濡れたハンドタオルのような味。 -6ページ目

労働そのものの中に報酬があるのだ。

 「労働そのものの中に報酬があるのだ。だれのための労働か? 労働の結実はどうなるのか? そんなことは、何ら関係のない、取るに足らぬ詮索なのだ」 『世界の文学 トルストイ 「アンナ・カレーニナ」』 三三〇頁


 昨日、普通自動車の免許証を取得した。昨日は一晩中本を読んでいたから一睡もせずに試験場へ行ったから眠くて仕方がなかった。
 今日運転してみよう。

ラブレター。

 今日友達のライブに行ってきた。男友達なのだが二人きりになるとちょっと気まずい。仲良くなりたい。
 東京からツアーできているバンドがいてとてもかっこよかった。友達も音楽で頑張っているし東京のバンドマンたちも頑張ってる。それぞれの世界が繋がっていることを再認識する。


 例えばの話をしよう。例えば僕はこう考える。
 発想を変えると全く違う力が生まれる。
 例えば彼女に振られたとする。当然別れたくない、離れたくないと絶望する。しかしこれでは別れの恐怖に、負の感情に押し潰されてしまうのがオチだ。
 喧嘩別れしたわけでもないのだから元の白紙の段階に戻っただけである。喧嘩別れなら紙は真っ黒になってしまい何色のペンでも新たに書き込むことは叶わない。けれど白紙ならまた書き込める。

 人生に絶望した男は突然失った存在の大きさに気づく。エネルギーを貯めてまた彼女に向かって行きたいと思う。別れたくない、離れたくないという感情は最初の数日で消え去った。西に向かっていた感情は東の地平線を見つめている。片思いを精一杯楽しもうと誓ったのだ。

 どうやら、どうしようもなく愛しているらしい。


 例えばの話ね。

年速一キロメートル。

 「ねえ。秒速五センチメートルなんだって」
 「え? 何?」
 「桜の花の落ちるスピード。秒速五センチメートル」

 映画『秒速5センチメートル』の冒頭の印象的な会話である。


 「年速一キロメートル」とは言葉の伝わる速度である。言葉は人から人へと移り進み行く。
 途中に山や川があれば進行は止まり、山の向こうでは一切通じないということがあったようである。もちろん現在のようなテレビやネットが発達する以前の話である。


 一年前に言語学の授業で習ったことをふと思い出したのでメモ程度に書き記す。