【必見!】大東亜戦争の全てが「悪」だったと思っている方々へ【世界の偉人達の名言集】 | 中谷良子の落書き帳

中谷良子の落書き帳

核武装・スパイ防止法の実現を

日本が侵略戦争をしたと思わされている方々に是非お読みいただきたいです。戦争には、どの国も光と闇の部分が存在します。そして8月15日には靖国神社(遠方で行けない方はお近くの護国神社へ)参拝しましょう。参拝ができない政党は日本人ではないと思います。



★タイ★

●ククリット・プラモード(首相)
日本のおかげで、アジア諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体誰のおかげであるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。12月8日は、われわれにこの重大な思想を示してくれたお母さんが、病の床に伏した日である。われわれは、この2つの日を忘れてはならない。

●タナット・コーマン(副首相・外務大臣)
あの戦争によって世界のいたるところで植民地支配が打破されました。そして、これは、日本が勇戦してくれたお蔭です。新しい独立国が、多くの火の中から不死鳥のように姿を現しました。誰に感謝を捧げるべきかは、あまりにも明白です。

●プラ・サラス(外務大臣)
日本は決して滅びはしない。日本は必ず盛り返して、東南アジアにおける有力な地位を再び占めることになろう。わしは日本人の優秀さを知っているから言うが、日本人はいつまでも占領されている国民ではないよ。それに東南アジアの西欧植民地を一挙に解放したこの厳然たる事実は、かりに日本が敗れても抹殺することは最早不可能なんだ。タイはあくまでも日本との仁義を重んじて、固く同盟条約を守り、戦がどう悪化し、どう終結しようとも、日本との友好は維持していかねばならないのだ。

●ソムアン・サラサス(タイ王国政府顧問)
日本は、ヨーロッパにより植民地化されていた多くの国々が目覚める機会を与えました。東南アジアの国々は日本の闘いと東南アジアの独立を助けようとした日本の決意により勇気を鼓舞されました。日本の姿勢と勇敢さにより、植民地化されていたアジア諸国はプライドを持ち、そのために将来のための心構えができたのです。

●B・アンポン(元タイ国軍最高司令部日タイ連絡所勤務・通訳官)
大東亜共栄圏や八紘一宇など私は当時の日本の理想は正しいと思います。日本は白人を追い払った後、戦前にイギリス、フランスから奪われていた領土をタイに返してくれました。大々的にお祝いしましたよ。日本は占領して自分の国にしようという考えはなかったと思います。解放してみんなが独立して立派にやっていくようにという信念をもってきたのでしょう、日本が犠牲になってね。

それを日本が侵略したとか、虐殺したとか言われていますが、私の見たところではそんなことはありませんでした。みんな正しくやってくれましたよ。タイの人は日本の兵隊さんは悪かったとは言っておりません。仏領インドシナの人達もそうですね。ただ、日本軍は厳しすぎたということはありますが。とにかく、東洋人が白人を倒したのは日本人だけですからね。何百年も前からそんなことはなかった。それを私達の前でやってのけたのですから大変な驚きでした。

●カセトシリ(タマサート大学歴史学教授)
タイと日本との関係は他の東南アジアとは違う。タイは公式的には日本のパートナーだった。地下の抗日運動はあったが、日本は一応同盟国として扱った。だから基本的に反日感情はタイにはない。

★マレーシア★

●マハティール・ビン・モハマド(第4代首相)
アジア人の日本人が、とうてい打ち負かすことのできないと私達が思っていた英国の植民地支配者を打ちのめした。私の心の中にアジア人としての自信が次第に芽生えてきた。マレー人だって日本人のように決心すれば、自分の意思でなんでもできるはずだ。ご存知の通り、日本軍が領土を拡大した理由の1つは、欧州が日本に対する東南アジアからの原材料、とりわけ燃料の供給をストップさせる懸念があったからでした。燃料の供給を止められれば、経済活動ができなくなってしまう。事実上の包囲網を断つために、日本は太平洋戦争に突入したのです。日本が50年前の戦争について謝り続けるのは理解できない。過去は教訓にすべきだが、将来に眼を向け、日本はアジアの平和と繁栄のために役割を担うべきだ。日本の国連安保障理事国入りを支持する。

●ラジャー・ダト・ノンチック(上院議員・南方特別留学生)
私達やアジアの多くの国々は、日本があの大東亜戦争を戦ってくれたから独立できたのです。日本軍は、永い間アジア各国を植民地として支配していた西欧の勢力を追い払い、とても白人に勝てないと諦めていたアジア民族に、驚異の感動と自信を与えてくれました。永い間眠っていた“自分達の祖国を自分達の国にしよう”という“心”を目覚めさせてくれたのです。

私達はマレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声を上げました。敗れて逃げてゆく英軍を見た時に、今まで感じたことのない興奮を覚えました。しかも、マレーシアを占領した日本軍は、日本の植民地にしないで、将来のそれぞれの国の独立と発展のために、それぞれの民族の国語を普及させ、青少年の教育を行ってくれたのです。

私達南方特別留学生が日本で教育を受けた頃の日本は、現在の日本と比べることができないほど貧しい国でした。しかも、あの当時の日本は、全身傷だらけになって、アジアを西欧植民地から解放するための大東亜戦争を戦っておりました。私達はその貧しい戦時下の日本で、『日本の素晴らしさ』を与えられました。あの当時の日本人は、心と心が触れ合う交わりを持って、アジア諸国に偉大な遺産を遺してくれました。すなわち400年の永くにわたった植民地体制を打破し、アジアの青年達に民族自決(独立)を戦いとる決意と覚悟を与えてくれたのです。私達は、日本の青年が命を捨て血を流してくれた、尊い偉大な遺産を基にして、祖国の独立とアセアンの結成を成し遂げたのです。

●ガザリー・シャフィー(外務大臣・マラヤ興亜訓練所一期生)
日本はどんな悪いことをしたと言うのか。大東亜戦争で、マレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。わずか3ヶ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。日本は敗れたが、英軍は再び取り返すことができず、マレーシアは独立したのだ。

●ウンク・アジズ(マラヤ大学副学長)
戦争という体験によって、我々は強く逞しくなりました。これを必要としない人もいるかもしれませんが、当時マレーシアでは、このようにはつらつとして強固な人間を育成するためには、非常に重要だったのです。日本軍がもたらした『大和魂』のような考え方を持つこともです。おそらく今の日本では、独立のために、この精神がどうしても必要だったんです。日本軍政下の訓練の結果、日本が降伏した後、英国人が戻ってきて植民地時代より悪質な独裁制度をマレーシアに課そうとしたとき、人々は立ち上がったのです。何千という人々がこれに反対したのです。女性でさえも、デモに参加しました。これは戦争の心理的インパクトです。このことがあって、我々の独立は早まりました。だから、我々は、この点を大変感謝しているのです。

●ダトゥク・ザイナル・ビン・アブドゥル・ワーヒッド(マレーシア国民大学歴史学教授)
マラヤ政治史のうちで最も重要な出来事といえば、まず何をおいても1941年の日本軍のマレー半島進攻をあげねばならないだろう。日本のマラヤ占領は、マラヤの人々の間に政治意識の覚醒をもたらしました。このような言い方は一見矛盾しているように聞こえるかもしれないが、日本軍政は我が国におけるナショナリズムを育成、発展させるうえで、いわば「触媒」の役割を果たしたということができる。

事実、日本のマラヤ占領作戦そのものが、マラヤ国民のイギリス人に対する態度に大きな変化をもたらした。つまり、たとえ日本の占領期間が短期的に終わったとはいえ、マラヤ上陸作戦の電撃的な勝利は「大英帝国」の威信を大きく揺るがし、また「白人」は優秀であるという従来の固定観念を突き崩したことは確かである。

●アブダル・ハリム(大学教授)
アジアにおけるヨーロッパの支配と、日本の占領との間に、事実上の共通点は認められるだろうか。答えは否(いな)である。日本政府は、西欧勢力に対抗するアジアでも民族活動の発展の余地を許したからである。欧米連合に対抗し、日本に協力的な個人やグループが存在したことは、多少なりともこうした余地があることにより説明できる。将来、確かな手応えが得られるとの認識が、日本と祖国解放運動の戦士達を結ぶ基盤となったことは明らかである。

●ビン・モハマド・ナクラ(歴史研究家)
大変感銘を受けました。我々が学んだのは、日本人の規律の良さでした。それを見た我々に意欲が湧きました。日本軍が来る前は、イギリス人、または白人は神のように高い存在で、我々は話しかけるにも躊躇しました。白人に見つめられると、恥ずかしい感じがしたものです。ところが、よく見れば白人はそんなに高くない、神でもない。彼らはアジアの軍隊に負けたのですから。こんな思いもあり、もうイギリス保護を、求める必要もない、独立は、我々自らの力で要求できるのだと、確信するようになったのです。

●ロザリー・イソハック(副知事・コタバル戦争博物館館長)
1991年、私達は日本のコタバル上陸50周年を祝いました。これが、ケランタン、つまり当時のマラヤにとって、意義ある出来事であったからです。ここコタバルは、日本軍最初の上陸地です。私は、戦争博物館の館長として記念行事を担当していましたが、多くの人がこの重要な出来事を、長く記憶に留めていただきたいと願っています。

●ニック・モハマド(外務省情報センター所長・昭南興亜訓練所1期生)
戦争は誰だって嫌いです。どんな人にも苦痛を与えます。しかし戦争によって人々に民族としての政治的な意識が芽生えました。それまで政治をまったく考えることはありませんでしたが、民族意識が高まり、政治的な変革を意識するようになりました。独立という意識に目覚めたのです。それまでは独立なんて考えたこともなかったので徐々に植民地にされたのですが、日本軍政下で反植民地主義に目覚めたのでした。これらは戦争のもたらしたものです。戦争は確かに悲惨なものであり、みんなが苦しみます。しかし我々は英国側に立った覚えはないのです。戦争は民族意識を芽生えさせ、独立を実現させました。インドネシアがこれを早い時期に示し、我々は後に平和的手段で実現しました。民族意識は若者に影響を与え、彼らはもはや怠けていませんでした。皆、立ち上がったのです。これまでなかった大変貴重な3年と8ヵ月の経験でした。

●サイド・フセイン・アラタス(マラヤ大学副学長)
先の戦争にあたって、日本の皆様が私達の独立を大きく助けてくださいました。日本の皆様がしてくださった最も重要なことは、東南アジアの人々に初めて「自信」というものをもたらしたということです。

●モハメド・ソビー(マレーシア言論界と政界の重鎮)
僕は憲兵隊の警部だった。日本のお陰で我々は独立を早めることができた。日本とマレーシアには英国にはない共通点がある。八紘一宇の精神だ。

★カンボジア★

●フン・セン(首相)
日本の「首相が戦没者を弔うことは当然」と述べた。(自民党の山崎拓幹事長が2001年に東南アジア5ヵ国を訪問した際)

★シンガポール★

●ゴー・チョクトン(第2代首相)
日本軍の緒戦の勝利により、欧米のアジア支配は粉砕され、アジア人は自分達も欧米人に負けないという自信を持った。日本の敗戦後15年以内に、アジアの植民地は全て解放された。(1992年2月11日の国立博物館戦争展の開会式にて)

★インドネシア★

●スカルノ(初代大統領・デヴィ夫人は第3夫人)
インドネシアと日本は一心同体である。日本軍の援助がなければ、永久にインドネシアは独立できない。

●スハルト
日本語の勉強を始めて間もなく署長から日本軍が組織し始めた現地人軍隊、郷土防衛軍(PETA)への入隊を勧められた。500人の応募者の中から私ともう1人が選ばれ、訓練施設にあるボゴールに送られた。PETAでの訓練は想像を絶していた。朝5時半から夜遅くまで軍事教練、理論、精神教育が続き、最前線の司令官となる小団長(小隊長)にはとくに厳しかった。仲間の1人がたるんでいると全員が夜中まで正座をさせられた。

相撲もやった。5回勝つまでやめられず、華奢だった私は辛い思いをした。「駆けろ!駆けろ!」朝の走行訓練での指導官の掛け声は耳に残っている。私が当時を語る時の用語はいまだに日本語である。PETAで叩き込まれた闘争精神、愛国精神抜きには、我々は再植民地化のため攻めてきたオランダを撃退できなかったと私は思う。その意味で日本軍に感謝している。

●スシロ・バンバン・ユドヨノ(第6代大統領)
「日本軍の侵攻が我がインドネシアの独立に繋がった」(自民党の山崎拓幹事長が2001年に東南アジア5ヵ国を訪問した際)

●モハマッド・ハッタ(初代副大統領)
1944年9月の初め、東条に代わった小磯首相の、インドネシアは「後日必ず」独立させる、という言葉が放送された。この言葉にインドネシア全土が歓喜したと言ってよい。ジャカルタではこの声明に感謝する大会が開かれた。小磯首相の発表と並行して、ジャワでは多くの変化があった。国歌インドネシア・ラヤを再び歌うことが許可された。紅白旗は日の丸と一緒に掲揚が許された。1944年12月には、数人のインドネシア人が各部の参与になった。彼らは各部の次官とみなされた。この地位は、将来インドネシアが独立した時、大臣になるための訓練をしておくため設けられたものだ。

●モハメッド・アチール(初代首相)
大東亜戦争が起きるまで、アジアは長い植民地体制下に苦悶していました。そのため、アジアは衰えるばかりでした。アジアは愚かになるかばかりでした。だから、アジアの希望は、植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は、私達アジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。

●アラムシャ将軍(第3副首相)
我々インドネシア人は、オランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り幾度か屍山血河(しざんけつが)の闘争を試みたが、オランダの叡智なスパイ網と強靭な武力と苛酷な法律によって圧倒され、壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し、感謝感激したのは当然である。日本軍がインドネシアに来る数年前より、現在の国家『インドネシア・ラヤ』が、東京からラジオ放送で流されていました。我々は、独立を願っていたので、日本軍がインドネシアに上陸してきた時は、熱狂的に迎えました。我々は、日本軍の協力があれば実現できると確信したからです。

●アフマッド・スパルジョ(外務大臣・サンフランシスコ講和会議首席代表)
私は・・・アジアでは日本だけがインドネシア人民をオランダの植民地支配から解放することのできる勢力だと考えていた。インドネシアの民族運動と日本のアジア主義運動のあいだには、インドネシア人民がオランダ植民地主義から離脱することを容易にする共通点があったのである。

すでに述べた通り、日本軍占領時、私が海軍(著者注:日本海軍)で体験した出来事は、私の観測が間違いではなかったことを示した。すなわち、海軍の中に、日本の理想主義者がいたために、インドネシアの独立宣言は実現したのである。このことは、否定することのできない歴史的事実である。インドネシア、とくにジャワに勤務した当時、大きな役割を果たした海軍指導者、たとえば柴田中将、前田少将、そのスタッフである西嶋、住吉、佐藤などの諸氏が、遠い将来を見通して、日本とインドネシアの末永い友好関係を打ち樹てるべく、基礎を築いた功績に対し、日本政府は、少なくとも十分な関心を払うべきである。

●ルスラン・アブドルガニ(外務大臣)
日本はヨーロッパに対抗できる、唯一植民地化されなかったアジアの国である、とスカルノとハッタは言った。日露戦争で日本が勝利した知らせが来た時、アジア人すべてが喜んだ。アジア人も白人に対抗できるという気概が湧いてきたのだ。私は小さい頃、母親からジョヨボヨの伝説(著者注:インドネシアは長いこと白人に支配されるだろうが、北から黄色い皮膚の人が助けに来て、トウモロコシの実がなる頃に去っていく。そうしたらインドネシアは独立する、という予言的伝説)を聞かされた。だから、日本が来た時、私達はトウモロコシを植えたものだ。

日本軍政時代について多くの人が軍政の悪さを批判している。日本軍政批判は、日本がインドネシアにいる間に2つの良いことをやったという事実を忘れている。第1は、日本がインドネシア人に軍事教育を施したこと、第2は、養成の為に学校をつくって教育してくれたことだ。そして「セイシン」(精神=ファイティング・スピリット) を吹き込んでくれた。これらは偉大な成果を収めた。

●ブン・トモ(情報・宣伝相)
日本は明治以来70年間に蓄えた財産と、教育したすべてを投げうって、大東亜戦争を敢行した。この戦争は我々の独立戦争だから、我々が主力で、日本軍は補助勢力であって然るべきだ。だから、我々の主力陣営から100万、200万人の戦死者が出るのは覚悟のうえだ。けれども日本は、“俺がやる”と頑張った。なぜ“一緒にやろう”と言わないのだ。まことに水臭い。  

日本の孤立頑迷体質、単騎独行気質は今の日本外交によく出ている。こんな根性では、経済には成功しても、政治には失敗する。経済の失敗は小さな損失。だが、政治の失敗は大きな失敗になる。それにしても日本は、戦後処理が下手糞である。為すべきことを為していない。日本の失敗はたった1度の敗戦でアジア・アフリカ解放の志を捨てたことだ。それに比べるとドイツは、敗戦慣れしているから、憲法は譲らなかった。日本は譲った。それがバカだ。私は日本に切望したい。『アジア・アフリカの有色人種が欧米白人種並みの自由と繁栄を獲得するまで、日本には使命がある。どうか指導援助を続けてくれ』(昭和32年に来日したブン・トモ情報相の、岸信介氏への発言)

●サンバス将軍(東欧大使・復員軍人省長官)

今、インドネシアでもその他の国でも、大東亜戦争で日本の憲兵が弾圧したとか、労務者を酷使したとか言っているが、そんなことは小さなことだ。いかなる戦場でも起こり得るし、何千年前もそうだったし、今後もそうだ。日本軍がやった最も大きな貢献は、我々の独立心をかき立ててくれたことだ。そして厳しい訓練を課したことは、オランダのできないことだ。日本人はインドネシア人と同じように苦労し、同じように汗を流し、“独立とは何か”を教えてくれたことだ。

これはいかに感謝しても感謝しすぎることはない。このことはペタ(ジャワ防衛義勇軍)の訓練を受けた者は、一様に感じていることだ。とくに、インドネシアが感謝することは、戦争が終わってから日本軍人約1000人が帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと戦い、独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、功績を称え殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。

●サイデマン・スハヨハディプロジョ(外務省上級大使)
多くの日本の青年達が、インドネシアを自由にするために独立の闘士達と肩を並べて戦ってくれました。そして多くの日本の若者達が、そのために命を犠牲にしてくれました(平成7年5月29日、東京武道館で開催された「アジア共生の祭典」より)

●チョウ・シン・モ(大統領特使)
日本軍政の3年半は、東南アジアの民衆に与えた良くない側面もあったが、インドネシア建国に必要な民衆訓練・政治訓練・軍事訓練の機会となり、その後のナショナリズムの発展に向けてのスカルノとインドネシア民族にとっては積極的な側面もあった。

●アリ・ムルトポ(陸軍准将・大統領特別補佐官・情報庁副長官)
日本はアジアの光である。大東亜戦争は、欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので、チンギス・ハーンと共にアジア人の誇りである。

●アブドル・ハリス・ナスチオン(陸軍大将・国防軍参謀長)
独立できた要素の第一は、日本軍が植民地政治体制を粉砕したことです。植民地体制の粉砕なくして独立はあり得ません。第2は、日本軍の猛烈な軍事訓練です。オランダはやってくれませんでしたし、我々自身がやろうと思ってもできるものではありません。時代の3年半でインドネシア人はすっかり変わったが、こんなに変わったことをイギリス軍やオランダ軍は分かっていませんでした。日本は、歴史に残ることをしてくれました。誰にも変えることのできない真実です。それを解釈するのは政治家やマスコミや学者ですから、今、いろいろと言われてますが、歴史に残る金字塔を打ち立てたということは間違いのない事実です。

●ケマル・イドリス(陸軍中将)
日本が戦前上陸した時、私達は心から喜んで日本軍を迎え入れた。日本は非常に短い時間でオランダ軍を降伏させた。私はタンゲラン青年道場に入り、非常に厳しい訓練を受けた。それは酷いともいえる教育だったが、私はそれを喜んで受け入れた。しばらく訓練を受けているうちに、これはオランダと戦うのに役立つということに気が付いたからだ。今でも日本に感謝の念を持っている。

●ズルキフリ・ルビス(陸軍大佐・参謀長代行)
大東亜戦争が契機となって、アジアからアフリカまで独立しました。日本だけ犠牲を払わせて済まないと思っている。そして、大東亜戦争中の日本軍政の特徴は、魂を持ってきてくれたことです。我々と苦楽を共にし、農作業や各種技術の初歩を教えてくれ、軍事訓練まで施してくれました。当時の日本をトータルで見れば、軍人が最も真面目熱心で、インドネシア人の心を捉えました。

●シャリフ・アディル・サガラ(弁護士・南方特別留学生)
「日本は植民地支配者であるオランダを追い払った、驚異のアジア人。」サガラ氏が覚えている日本人の第一印象だ。「一番好きな日本語は『徳』です。戦争中の日本人が見せた団結心。愛国心。大和魂。民族意識。私もそうなりたい、と思った」

●ブギラン・ユスフ(南方特別留学生)
今こそ、日本は大東亜共栄圏のリーダーになるべきです。かつて、アジア人は助け合って発展しよう、といったではないか。今こそ、大東亜共栄圏の約束を実行してくれ。50年前、日本人はアジア人になろうとした。だから私達は親日なのです。だが、戦後の日本人は西洋人になろうとしている。最近留学した若者は、みんな反日になって帰ってくる。

●オマール・トシン(モハマディア大学学長)
私と同じ早大出身の海部首相が、大東亜戦争を理解しないのは遺憾である。あれでは戦死者は犬死になってしまう。アジアの大部分は親日なのに、なぜ少数派の反日派に迎合するのか。その理由を聞きたいものである。(1991年4月末からASEAN諸国を歴訪した海部首相の謝罪演説に対し。)

●ヤン・ヴィタル夫人(元新聞記者)
ヨーロッパは500年にわたりアジア・アフリカを搾取した。しかし彼らは決して謝罪しないし、賠償金も払わない。500年のヨーロッパが謝罪しないのに、3年半の日本が謝罪するのは、外国音痴だ。もしこれがイギリスや中国だったら、「海部首相は利敵行為をした。売国奴である」と罵倒されるに決まっている。英・蘭・仏等はなぜ謝罪も賠償金も払わないのか研究すべきだ。

●ラハルジョ(全国ヘイホの会代表)
日本軍は、規律や銃の使い方など技術を教えてくれた。それは、その後の独立闘争や国家再建に大きく役立った。感謝している。

●アリフィン・ベイ(神田外国語大学名誉教授)
日本軍に占領された国々にとって、第二次大戦とは、ある面では日本の軍事的南進という形を取り、他面では近代化した日本の精神的、技術面との出会いであった。日本が戦争に負けて、日本の軍隊が引き揚げた後、アジア諸国に残っていたのは、他ならぬ日本の精神的、技術的遺産であった。この遺産が、第二次大戦後に新しく起こった、東南アジアの民族独立運動にとって、どれだけ多くの貢献をしたかを認めなければならない。日本が敗戦国になったとはいえ、その精神的遺産は、アジア諸国に高く評価されていたのである。その一に、東南アジアの教育に与えた影響が挙げられる。(著者注:日本軍は)目標達成のために、どれだけ必死にやらねばならないかということを、教えたのであった。この必死な訓練が、後のインドネシア独立戦争の時に役立ったのである。その訓練が連合軍との決戦に備えたものであったことは間違いのない事実であった。

●M・ユスフ・ロノディプロ(インドネシア大使)
第二次大戦前、アジアのほとんどの国は白人達の植民地となっていました。それを、日本が白人達と戦うことによって解放したということは間違いない事実。日本がいなかったとしても、インドネシアは独立することができたでしょう。しかし、あのように早くできなかったと思います。しかし、日本はインドネシアの独立に大変な貢献をしました。日本の貢献がなければ、インドネシアの独立までには相当な時間がかかったでしょう。私達はオランダによって支配されていた300年以上もの間、独立を目指していました。しかし残念ながら、それはたった1度も成し遂げられませんでした。ですから、もし日本がいなければインドネシアの独立までには、更に100年かかったかもしれません。それを、日本はたった3年半に縮めたのです。

●R・H・M・ハッサン・ラハヤ(最高諮問会議議員・南方特別留学生)
大きな目で見て、アジアの大東亜戦争の解放は日本が白人に対して戦ったから成し得たのだと思います。日本人が大東亜戦争をやらなければ、アジアの様々な国が今日のように独立してはいなかったでしょう。日本軍は、アジアから白人勢力を追い払い、自分達はとても白人に敵わないと諦めていたアジア民族に大きな感動と自ら対する自信とを与えてくれました。ですから、タイ、フィリピン、その他の国々もみな日本に対して大変感謝しております。それぞれの国を指導している人達はその事実をよく知っています。今の若い人達はそのことが分からないのかもしれません。彼らは考え方が違うのかもしれませんが、しかし、何と言おうとそれは事実なのです。その歴史を、我々が捻じ曲げることなどできはしません。

★インド★

●ラダクリシュナン(第二代大統領)
インドでは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像も出来なかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きたのだ。

●ジャワハルラール・ネルー(初代首相)
チャンドラ・ボースが日本と協力してつくったインド国民軍(INA)の裁判である。イギリスはこれらのインド国民軍を脱走兵として処理しようとした。実に三十年ぶりに弁護士の法服を着て、法廷に立ったネルーは「これら立派な若者たちの主たる動機は、インド解放への愛情であった」と述べ、また、「かれらの日本との協力は、インド解放を促進するための手段であった」と弁護した。

●ハビブル・ラーマン(インド国民軍大佐)
ビルマ、インドネシア、フィリピンなどの東アジア諸国の植民地支配は一掃され、次々と独立し得たのは、日本が育んだ自由への炎によるものであることを特に記さなければならない。

●ロイ・バルダン(インド国民軍大佐)
当時は、ほとんどの捕虜が志願してINAに参加しました。我々はINAに参加してアングロサクソンの帝国主義から、インドを解放することを誓いあったのです。

●S・S・ヤダバ(インド国民軍大尉・インド国民軍全国在郷軍人会代表)
われわれインド国民軍将兵は、インドを解放するために、共に戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対して、最も深甚なる敬意を表します。インド国民は、大義のために生命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代にいたるまで決して忘れません。われわれは、この勇士たちの霊を慰め、ご冥福をお祈り申し上げます。(靖国神社への書簡より)

私が、最も日本人が好きになったのは、シンガポールが没落した頃、捕虜となった我々を兄弟のように扱ってくれたことでした。イギリス人は、我々を差別して、一緒に食事もしないし、同じ車にも乗りませんでした。ところが、日本人は、よろこんで我々と一緒に食事をしてくれました。このように、人種や身分といった差別抜きにして同じ釜の飯を食べ、平等な取扱いを受けたことが、我々、インド国民軍に大きな精神的影響を及ぼしたのです。

●A・M・ナイル(インド独立連盟の指導者)
インドの独立はわずか1、2人の人物や組織の努力によって達成されたものではなく、勇敢な指導者達のもとで、様々な状況の変化に助けられながら、それこそ大勢の人々が並外れた努力を払った結果だったからである。状況の変化といえば、日本が始めた大東亜戦争も、それが日本自体にもたらした結果はともかく、そのひとつだったと言えるだろう。日本は確かに敗北を喫しはしたが、イギリスの歴史家アーノルド・トインビーも、日本が西欧に対して戦いを挑んだことは世界史的全体の流れ、とくに東西戦争のありかたに重大な変化を生じさせたと指摘している。西洋も、東洋を疎かにすることはできなくなったのである。私は日本が始めた大東亜戦争がその結果はともかく、植民地だったインドをはじめとするアジア諸国(アフリカ、その他の諸国にしてもしかりだ)の独立を早めたことは間違いないのだから、インどもその点については日本に感謝しなければならないと思っている。しかしインドはすでに述べた通り、そのことを忘れなかったし、印日平和友好条約の締結に際しても日本に対しては好意的だった。

★スリランカ(旧セイロン)★

●J・R・ジャヤワルダナ(初代大統領・サンフランシスコ講和会議セイロン首席代表)
アジア諸国民はなぜ、日本が自由になることを切望しているのか。それは、アジア諸国民と日本との長期にわたる結びつきのゆえんであり、また植民地として従属的地位にあったアジア諸国民が日本に対して抱いている尊敬のゆえである。往時、アジア諸民族の中で、日本のみが強力、且つ自由でありアジア諸民族は日本を守護者、且つ友邦として仰ぎ見た。当時、アジア共栄のスローガン(植民地解放・大東亜共栄圏樹立構想)は、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者達の中には、最愛の祖国が解放されることを希望して日本に協力した者がいたのである。

●サムソン・S・S・ウィジェシンハ(最高裁弁護士・スリランカ公開大学総長)
第二次大戦に於いて、日本が一方的に侵略戦争を行ったなどという主張がありますが、そのような話は馬鹿げた戯言だとしか思えません。まずそれについて話していきましょう。

第二次世界大戦は、もちろんスリランカに影響を与えました。この大戦の影響を受けなかった国はありません。また、この大戦がなければ、スリランカは1948年独立することはなかったでしょう。それは他国も同様でした。イギリスの植民地支配が解体することはなかったでしょう。フランスの植民地支配が解体することもなかった、と私は思います。第二次世界大戦が始まった時に、スリランカ人の知識人などの中で日露戦争のことを学んでいた者達は、日本の勝利を期待したのでした。ジャヤワルダナ初代大統領は当時、理想主義の若手政治家でしたが、彼は更に進んで、日本に協力しようと日本領事と話をしたということで、警告を受けています。

●ソマシリ・デヴェンドラ(海軍少佐・海洋考古学者)
歴史というものは、戦勝国によって語られるものです。第二次世界大戦における戦勝国とは、イギリス、アメリカ、オーストラリアといった国々でした。これらの国々が本を書いているのです。このような戦勝国の主張に対し、あなた達日本人は、日本人の考えを主張しなくてはいけないと思います。これは私個人の考えですが、どの国に対しても過去にその国が行ったことについて謝罪を求めるべきではないと思います。その当時はそのやり方が常識だったのです。最善のものではなかったかもしれませんが、当時は他にやりようがなかったことなのです。ただもし、その国が間違ったことをしてしまったと確信しているならば話は別ですが、そうでなければ、謝罪を求めるべきではないと思います。

●ススリパーラ・デ・シルバ(インド国民軍少佐・光機関員)
日本の敗戦は本当に悲しいものでした。しかし敗戦後も、私の日本を愛する気持ちは同じでした。そして、その気持ちは今でも変わりません。もし日本が勝っていたら、アジアの全ての国が栄えていたと私は思います。戦争が終わった後に、インドもスリランカも独立を得ることができました。それは、どちらもが独立を求めたからです。そして、それは日本が戦争を戦ってくれたからです。日本が緒戦においてイギリスなどを打ち負かす姿を見たために、今まで植民地だった国の人々は変わったのです。もう、支配される者などではなくなったのでした。もし日本という存在がなかったら、私達は今でもイギリスに支配されていたでしょうし、東南アジアの国々でも独立を果たしてはいなかったでしょう。

●デシャマンニィ・P・P・アントニス(スリランカ総合病院客員上級医師)
1951年にアメリカのサンフランシスコにおいて行われた対日講和会議で、スリランカの代表だったJ・R・ジャヤワルダナが、「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るものである」というお釈迦様のお言葉を引用し、日本に対する損害賠償請求権を放棄し、また、占領軍によって占領されマッカーサーによって憲法が制定され、諸外国が日本の分轄統治を主張するという中において、日本は自由であるべきであり、なにものにも束縛されてはいけない、という演説をしました。私達スリランカは唯一、日本から賠償を求めなかった国でした。他の国々は全て賠償求めたのでした。

★フィリピン★

●ホセ・ぺ・ラウエレル(初代大統領)
フィリピンは300年にわたりてスペインの治下にあり、続いて40余年に及ぶ米国の支配を受けたが、この間和戦を問わず終始自由獲得の努力及び闘争を継続し、幾多の先列殉国の士は、その鮮血をもってこの至難なる民族解放の大業完遂につとめたり。フィリピンが多年にわたり喪失せる自由を東洋の強邦により回復し得たるは、人類史上正当適切なる帰結なり。大日本帝国は今次聖戦の完遂により、大東亜の諸被圧迫民族を解放せんとする使命に則り、フィリピンにおける西洋支配を排除し、フィリピン国民をして独立準備委員会を認識せしめ、もって多年の願望たりし自由を実現し、独立国としての憲法を採択し、かつフィリピン共和国建設のため、必要なる一切の措置を執ることを得しめたり。吾人はこの独立を持って諸方の戦場において身命を捧げたる父祖兄弟の犠牲のたまものなりと信ずるものなり。

●レティシア・R・コンスタンティーノ(フィリピン大学歴史学教授)
東アジアに対する日本の進出はいろいろの意味で開放的な力を振るったのである。日本帝国軍隊が香港、ビルマ、インドシナ、インドといった西側帝国主義の要塞を抜いた素早さは、それまで白人は不敗と考えていた諸民族を驚愕させた。緒戦における日本軍の成果に触れないなら、他の帝国主義国を免罪することになる。

●ダニエル・H・ディソン(フィリピン神風戦没者協会の創立者)
戦時中、日本軍とは侵略者であり、フィリピンを占領し、自分達の欲しい物を持っていくだけの国と教えられていました。しかし私には、日本が単に、人殺しをするためや、他国を侵略するため、日本が統治する領土を拡大するためだけに、戦争を始めたとは思えませんでした。そこで、それにはもっと深い意味があったのではないかと考え、日本がなぜ戦争に突入していったのかについて何年もかけて調べていきました。そしてひとつの結論に至りました。

それは、欲深い白人達のせいだった、ということです。白人というのは、正にアジアに対してテロ行為を行ったのでした。白人達が侵入してくる以前のアジアはとても平和な世界でした。当時すでにアジアの国同士の交流がありました。ところがそこに白人がやって来ると事態は一変し、全ては混乱状態に陥り、破壊されていきました。アジアの国々は皆、白人の侵略に対して身を守るようになり、日本もそうだったということです。

これが、日本が戦争を始めざるを得なかった原因です。つまり、それは攻撃的で侵略的な目的のものだったのではなく、自己防衛的なものだったのです。


★台湾★

●許国雄(東方工商専科大学学長)
日本は東條神社を創建すべきだ。東條首相は天皇陛下に最も忠実に、国家の命ずる所に従って全力を尽くした。私心なく清廉潔白で、汚職のけぶらいは全くなかった。日本は不幸にして敗れたが、彼は全責任を負って断頭台に上った。こういう人こそ顕彰すべきではないか。

●王文雄(作家・拓殖大学文化研究所客員教授)
第二次世界大戦の世界の大きな流れの1つとして、世界各地の植民地の解放運動がある。そのきっかけが大東亜戦争であり、東南アジアにおけるABCD(米英中蘭)の植民地は、日本軍に占領されたことで白人支配から解放され、新国家の国造りが始まった。日本が戦争に負けると、戦勝国として一時的に白人が植民地に戻ってきたものの、もはや過去と同じように支配を続けていくことはできなかった。そしてこの東南アジアの植民地独立が、新しい時代の潮流として地球上すべての植民地に拡散していった。これが第二次世界大戦後の世界史の一大特色である。

●鄭春河(台湾人元志願兵)
大東亜戦争の勝利者が日本であり、敗北者が戦勝国の欧米諸国であると彼等は辞任してゐる。正しくその通り。戦勝国は果たして何を得たか。目的を達成したか。日本は敗れても目的と理想は完全に達成してゐる。即ち、欧米諸国の東洋制覇の野望を覆し、植民地政策を崩壊させ、弱小民族の独立と今日の繁栄をもたらした事実は何人いえども否定できない。詳しく述べれば、戦後わずか5年でインド・パキスタン・セイロンを含む東亜の諸民族はことごとく独立した。地殻変動というか、その民族解放のマグマはアラブ・アフリカに及び、更に中南米に波及し、今や国連加盟は発足当時の52カ国から3倍以上になってゐる。かようにして世界30億の有色民族が独立解放を果たした。即ち、大東亜戦争は民族解放に世界的貢献をしたのである。

●蔡焜燦(半導体デザイン会社・偉詮電子股份有限公司の創業者)
12月8日、開戦劈頭の真珠湾攻撃によるアメリカ太平洋艦隊殲滅、続くマレー沖海戦でのイギリス東洋艦隊撃滅の大本営発表が、勇ましい『軍艦マーチ』のメロディと共にラジオから流れ、台湾民衆を興奮させた。これまで台湾人には軍人の道は閉ざされていたが、この制度によって台湾人が正規の日本軍人として大東亜戦争に参加できるようになったのである。この志願兵制度が発表されるや、約1000名の募集人員に対し、たちまち40万人もの志願者が殺到した。その競争倍率たるや実に約400倍に達したが、翌年にはこれをはるかに上回る600倍を記録している。こうした応募者の中には血書嘆願する者も多く、その決意は内地の日本人に優るとも劣らぬものがあった。戦時中、多くの台湾人青年が血書嘆願し、あるいは進んで銃後の生産に志願して日本人と共に大東亜戦争を戦った史実を、どうか忘れないでいただきたい。

★南アフリカ★

●ネルソン・マンデラ(第9代大統領)
「日本軍がインド洋を越え、エジプトまで来ていたら、南アは1950年頃には独立していた」と口々に言うので本当に驚いた。また「日本軍は大東亜戦争を途中で止めたからけしからん」と微笑を浮かべて力説する男がいた。側近は「マンデラ氏も我々と同意見である。マンデラ氏は『日露戦争の日本、大東亜戦争の日本、援助する日本、工業の日本に感動した。日本に行きたい。天皇陛下にお会いしたい』と毎日語っている」と説明してくれた。

★アメリカ★

●ハーバート・フーバー(第31代大統領)
私は、マッカーサー大将と、(1946年)5月4日の夕方に3時間、5日の夕方に1時間、そして6日の朝に1時間サシで話した。私が、日本との戦争の全てが、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望であったと述べたところ、マッカーサーも同意し、また、1941年7月の金融制裁は、挑発的であったばかりでなく、その制裁が解除されなければ、自殺行為になったとしても戦争せざるを得ない状態に日本を追い込んだ。制裁は、殺戮と破壊以外の全ての戦争行為を実行するものであり、いかなる国、品格を重んじる国であれば、我慢できることではなかったと述べた。

ルーズベルトが犯した壮大な誤りは、1941年7月、つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその1ヶ月後に、日本に対し全面的な経済制裁を行ったことである。その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが本質的には戦争であった。ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三にわたって、そんな挑発をすれば遅かれ早かれ(日本が)報復のための戦争を引き起こすことになると警告を受けていた。

●マッカーサー陸軍元帥(連合国軍最高司令官)
日本原産の動植物は、蚕を除いてはほとんどないも同然である。綿がない、羊毛がない、石油産出がない、錫がない。ゴムがない。他にもないものばかりだった。その全てがアジア海域に存在していたのである。もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、1000万人から1200万人の失業者が日本で発生するであろうことを彼らは恐れた。したがって、彼らが戦争に駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要性に迫られてのことだった。

●ハロルド・R・スターク海軍大将(海軍作戦部長)
禁輸は日本のマレー、蘭印、フィリピンに対する攻撃を誘発し、直ちにアメリカを戦争に巻き込む結果となるだろう。

●アルバード・C・ウェデマイヤー陸軍大将(中国戦線米軍総司令官兼蒋介石付参謀長)
1941年7月26日、ルーズベルトは日本に対して経済制裁を加えたが、この制裁は、日中事変の勃発当初であったなら中国を助けたかもしれなかったが、1941年7月では、もはや中国にとって何の利益もなかった。いまや、こうした制裁は、中国を援助するためではなく、日本を戦争に挑発するためであり、イギリス勢力を維持するために、どうしたらアメリカを参戦させられるかという、ルーズベルトのジレンマを解決するために使用されていた。

●ジョイス・C・レブラ(コロラド大学歴史学部教授)
戦時中における日本の大東亜共栄圏に対する基本的な構想や施策は、終戦後20年以上もの間、政府や軍の資料室に埋もれ、あるいは生存している戦時中の指導者達の記憶の内だけに秘められていた。東京で開かれた極東軍事裁判で打ち出された1つのイメージ、即ち日本は世界で最も強欲な軍国主義国家のひとつであったとする思想は、太平洋の両側で、長い間再検討されないまま放置されていた。公私の資料の入手難が解明を遅らせ、太平洋戦争のいくつかの局面を暗闇に閉しているのが現状である。また日本の歴史家達は、東南アジアにおいて日本が大東亜共栄圏に託した理念、目的、実現方法などを吟味することに、今日まで消極的であった。ごく最近になってアメリカの学者は日本の戦争目的を再検討することに着手し、これまでの定説を修正し始めた。再検討を志すアメリカの学者達の意見によれば、西欧資本主義流の帝国主義の単なる日本版ではなく、それにもましてアジアにおける西欧諸国の進出によって脅威を受けた日本が存亡に関わる権益を防衛するための戦いであったのである。更にアジアを包含しようとする大日本帝国の野望として従来見做されていた大東亜共栄圏の理念もまた再検討されて然るべきである。

●ピーター・F・ドラッカー(クレアモント大学社会科学部教授)
結局のところ、最後に勝ったのは日本だった。日本の取った道、つまり自らの主権のもとに、近代化すなわち西洋化を図るという道が、結局西洋を打ち負かした。日本は、西洋を取り込むことにより、西洋の支配を免れた。軍事的には、日本は第二次世界大戦において、歴史上もっとも決定的な敗北を喫した。自ら植民地大国たらんとする政治的野望は達せられなかった。しかし、その後の推移では、政治的に敗北したのは西洋だった。日本は、西洋をアジアから追い出し、西洋の植民地勢力の権威を失墜させることに成功した。その結果西洋は、アジア、次いでアフリカからの西洋化された非西洋世界に対する支配権を放棄せざるを得なくなった。

●ジェームス・W・モーリ(コロンビア大学教授)
大東亜戦争はマルクス主義者が言うような単なる「植民地侵略戦争」ではなく、西欧列強諸国の帝国主義に反対するという意味では「反帝国主義戦争」でもあった。

●ジョージ・フリードマン(ディッキンソン大学教授)
1920年代後半に、アメリカが保護貿易主義に傾くと、日本は危機に追い込まれた。アメリカは重要な貿易相手国であって、アメリカ市場の喪失は、英連邦地域との貿易関係の断絶の恐れと共に、日本に計り知れぬ危機をもたらした。日本には2つの選択肢があった。1つは、中国大陸から徹底し中国パイのおこぼれを貰うことに甘んじ、絶望的経済破局を迎えること。もう1つは、日本がどうしても必要としていた市場を確保するために、経済的手段以外の方法を使うことであった。日本は後者を選んだ。もっと正確にいえば、日本は政治的・軍事的選択をするほかに道がなかったのである。日本は地質的、社会的条件によって、身動きの取れない状態にあったのである。石油が日本に入るのを妨害することにより、日本が中国やインドシナに手を拡げるのを封じようとアメリカが決定したとき、日本には3つの選択肢があった。

第1は、アメリカの禁輸政策を無視し、それ以前と同じように前進していくこと。しかしこれは不可能であった。なぜなら日本における石油備蓄は、せいぜい長くて1年分がそこそこで、日本はもはや工業国などではあり得なくなるだろうから。第2の道は、アメリカの要求をのんで細々と生きることを考えること。しかし保護貿易主義が衰退することなど思いも及ばぬ有様であったから、この選択は、日本がもはや、世界中のどこの国も商品を売ることができなくなるという経済的惨禍を意味したであろう。したがって、これはただ選択肢のように見えるだけであって、現実には国家としての自殺行為にほかならなかった。日本の第3の選択は戦争であった。

日本は中国に進出していった。なぜならば、国際的保護貿易主義が日本をして警告点を超えさせてしまったからである。いまや列強の行動は、日本が他国の要求を無視することも、それに応じることも不可能にさせていたのである。日本はもはや、自由な主権国家として生き残れないところまで追い詰められた。唯一の打開策は戦争であった。

●ジョン・トーランド(軍事作家)
この会議(著者注:大東亜会議)で満場一致採択された共同宣言は、正義・相互の独立・主権・伝統の尊重に基づく共存共栄の新秩序、互恵の精神をもってする経済開発への努力とすべての人種的差別の撤廃を要求するものであった。その共同宣言は、大西洋憲章の太平洋版というところであった。東京に来た代表者達は傀儡であったかもしれない。しかし奴隷状態に生まれた彼らは、今や自由の身になったと感じ、初めて、共同でアジアの為の偉大な新世界を宣言したのである。

●ジェシー・ジョーズ(ルーズベルト政権の商務長官・復興金融公社総裁)
ルーズベルトは、『私は戦争を憎む』とたびたび述べたにもかかわらず、彼は、参戦に非常に熱心であった。なぜならば、参戦は3期目の大統領の地位を約束するからであった。もし、彼が大統領に3選されたならば、それは彼の2つの大きな希望を満たすことになる。すなわち、1つは戦争するということであり、もうひとつは史上初めての3選を果たした大統領として、彼の虚栄心を満たすことであろう。

★イギリス★

●クリストファー・ソーン(サセックス大学教授・英国学士院特別会員)
1941年以後の年月をバタヴィアで過ごしたあるフランス人は、次のように主張している。「日本人は一般的に敗れたと言われているが、アジアのこの一角では『戦争に勝った』のだ」共産党と国民党とが相対峙していた中国の状況が日本の手によって変えられてしまったように、東南アジアの多くの地においても日本の動きが影響し、革命的情勢、あるいは革命的情勢の萌芽、すなわち白人支配の安易な復帰を許さないような情勢が生まれることになったのである。

太平洋戦争は東南アジア政治の中に全く新しい型を生み出した。1940年の情況に親しく接した者が、その後1948年まで同地を訪れることもなく、その間いろいろな報告を調べ最新の事情に触れることもなかったとしたら、おそらく自分の目を信じることができなかっただろう。この目覚ましい進展は、1つには日本が直接、意識的にもたらしたものだった。しかしそれは、日本の意図をはるかに超えていた。

1941年の末から42年の初めにかけて、日本軍は劇的な圧倒的勝利を収めました。そのとき、日本が白人の威信に与えた衝撃は、1904~05年の日露戦争でのロシアに対する勝利よりもずっと大きなものでした。太平洋戦争の直接の原因は確かに人種的なものではありません。しかしその勃発は、直接間接にこの戦争に巻き込まれた多くの人々の人種的自覚を高めたのでした。日本の緒戦の勝利、とくにマレー作戦とシンガポール作戦での勝利は、相手側に大きな屈辱を与えました。

●エリック・ホプスバウ(ロンドン大学教授)
インドの独立はガンジー、ネルーが率いた国民会議による独立運動ではなく、日本軍とチャンドラ・ボース率いるインド国民軍(INA)が協同してインドへ進攻したインパール作戦によってもたらされた。

●ルイス・アレン(ダーラム大学フランス語教師・ビルマ戦線情報将校)
我々が日本陸海軍の中に理想主義者がいたということを無視したとすれば、それは愚かしいことであろう。日本には、そしてアジア大陸の側にも、日本がビルマに、ベトナムに、インドネシアに独立をもたらしたと真面目に信じている人達が事実いるのである。結局、アジアに築いた日本帝国は史上最も短命なもの、3年半にならねばならなかった。それにしても、その衝撃は非常に大きかった。日本征服の直接結果として、また日本がいなくなった後の配列において、アジアの歴史の型は、再び元に戻せないような決定的な変化を遂げた。

ビルマの戦時の首相バー・モウは、日本がその軍国主義と彼らの人種的幻想によって裏切られたことについて述べ、もし日本が開戦当時宣言したアジア人の為のアジア政策に最後まで忠実であったならば、アジアの半分の信頼と感謝を失うことはなかったであろう、と述べている。1942年と1945年の間の、日本国民としての過ちが如何ようであれ、歴史はこの信頼と感謝を回復するでろあろう。永い見通しとして、ヨーロッパ人にはこれを認めることが難しく、苦々しいことでさえあるが、アジア数百万の民族をその植民地の過去から解放したことは、日本の永続的な業績である。

●ノエル・バーバー(『マラヤトリビューン』編集長)
言い古された言葉ながら、「あらゆる禍の後に福が来る」の喩え通り、白人至上の伝説を打破し、アジア全域を究極の独立に導く一連の事件の動機となったのは、日本軍の戦勝なのだから、今やシンガポールを自らの国とするアジア人達は、皮肉なことだが、日本軍へある程度は感謝すべきである。だから、連合国が復帰し、諸国を解放したのは事実だとしても、それは決して以前と全く同じ姿ではなかった。白人基地を取り巻く畏敬の念と神秘的な雰囲気は永久に失われてしまったし、それにシンガポールの場合、世界のいずこにも比類のない、あの湿潤な富裕都市が、東洋に対する西洋の門戸としての声価に終わりを告げ、むしろヨーロッパに対するアジアの門戸となってゆくのは、単なる時間の問題に過ぎなかったのである。

●バー・モウの回想録『ビルマの夜明け』に対するロンドン・タイムズの書評
ビルマをイギリスの長い植民地から解放した者は誰か。それはイギリスでは1948年、独立を与えたアトリー首相の労働党内閣だというのが常識となっている。しかし、バー・モウ博士はこの本の中で、全く別の歴史と事実を紹介し、日本が第二次大戦で果たした役割を公平に評価している。

★オランダ★

●サンティン(アムステルダム市長・内務大臣)
あなたがた日本国は、アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、とアジアの諸民族に大変迷惑をかけたと、自ら蔑み、ペコペコと謝罪していますが、これは間違いです。あなたがたこそ、自らの血を流し、アジア民族を解放し、救い出すという人類最高の良いことをしたのです。本当に悪いのは、侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は戦いに敗れましたが、東亜の解放は実現しました。即ち、日本軍は戦勝国の全てを東亜から追放して終わったのです。

その結果、アジア諸民族は各々独立を達成しました。日本の功績は偉大であり、血を流して戦ったあなたがたこそ、最高の功労者です。自分を蔑むことを止め、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきであります。


●ミルトン・オズボーン(オーストラリア国立大学国際関係学科主任研究員)
日本の東南アジアへの進出は、この地域のナショナリスト達が長年主張し続けていた議論、つまり、東南アジアの植民地権力とその代理人達をアジア人が打ち破ることができるという議論を力強く説得力あるものにした。しかも、彼らは単に敗れただけではなかった。

その敗北に続いて、白い肌の外国人は社会における特権的な地位から引きずり降ろされ、平和的な時代に植民地社会の骨組みを維持するために精出して働いてきた下層労働者と暮らし向きが変わらなくなった。東南アジアの社会的内部の関係の、このような根本的な変容の重要性については、おそらくいくら強調しても、し過ぎることはないだろう。東南アジア人でナショナリズムに強く傾倒することがなかった人々にとってさえも、ヨーロッパ人の優越性という神話が、殆ど一夜にして崩壊させられたという事実は、このうえなく重要な事であった。東南アジアの世界は、2度と同じものにはなりえないのであった。

【日本人必見映画・凛として愛】


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