選んで歩き、私鉄の駅が近づいたとき、尻ポケットの携帯がメールの着信を知らせた。
アドレスが表示される。
arisa.263@……
〈おにいちゃん('-'*)オハヨ♪ お誕生日プレゼントはなにかな? 奮発してね (´0ノ`*)ホッホッホ!!〉
これはいったい、なんだ……。
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