【終戦の日を迎えて】靖国で会う、ということ~国の為に命を捧げた英霊への敬意~ | 中谷良子の落書き帳

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私達、現代の日本国民は日本の礎を築いてくださった祖先、英霊達の期待に応えているでしょうか?私が、心から尊敬し、最後の大和撫子だと思っている曽野綾子氏のお話をご紹介するのは、すぐ泣いたり、拗ねたりする現代の甘ったれた日本人が精神的に強く逞しく生きてほしいからです。現代からでは得られない生きた知恵を授けてくださる素晴らしい保守女性作家です。自分勝手な強さを露骨に出す「強い女性」は多いものの、このように本当の意味での「芯の強い大和撫子」は現在、見当たりませんね。やはり今の日本人には修羅場が必要ですね。

★靖国で会う、ということ~国の為に命を捧げた英霊への敬意~★

幼稚園の時から、カトリックの修道女たちの経営する学校で育った私は、戦時中の軍国主義的教育の風土にもかかわらず、その両者の対立に深く心を痛めたこともなく済んだ。それは今にして思えば、大変幸福な事だったが、学校が政府や軍部の圧力を恐れて軍国主義的な教育に妥協していたこともない。

私は戦争中も戦後も、ずっと靖国神社にお参りし続けた。現在は、毎年8月15日の早朝に参拝する。10年前の5月、私はひどい足首骨折をして手術を受けた。しかしその年の8月にも、杖をついて、拝殿のできるだけお近くまで、お参りに行くことにした。

しかしやはり怪我の跡は腫れていて、直前までは歩けなかったが、一番近くの鳥居の真下辺りまで行って拝礼できた。

信仰の違いも問題ではない。戦争中、日本人の多くは、応召して戦地に行けば、2度と再び生きて故郷には帰れないことを、どこかで予感していた。しかし人間にとって死ぬということは、たった1度の偉大な未知の体験である。もう少し年をとれば、覚悟を決めて辞世の歌を作ったり遺書を書いたり、友達に我が思いを語ったりすることもできたろうが、まだ満19歳か20歳の、農村や漁村で素朴に育った青年達にそれは無理なことであったろう。

彼らはそれとなく、別れと再会の期待を込めて語り合ったろうが、次はどこで会うかと聞かれれば、それは平時と違って微妙に難しいものであった。今の若者達なら、再会の場所として行きつけのコーヒー店や母校を挙げたかもしれない。携帯やメールで新しい再会の場をすぐ指定することもできる。しかし当時は、電話さえない家も多かったのである。

しかももし自分が戦死していたなら、再会の場はどこにしたらいいかわからなかったろう。その劇的な運命の変化をお互いにさりげなく認め合うためにも、彼らは再会の場として「靖国で会おう」と言ったのかもしれない。終戦の時、13歳だった私は、さらに現実的だった。戦時中、東京の町はあちこちが焼失した。

空襲直後の銀座では、主な建物がすべて焼けてしまっていたので、私達は「もとの××屋跡」というような言い方をするほかなかった。待ち合わせの場所が、どんどんなくなっていったのである。東京駅は待ち合わせ場所としては広すぎる。焼け残ったのは、上野の西郷さんと渋谷のハチ公の銅像と、そして靖国神社の拝殿前という場所だけのような気がした。亡くなった英霊も、戦地から生還した人も、そこでなら会うことができる。だから私は今でも彼らの思いにならって靖国に参るのである。

8月15日の早朝の参拝者を見るのは、清々しい。まだ7時前でも、そこにはあらゆる人が参拝している。サラリーマンはもちろん、学生、主婦、若い娘たち、足元のおぼつかない老人、それらの人達が、1人で黙々と玉砂利を踏んで歩いている。世間は総理の靖国参拝に関しても様々なことを言うが、この黙々と靖国に参る人たちの多様さが。それに答えているように見える。

2007年6月7日、私は元台湾総統の李登輝氏夫妻のお供をして、靖国神社に参った。李家も私達もクリスチャンだったが、一緒にお参りしてくれ、とお声かけ頂いたのである。

日本領時代、日本海軍の水兵として命を捧げてくださった兄上、日本名・岩里武則氏が靖国に祀られていたのがわかったのである。兄上が南方作戦に参加し、戦死されたのはフィリピンだったというが、戦場がどこかもよくわからず、もちろん遺骨も帰らなかった。

李氏の父上は、長男の戦死を信じなかった。戦闘詳報もない、遺骨も帰らない、ということは、実はまだどこかで生きているのではないだろうか。親だったら誰でもそう思うだろう。負傷して土地の人に助けられ、その一家と後半生を共に暮らす気になったかもしれない。それならばいつか帰ってくる、と親なら思うのである。

父上は結局、兄上の生存を信じ続けて葬儀も出さずお墓も作らなかった。私は生前の父にお目にかかることはなかったが、もしお会いしていたら、何と言ってお詫びと感謝をしたらいいか言葉を失っただろう。李家が日本を敵視しなかったのは、キリスト教の愛と許しの証としか思えなかった。長年参拝できなかったのも、それまで李氏夫妻は、様々な政治的雑音に耐えねばならないお立場だったからだろう。

靖国神社側では、尊厳と温かさをもって李氏夫妻を迎えられた。「(参拝を終えて)応接室に戻ると、そこには亡き方の名前、軍隊の階級、所属部隊などを書いた『証明書』のようなものが用意されていた。氏は『長い間、兄を祀ってくださってありがとうございました』という意味のお礼も言われた」と私は当時書いている。

「兄が靖国に祀られているとわかったから、今度はどうしてもお参りに来なければならない、と思った。仲のいい兄弟だったのです」と李氏は参拝の後で言われた。いつもは温顔を崩さない李氏が、その時だけはやっと時間に耐えていられるという表情だった。しかし靖国神社がお守りしてくださっていたおかげで、李家の御長男の長い戦後は、行方知れずにもならず、見捨てられたままにもならず、尊厳をもって終わったと言えるかもしれない。

私は1度だけ、第二次世界大戦中野ノルマンディー上陸作戦で倒れたアメリカ軍の戦死者墓地を訪ねたことがある。数百基、或いは数千基の白い墓石が見渡す限り整然と並んでいた。私はどの墓石の表面にも、野鳥の糞などの汚れが全くないことに感動していた。しかし午後5時直前に入ったので、私がほんの数分墓標に書かれた記念の文言を読み始めたところで、ハンドベル風の音楽がアメリカ国歌を鳴らした。それが閉園の合図らしかった。

私達は心を残して墓地を出たが、そこにはアメリカ領事館のナンバーをつけた車が1台止まっていて、制服の軍人が私達1人1人に敬礼した。国の為に亡くなった人達に対し、こうした礼を取り続けることが国家のあるべき姿だろう。靖国神社がなかったら、私達は国の為に命を捧げた死者に対する敬意の中心を失うことになる。(曽野綾子)

教科書が絶対に教えない靖国神社─ 日本人が知らない靖国神社
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【小野田寛郎】ルバング島戦後30年の戦いと靖国神社への思い
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