最近、他人の人生の転換点に良く立ち会わせてもらっています。

 

人によって、転換点は違うかと思うのですが、

私の中で一つの基準があります。

 

それは「奪う人生から、与える人生」に変わった時、

転換点が訪れたな、と私は認識します。

 

そして、与える人生になった人は、多くのサポートを必要としなくなります。

 

あなたはどちらの人生を生きていますか?

 

人から奪う人生を生きる人の特徴は、「被害者」になることです。

 

~が悪いから

~のせいで

 

外に原因があると思っている = 周りが何か与えてくれていると思っている

 

この状態ですと、自分の感情の起伏が激しいので、精神的な面でのサポートが必須です。

しかし、こういう人のサポートはとても疲労します。

なので、私も軽いタッチしかしません。

 

与える人生を生きている人は、与えられた環境・能力で自分が今何が出来るか、を考えている人です。

 

自分の中に与えられるものがあると知っている = 周りに対して影響を与える

 

こういう人は、あとは能力的に足りない部分のみ補強をすればいいので、

サポートする方も勉強になります。 

 

あなたは、どちらの人生を生きていますか?

転換点、迎えていますか?

言葉の暴力:

と聞くと、どのようなことを思い浮かべますか?

「罵声」 「怒鳴り声」 「罵り」・・・

そのようなわかりやすいもの意外に、

「愚痴」 「悪口」 「妬み」

もっと遠回りに

「自分が被害者であることを訴え続ける」

というものまであります。

「自分が被害者であることを訴え続ける」ことのどこが暴力なのでしょうか?

このような言葉を発する人の【意図】は、

・相手を思うようにコントロールしたい、動かしたい

という【支配欲】です。

「罵声」「怒鳴り声」は何のためにあげますか?
相手をコントロールするため、ですよね?

すなわち、どちらも、
相手を自分の思うようにコントロール・支配したい
という【意図】は一緒なのです。

相手をどのような手段であれ、「支配下に収め」、「相手の意図と関係なく相手をコントロールする」ような人は、暴力的 = 【怒り】にあふれているといえます。

すなわち、このような人たちは【怒りの奴隷】なのです。

【怒りの奴隷】となった人々は、かならず何か発散するための 場・こと・もの・人 を求めます。 そして、この発散する先に【依存】します。

・お酒 = ストレス(怒り)をお酒で発散 = お酒に依存
・賭け事 = ストレス(怒り)をほかのスリル(興奮材料)で隠す(発散する) = 賭け事に依存
・不特定多数との性行為 = ストレス(怒り)を相手にぶつける・自分を痛めつけることで発散 = 性行為に依存
・愚痴 = ストレス(怒り)を親しい人に発散する = 対象となる相手に依存
・被害者 = ストレス(怒り)を親しい人に発散する = 対象となる相手に依存

もし、あなたが「愚痴を言うくらいいいじゃない」というのであれば、それは、怒鳴り声を上げて人をコントロールしようとする人と、もう少し広く考えるとお酒や賭け事でストレス発散をする人も別にいいじゃない、と言っているのとほぼ同じになります。

・適度であればいいじゃない
・そもそもストレスは無くせない
・だから、運動で発散するのがよいのだ

これらに関しては、また機会があれば触れていきたいと思いますが、やはりそれらは、解決にはなかなかなりません。(ストレスの程度が適量を超えたら、適度に発散はできますか?、運動ができないときはどうしますか?運動するまでの間はストレスを抱えている人になるのですか?)

コントロールをするべき対象は他人やものではなく、【自分自身の怒り】というのが正しい答えです。

ストレス(何かしらの現象)が発生しても、「不快な感情」を感じなければ、それはストレス(怒り)とはなりません。

(日本語ですと「あーそれストレスだわー」 と、現象 = 怒りの対象 としていますが、これは事実ではありません。あくまで現象に「自分で色付け」をしているから、それが怒りの対象となるのです)

たとえば、ある人に悪口を言われても、Aさんは気にしない(というか気づかない)が、Bさんはそれに腹を立てる、ということがあります。

原因(現象)が同じでも、結果が違います。
これはすなわち、間にあるプロセス、【自分の認知・認識】過程で、「快・不快」が勝手に付与されて、結果が起きているということがわかります。

そのため、この【自分自身の認知・認識】過程を理解し、コントロールすることで、【自分自身のストレス(怒り)】をコントロールできる、すなわちあるものの依存を断ち切ることができるということになるのです。

これを通じて、理解できるのは、

・薬(精神安定剤)を投与して、ストレスが消える(コントロールできる)、結果として社会復帰できる

などということは成り立たない、ということです。
ないしは、これが成り立つとするならば、「あなたの認知・認識」が薬によって意図せずに変えられてしまっている、ということになります。

薬で不可逆的に変わるのなら、まだいいのですが、(マインドコントロールできるということになりますが・・・)そうではないので、ずーっと薬がないと自分をコントロールできない = 「薬に依存」 しているということになります。

もちろん、一時的な治療には役立ちますので、たとえば自殺を防止する、などには効果があると思います。しかし、それは「予防」ではなくて、「起こりそうなときにとめる」という、最終手段の治療であるべきです。

そんな最終手段が乱発されている状況はさすがに見るに耐えません・・・

しかし、相当数の方が、薬を飲んでいますし、やめられないでいます。
(結果、薬やめずに仕事やめているのですが・・)

※今、薬を飲んでいる方がこちらをみて、「やめなきゃ」と思っていただくのはうれしいですが、やめないでください。 前述の通り、すでに飲んでいる場合思考プロセス(認知・認識過程)を変えられてしまっているので、急にやめると、何をするのか、自分にも回りにも判断できないからです。 失礼な表現かもしれませんが、「すでに洗脳されてしまっている」ので、急に抜けようとするのは逆に危ない結果を生む可能性があります。

ここからは宣伝になりますが、なので是非行き詰っている場合には
ご相談に来ていただければと存じます。 まず、行き詰っているプロセスを解明し、正しい対応を一緒に探していきましょう。
「人生脚本」
という言葉を聞いて、どのようなものを思い浮かべますか?

「脚本というくらいだから、人生のシナリオのようなものか」

多くの方がそう思われるでしょう。
そして、それはほぼ正解です。

しかし、この言葉は多少ネガティブなケースで使われることが多いです。
それは 「 自分の過去に植えつけた観念・信念をもとに、その後も生き続けている土台 」
のことを「人生脚本」と言ったりします。

わかりにくいですね・・・

ということで、本日のサンプルは 「私を喜ばせなさい」です。

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こんな人を見たことがありませんか?

・人のためにあくせく動いている、疲れていそうに見えるけど、動き続けている。
・いっつも、気を使って人を喜ばそうとしているし、楽しい。けど本人はいいの・・・?
・周りを笑わせるのが好きで、みんなから親しまれている。でも悲しそうな顔をしている。

あくまで、一例ですが、こういった方々の多くが
「相手のことを喜ばせていなければ、自分は無価値である」
という土台の上にたって生きています。

そのため、彼らにとってはどんなに自分が疲れていようが、相手が優先ですので関係ありません。

しかし、それでは身体が悲鳴を上げ始めるので、結果として病気に成るケースが多いです。
(メンタル・物理的な病気 双方に出ます。)

こういった方は、小さいころに「条件付き幸せ」で育てられていることが原因のケースが多いです。 すなわち「良いことをしている時のあなたは素晴らしい」 逆を言えば 「良いことをしていない時のあなたは意味が無いのよ」 とも取れます。

なので、「意味がないのは嫌だ。愛されないのは嫌だ。 だから良いことをしよう。」と
「否定的な状態になりたく無い」というのが原動力となっているので、
この脚本で生きている方はいくら他人の為に何かしても不安はぬぐい去れません。

すなわち、彼らは自分の人生の主人公はどんなに「与える」という行為をしても、自分ではないのです。(小さい頃の親とか、目の前の相手が主人公なのです。)

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この脚本を書き換えるには、く数年は最低でもかかります。
そのくらい、これは深く根付いているケースが強いです。

ある人は、「人生脚本はそもそも生まれる前から持っているものである」
ともいいます。

そして「これを書き換えるために、人は生まれてくる」
と。


そのくらい、これに気づいて、書き換える作業は大事なことなのだと、私も思います。

まず、今回のような脚本をお持ちの方は、

「自分を無条件に愛する」
「自分を大切にする」

ことから初めて下さい。

簡単なワークとしては、

「私は私を愛しています」
「私は私を許します」

この2つのフレーズを毎日10回ずつ、1ヶ月から半年続けると、
「辛い」というステータスからだいぶ生きやすい状態までは改善してきます。


お試し下さい。。。

りょう


















先週は金曜日から日曜日まで、セミナーの開催をお手伝いしていました。
普段の仕事に加え、土日が無くなるので、身体的にはシンドイですが、精神的には良いことでした。

もちろん、細かい内容等は記載は出来ないのですが、とある受講生の方から感じたキーワードが
「与えられた幸せ」
でした。

今の若い世代の方は、親からの愛情過多になっている方が多くいらっしゃいます。
私の普段務めている、「いわゆる優秀」な方が集まり易い会社の新人の方はそういった方が非常に多いと感じます。

彼らは、一見とても楽しんでいるように見えます。
沢山のFacebook上での友達を持ち、土日は旅行へ行き、夜は飲み会へ出かけます。
仕事も出来ない訳ではありません。

ところが、それらのほとんどが「人から与えられた」幸せのように見えます。
本当に、彼らは日々を楽しんでいるのでしょうか?

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「あなたの夢はなんですか?」


そう聞かれた時に、

・私の歌声は人を感動させるので、華々しくデビューできなくても歌手になりたい。
・私はプロのサラリーマンとして、働いている企業の売上を5年後に2倍にしたい。
・独立起業して、今まで誰もスタートしなかった事業を収益化したい。

これらは、「自分は主人公」の状態ですよね。

・海外旅行いって、楽しみたい。
・美味しいものを山ほど食べたい
・働かなくていい状態になる。

これらも楽しむのは自分なんだし、一見「自分は主人公」のように見えます。
しかし、本当にそうでしょうか?

これらの3つの例は「他の人・モノから何かをもらおうとしている」 = 「他人が主人公」の状態に見えませんか?

「与えられて生きる人生」 = 「他人が主人公の人生」
「与えて生きる人生」    = 「自分が主人公の人生」

だとしたら、あなたは今どこにいるんでしょうか?

自分を人生の主人公にしてあげると、以下のような変化が置きます。

・自分に自信が出る
・周りの目が余計なことで気にならなくなる(Selfishになる、というわけではないです。)
・成果が手に入る
・人から感謝される
・生きがいが生まれる
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話を戻すと、

「沢山のFacebook上での友達を持ち、土日は旅行へ行き、夜は飲み会へ出かけます。」

この状態、誰に何を与えているんでしょうか?

ちなみに、このレベルで仕事している社員は、会社にとっては「モノ」です。(特に外資なので。)
「金払った分だけ、結果を出すロボット」と変わりはないのです。


自分の夢を持ち、「与える人生・自分が主人公の人生」を生きていれば、
社会情勢がどのようになれ、気にすることは少ないでしょう。


過保護な時代に育ったから悪いのではなく、
せっかく何でも与えられるなら、「周りのためになるチャレンジ」を果敢にし、
今までもらった分以上を人に与えられる人に・・・

私はそんな人を沢山育てて行きたいな、無論自分自身がまずはその鏡になるんだ、
そう思って日々を生かせていただいています。

※注
ちなみに、「与えられる喜びを知る」ことは、生きていく上で欠かせない要素です。
一昔前の方は「与えられる喜び」を知らない方が多く(30後半~)
「意地を張っている、頭が固い、優しさがない、人を馬鹿にする、冷たい」
等の悪影響を外部に与えます。

「与える喜び」は「その後の与えられる喜び」とセットです。

どちらか一方に偏る、というのは基本的には何かおかしいのです。

「上手な与えられ方」 = 「自分を大切にすること」
これも大事なスキルなので、そのうちに記載できればと思います。

また人は「与えられて、与える」というふうに私は考えています。
(すなわち、先払い)

なぜか。 「あなたは生まれる前にお父さん・お母さんに何かしましたか?」
普通の方は「NO」でしょう。

頂いた命、ですから、まずは「与えられて生まれてくる」というところからスタートしていると、
私は考えています。
与えられた(債務を抱えている)状態なのですから、きちんと返して行きたいですね。

りょう
初めての投稿になります。

私は、ベンチャー企業で新規営業を6年経験し、100人の営業マンの中でトップの成績を収めた後に、外資系企業へ転職してきて早2年になります。

一方で、土日は自己啓発セミナーのトレーナー候補として、多くの方のメンタル面からのサポートを行なっている最中です。

こうやって記載をすると、とても暑苦しいイメージな人物像を浮かべてしまいそうですが、
実際の所はおそらく相当人当たりは柔らかいと思います。
ただ、物事を考える(深く観る)ことはとても好きなので、知的なイメージを持たれることは多いと思います。

さて、そんな私がこれから書いて行きたいブログのテーマは「なぜ人は生まれて死んでいくのか?」ということです。

私も学びながら記載する身ですので、不出来な部分はご容赦下さい。

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今回の記事を読む前に、「あなたの癖」を思い浮かべて下さい。 ついつい陥ってしまう、「あれ」です。
その後にこの記事を読んでいただくとより楽しめると思います。

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本日のテーマは「人生という名のゲーム」です。

皆さんは「ゲーム」と聞いて、何を最初に思い浮かべますか?

・野球
・テレビゲーム
・携帯ゲーム
・ボードゲーム

これらのゲームには「明確な終わり」があり、「勝ちと負け」があります。

しかし、人生の中で陥ってしまう「ゲーム」には「明確な終わり」も「勝ちと負け」もありません。

どういうことか。

人として生きている中で、我々は多くの「ゲーム」を繰り返します。

幼少期には、親の愛情を得るための「ゲーム」

・拗ねて泣いて、親の興味を引く
・わざとイタズラをして、親の愛情を得る

学生時代には、優越感を得るための「ゲーム」

・運動ができるということで、周りと差を付ける
・勉強ができるということで、周りと差を付ける

社会に出てからは、承認を得るための「ゲーム」

・同僚よりも良い成果を上げるためにひたすら働く・上司に気を使う
・部下を持ち上げて、手懐けて、評価を得る

※歳を取って、仕事をリタイアした後に、急に老けてしまう方がおられますが、
 そのような方はこのようなゲームに没頭しすぎたあまり、
 次に待っているゲームがなかったので、その時初めて目が覚めたのでしょう。

このような「ゲーム」には「負け」はあっても「勝ち」や「明確な終わり」はありません。
なぜなら、このような「ゲーム」の末に「欲しいもの」を手に入れてもさらに「優越感」や「承認」を必要とするため、終わりがないのです。

終わりなく、勝ちもなく、ただ「負けない」ための「ゲーム」に時間を過ごすこと。

これはとても勿体無いことだと思います。


だからといって、私はこの「ゲーム」を簡単に人が卒業できるとも思っていません。
人は誰しも認められたいし、称賛されたいのです。

では、どうすればいいのか?

簡単です。 ただ「知る」ことなのです。


我々の人生はみな、「ゲーム」を行なっています。

これは誰も否定出来ないのです。


しかし、これを「楽しい」ものに変えられるかどうかは、あなたがこの「ゲーム」に気づくかどうか?にかかっているのです。


さて、冒頭にお伝えした「癖」はちゃんと思い浮かんでいますか?

私の場合、「無駄に色々と考えてしまう事」が小さなころからの癖です。

これは、私が自分を守りたい・傷つきたくない、と思うためについつい、全てのことを事前に想定し、何かあっても「私は正しいのだ」と常に言おうとしています。

この 「私は正しいゲーム」にハマっている方は社会に出てくると非常に多いです。
おそらく、10人に一人がこのゲームの虜です。

この「ゲーム」にハマっている方の特徴は周りに「本当の」友達がいません。
なぜなら、このような人と一緒にいても楽しくないのです。

あなたが何をいっても相手は本気になって自分の正当性を主張してくる。
別に相手のことを非難しているでもなんでもないのに・・・
そんな方とあなたは一緒にいたいですか? ・・No ですよね。

私は、この「ゲーム」がもとで、新卒時代は非常に苦しんでいました。

しかし、きちんとこの「ゲーム」を知ること、そしてこの「ゲーム」は役に立たないのであるということを深く理解した後に、この「ゲーム」を 「なるほどゲーム」に変えました。

どんな「ゲーム」か?
簡単です。 人は誰でも「自分が正しいゲーム」をしたいのです。

それであれば、私は逆に「相手が正しいゲーム = なるほどゲーム」に変えたのです。

そうするとどうでしょう。 コミュニケーションとはこのような簡単なものだったのか!
と目からウロコの状態でした。

これが私が「ゲームを知る」威力に気づいた時でした。

誰しも、こうやって「ゲーム」を知り、一つ一つ、自分の中にある「ゲーム」を置き換えていくことで、心は自然と軽く、楽しく生きられるようになります。
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人は常に、沢山の「ゲーム」をしています。
これに1つずつ気づいて、解放されていき、楽しく過ごすこと。
それが「人生という名のゲーム」の勝ち方、です。

このブログではその「勝ち方」を一緒に学んでいければと思います。