CCCreation Presents

舞台「白蟻」

 

作品の謎を追う考察じゃないです。

 

思ったこと。

 

それならもう間違わんでしょ。

 

 

弔いそのものについて考えた。

 

『どうしようもないことなんていくらでも見てきた』

『耐えるしかないんですよ』

耐えて耐えて、ただ墓前を弔うことだけが正しい行いなんですよ

 

 

終盤の新渡戸先輩の説法。

 

大切な人の死という人間の力では抗えない出来事に対して、

どうしようもないから、どうしようもない気持ちを、耐えて耐えて、弔いという行為にぶつけるのかもな。

 

弔うことで、大切な人の死を受け入れ、辛い気持ちを少しでも癒し、弔いながら少しずつ乗り越えていくんだと思う。

 

だけど櫛本先輩は、大切な人の死を受けて、じゃあコピーを作ろう、アンドロイドを作ろう、憎き機械を掃討しよう、と狂っていく。

櫛本先輩は天才で、アンドロイドを作る技術があってどんどん発展させる力があったからこそ、何とかしようと頑張ってしまうんだよね。

『どうしようもないことを耐えて弔う』という普通のことができない天才の苦しみというか、天才だからこその、諦めたり折り合いをつける能力の低さっていうかね、そんなのを感じた。

 

 

新渡戸先輩は、大黒との会話で、お経をあげることを『死後の世界で安らかであるように願うこと』とも言っていた。

 

死後の人間はお経を聞くことはできないし、弔いの実際の効力としては生きた人間を救うということになると思う。

でも、生きた人間の方は、別に自分が死を受け入れるために弔っているつもりはなくて、故人が死後の世界で安らかであるよう願って弔っている。

誰かのためを思い出来る限りのことを頑張ることで得られる心の安寧みたいなものがあると思う。

 

それが、弔いという『尊い行い』、人間らしい価値なのかなと思った。

 

 

櫛本先輩も、美緒のことは弔っているように見えるけど、形だけな感じがする。

どうしようもない気持ちをなんとかしたくて頑張ってるんだけど、普通の人の『弔い』とは違って、「みおが死後の世界で安らかであるため」なんて思って無くて、まだ生きているべき、死ぬべきではないと思っていて、「美緒を蘇らせたくて」頑張ってる。

アンドロイドの美緒を作ったって、それは美緒ではないし、死後の世界にいるであろう本当の美緒には関係ない。

機械掃討計画だって、美緒のためじゃない。新渡戸先輩の言う通り『そんなことしたって美緒は喜ばない』。

 

それは全部自分の為で、美緒のためではないし、弔いではないと思う。

 

 

櫛本先輩は、本当の意味で弔うことができなかった人なんじゃないかなぁ…

 

 

などと考えたりした。

 

 

 

AI葬儀の話に移るんだけど。

 

死後の人間、停止後のAI、どちらももうお経を聞くことはできないし、何も感じたり考えたりできない。

弔いやお経は、人間であれAIであれ、故人に直接影響を与えるものではない点では同じだ。

 

『葬儀屋は弔いたいと思う人の気持ちに応える場所』というのは全くその通りで、弔いや葬儀や読経は、遺された人間が、死というどうしようもないことを、弔うことで少しずつ受け入れて乗り越えていくための儀式だ。

葬儀屋は、生きている人間へのメンタルケアのサービス業だ。

 

だからね、遺族が人間であれば、葬儀の対象が人間でもアンドロイドでもいいと思う。(火葬問題は別)

いやもう、何でもいいと思う。弔う人が弔いたいという思いを持った人間であることが何より重要なのだと思う。

 

 

ちなみに私は、あらすじを観劇前に読んだとき、『AIの弔いを求める男が現れ…』という説明を、AIに弔ってもらいたいという男が現れ…という意味に読んで、AIが弔いをしてくれる時代がくるみたいな話かと勘違いしてて(笑)

 

全然そういう話じゃなかったんだけど(笑)

でも、弔うという行為が弔う側の生きた人間の心のためになされることであれば、AIが人間を弔うなんてことは成り立つんだろうか。

たとえば、直哉が死んだと仮定して、アンドロイドである大黒やお母さんには、何か感情が起こるのだろうか?悲しむだろうか?直哉を弔うだろうか?

アンドロイドが死を受け入れられるなら、悲しいとか思っていないなら、必要ないってことになるよね。

 

仮に故人の周りに遺された近しい人がアンドロイドだけだったら、故人が人間であっても、弔わなくていいことになると思う???

いやでもそれは抵抗ある。良くない気がする。

でもそれでお経あげるなら、それは、良くないって思っている人が寝覚め悪くならないためで、やっぱり生きた人間のためじゃない?

 

そういう話じゃなかったから(笑)もちろん答えは出ないんだけど。

 

 

話がIFに飛んでるけど、とにかく。

AIに対してとか人間に対してとか対象関係なく、弔うってこと自体が、人間にしかできないというか、人間にしか必要ないというか、人間らしいことなんだよなって改めて思ったって話です。

 

 

 

 

今度は『機械とは白蟻だ』に勝手に飛躍するんだけど。

 

櫛本先輩は機械という白蟻の王蟻でもあったけど、機械という白蟻に蝕まれてるのは櫛本先輩自身なんだろうな。

もし機械がなければ、人工知能工学などという発明とその才能がなければ、美緒を作ろうなどという発想にも至らず、平凡な人間らしく、どうしようもないことを耐えて耐えて墓前を弔った(弔うしかなかった)と思う。死後の世界で安らかであることを祈り、そして先輩自身も少しずつ救われたかもしれない。

 

この作品のテーマである『弔い』という人間らしい部分を、機械という白蟻に食われて失っていったのは櫛本先輩なのかも。

 

だからかな・・・

白蟻に食われた家は解体するしかない。人間らしさを機械という白蟻に蝕まれた自分は死ぬしかないと、思ったのかな。

アンドロイドを作る技術を持ってしまった自分はもう、美緒を作るという行為(=弔いではない、死を受け入れられない)から生涯逃れることができないと思ったのかもしれない。

 

 

 

(なんかやっぱり考察になってしまうのなんで?)