CCCreation Presents

舞台「白蟻」

 

作品の謎を追う考察じゃないです。

 

思ったこと。

 

それならもう間違わんでしょ。

 

 

弔いそのものについて考えた。

 

『どうしようもないことなんていくらでも見てきた』

『耐えるしかないんですよ』

耐えて耐えて、ただ墓前を弔うことだけが正しい行いなんですよ

 

 

終盤の新渡戸先輩の説法。

 

大切な人の死という人間の力では抗えない出来事に対して、

どうしようもないから、どうしようもない気持ちを、耐えて耐えて、弔いという行為にぶつけるのかもな。

 

弔うことで、大切な人の死を受け入れ、辛い気持ちを少しでも癒し、弔いながら少しずつ乗り越えていくんだと思う。

 

だけど櫛本先輩は、大切な人の死を受けて、じゃあコピーを作ろう、アンドロイドを作ろう、憎き機械を掃討しよう、と狂っていく。

櫛本先輩は天才で、アンドロイドを作る技術があってどんどん発展させる力があったからこそ、何とかしようと頑張ってしまうんだよね。

『どうしようもないことを耐えて弔う』という普通のことができない天才の苦しみというか、天才だからこその、諦めたり折り合いをつける能力の低さっていうかね、そんなのを感じた。

 

 

新渡戸先輩は、大黒との会話で、お経をあげることを『死後の世界で安らかであるように願うこと』とも言っていた。

 

死後の人間はお経を聞くことはできないし、弔いの実際の効力としては生きた人間を救うということになると思う。

でも、生きた人間の方は、別に自分が死を受け入れるために弔っているつもりはなくて、故人が死後の世界で安らかであるよう願って弔っている。

誰かのためを思い出来る限りのことを頑張ることで得られる心の安寧みたいなものがあると思う。

 

それが、弔いという『尊い行い』、人間らしい価値なのかなと思った。

 

 

櫛本先輩も、美緒のことは弔っているように見えるけど、形だけな感じがする。

どうしようもない気持ちをなんとかしたくて頑張ってるんだけど、普通の人の『弔い』とは違って、「みおが死後の世界で安らかであるため」なんて思って無くて、まだ生きているべき、死ぬべきではないと思っていて、「美緒を蘇らせたくて」頑張ってる。

アンドロイドの美緒を作ったって、それは美緒ではないし、死後の世界にいるであろう本当の美緒には関係ない。

機械掃討計画だって、美緒のためじゃない。新渡戸先輩の言う通り『そんなことしたって美緒は喜ばない』。

 

それは全部自分の為で、美緒のためではないし、弔いではないと思う。

 

 

櫛本先輩は、本当の意味で弔うことができなかった人なんじゃないかなぁ…

 

 

などと考えたりした。

 

 

 

AI葬儀の話に移るんだけど。

 

死後の人間、停止後のAI、どちらももうお経を聞くことはできないし、何も感じたり考えたりできない。

弔いやお経は、人間であれAIであれ、故人に直接影響を与えるものではない点では同じだ。

 

『葬儀屋は弔いたいと思う人の気持ちに応える場所』というのは全くその通りで、弔いや葬儀や読経は、遺された人間が、死というどうしようもないことを、弔うことで少しずつ受け入れて乗り越えていくための儀式だ。

葬儀屋は、生きている人間へのメンタルケアのサービス業だ。

 

だからね、遺族が人間であれば、葬儀の対象が人間でもアンドロイドでもいいと思う。(火葬問題は別)

いやもう、何でもいいと思う。弔う人が弔いたいという思いを持った人間であることが何より重要なのだと思う。

 

 

ちなみに私は、あらすじを観劇前に読んだとき、『AIの弔いを求める男が現れ…』という説明を、AIに弔ってもらいたいという男が現れ…という意味に読んで、AIが弔いをしてくれる時代がくるみたいな話かと勘違いしてて(笑)

 

全然そういう話じゃなかったんだけど(笑)

でも、弔うという行為が弔う側の生きた人間の心のためになされることであれば、AIが人間を弔うなんてことは成り立つんだろうか。

たとえば、直哉が死んだと仮定して、アンドロイドである大黒やお母さんには、何か感情が起こるのだろうか?悲しむだろうか?直哉を弔うだろうか?

アンドロイドが死を受け入れられるなら、悲しいとか思っていないなら、必要ないってことになるよね。

 

仮に故人の周りに遺された近しい人がアンドロイドだけだったら、故人が人間であっても、弔わなくていいことになると思う???

いやでもそれは抵抗ある。良くない気がする。

でもそれでお経あげるなら、それは、良くないって思っている人が寝覚め悪くならないためで、やっぱり生きた人間のためじゃない?

 

そういう話じゃなかったから(笑)もちろん答えは出ないんだけど。

 

 

話がIFに飛んでるけど、とにかく。

AIに対してとか人間に対してとか対象関係なく、弔うってこと自体が、人間にしかできないというか、人間にしか必要ないというか、人間らしいことなんだよなって改めて思ったって話です。

 

 

 

 

今度は『機械とは白蟻だ』に勝手に飛躍するんだけど。

 

櫛本先輩は機械という白蟻の王蟻でもあったけど、機械という白蟻に蝕まれてるのは櫛本先輩自身なんだろうな。

もし機械がなければ、人工知能工学などという発明とその才能がなければ、美緒を作ろうなどという発想にも至らず、平凡な人間らしく、どうしようもないことを耐えて耐えて墓前を弔った(弔うしかなかった)と思う。死後の世界で安らかであることを祈り、そして先輩自身も少しずつ救われたかもしれない。

 

この作品のテーマである『弔い』という人間らしい部分を、機械という白蟻に食われて失っていったのは櫛本先輩なのかも。

 

だからかな・・・

白蟻に食われた家は解体するしかない。人間らしさを機械という白蟻に蝕まれた自分は死ぬしかないと、思ったのかな。

アンドロイドを作る技術を持ってしまった自分はもう、美緒を作るという行為(=弔いではない、死を受け入れられない)から生涯逃れることができないと思ったのかもしれない。

 

 

 

(なんかやっぱり考察になってしまうのなんで?)

 

 

舞台『白蟻』

 

配信買ってしまいました!!!

 

これまで頑なに、配信の類は見てこなかった。

 

舞台で、現場で、体全体で、人から人へ直接受け止めるものでしか得られないものがある。

と狂信していて。

 

現場に行けない舞台に関しては、生で見ている人と同じものは感じられないと思うと、悔しくて観る気になれないし、

現場で見たものを後から映像で見ることに関しては、現場での体感を忘れてしまう、上書きされてしまうのが怖くて観る気になれない。

 

正直、舞台を1回か数回見ただけでは、セリフの一言一句正確に覚えられないし、動きもそうだし、正確にな記憶じゃない。

だけどその中で、印象として強く残る部分、残らない部分があったり、『本当にそういう言葉だったかわからないけど私にはそう感じられた』みたいな、自分の心に残った結果論として残る部分がある。

正しい、正しくない、じゃなくて、『体感として、どう感じたか、どう伝わったのか』。

台詞を全部正しく覚えるのがえらいんじゃなくて、限りある記憶力の中に残ったのがどのセリフ、どのシーン、どの感覚、どの解釈なのか、というのが、少なくとも自分にとってのその作品の価値観、その作品から何を感じたかを考える切り口になる。

 

雑に言うと『第一印象』。

私は『初見でしか得られないもの』みたいな言い方すること多いけど。

 

 

だけど、今回、本当に全部の台詞に意味が、重みがあるように感じて。

どの一言も、印象に残らなかったからいいや、とはならないし、

『本当にそういう言葉だったかわからないけど私にはそう感じられた』ではいけないような気がしたというか。

どうしても、やっぱりもう一度一つ一つの台詞を確認したい!!

 

っていう気持ちになって。

もし、やっぱり映像は好きじゃないな、ってなったとしても、とても素晴らしい舞台だったので、チップのつもりで買おう、って。

 

買ってしまいましたよ配信!!!

 

映像なんて!と思ってたけど、思ったよりすごく良かった!!

台詞の噛みしめに意味のある舞台だったせいか、気になってた台詞をたくさん確認できて、まんぞく!!

見れなかったアングルの映像も見れたりしたし。

前編通して素敵だった音楽ももう一度聴けてよかった。

 

まぁ初見の感覚は失われたかもしれないけど。

 

 

だがしかし、確認できてしまったことで、もう考えることが際限なくなってしまった感じがして、嬉しい絶望というか。

これ、全部の言葉について考察しないといけないんじゃない?みたいな。(できないからやらないけど)

配信で確認したからには、「~~みたいなこと言ってたと思うけど~」みたいな言い方はできないなとか(笑)

これまで、取捨選択されてきたことが、全選択になってしまった苦悩。

 


しばらく狂ったように白蟻のことばっかり考えてる。

 

 

オープニングだけyoutubeで公開中↓


なんとなくぞわぞわする狂気じみた雰囲気と、傾いた床下と火葬炉をイメージした八百屋舞台と、白蟻のうごめく感じと、棺桶の感じと、役替わりの雰囲気の違いくらいは伝わるかな。

 

 

 


 

 

舞台「白蟻

 

書きたいことは山ほどあるし全部書きたいけど、まずは最大の謎であり核心であるここをどーーーしてもクリアにしたい。

 

 

櫛本先輩は、最後どうなったのか?

 

ラストの骨壺を棺桶に入れるシーンの意味は?

 

これです。

 

人によって解釈違うだろうし、証拠はあるかもしれないし、ないかもしれない。正解があるのかないのかも、解釈の自由があるのかないのかも、わからない。

 

書きながら自分の解釈を練っていきます。

(書き始めないとわからないスタイル)

 

 

 

桐箱から骨壺を取り出し、棺桶に入れ、火葬炉に力強く入れていく。

その上には、みおの形見、象徴でもある恐竜のぬいぐるみを置く。

そして、火葬炉(?)に向かって手を合わせる。

AIへの弔いとされる『円周率のお経』が唱えられて終わる。

 

 

確認する。

 

骨壺である。

一般的常識から見て、死者の火葬後の遺骨が入っている、はず。

一応ここは大前提としておきたい。

 

そして棺桶は死者を入れて、火葬炉に入れるもの。

ただし棺桶は、演劇の小道具として、他のシーンでは机やベッドとしても(棺桶という意味合いをうっすら含みながら)使われてきた。

 

直哉が棺桶(と仮定する)を押して入れていくのは、物理的には八百屋舞台の床下で、これまでの芝居上で、棺桶が出てきた場合には火葬炉として認識されてきた場所。

 

 

しかし、骨壺を棺桶に入れて火葬炉に入れるはずはないので、何か別のものを表現、暗喩しているとか、何が意味があると、色々と仮説を考えていた。

 

一般常識的に、『骨壺を桐箱から出してどこかに収納する動作』といえば、納骨である。

 

仮説①

納骨シーンであり、八百屋舞台を墓に見立てて、その下に納骨している???

→誰の骨?誰の墓?みおちゃん?櫛本先輩?AI?なに?

→でも納骨なら棺桶に入れる必要ある?そのまま八百屋舞台の下にしまえば良いのでは?棺桶を墓に見立ててる???

→でも棺桶を力強く押して火葬炉に入れていく姿は、あれはどう見ても納骨じゃない、火葬炉に入れる動きだ。

 

 

仮説②

AIの火葬。

さっきまでターマイト社のAIの葬儀をやっていたんだし。

そして、バックのお経が円周率であることからしても、弔っている対象はAIであると考えられる。

火葬炉に入れてもOKな部分だけ抜き取って、火葬するのかなー?とか

→誰の?アンドロイドみおちゃん?大黒?アンドロイドお母さん?AI全般??

→骨壺に入れて?なんで?

→人間時代のお骨を一緒に入れて、二度目の死を二重に弔おうとしている???

→っていうか誰の????????お母さん?みおちゃん?骨壺は一つだが??

 

 

いや??????????

なんかしっくりこん

誰????????

 

というどうどう巡りをかなり長いことしていた。

(って初見から2回目までの間だけど、長く感じた)

 

 

 

櫛本先輩だ

 

 

櫛本先輩が亡くなったという明確な描写は『ハッキリとは』なされていない。

だけど、それを『思わせる』描写はあちこちにあった。

 

まず、オープニングの直哉の夢の中で、「王蟻はいつ死ぬのか」という問いに、ターマイト社製AIである大黒は「36歳の誕生日」と答えている。

昭和64年元旦生まれの櫛本先輩の36歳の誕生日は、ターマイト社製の全AIが停止し、AI葬儀が行われた日だ。

『王蟻』は白蟻にとって絶対的な王であり、ターマイト(=白蟻)社製のAIにとって、その作り主である櫛本を指す。

 

そして、アンドロイドみおちゃんがそのタイミングで「兄さんもやがて『運びこまれるでしょう』」と言っている。

 

これも当初は「死」なのかよくわからなかった。

AIの停止によって色々な事故が想定されるように、櫛本先輩にも何かが起こるのか???と。

 

でも、アンドロイドみおちゃんのその言葉に対し直哉は、

僕が焼く。大切なものは、全てこの手で焼いてきた

と、櫛本先輩を自分が焼くことを約束している。

 

大切な櫛本先輩の、この作品の大切なテーマである葬送が芝居のラストであることは自然だと思う。

 

 

 

ラストシーンの、骨壺in the棺桶に話を戻そう。

 

これが櫛本先輩の葬送だと仮定する。

 

でも棺桶の中には櫛本先輩はいない。

 

棺桶の中にあるのは骨壺

 

唱えられるお経は、AIの弔いのための円周率

 

 

その時、

大切なものは、僕が焼かねばならないんだ

 

「一度目は、母さんを焼いた時、二度目はみおを焼いた時…」

 

「(櫛本先輩は)僕が焼く。大切なものは、全てこの手で焼いてきた

 

葬儀屋として、大切なものを火葬することの辛さと覚悟…だと思って聞いていた印象的なこれらの台詞が、なんとなく、そうじゃなくてもっともっと強くて狂気じみた執着のような、ゾクッとする感じとなってどこからか降ってきた。


(ちなみに、両パターン見たけど、多和田勢堂&平野櫛本バージョンをイメージして書いてます)

 

 

直哉は、自分の恋である大切な櫛本先輩を、どうしても自分の手で焼きたかった、焼くべきだと思っていたはずだし、アンドロイドとはいえ美緒にもそう約束した。

 

そう思った時、「骨壺を、棺桶に入れて、火葬炉に入れる」という、ありえない情景に、突然辻褄が合った気がした。

 

 

肉体がなく骨壺しかないこと、円周率のお経が読まれていること、そして、ターマイト社製AIが停止するタイミングが死であったことから、櫛本先輩はターマイト社製アンドロイドだったのでは。

そして、骨壺はそれ以前に亡くなって火葬された櫛本先輩の遺骨なのでは、と。

新渡戸先輩が櫛本先輩と口論になってやり合った時のことを、キョンさんに「機械とケンカしちゃって…」と表現しているのも気になる。

(でも実際に手を出した側近アンドロイド?のことかもしれないし、櫛本先輩自身が機械だとわかったかどうかもわからない)


 

これまで散々火葬を象徴するシーンが出てきて、生身の人間の櫛本先輩の死であるなら、大切な櫛本先輩をこの手で焼くという儀式が表現されてしかるべきだし、それをすっとばしていきなり骨壺というのは違和感がある。

納骨だとしても、棺桶に入れて押し込む理由がない。骨壺のままセットの下にそっと置けばいい話だ。

 

アンドロイドの体だとしたら、火葬炉の都合上、少なくとも全部は焼けなかっただろう。

直哉は、自分で焼くことのできなかった櫛本先輩を、骨壺をもう一度焼いてまで、自分で焼きたかったのかもしれない。

仮にそう解釈したらだけど、その狂気と執着が吐きそうなほど狂ってて言葉失った。

(合ってるかは知りませんw)

 

そして、その満足そうな後ろ姿に(後ろ姿だけどそう見えた)、そうすることで得られる一種の達成感…というより…満たされたような、約束を果たした充足感のような、なんかそんな悦びを得ているような気がした。

(気がしたレベルの勝手な解釈)

 

 

少し話はそれるが、「AIの葬儀をどうするか」という話題の時に、火葬の是非が問われて、でも機械を火葬は無理だから専門業者に依頼するとして、葬儀だけでもやろう、葬儀という行為自体が尊い、みたいな話になったと思うんだけど。

「大切なものは、全てこの手で焼いてきた」直哉にとっては、葬儀の儀式やお経よりも、焼くことそのものが弔いであり、辛いことでありながらも、大きな意義のあることなのではないだろうか。

 

書いてて、思った以上に、火葬の意義に重点が置かれているような気がした。(少なくとも直哉にとっては)

 

 

同時に、高校時代に火葬炉を使って野犬を焼くことで得た、櫛本先輩との甘やかな秘密の繋がりも思い起こさせた。

櫛本先輩を信じ、櫛本先輩に付き従う権利を得、櫛本先輩が正しさをもって駆除したものを、秘密裏に直哉が焼く。

その関係を最後まで貫き通し、櫛本先輩に必要とされ続けたのだ。

まさか、その駆除され焼かれるもの(AI)の中に櫛本先輩自身も入っていたなんてなー。

 

直哉がAI葬儀でTVに取り上げられてインタビューを受けているのをTVで見て「面白いこと考えるな~勢堂は…」と感心していた櫛本先輩。

直哉に自分自身とターマイト社AIの最後の全てを託そう、自分が掃討したものを処理するのは直哉だから。と思ったんだろうな。ただ滅びゆくはずだった自分たちに、弔ってくれる直哉がいるのはどれほど心強かっただろうか。

このシーン、テレビにインタビューされてAI葬儀について喋る直哉が、リポーター越しに、テレビを見ている櫛本先輩とがっちり向き合ってて、なんか、目に見えない絆、甘やかな繋がりを感じて良かった。

 

これは完全に妄想で、そうだったら面白いなって話なんだけど、櫛本先輩がアンドロイドだったとして、それ自体がトップシークレットで、火葬した直哉にしかわからないことで、野犬の時のように『僕と先輩の秘密』『人には知られては困る先輩の秘密を僕が焼く』そんな充足感を得ながら秘密裏に処理していたとしたら、なんかやばくてイイかも。

(野犬駆除と同様、キョンさんと新渡戸先輩は直接関わらないながらも知っていたかもしれないけど)

 

根拠はない。根拠は無いけど、あれだけ印象的に野犬掃討&火葬のシーンが夢の中も含めて2回も出てくるというのは、あの時の幸福で甘やかな感触が先輩と直哉の関係のベースにあって、それを強調するような、重ね合わせうるようなことが起こっていくという伏線なのでは。

 

 

 

この作品、『AIの弔い』というテーマが『ブロマンス』を通して描かれる作品で、タイトルは『白蟻』。


初めは、2人が共同してAIの弔いについて考えていくような話?と思っていたけど…

 

なんか、すごかったな。。。。。(語彙力の喪失)

 

 

 

 

 

で、仮にそうだとして、櫛本先輩は、いつ、なぜ、死んで、いつからアンドロイドだったのだろう

 

私は、電話がヒントかなぁ?と思っていて。

「わざわざ電話してくれたんですか」と、そんなおかしいかな?と思うくらい、櫛本先輩が電話をわざわざしてくれる人だということが前半に何度も強調されているように感じて。

それが後半、「電話してるのに全然出ない」とか、あのマメな櫛本先輩が??と、ちょっと人が違ったみたいだなと感じる箇所が出てくる。

13回忌はわざわざ電話で依頼したのに、大規模で高額で非常識な日時指定のターマイト社慰霊祭は、電話の一本もない。

このあたり…そんな細かい心遣いまではアンドロイドはコピーしきれなかったのかな~…とか思っている。

 

公衆電話の電話ボックスも、ずっと上に吊られていてすごく印象的で、イマドキ公衆電話?と思うし、電話というアイテムにこだわりというか、意図あるのかなーとか考えてしまう。

電話くらいで櫛本先輩アンドロイド説を裏付けるほどの決定的な根拠にはならないと思うし、みおのアンドロイドができて(そして失敗して)狂ってるだけかもしれないけど。

 

仮にそうだとしても、死因もわからないし、なぜ直哉が焼いていないのか、誰も知らないのか、誰も弔っていないのかもわからないし、ちょっと納得できない部分もある。

 

想像で埋めるとしたら、意図的な死であったのか。

白蟻であるAIを社会に巣食わせる自分は、白蟻駆除の業者ではなく、王蟻だと、自分こそが駆除されるべき白蟻そのものだと、思い至ったのかもしれない。

(↑エビデンス無い。妄想!!)

 

あと、AI掃討作戦を告白した後の「僕に欠けているものが何か、そろそろわかったかな」という、セリフも気になる。

13回忌の時は「先輩の欠けたものが何なのか、みんなわかっていた」。

その時は、死んだ妹みおちゃんの存在だと思ったし、そう描かれていた。

でも、壮大なAI掃討計画を熱弁したあとで、「欠けてるものがみおだってわかった?」と聞くのは、今更だと思って違和感だった。

しかも「そろそろわかったかな」と、謎かけのように言う。みんなが当然知っているみおちゃんとは違う、まだみんなが気づいてなかったであろう「欠けているもの」を指していたのでは。

それは、人間じゃない、ってことだったのかなー…とか…

(でも、このセリフだけで、アンドロイドだ!!って断定できるわけでは到底ないし)

 

 

・・・と、櫛本先輩アンドロイド説には、ちょっと根拠が薄い部分もあって、ちょっと自信なかったりもする。

 

 

 

 

もしかしたら人間のままだったかもしれない可能性もあるとも思ってる。

 

けど、どちらにしてもあのラストは、大切な櫛本先輩の大切な火葬、というのは間違いないと思う。

 

その場合は、AIじゃないのになんで昭和100年1月1日に死んだ?っていう疑問が残るけど、その答えもやはり「AIとともに滅ぶ意図的な死」だったとしか考えられないところは変わらない。

 

もし人間バージョン櫛本先輩だったら・・・

骨壺の中身は、この場合は、副葬品?としてみおちゃんの遺骨かもしれないね。

『先輩の欠けたパーツ』を棺桶の中で合わせて完全な先輩にしてあげる、みたいな。(いいんじゃね?この解釈も)

『欠けたパーツ』も重要なワードだったし、火葬段階でその伏線を回収する、分かれていたものを火葬によって一つにするという、直哉なりの弔い、というのも、良いかも!!

その解釈も捨てがたいんだけどなー。

 

先輩自身の姿がないのは、妄想で補って下さいみたいな演出と考えるか・・・

円周率のお経はどう捉えたら良いのか・・・?

櫛本先輩個人へではなくて、駆除されたAI全体に対しての、櫛本先輩が駆除したものへの読経なのかなとか。

 

人間バージョンだとしても、やっぱり埋め切れない、正解と断定しきれない部分があるんだよなぁぁ

 

 

 

だから・・・

アンドロイドでも人間でも、どっちでもお好みの方の解釈でいいってことじゃない!?

もしかしたら、どっちとも断定できないことで、各々好きな解釈ができるようになっているのかもしれない。

 


 

私は…アンドロイド説のが好きだな。

解釈合ってる合ってないはわかんないけど。

 

直哉と先輩の関係という視点から見ると、肉体の死の際に焼けなかった残念は残るけど、先輩の秘密であるアンドロイドを火葬(正確には分別するだろうけど)する方が、実際に肉体を焼くことよりも、甘やかな秘密を共有できて達成できた点で精神的に満たされる気がするし、大切な人をアンドロイドになっても最高の弔いをするっていうラストが、AIの弔いというテーマにふさわしい気がする。

ラストに人間の体を焼いて般若心経唱えてたら、これまでやってきたAIの弔いの話はなんやったん?ってなる気がするんだよな。

AIの弔いを考えて、円周率を考えたり、色々やってきたことが、最終的に大切な人の葬送に繋がっていくラストが、良いんじゃないかと、思うんだよね。

 

 

おわり。

 

 

 

とりあえず、このテーマ考えたかった。

他のキャラクターとか音楽や装置の話とかも書き散らかしたいので、またこんど。

 

w-inds.さんFCLTにて、昨年のZEPP羽田に引き続き(というほど続いてない、1年ぶり)、今年は初のZEPP横浜へ突入。

 

前回同様、やっぱり文句は本編の感想と分けて書きたいので分離。

(ZEPP横浜への文句ではない。スタンディング全体への思い)

 

いつぞやのZEPP羽田とは違い、整列~入場ルート上に階段がなく(当たり前だよ、改めてあぶねーだろZEPP羽田)、大通りに面した道沿いに整列するので、安全面では安全。(周りの通行の迷惑にはなるかもしれない)

 

 

けど、久しぶりだから改めて思ったけど、

この、2000人近く(しらんけど)を順番通り整列させる手間とゴタゴタ

1時間以上前から待機しなければならない無駄時間

入ってからは身動き取れず、トイレ行くことも座ることもグッズ買いに行くこともできず、長くて1時間もじっと立って開演を待ち続けなければならない無駄・・・

体調不良者や怪我人が出るリスク・・・

何をとっても、無駄な労力、無駄な制約、無駄な時間、危機管理の欠如としか思えず。

 

ライブハウス側、あるいは主催者的には、何かいいことあるのかな、ホールよりよっぽど経費安く上がるとかかな?

でも、拡声器で「〇〇番までの方ぁぁぁ!!!」「〇〇から向こうにはみださないでくださーい!!」「走らないでくださーーい!!」とかやるのも大変だし、柵とか作って整列させるのも大変だし、そこに人件費かかるよね。

 

トイレ行きたいってスタッフに言った人がいたけど、行ってもいいけど元の場所に戻れないかもしれません、って言われてた。実質行けないようなもんじゃんよ。

普通にホールだったら、ほとんど全員が開演前にトイレいって、開演に備えて心を落ち着けている、そういう時間だと思うよ。なのにほとんど全員が我慢してんだよ。おかしいよ。

開場1時間、ライブ1時間半、開場より更に前から並んでいるから3時間くらいはトイレに行けない。そりゃ我慢は不可能じゃないし実際大丈夫だったけど、もっと要領よくすればしなくていい無駄な我慢だし、本当に我慢できなくなったり体調悪くなる人もいるだろう。

で、終演したらトイレにはもう閉鎖って柵がしてあるんだよ、一体どこにライブハウスのトイレ行くタイミングあるんだよ(笑)

 

本当に体調悪くなったりする人もいるけど、その人が逃げ出す、助け出す通路もない。もちろんその後戻ることも想定されていない。

そんな制限おかしくない?

人間として扱われてなくない?

この、人間として扱われてない感はすごく思う。

2階から見ると羊の囲い込みショー見てるみたいだみたいな話を昔誰かとしたけど、本当に家畜を狭い牛舎か何かに詰め込む感じの扱われ方をする。

ホールだと、消防法の関係で立ち見できなかったり通路に物置いちゃだめだったりとかあって、有事の際の避難とかも想定していることが察せられるけど、一人の病人の通る通路すらないギュウギュウ詰めのライブハウスで何か起こったら間違いなく死者多数になると思うんだが、そこは何の法律も避難対策もないんかな。

いいのかな、家畜だし。

 

グッズだって、開場中に動けたら、もっと買った人いたかもしれないのにね。

 

 

MCで、ライブ中(1時間半)くらい立ってられなかったらヤバいとか、俺らは1時間半歌って踊ってるのに、とか言ってたけど、違うんだよ!!!ライブの間だけ立つだけだったら全然平気だし、楽しいから別に平気だよ!!

スタンディングしんどいとか言うけど、別に立ってること自体は意外と別にかまわないのよ。そこじゃないのよ。

 

ライブ始まる前から謎の労力とストレス使ってんのよ!!

もっと言うと、実際に立ってられないほど体力持たないとかトイレ我慢できないとか、そこまで追いつめられてるわけじゃない。

単純に、無駄だと、要領の悪い鑑賞方法だと、言いたいのよ。

 

椅子作ったら、場所をとる、お金がかかる、立たせればたくさん人を入れられる、ってのはわかるから、それなら床に何番とか番号でも振ってくれたらいいのに。

それなら整列の手間もかからず、わっと押し寄せる危険もなく、みんな好きな時間に来て、開場中にトイレ行ったりグッズ買ったりして過ごせるのに。

 

どんなにいい番号取れても、入場のタイミングに間に合わないといけないし、入場のタイミングで、2000人近くが建物の周りに群がってるのも、周りにもすごく迷惑だと思うんだよね。

 

永遠の課題、段差がないため全然見えない問題も発生するし。(段差あったらあったで危ないかもしれないけど、そこはきちんと柵とかしてさ)

 

お金払ってるのに(前でも後ろでも同じ金額で!)、見えないことがあるとか、前の人の背の高さの運次第とか、おかしくない?

そりゃホールよりは安いけども、どこの番号くるかわからん、どんな人の後ろの人になるかわからん、見えるか見えないかわからんって、ギャンブルじゃん、いや、背の低い人なんて高確率でそのギャンブル負けじゃん。

そんな楽しみの保証できないチケットよく売るよ。なんで誰も消費者センターに文句言わないの。

 

まぁそのリスクを理解した上でチケット買ってるのはそっちだろうと言われて終わりなんだろうけど。

 

それはリスクがあるとわかってて、見えないかもしれない、体調悪くなるかもしれない、そういうリスクを冒してでも好きなアーティストをどうしても見たいからだよ。

ライブハウスに行きたいなんて、スタンディングライブに行きたいなんて、整理番号持って並びたいなんて、これっぽっちも思ってない。

ファンの気持ちとアーティストの人気に、主催と会場は甘えるんじゃねぇ!こんな設備と段取りと対応に金払ってるんじゃねーよ!!断じて!!って思う。

 

だから、よほど好きなアーティストでないと、行かない。

そこを足元見られてるんだろうなって思うけど。

 

 

これまでも散々スタンディングのライブは行ってきたけど、コロナで久しくなかったところへ久々に来ると、心底頭の悪い鑑賞方法だな、ってうんざりしたのでした。

w-inds.FAN CLUB LIVE TOUR2024 M,M,S

@ZEPP横浜

 

なに?MMSって・・・何の略???

結果から言って、解明することはありませんでした・・・

(大阪かどっかに行った相方曰くMCで『すっごくしょうもない』って言ってたらしい。しょうもなすぎて今更言えなくなったのかな???などと言いながら未解決)

行ったらわかるかなと思ったんだけど。しかもオーラスだったし。

 

今回は、コロナ後初の、いつぶりかわからないくらい久しぶりのスタンディング!

これまでもライブハウス自体は復活していたけど、椅子があったり余裕があった。

けど、正真正銘のスタンディングです!!

(スタンディングへの文句は別記事にて)

 

 

音符Boom word up

音符SUPER LOVER~I need you tonight~

音符RUN

 

音符EXIT

音符FAKE it

音符CAN’T GET BACK

 

音符Butter

音符SMILE AGAIN

 

音符ジレンマ

音符Dirty talk

音符With you

音符Love train

 

--アンコール--

 

音符move your body

音符Forever memories

音符We'll Be Alright

 

 

…そうだったっけ?と思う部分もあるんだけど。セトリ。今回1回しか見てないしな・・(記憶があやしい)

 

RUNとFAKE itは新しいから入ると思ってたけど、他の曲は一体どういう基準でもって集められたのか(MMSの意味も趣旨もわからんし…)

けどそんなことはどうでもよくて(気になるけど)、個人的には、新旧入り混じりのかなり良いセレクトだった。

 

まだまだいつでも何度でも言うけど、2人w-inds.での新たなパフォーマンスが非常に完成度高くて、本当に大満足なんだわ私。

 

特に個人的に大好きなキャンゲバ、ほぼオリジナルの振りで観れたのは希少はなはだしくて!!!

単純に好きなのもあるけど、ファンになった当時のほぼ最新曲で、まだライブに行ったことない頃にyoutubeとかでよく見てて、行ってみたいなって思いをつのらせていたから、思い入れあって。

最近はあまりやってない曲だったし、やってもちゃんと踊ることはあまりなかったし。

2008年当時の(って書いてて怖っ!!)若々しさというか勢いみたいなのはやっぱり無いんだけど、大人の色気が滲み出て良きでしたねぇ。

 

あとLove trainが!!!!!!!

決してメジャーな曲ではないけど、大変な名曲だと思っていて私は超大好きで。

プライムは行ってないし、生で聞いたの初めてかも!!!

現在の2人のクオリティ高い美しいコーラスでこの曲を聞けたことが、本当に、清らかで、美しくて、感動の極みでした。

本当に、よくぞこれを入れてくれたなぁと。

 

最新曲二曲のダンスも含めたクオリティの高さも見事であったし、

珍しい(初?)『ダンスカバー』ということで、ButterとSMILE AGAINも、非常にクオリティ高くて見ごたえがあった。

 

久々なような意外とそうでもないようなmove your bodyは、なんとなく龍一くんの印象が強くて、ふとここで思い出すなどしたけど、別にいなくても大丈夫だなと思うなど。まぁまたその話は改めてね。

 

Forever Memoriesは、おお・・・龍一くんなしでやるのね、と、どきどきした。

別にw-inds.なんだし、今は2人なんだし、当たり前なんだけど、2人になって初めて生で見たっていうか。

振り切ってんなー!!と改めて思うなど。

まぁまたその話は改めて書くかもしれないし、このまま放置で終了かもしれないけど、とにかく私は今のw-inds.がとても好きで幸せだから良い。

 

あとは、ダンサーさんたちが若くて元気いっぱいでニッコニコで楽しそうで、とても良かったね。

 

 

 

 

 

星MCメモ一部抜粋(←雑い!)

 

ピンク音符スタンディングについて

 

MC一発目に慶太が、

「リハーサルで椅子ないのみてびっくり!」「やばい」

「大きな声では言えないけど(ファンの)年齢も・・・」

と、久しぶり過ぎるスタンディングに驚いて、そして心配している様子。

 

涼「みんな一緒に年取ってきたから…」

慶「しんどくなったら声かけあって!」

 

しかし、

慶「でも僕らは歌って踊ってるんですよ!」

涼「立ってるだけってのもしんどいですよね」

とフォローする涼平氏。

 

「いつもなら、(MCが)始まったーって座るタイミングだよね」

確かに、近年MCで座る風潮出てきた気がするw

MC中も座れない我々を心配する彼ら。

 

スタンディングだとなんかパワーがあるらしい。

「立ってるから?」

「(椅子ある時でも)いつも立ってるじゃん」

なんか、密集?してて固まってるからかな!?っていう話になったと思う。

 

スタンディングの密集感について、

「知らない人とこの距離感になることってないですよね」

「お友達になれちゃう」

「逆に気まずいよね」

 

気まずい!!気まずいです!!隣の人を意識したらしんどいです!!

 

「出会いとかあったりするの?再会とか」

って慶太が言ったら、涼平が、「あっら~久しぶり~(以下略)」ってすごいおばちゃんが久しぶりに会ったみたいな会話しだした。

「w-inds.ファンそんなに年齢高くないでしょ」

 

後半になり、当初は大丈夫?とスタンディングを気遣っていた慶太だったが、だんだん、

 

「2時間も立ってられないなんてヤバいよ!!」

「もっと運動しないと!!」

「俺なんて・・・(うんたらかんたら)」

「左右均等に鍛えないと!!ペンライト振る手も変えて…(うんたらかんたら)」

「次のライブまでに鍛えて」

 

と本音をぶちまけてファンをディスりだした。

(別にみんなそんなに文句言ってないし、倒れたりしゃがみこんだりしてない。頑張ってた)

 

涼「パー次のライブ椅子あります」(←夏はホール)

 

 

むらさき音符カバー曲2曲について。

歌のカバーはやったことあるけど、ダンスのカバーをしてみようということで。

涼平くんがすごくButterこだわって頑張ったらしく、「Butterかためさせてください!!」って、7回もリハしたらしい。自分たちの曲でも7回もやることないのに、と。

慶「チーズになっちゃうよ!」←なりません。

 

SMILE AGAINの方は、言わずと知れた、慶太さんの作曲。

慶太の曲とあって、こちらはButterよりはすんなりシックリきたようだ。

慶太の曲で、めっちゃw-inds.にありそうなのに、w-inds.の曲じゃない。でもやっぱり慶太の曲だから馴染む。なんか不思議な感じ。

 

以前から、踊ってみてください!っていうメッセージはたくさん来ていたらしい。

慶「メッセージくれてましたよね。頑なにシカトしてましたけど!」

 

むらさき音符グッズについて

今回は、これまで頑なに作ってこなかったハート型の痛い応援うちわが販売された。

本人たちも、一周回って尖りが取れて、面白おかしく作っている様子である。

 

 

むらさき音符次のツアーについてのご案内も。

夏のツアーが決まっており、次会える予定があるのは良いですね、という話。

DVDの案内も。

自分たちが言うと信用ならないので、詳しくはポチポチやってもらうのが正確であろうとのこと。(自分でスマホで情報確認して下さい)

 

 

というわけで、次は夏ツアーです。

なんだかんだでもうすぐです。