梅棒 シャッターガイ改

つるさんのともゆきを考える。

 

改めて、

やっっっっぱり

つるさんが!!!

すげえ!!!

って思いました。

 

 

私の感想と解釈…(正解かは知らない)

 

現状はクズで陰キャだけど、根はいいヤツで愛情深くて、人生なんとかしなきゃって気持ちも本当はある。

ネコダは嫌いとまでは思ってないし、個人個人はたぶん好きだけど、暑苦しくて鬱陶しくてめんどくさい。

多分、本当に嫌いなのは、うるさい親父でも暑苦しくて古くさい商店街でもなくて、何者にもなれずにパチンコして借金してるクズな自分。自分が誇れなくて堂々と生きれない。

だから悩んで鬱々してるし、このままでいいと思ってないから鬱々としてる。

 

親父に『こんな自分のままじゃいけない』と説教されても、本当はわかってるのにうっさい。

 

親以外にはそんなに反抗するわけじゃないし、うまく言えないけど、ウザくてごめん、みたいな感じがする。

熱海草津のくだりとかTシャツバトルとかも、ガチの悪いヤツならオラオラしたり最悪攻撃することだってできるだろうに、ノることはできないけど拒否したりネコダ民を傷つけるようなことはしない。そこはオオタたちとは違う。

ミカン騒動とかピンチの時は、ウザさ放り出して必死に対応するし、ネコダの一員としての責任感はある。俺は関係ねーって逃げたりしない。

 

腰やっちゃったネネを心配したり申し訳なさそうにしてるとことか本当はいいヤツ漏れてるし、とりわけあおいちゃんはとても大事にしてる。

 

あおいちゃんが病院で寝てる横で付き添って座りながら寝てるシーンが、それだけでめっちゃ大好き(なんもしてない)

あそこのつるさんが超大好きだし、座ってうなだれて寝てるだけで愛情深い感出ちゃうのやばくない?なんなんつるさん???

多分夜通しいたんだと思うし、病院の付き添いとかめんどくさ、だりぃ、はずかし、って思いそうなのにしてくれて、すごく心配してるんだなと思う。

(しんやさんのともゆきは、誰が相手でも軽いノリで快くしてくれそう)

あおいちゃん目覚めたあとの、♪君の声をきかせ~て~のわずかなダンスにエモみぶっこんできて、愛情深さダダ洩れしてるの本当に何・・・

 

これだけのシーンで、ともゆきだかつるさんだかに惚れられる自分もアッタマおかしいなって思うけど。

 

その後のみかんを渡しに行くシーンももちろん大好き。

みかんごと手握られて、顔も近くて、お、おぅ、おぅぅぅぅぅ…って、これ以上はやめろぉぉぉぉ無理ィィィィって表情で顔のけぞらせたり、みかん口に入れようとされてタジタジな、好きな女の子の前でアタフタする男子の心の機微の芝居の巧さよ。

つるさんこういう思春期男子させたら一等賞すぎる!!!

 

 

もうね、ここまでの作りが最高なんよね。

(クズ陰キャだけど)本当は愛情深いエモいともゆきの描写がきっちりあって、心わしづかまれてるから、その後色々ある時の落差とかショックとかがキレイに浮彫になって感情ジェットコースターだし、でも本当のともゆきはこっちなはずだって信じたい気持ちもあって、ちゃんと信じて待てる。

 

 

 

で、セヴン姉妹が現れる転機が訪れて。

 

『今宵の月のように~』の後の間奏で、希望に満ちたキラキラエモエモダンスがあったような気がしてすごく印象的だと思ってたけど、よく見たら超一瞬でダンスというほどでもなかったけど、「コレだーーー!!!」っていう、ともゆきに灯った希望がめちゃめちゃ伝わってきて大好きな瞬間。

 

その後、頑張ってのし上がろうとするけど、なんだか虚しい。

 

コソコソ隠れて、ネコダ民に見つからないようにセヴン姉妹一味を待っていて。

ネコダへの裏切りだ、反対されるって思ってんだよね。堂々とできる仕事じゃないんだよね。

オオタタナカには、お前じゃ話にならねぇ!みたいにあしらわれて一人前に扱われない。

元々デパート側に流れそうだったジュンの移転を、バインダー横取りして自分の手柄みたいにしてアピールしたり、かなたの引き入れもやったけど、この二人はともゆきが推さなくてもデパート行ってたかもしれなくて、それほどともゆきの手柄じゃなさそう。

かなたはなんとなく、本当にバナナちゃんにセンス認められて引き入れられた感があるけど、ともゆきは、能力を認められたわけではなくて、こいつネコダをゆする使える駒になりそうね、って利用しようと引き入れられた感がある

でも本人は認められたと素直に喜んでいるように見えて悲しい。

 

 

M14、華やかなデパートショー。

 

うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ

スーツのつるさんカッコイぃぃぃぃ!!!!!

めっちゃ好き!!!!!!

 

このシーン本当に華やかでショーとして見ごたえあって、特に後半のマネキンと踊る皆さんが超素敵で、死ぬほど大好きなんだけど!!!

そこにともゆきはあんまりいないのね!!

この振りをスーツでジャズジャズガッツリ踊るつるさんを超見る!!!!つるさんともゆきのマネキンダンス見たい絶対!!!って息まいてたら、

・・・おらへんやん???

(初見時はとしょさんサナダのマネキンダンスが眼前だったので、目を奪われてヒィィィってなって全体像を見失ってた)

 

マネキン運んだり開店準備みたいな下働きして、テープカットを後ろから拍手して、私をカッコイイつるさんに狂わせる程度にはキラキラしたカッコよさを振りまいて踊ったけれども、割とすぐ(←私の体感)、さぁ仕事してこいみたいな感じで促されて、立ち退きバインダー持ってどっかいっちゃうのよ。地上げにいったのかな。

 

何?どう解釈したらいい!?

(つるさんマネキンダンス見れなかった悔しみを消化しなければならない。さとでは見れたけど!)

本人はめっちゃ生き生きしてキラキラしてはいるんだけど、このキラキラダンスのメンバーに入らない虚しさ?

日の当たる仕事や立場じゃないみたいな?

かなたやジュンみたいにデパートでキラキラするのが仕事じゃなくて、デパートのために外で手を汚して地上げするのが仕事なんだなっていうことなのかな…虚しい

(オオタタナカは最後まで踊ってたけど!?)

 

なんか、そんなともゆきの残念感が、つるさんキラキラスーツジャズジャズマネキンデュエットの期待をぶち壊された残念感と共に襲ってきたのであります。

 

サナダから順番に給料の札束を渡される時、本来ならオオタの次にもらうんだと思うけど(しんやさんのともゆきは順序よくおりこうに受け取ってた)、オオタの前に必死に割り込んで、オオタより先にもらうのが印象的だった。

お金欲しさもあるとは思うけど、デパートのヒエラルキーの中でオオタより上に行きたい!!みたいに私には見えた。

必死の形相で無理矢理割り込むのがちっさいし、チンピラのオオタなんかと張り合ってるのもちっさい。

 

そこがしんやさんと違った味わいの一つ。

デパートに行ったのは単純なお金欲しさだけじゃなくて、満たされない承認欲求、何者かになってやるっていうプライド、人より上にいきたい、もっと言うと父親より立派になってやる、みたいなものが大きかったのではないか

彼なりに野心を持って、自分を変えようって、自分が輝ける場所を求めて、行ったんだろうなと。

行った先が悪くて悪い方向に行ってしまったけど、そういう向上心、クズから抜け出したい心はちゃんとあって、根本的には決してクズではなかったと思う。

 

でももちろんお金も欲しいし、タナカとのケンカをサナダにお金でとりなされたりとかもして、お金にとりつかれていく。

M17のイントロで顔が¥マークになったともゆきがユラリ…とこっち向くの…天才的にゾッとしたな。

 

そこにはもう私の大好きな、愛情深さの駄々洩れしちゃうつるさんともゆきはいなくて・・・

 

え?つるさんのエモみや愛は消すこともできるんですか?

って逆にびっくりするような、人間味ないお金に取りつかれたダンスも凄味があった。

 

ブランド物の紙袋たくさん持って、セヴン姉妹たちに、さぁいっておいで…みたいにされてまるで操られた機械のように、ネコダに帰るともゆき。

ここも、しんやさんとつるさんで、芝居がグッと違って味わい深いんよ。

しんやさんは意気揚々と帰る感があるんだけど、つるさんはちょっと自分の成功を鼻にかけてスレたような…ちょっと上からみたいな感じがある。

 

あおいちゃんにブランド物の紙袋を渡すのも、すっごくぶっきらぼうで、そこに心はない。

親父に紙袋渡したりお金を見せたりするのも、つるさんは親父へのマウントって感じ。

俺は世界的デパートでこんなに稼いで成功してる、何でも買えるし、こんなに金もある、親父を越えてやったぜ、みたいな。

(しんやさんは、紙袋はお父さんへのプレゼントだし、こんなに稼いだよ!親父も移転したらきっとうまくいって金が手に入る!移転しようよ!って、良かれと思って言ってる感じ)

 

断る親父に対しても、しんやさんは、なんでわからないのかな???もうかるのに???って純粋に謎な感じ。

つるさんは、親父にはわかんねーよな、俺の話なんて聞く気ないよな、って笑い見下すみたいな感じ。

今まで散々わかってもらえなかった、自分の話なんて聞いてもらえなかった(であろう)(と、少なくともともゆき側は感じている)気持ちを吐き捨ててるような感じがする。

序盤の、話を聞けって座らせられたり、携帯壊されたり、仕返し?に黄金のラーメン鉢叩き割ろうとしたりしてるあたりで、なんとなくきちんと対等に会話できてない感を感じたし、親に認めてもらえない鬱々さは抱えてると思う。

親父の方も悪くて、多分息子の言葉をきちんと聞いたり受け止めてあげたりしてこなかった部分はあったと思う。

 

しげるやねねにも地上げを迫って、ねねにはかなたのぬいぐるみを見せて心折れさせてサインさせる。

しかも、ねねの手を握ってほとんどともゆきが書いてる。

ここほんっっとに胸糞!!!!!

 

これも、しんやさんは「みんな移転しようよ!きっとうまくいくよ!」感がある。お金に囚われて顔が¥マークになっちゃってはいるんだけど、あくまで良かれと思ってのお金囚われなのよ。

でもつるさんは、デパートでの自分の出世のことしか考えてない、そのための足掛かりに利用してる感がある。

 

ショックだったのは、あおいちゃんの肩に腕まわしてウザく絡んで地上げバインダー見せて移転迫ってるとこ!!

 

あおいちゃんに!!

なれなれしく!!

さわんな!!!!!!

 

…って引きはがしてあおいちゃん守りたくなるような怒りが沸き上がるクソ男ぶり。

ミカン手握りキュン男とのギャップが凄まじくて、別人感がすごかった。ここの胸糞を際立たせるためのM10じゃん?って思うくらい超悲しい。

こいつはともゆきじゃねえええええええ!!!!

 

ともゆきをひっぱたいて泣き崩れるあおいちゃん。

あおいちゃんと一緒にあたしも泣きたかった。

 

¥マークがとれるともゆき。

泣いているあおいちゃんを見て、ネコダのまちの人たちに囲まれて、動揺して逃げる。

正気に戻っちゃったら。元の本当は愛情深いともゆきに戻っちゃったら。

もう地獄だよね。

 

 

このシーン(M18)、最初から歌詞がね、ともゆきのためにあるような歌詞なのよ。

 

『とどまることを知らない時間の中でいくつもの移り行く街並みを眺めていた』

って、ネコダの移り変わりのことだし、

 

『幼すぎて消えた帰らぬ夢』

のあたりであおいちゃんにぶっきらぼうにブランド物渡してて、元の歌詞が何を指すか知らんけど、序盤の少年らしい純情な恋とか希望とかが消えた気がして悲しくてたまらなかったし、

 

『無邪気に人を裏切れるほど 何もかもを欲しがっていた』

で、お父さんに地上げを迫るでしょ。(でも無邪気じゃない。無邪気に裏切ってんのはしんやさんの方)

 

『償うことさえできずに今日も痛みを抱き

夢中で駆け抜けるけれど 明日は見えず

勝利も敗北もないまま 孤独なレースは続いてく』

 

デパートで頑張っているけど、それは大切な人を裏切ったり傷つけたりしながらで、本質的には満たされることがなくて、お父さんとの関係は変わらず、悪い方向に孤独に進み続けてるともゆきの虚しさ。

 

『人は悲しいぐらい忘れていく生き物』

あたりで、ねねに地上げを迫ってるのも、過去の優しかったともゆきが変わってしまった悲しみを感じるし、

 

『今より前に進むためには 争いを避けて通れない』

自分が前に進むために、商店街の人と争うのは仕方ないって、言い聞かせてるのかもしれない。

 

だけど、『果てしない闇の向こうに』『手を伸ばそう』って、ともゆきは闇から抜け出したくって抜け出したくって。

それは、デパート堕ちした自分からの脱却もあるかもしれないけど、最初から鬱々したクズなので、そこから抜け出したいっていう強い思いがベースにずっときっとあって。

 

 

『再び僕らは出会うだろう この長い旅路のどこかで』

で、現状バラバラになってしまったけど互いを思う幼馴染3人のソロダンスのシーンになるのゾクゾクするし、

 

からのラスサビのソロが、本当に・・・

本当に・・・

本当に・・・

 

後悔と、苦しみと、闇のドン底から光に向かって手を伸ばしたいけど届かない無力感のような。

最初からずーっと鬱々とくすぶっていたクズさが限界に達して、やっとそれを表出したみたいな、ともゆきの苦悩の爆発。

見せているのは苦しい部分なんだけど、やっとその気持ち見せてくれたね、みたいな清々しさもある。

 

泣くよね!!!!!!

客席すすり泣きですよ。

 

ほんとこの曲は、この作品のサビだと思うし、ともゆきのサビでともゆきのテーマだと思うし、

つるさんのめっちゃ得意な苦悩エモエモダンス&芝居爆発で本領発揮なところ。

見応え!!!!!!!

 

 

サナダに促されてまたデパートに戻っていく。

デパート側に行くまでは、鬱々としたクズでありながらでも、街の人を裏切ってまではいなかったし、帰るべき場所はあった。でももうこんなに傷つけて裏切った人たちのところへは帰れない、自分の居場所はない、帰る場所まで失った、っていう絶望感。

 

すごくともゆきが、小さく、悲しく、囚われの身のように見えた。

幼馴染てつやを筆頭にネコダのみんなが助けに来ても、逃げに逃げる。

 

 

¥マークについてだけど。

他の人たちは純粋にお金に囚われた¥マークだと思うんだけど。

つるさんともゆきに関しては、お金への執着もあるけど、プライドとか虚勢とか人より上に立った感とか、本当は何も無いのにそういう気持ちになって人が変わってるモードを表すと思うから、それが無くなった瞬間、化けの皮を剥がれたただのクズで、もう逃げるしかないし、親父も怖いし、傷つけた街の人たちも怖いし…!!って感じ。

 

 

 

最後は梅棒がお得意の力技発揮で(笑)

 

ともゆきは、親父の愛と何かのグーパンで、空を飛んでネコダに帰るよ!!(笑)

さっきまでスレて親父を小ばかにしたように地上げしてたのに、怒られる子供のように親父にビビってわなわなしながら、ふっとばされた!!

果てしない闇の中で自分の力では逃げるしかできなくて帰れなかったけど、親父が愛の力技でネコダへ帰してくれた強さよ。

 

親父の最後の力を振り絞った?秘伝の黄金のラーメンを食べてスーパーサイヤ人になるとこ、

「わけわかんねーよ!!!なんだよこれ!!!」「いいから食え!!!!お前ならできる!!!」「ーーーーーーッ!!!(ゴクゴクッ)」みたいなセリフ聞こえてきそうで超好き(笑)

 

スーパーサイヤ人になるの、あのグーパン最強な親父の方が絶対強いし親父がなったって良かったわけだよ。ともゆき弱そうだし!

だけど、ともゆきを信じて託すんだよ。(怪我してたのもあるだろうけど)

本当はともゆきは強いって親父だけは知ってたのかもしれない。あの黄金のラーメン鉢&ザルにこんな力があることを知っているということは、もしかしたら親父が毎日祈っていたのは本当はラーメン屋の商売繁盛ではなくて、ともゆきが強くなりますように、だったのではないか。もしそうだとしたら泣ける。

 

ここで親父がスーパーサイヤ人になって解決してたら、親父にかなわないし認められない自分を引きずったと思う。

でも、あのラーメン鉢キャッチには、言葉は無いけど、息子の力を信じる親父の気持ちが絶対にあって、ともゆきはそれを受け止めたと思ってる。それが親父のラーメン鉢をキャッチするっていう表現にこめられてると思ってる。

スーパーサイヤ人になったこと自体とか、頑張って戦ったことやデパートをやっつけたという結果だけじゃなくて、お父さんにお前ならできる!!って本当の力を信頼されたことや一緒に戦えたことが、ともゆきをクズから救ったと私は思う

うちの親父は最強だった。

 

 

ラスト、ネコダに戻ってラーメン屋を親父と一緒にやってるともゆき、なんもしてないのに愛情深さ駄々洩れるつるさんに戻ってて、しかもクズを脱した分、背筋がしゃんとして、なんか肩幅や身長まで違うように大きく見えて男らしくてかっこよくて筋力までも違いそうに見えて、自信に溢れててめっちゃ爽やかで足取り軽く踊っていて、あぁ、もう、あぁぁぁ良かったぁぁぁぁ!!!!って幸せ満杯だし、そういう身体表現だけで違いを見せてくるのが、すっごいよね。

本当に良かったねぇぇぇぇぇぇぇともゆき!!!!!お父さんも!!!

お父さんとラーメンセット持って踊るとこもめっちゃ好きだし、ラーメンをあおいちゃんにふるまって、美味しそうに食べるあおいちゃんを優しい目で見てるの超キュンするし、ダダ洩れてる!!!!

 

 

あおいちゃんとは、最後までどうもなりません!

お父さんとともゆきが軸の物語でした。

 

 

何度目かのカテコでも、2人でお辞儀してもそれぞれラーメン屋、果物屋に帰って行くのがすごく好き。

これからも、舞台には見えない部分でネコダでの日々は続いていくような気がする終わり方で。

だから、もうしばらくあの二人はキュンキュンしてたらいいな、みたいな妄想で終われるのが良き。

 

 

あと、一度見てともゆき感じた後で改めてOP見ると、ただカッコイイだけじゃなくて、歌詞が全部ピッタリで、ドラマチックになっていて、とても味わい深い。

この曲一曲で、ダイジェストシャッターガイできそうなくらい。

ともゆきの鬱々とした人生と、それを抜け出したい気持ちが歌詞にしっかり入ってる。

全部だけど、特に『奪い返して救い出せ 未来のお前自身を』とか、ネコダとともゆきのテーマだと思うし、

『何にもできないさお前だけじゃ でも何だってできそうだお前となら』

で、親父とともゆきがタッグを組んでカッコつけるような振りがあったりして、とても良い!!


 

 

今回、 改とZで見比べられて、味わいが違って、しんやさんのともゆきがあったからこそ気づけたこともあったし、あーつるさんだからこうなんだなー、しんやさんがやるからこうなるんだなーって思えたりして、それがすごく面白かった。

 

なんか、つるさんはすごいなって、本当に思ったんだよ。

 

 

今回は各キャラの魅力が大きいから、キャラクターごとに感想かこう♪って思ってたら、つるさんのともゆきだけでこんな分量になってしまった。

頭おかしいやん私。

 

他のキャラクターたちの話はまた次回以降。(1回で終わるかな、どうかな…)

 

CCCreation Presents

舞台「白蟻」

 

作品の謎を追う考察じゃないです。

 

思ったこと。

 

それならもう間違わんでしょ。

 

 

弔いそのものについて考えた。

 

『どうしようもないことなんていくらでも見てきた』

『耐えるしかないんですよ』

耐えて耐えて、ただ墓前を弔うことだけが正しい行いなんですよ

 

 

終盤の新渡戸先輩の説法。

 

大切な人の死という人間の力では抗えない出来事に対して、

どうしようもないから、どうしようもない気持ちを、耐えて耐えて、弔いという行為にぶつけるのかもな。

 

弔うことで、大切な人の死を受け入れ、辛い気持ちを少しでも癒し、弔いながら少しずつ乗り越えていくんだと思う。

 

だけど櫛本先輩は、大切な人の死を受けて、じゃあコピーを作ろう、アンドロイドを作ろう、憎き機械を掃討しよう、と狂っていく。

櫛本先輩は天才で、アンドロイドを作る技術があってどんどん発展させる力があったからこそ、何とかしようと頑張ってしまうんだよね。

『どうしようもないことを耐えて弔う』という普通のことができない天才の苦しみというか、天才だからこその、諦めたり折り合いをつける能力の低さっていうかね、そんなのを感じた。

 

 

新渡戸先輩は、大黒との会話で、お経をあげることを『死後の世界で安らかであるように願うこと』とも言っていた。

 

死後の人間はお経を聞くことはできないし、弔いの実際の効力としては生きた人間を救うということになると思う。

でも、生きた人間の方は、別に自分が死を受け入れるために弔っているつもりはなくて、故人が死後の世界で安らかであるよう願って弔っている。

誰かのためを思い出来る限りのことを頑張ることで得られる心の安寧みたいなものがあると思う。

 

それが、弔いという『尊い行い』、人間らしい価値なのかなと思った。

 

 

櫛本先輩も、美緒のことは弔っているように見えるけど、形だけな感じがする。

どうしようもない気持ちをなんとかしたくて頑張ってるんだけど、普通の人の『弔い』とは違って、「みおが死後の世界で安らかであるため」なんて思って無くて、まだ生きているべき、死ぬべきではないと思っていて、「美緒を蘇らせたくて」頑張ってる。

アンドロイドの美緒を作ったって、それは美緒ではないし、死後の世界にいるであろう本当の美緒には関係ない。

機械掃討計画だって、美緒のためじゃない。新渡戸先輩の言う通り『そんなことしたって美緒は喜ばない』。

 

それは全部自分の為で、美緒のためではないし、弔いではないと思う。

 

 

櫛本先輩は、本当の意味で弔うことができなかった人なんじゃないかなぁ…

 

 

などと考えたりした。

 

 

 

AI葬儀の話に移るんだけど。

 

死後の人間、停止後のAI、どちらももうお経を聞くことはできないし、何も感じたり考えたりできない。

弔いやお経は、人間であれAIであれ、故人に直接影響を与えるものではない点では同じだ。

 

『葬儀屋は弔いたいと思う人の気持ちに応える場所』というのは全くその通りで、弔いや葬儀や読経は、遺された人間が、死というどうしようもないことを、弔うことで少しずつ受け入れて乗り越えていくための儀式だ。

葬儀屋は、生きている人間へのメンタルケアのサービス業だ。

 

だからね、遺族が人間であれば、葬儀の対象が人間でもアンドロイドでもいいと思う。(火葬問題は別)

いやもう、何でもいいと思う。弔う人が弔いたいという思いを持った人間であることが何より重要なのだと思う。

 

 

ちなみに私は、あらすじを観劇前に読んだとき、『AIの弔いを求める男が現れ…』という説明を、AIに弔ってもらいたいという男が現れ…という意味に読んで、AIが弔いをしてくれる時代がくるみたいな話かと勘違いしてて(笑)

 

全然そういう話じゃなかったんだけど(笑)

でも、弔うという行為が弔う側の生きた人間の心のためになされることであれば、AIが人間を弔うなんてことは成り立つんだろうか。

たとえば、直哉が死んだと仮定して、アンドロイドである大黒やお母さんには、何か感情が起こるのだろうか?悲しむだろうか?直哉を弔うだろうか?

アンドロイドが死を受け入れられるなら、悲しいとか思っていないなら、必要ないってことになるよね。

 

仮に故人の周りに遺された近しい人がアンドロイドだけだったら、故人が人間であっても、弔わなくていいことになると思う???

いやでもそれは抵抗ある。良くない気がする。

でもそれでお経あげるなら、それは、良くないって思っている人が寝覚め悪くならないためで、やっぱり生きた人間のためじゃない?

 

そういう話じゃなかったから(笑)もちろん答えは出ないんだけど。

 

 

話がIFに飛んでるけど、とにかく。

AIに対してとか人間に対してとか対象関係なく、弔うってこと自体が、人間にしかできないというか、人間にしか必要ないというか、人間らしいことなんだよなって改めて思ったって話です。

 

 

 

 

今度は『機械とは白蟻だ』に勝手に飛躍するんだけど。

 

櫛本先輩は機械という白蟻の王蟻でもあったけど、機械という白蟻に蝕まれてるのは櫛本先輩自身なんだろうな。

もし機械がなければ、人工知能工学などという発明とその才能がなければ、美緒を作ろうなどという発想にも至らず、平凡な人間らしく、どうしようもないことを耐えて耐えて墓前を弔った(弔うしかなかった)と思う。死後の世界で安らかであることを祈り、そして先輩自身も少しずつ救われたかもしれない。

 

この作品のテーマである『弔い』という人間らしい部分を、機械という白蟻に食われて失っていったのは櫛本先輩なのかも。

 

だからかな・・・

白蟻に食われた家は解体するしかない。人間らしさを機械という白蟻に蝕まれた自分は死ぬしかないと、思ったのかな。

アンドロイドを作る技術を持ってしまった自分はもう、美緒を作るという行為(=弔いではない、死を受け入れられない)から生涯逃れることができないと思ったのかもしれない。

 

 

 

(なんかやっぱり考察になってしまうのなんで?)

 

 

舞台『白蟻』

 

配信買ってしまいました!!!

 

これまで頑なに、配信の類は見てこなかった。

 

舞台で、現場で、体全体で、人から人へ直接受け止めるものでしか得られないものがある。

と狂信していて。

 

現場に行けない舞台に関しては、生で見ている人と同じものは感じられないと思うと、悔しくて観る気になれないし、

現場で見たものを後から映像で見ることに関しては、現場での体感を忘れてしまう、上書きされてしまうのが怖くて観る気になれない。

 

正直、舞台を1回か数回見ただけでは、セリフの一言一句正確に覚えられないし、動きもそうだし、正確にな記憶じゃない。

だけどその中で、印象として強く残る部分、残らない部分があったり、『本当にそういう言葉だったかわからないけど私にはそう感じられた』みたいな、自分の心に残った結果論として残る部分がある。

正しい、正しくない、じゃなくて、『体感として、どう感じたか、どう伝わったのか』。

台詞を全部正しく覚えるのがえらいんじゃなくて、限りある記憶力の中に残ったのがどのセリフ、どのシーン、どの感覚、どの解釈なのか、というのが、少なくとも自分にとってのその作品の価値観、その作品から何を感じたかを考える切り口になる。

 

雑に言うと『第一印象』。

私は『初見でしか得られないもの』みたいな言い方すること多いけど。

 

 

だけど、今回、本当に全部の台詞に意味が、重みがあるように感じて。

どの一言も、印象に残らなかったからいいや、とはならないし、

『本当にそういう言葉だったかわからないけど私にはそう感じられた』ではいけないような気がしたというか。

どうしても、やっぱりもう一度一つ一つの台詞を確認したい!!

 

っていう気持ちになって。

もし、やっぱり映像は好きじゃないな、ってなったとしても、とても素晴らしい舞台だったので、チップのつもりで買おう、って。

 

買ってしまいましたよ配信!!!

 

映像なんて!と思ってたけど、思ったよりすごく良かった!!

台詞の噛みしめに意味のある舞台だったせいか、気になってた台詞をたくさん確認できて、まんぞく!!

見れなかったアングルの映像も見れたりしたし。

前編通して素敵だった音楽ももう一度聴けてよかった。

 

まぁ初見の感覚は失われたかもしれないけど。

 

 

だがしかし、確認できてしまったことで、もう考えることが際限なくなってしまった感じがして、嬉しい絶望というか。

これ、全部の言葉について考察しないといけないんじゃない?みたいな。(できないからやらないけど)

配信で確認したからには、「~~みたいなこと言ってたと思うけど~」みたいな言い方はできないなとか(笑)

これまで、取捨選択されてきたことが、全選択になってしまった苦悩。

 


しばらく狂ったように白蟻のことばっかり考えてる。

 

 

オープニングだけyoutubeで公開中↓


なんとなくぞわぞわする狂気じみた雰囲気と、傾いた床下と火葬炉をイメージした八百屋舞台と、白蟻のうごめく感じと、棺桶の感じと、役替わりの雰囲気の違いくらいは伝わるかな。

 

 

 


 

 

舞台「白蟻

 

書きたいことは山ほどあるし全部書きたいけど、まずは最大の謎であり核心であるここをどーーーしてもクリアにしたい。

 

 

櫛本先輩は、最後どうなったのか?

 

ラストの骨壺を棺桶に入れるシーンの意味は?

 

これです。

 

人によって解釈違うだろうし、証拠はあるかもしれないし、ないかもしれない。正解があるのかないのかも、解釈の自由があるのかないのかも、わからない。

 

書きながら自分の解釈を練っていきます。

(書き始めないとわからないスタイル)

 

 

 

桐箱から骨壺を取り出し、棺桶に入れ、火葬炉に力強く入れていく。

その上には、みおの形見、象徴でもある恐竜のぬいぐるみを置く。

そして、火葬炉(?)に向かって手を合わせる。

AIへの弔いとされる『円周率のお経』が唱えられて終わる。

 

 

確認する。

 

骨壺である。

一般的常識から見て、死者の火葬後の遺骨が入っている、はず。

一応ここは大前提としておきたい。

 

そして棺桶は死者を入れて、火葬炉に入れるもの。

ただし棺桶は、演劇の小道具として、他のシーンでは机やベッドとしても(棺桶という意味合いをうっすら含みながら)使われてきた。

 

直哉が棺桶(と仮定する)を押して入れていくのは、物理的には八百屋舞台の床下で、これまでの芝居上で、棺桶が出てきた場合には火葬炉として認識されてきた場所。

 

 

しかし、骨壺を棺桶に入れて火葬炉に入れるはずはないので、何か別のものを表現、暗喩しているとか、何が意味があると、色々と仮説を考えていた。

 

一般常識的に、『骨壺を桐箱から出してどこかに収納する動作』といえば、納骨である。

 

仮説①

納骨シーンであり、八百屋舞台を墓に見立てて、その下に納骨している???

→誰の骨?誰の墓?みおちゃん?櫛本先輩?AI?なに?

→でも納骨なら棺桶に入れる必要ある?そのまま八百屋舞台の下にしまえば良いのでは?棺桶を墓に見立ててる???

→でも棺桶を力強く押して火葬炉に入れていく姿は、あれはどう見ても納骨じゃない、火葬炉に入れる動きだ。

 

 

仮説②

AIの火葬。

さっきまでターマイト社のAIの葬儀をやっていたんだし。

そして、バックのお経が円周率であることからしても、弔っている対象はAIであると考えられる。

火葬炉に入れてもOKな部分だけ抜き取って、火葬するのかなー?とか

→誰の?アンドロイドみおちゃん?大黒?アンドロイドお母さん?AI全般??

→骨壺に入れて?なんで?

→人間時代のお骨を一緒に入れて、二度目の死を二重に弔おうとしている???

→っていうか誰の????????お母さん?みおちゃん?骨壺は一つだが??

 

 

いや??????????

なんかしっくりこん

誰????????

 

というどうどう巡りをかなり長いことしていた。

(って初見から2回目までの間だけど、長く感じた)

 

 

 

櫛本先輩だ

 

 

櫛本先輩が亡くなったという明確な描写は『ハッキリとは』なされていない。

だけど、それを『思わせる』描写はあちこちにあった。

 

まず、オープニングの直哉の夢の中で、「王蟻はいつ死ぬのか」という問いに、ターマイト社製AIである大黒は「36歳の誕生日」と答えている。

昭和64年元旦生まれの櫛本先輩の36歳の誕生日は、ターマイト社製の全AIが停止し、AI葬儀が行われた日だ。

『王蟻』は白蟻にとって絶対的な王であり、ターマイト(=白蟻)社製のAIにとって、その作り主である櫛本を指す。

 

そして、アンドロイドみおちゃんがそのタイミングで「兄さんもやがて『運びこまれるでしょう』」と言っている。

 

これも当初は「死」なのかよくわからなかった。

AIの停止によって色々な事故が想定されるように、櫛本先輩にも何かが起こるのか???と。

 

でも、アンドロイドみおちゃんのその言葉に対し直哉は、

僕が焼く。大切なものは、全てこの手で焼いてきた

と、櫛本先輩を自分が焼くことを約束している。

 

大切な櫛本先輩の、この作品の大切なテーマである葬送が芝居のラストであることは自然だと思う。

 

 

 

ラストシーンの、骨壺in the棺桶に話を戻そう。

 

これが櫛本先輩の葬送だと仮定する。

 

でも棺桶の中には櫛本先輩はいない。

 

棺桶の中にあるのは骨壺

 

唱えられるお経は、AIの弔いのための円周率

 

 

その時、

大切なものは、僕が焼かねばならないんだ

 

「一度目は、母さんを焼いた時、二度目はみおを焼いた時…」

 

「(櫛本先輩は)僕が焼く。大切なものは、全てこの手で焼いてきた

 

葬儀屋として、大切なものを火葬することの辛さと覚悟…だと思って聞いていた印象的なこれらの台詞が、なんとなく、そうじゃなくてもっともっと強くて狂気じみた執着のような、ゾクッとする感じとなってどこからか降ってきた。


(ちなみに、両パターン見たけど、多和田勢堂&平野櫛本バージョンをイメージして書いてます)

 

 

直哉は、自分の恋である大切な櫛本先輩を、どうしても自分の手で焼きたかった、焼くべきだと思っていたはずだし、アンドロイドとはいえ美緒にもそう約束した。

 

そう思った時、「骨壺を、棺桶に入れて、火葬炉に入れる」という、ありえない情景に、突然辻褄が合った気がした。

 

 

肉体がなく骨壺しかないこと、円周率のお経が読まれていること、そして、ターマイト社製AIが停止するタイミングが死であったことから、櫛本先輩はターマイト社製アンドロイドだったのでは。

そして、骨壺はそれ以前に亡くなって火葬された櫛本先輩の遺骨なのでは、と。

新渡戸先輩が櫛本先輩と口論になってやり合った時のことを、キョンさんに「機械とケンカしちゃって…」と表現しているのも気になる。

(でも実際に手を出した側近アンドロイド?のことかもしれないし、櫛本先輩自身が機械だとわかったかどうかもわからない)


 

これまで散々火葬を象徴するシーンが出てきて、生身の人間の櫛本先輩の死であるなら、大切な櫛本先輩をこの手で焼くという儀式が表現されてしかるべきだし、それをすっとばしていきなり骨壺というのは違和感がある。

納骨だとしても、棺桶に入れて押し込む理由がない。骨壺のままセットの下にそっと置けばいい話だ。

 

アンドロイドの体だとしたら、火葬炉の都合上、少なくとも全部は焼けなかっただろう。

直哉は、自分で焼くことのできなかった櫛本先輩を、骨壺をもう一度焼いてまで、自分で焼きたかったのかもしれない。

仮にそう解釈したらだけど、その狂気と執着が吐きそうなほど狂ってて言葉失った。

(合ってるかは知りませんw)

 

そして、その満足そうな後ろ姿に(後ろ姿だけどそう見えた)、そうすることで得られる一種の達成感…というより…満たされたような、約束を果たした充足感のような、なんかそんな悦びを得ているような気がした。

(気がしたレベルの勝手な解釈)

 

 

少し話はそれるが、「AIの葬儀をどうするか」という話題の時に、火葬の是非が問われて、でも機械を火葬は無理だから専門業者に依頼するとして、葬儀だけでもやろう、葬儀という行為自体が尊い、みたいな話になったと思うんだけど。

「大切なものは、全てこの手で焼いてきた」直哉にとっては、葬儀の儀式やお経よりも、焼くことそのものが弔いであり、辛いことでありながらも、大きな意義のあることなのではないだろうか。

 

書いてて、思った以上に、火葬の意義に重点が置かれているような気がした。(少なくとも直哉にとっては)

 

 

同時に、高校時代に火葬炉を使って野犬を焼くことで得た、櫛本先輩との甘やかな秘密の繋がりも思い起こさせた。

櫛本先輩を信じ、櫛本先輩に付き従う権利を得、櫛本先輩が正しさをもって駆除したものを、秘密裏に直哉が焼く。

その関係を最後まで貫き通し、櫛本先輩に必要とされ続けたのだ。

まさか、その駆除され焼かれるもの(AI)の中に櫛本先輩自身も入っていたなんてなー。

 

直哉がAI葬儀でTVに取り上げられてインタビューを受けているのをTVで見て「面白いこと考えるな~勢堂は…」と感心していた櫛本先輩。

直哉に自分自身とターマイト社AIの最後の全てを託そう、自分が掃討したものを処理するのは直哉だから。と思ったんだろうな。ただ滅びゆくはずだった自分たちに、弔ってくれる直哉がいるのはどれほど心強かっただろうか。

このシーン、テレビにインタビューされてAI葬儀について喋る直哉が、リポーター越しに、テレビを見ている櫛本先輩とがっちり向き合ってて、なんか、目に見えない絆、甘やかな繋がりを感じて良かった。

 

これは完全に妄想で、そうだったら面白いなって話なんだけど、櫛本先輩がアンドロイドだったとして、それ自体がトップシークレットで、火葬した直哉にしかわからないことで、野犬の時のように『僕と先輩の秘密』『人には知られては困る先輩の秘密を僕が焼く』そんな充足感を得ながら秘密裏に処理していたとしたら、なんかやばくてイイかも。

(野犬駆除と同様、キョンさんと新渡戸先輩は直接関わらないながらも知っていたかもしれないけど)

 

根拠はない。根拠は無いけど、あれだけ印象的に野犬掃討&火葬のシーンが夢の中も含めて2回も出てくるというのは、あの時の幸福で甘やかな感触が先輩と直哉の関係のベースにあって、それを強調するような、重ね合わせうるようなことが起こっていくという伏線なのでは。

 

 

 

この作品、『AIの弔い』というテーマが『ブロマンス』を通して描かれる作品で、タイトルは『白蟻』。


初めは、2人が共同してAIの弔いについて考えていくような話?と思っていたけど…

 

なんか、すごかったな。。。。。(語彙力の喪失)

 

 

 

 

 

で、仮にそうだとして、櫛本先輩は、いつ、なぜ、死んで、いつからアンドロイドだったのだろう

 

私は、電話がヒントかなぁ?と思っていて。

「わざわざ電話してくれたんですか」と、そんなおかしいかな?と思うくらい、櫛本先輩が電話をわざわざしてくれる人だということが前半に何度も強調されているように感じて。

それが後半、「電話してるのに全然出ない」とか、あのマメな櫛本先輩が??と、ちょっと人が違ったみたいだなと感じる箇所が出てくる。

13回忌はわざわざ電話で依頼したのに、大規模で高額で非常識な日時指定のターマイト社慰霊祭は、電話の一本もない。

このあたり…そんな細かい心遣いまではアンドロイドはコピーしきれなかったのかな~…とか思っている。

 

公衆電話の電話ボックスも、ずっと上に吊られていてすごく印象的で、イマドキ公衆電話?と思うし、電話というアイテムにこだわりというか、意図あるのかなーとか考えてしまう。

電話くらいで櫛本先輩アンドロイド説を裏付けるほどの決定的な根拠にはならないと思うし、みおのアンドロイドができて(そして失敗して)狂ってるだけかもしれないけど。

 

仮にそうだとしても、死因もわからないし、なぜ直哉が焼いていないのか、誰も知らないのか、誰も弔っていないのかもわからないし、ちょっと納得できない部分もある。

 

想像で埋めるとしたら、意図的な死であったのか。

白蟻であるAIを社会に巣食わせる自分は、白蟻駆除の業者ではなく、王蟻だと、自分こそが駆除されるべき白蟻そのものだと、思い至ったのかもしれない。

(↑エビデンス無い。妄想!!)

 

あと、AI掃討作戦を告白した後の「僕に欠けているものが何か、そろそろわかったかな」という、セリフも気になる。

13回忌の時は「先輩の欠けたものが何なのか、みんなわかっていた」。

その時は、死んだ妹みおちゃんの存在だと思ったし、そう描かれていた。

でも、壮大なAI掃討計画を熱弁したあとで、「欠けてるものがみおだってわかった?」と聞くのは、今更だと思って違和感だった。

しかも「そろそろわかったかな」と、謎かけのように言う。みんなが当然知っているみおちゃんとは違う、まだみんなが気づいてなかったであろう「欠けているもの」を指していたのでは。

それは、人間じゃない、ってことだったのかなー…とか…

(でも、このセリフだけで、アンドロイドだ!!って断定できるわけでは到底ないし)

 

 

・・・と、櫛本先輩アンドロイド説には、ちょっと根拠が薄い部分もあって、ちょっと自信なかったりもする。

 

 

 

 

もしかしたら人間のままだったかもしれない可能性もあるとも思ってる。

 

けど、どちらにしてもあのラストは、大切な櫛本先輩の大切な火葬、というのは間違いないと思う。

 

その場合は、AIじゃないのになんで昭和100年1月1日に死んだ?っていう疑問が残るけど、その答えもやはり「AIとともに滅ぶ意図的な死」だったとしか考えられないところは変わらない。

 

もし人間バージョン櫛本先輩だったら・・・

骨壺の中身は、この場合は、副葬品?としてみおちゃんの遺骨かもしれないね。

『先輩の欠けたパーツ』を棺桶の中で合わせて完全な先輩にしてあげる、みたいな。(いいんじゃね?この解釈も)

『欠けたパーツ』も重要なワードだったし、火葬段階でその伏線を回収する、分かれていたものを火葬によって一つにするという、直哉なりの弔い、というのも、良いかも!!

その解釈も捨てがたいんだけどなー。

 

先輩自身の姿がないのは、妄想で補って下さいみたいな演出と考えるか・・・

円周率のお経はどう捉えたら良いのか・・・?

櫛本先輩個人へではなくて、駆除されたAI全体に対しての、櫛本先輩が駆除したものへの読経なのかなとか。

 

人間バージョンだとしても、やっぱり埋め切れない、正解と断定しきれない部分があるんだよなぁぁ

 

 

 

だから・・・

アンドロイドでも人間でも、どっちでもお好みの方の解釈でいいってことじゃない!?

もしかしたら、どっちとも断定できないことで、各々好きな解釈ができるようになっているのかもしれない。

 


 

私は…アンドロイド説のが好きだな。

解釈合ってる合ってないはわかんないけど。

 

直哉と先輩の関係という視点から見ると、肉体の死の際に焼けなかった残念は残るけど、先輩の秘密であるアンドロイドを火葬(正確には分別するだろうけど)する方が、実際に肉体を焼くことよりも、甘やかな秘密を共有できて達成できた点で精神的に満たされる気がするし、大切な人をアンドロイドになっても最高の弔いをするっていうラストが、AIの弔いというテーマにふさわしい気がする。

ラストに人間の体を焼いて般若心経唱えてたら、これまでやってきたAIの弔いの話はなんやったん?ってなる気がするんだよな。

AIの弔いを考えて、円周率を考えたり、色々やってきたことが、最終的に大切な人の葬送に繋がっていくラストが、良いんじゃないかと、思うんだよね。

 

 

おわり。

 

 

 

とりあえず、このテーマ考えたかった。

他のキャラクターとか音楽や装置の話とかも書き散らかしたいので、またこんど。

 

w-inds.さんFCLTにて、昨年のZEPP羽田に引き続き(というほど続いてない、1年ぶり)、今年は初のZEPP横浜へ突入。

 

前回同様、やっぱり文句は本編の感想と分けて書きたいので分離。

(ZEPP横浜への文句ではない。スタンディング全体への思い)

 

いつぞやのZEPP羽田とは違い、整列~入場ルート上に階段がなく(当たり前だよ、改めてあぶねーだろZEPP羽田)、大通りに面した道沿いに整列するので、安全面では安全。(周りの通行の迷惑にはなるかもしれない)

 

 

けど、久しぶりだから改めて思ったけど、

この、2000人近く(しらんけど)を順番通り整列させる手間とゴタゴタ

1時間以上前から待機しなければならない無駄時間

入ってからは身動き取れず、トイレ行くことも座ることもグッズ買いに行くこともできず、長くて1時間もじっと立って開演を待ち続けなければならない無駄・・・

体調不良者や怪我人が出るリスク・・・

何をとっても、無駄な労力、無駄な制約、無駄な時間、危機管理の欠如としか思えず。

 

ライブハウス側、あるいは主催者的には、何かいいことあるのかな、ホールよりよっぽど経費安く上がるとかかな?

でも、拡声器で「〇〇番までの方ぁぁぁ!!!」「〇〇から向こうにはみださないでくださーい!!」「走らないでくださーーい!!」とかやるのも大変だし、柵とか作って整列させるのも大変だし、そこに人件費かかるよね。

 

トイレ行きたいってスタッフに言った人がいたけど、行ってもいいけど元の場所に戻れないかもしれません、って言われてた。実質行けないようなもんじゃんよ。

普通にホールだったら、ほとんど全員が開演前にトイレいって、開演に備えて心を落ち着けている、そういう時間だと思うよ。なのにほとんど全員が我慢してんだよ。おかしいよ。

開場1時間、ライブ1時間半、開場より更に前から並んでいるから3時間くらいはトイレに行けない。そりゃ我慢は不可能じゃないし実際大丈夫だったけど、もっと要領よくすればしなくていい無駄な我慢だし、本当に我慢できなくなったり体調悪くなる人もいるだろう。

で、終演したらトイレにはもう閉鎖って柵がしてあるんだよ、一体どこにライブハウスのトイレ行くタイミングあるんだよ(笑)

 

本当に体調悪くなったりする人もいるけど、その人が逃げ出す、助け出す通路もない。もちろんその後戻ることも想定されていない。

そんな制限おかしくない?

人間として扱われてなくない?

この、人間として扱われてない感はすごく思う。

2階から見ると羊の囲い込みショー見てるみたいだみたいな話を昔誰かとしたけど、本当に家畜を狭い牛舎か何かに詰め込む感じの扱われ方をする。

ホールだと、消防法の関係で立ち見できなかったり通路に物置いちゃだめだったりとかあって、有事の際の避難とかも想定していることが察せられるけど、一人の病人の通る通路すらないギュウギュウ詰めのライブハウスで何か起こったら間違いなく死者多数になると思うんだが、そこは何の法律も避難対策もないんかな。

いいのかな、家畜だし。

 

グッズだって、開場中に動けたら、もっと買った人いたかもしれないのにね。

 

 

MCで、ライブ中(1時間半)くらい立ってられなかったらヤバいとか、俺らは1時間半歌って踊ってるのに、とか言ってたけど、違うんだよ!!!ライブの間だけ立つだけだったら全然平気だし、楽しいから別に平気だよ!!

スタンディングしんどいとか言うけど、別に立ってること自体は意外と別にかまわないのよ。そこじゃないのよ。

 

ライブ始まる前から謎の労力とストレス使ってんのよ!!

もっと言うと、実際に立ってられないほど体力持たないとかトイレ我慢できないとか、そこまで追いつめられてるわけじゃない。

単純に、無駄だと、要領の悪い鑑賞方法だと、言いたいのよ。

 

椅子作ったら、場所をとる、お金がかかる、立たせればたくさん人を入れられる、ってのはわかるから、それなら床に何番とか番号でも振ってくれたらいいのに。

それなら整列の手間もかからず、わっと押し寄せる危険もなく、みんな好きな時間に来て、開場中にトイレ行ったりグッズ買ったりして過ごせるのに。

 

どんなにいい番号取れても、入場のタイミングに間に合わないといけないし、入場のタイミングで、2000人近くが建物の周りに群がってるのも、周りにもすごく迷惑だと思うんだよね。

 

永遠の課題、段差がないため全然見えない問題も発生するし。(段差あったらあったで危ないかもしれないけど、そこはきちんと柵とかしてさ)

 

お金払ってるのに(前でも後ろでも同じ金額で!)、見えないことがあるとか、前の人の背の高さの運次第とか、おかしくない?

そりゃホールよりは安いけども、どこの番号くるかわからん、どんな人の後ろの人になるかわからん、見えるか見えないかわからんって、ギャンブルじゃん、いや、背の低い人なんて高確率でそのギャンブル負けじゃん。

そんな楽しみの保証できないチケットよく売るよ。なんで誰も消費者センターに文句言わないの。

 

まぁそのリスクを理解した上でチケット買ってるのはそっちだろうと言われて終わりなんだろうけど。

 

それはリスクがあるとわかってて、見えないかもしれない、体調悪くなるかもしれない、そういうリスクを冒してでも好きなアーティストをどうしても見たいからだよ。

ライブハウスに行きたいなんて、スタンディングライブに行きたいなんて、整理番号持って並びたいなんて、これっぽっちも思ってない。

ファンの気持ちとアーティストの人気に、主催と会場は甘えるんじゃねぇ!こんな設備と段取りと対応に金払ってるんじゃねーよ!!断じて!!って思う。

 

だから、よほど好きなアーティストでないと、行かない。

そこを足元見られてるんだろうなって思うけど。

 

 

これまでも散々スタンディングのライブは行ってきたけど、コロナで久しくなかったところへ久々に来ると、心底頭の悪い鑑賞方法だな、ってうんざりしたのでした。