聖書 旧約:創世記 41:25~32
新約:ルカによる福音書 12:16~21
みなさん、おはようございます。 おかえりなさい。
次週、11月27日からアドベントが始まります。その一週間前の今日。今日は、毎年収穫感謝、終末主日を憶えて礼拝を守ります。これまでは、終末主日について何度も語ってきましたが、今日は、収穫感謝について、御言葉から聴いてまいりたいと思います。
収穫感謝日は、英語ではThanks Giving Dayと言います。日本語だと単に感謝する日ですが、英語で考えると、与えることに感謝する日となります。では、何を与えることで感謝するのでしょうか。
今日の週報にも書きましたが、感謝日の起源は、17世紀。イギリスから新大陸。アメリカに移住したピューリタン。清教徒の出来事にその起源があると言われています。
当時のイギリスは、カトリック教会の長い伝統から、宗教改革を経て、イギリス国教会が大きな位置を占めていました。
ヨーロッパ大陸では、カトリック教会の伝統的なミサから離れて、聖書だけに基づく礼拝。信仰共同体を作っていましたが、イギリスでは、政治的理由により、カトリック教会から独立して、独自の礼拝を行うイギリス国教会が誕生していました。
カトリック教会から離れたとはいえ、礼拝の形式はカトリック教会に近い形で、そのことに反発する人々が、イギリスの中で新しくプロスタント教会を立て上げていきました。それらの教会として、バプテスト教会、クエーカー、メソジスト教会、会衆派教会などがあります。
さて、そういう状況で、自分たちの信仰がイギリスでは守れないと考えた人々。ピューリタンと呼ばれる清教徒の人々が、1620年の秋、66日間の厳しい航海を乗り越えて、アメリカに移住します。けれどもその年の冬は食糧が不足し、厳しい寒さにより、約半数の人が死んでしまいました。
そんな中、アメリカ大陸に先住民としていたネイティブアメリカンの人々から、食料を分けてもらい、なんとかその年を乗り越えた人々が、翌年の秋多くのトウモロコシを収穫できたことを感謝して、ネイティブアメリカンの人々を招いて、食事をしたとされています。
この出来事が、感謝日の起源とされています。ピューリタンの食事会は、冬の間命をつなぐことができたお礼としての感謝が、目に見える形として行われましたが、それ以前に、自分たちの信仰を守るために、新大陸に移住し、多くの収穫を得ることができたことを神さまに感謝する日という意味合いが強かったのです。
食糧不足による死を乗り越えて、生き残り、多くの収穫を得ることができたことに対する感謝。アメリカでは毎年11月の第4木曜日を収穫感謝日としていますが、日本では、アドベントに入る一週間前の日曜日を収穫感謝の礼拝としています。
さて、聖書を見ると、旧約にカナン地方の飢饉の話がいくつかあります。最初に出てくる話は、アブラハムがカナン地方の飢饉から逃れるために、肥沃なエジプトに逃げて、そこでトラブルに巻き込まれる話が創世記にあります。アブラハムの場合、飢饉による困難ということが主眼ですが、その後の時代、飢饉と豊作が組み合わされた出来事が起こります。
それは、ヨセフ物語と呼ばれいている、創世記37章以降の部分です。物語は非常に長いので、割愛しますが、アブラハムの子孫のヨセフが、兄弟たちのうらみをかい、エジプトに奴隷として売られます。ところが、そこでも再び困難な出来事に遭って、牢獄に入れられます。しかし、その後ファラオの夢の意味を説き明かすことから、エジプトの豊作と飢饉の出来事に関わることになります。
今日読んだ箇所は、エジプトの王ファラオが不思議な夢を見て、その夢で「ひどく心が騒いだ」ことが発端になっています。41章7節、8節を見ると、日本語ではなかなか意味が取れませんが、王の夢は現実に見ているようにはっきりしたものだったということ。そして、その夢の意味を「エジプト中の魔術師と賢者」に解き明かさせても、王が納得できる解釈ができる者が誰もいなかった、と書かれています。
その時、ヨセフと同じ時に牢に入れられていた給仕役が、ヨセフが夢の解き証しを鮮やかにしたことを思い出して、ファラオに夢の意味を説き明かすことができる者がいると進言します。
そこで、ファラオは急いでヨセフを呼びにやり、謁見するための支度を調えて、ヨセフがファラオの前に連れて来られました。
ヨセフは、父のヤコブの元にいた時、一人だけひいきにされて甘やかされ、仕事もほとんどしていませんでした。しかし、エジプトに売られた後、繰り返し苦難に出会います。そのような中、彼の神さまに対する信仰は、父親ゆずりのものがありました。それで、夢の解釈は自ら行うのではなく、神さまがその解き明かしをヨセフに教えるから、その意味を語ることができると、ファラオに謁見した時に話します。
そして、ファラオは、神からのお告げともいう大切な夢の内容を、囚人であり、他国人であるヨセフに話します。
ファラオがヨセフに夢の内容を話したことは、地位や立場を越えてでも、その夢の意味を何としても説き明かさなければならないという、切羽詰まった必要性があったからでした。
それほどの緊急性がなければ、ヨセフなど、ファラオの前に引き出されることはありません。ファラオに謁見することができたこと自体、神さまのご計画だったと考えることができます。
ヨセフはファラオから夢の内容を聞かされ、見事にその意味を説き明かします。ヨセフが夢の解き証しをした時の、最初の言葉。
「神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお告げになったのです」
この言葉に、ヨセフの神さまに対する信頼と、信仰が現れています。ヨセフは、王の夢がこれから起きる7年間の大豊作と、それに続く7年間の飢饉だということを解き明かしました。そして、32節で、
「ファラオが夢を二度も重ねて見られたのは、神がこのことを既に決定しておられ、神が間もなく実行されようとしておられるからです」
と言って、すべての事は、神さまのご計画の中にあると伝えています。
エジプトはイスラエルとは違い、多神教の国でした。しかし、それだからといって、ただ一人だけの神さまを礼拝する、イスラエルの民の神さまのことを低く見てはいません。エジプトの神々のように、人間では知ることができないことを、ファラオを通して教えられたと素直に、ヨセフの解き明かしを聞くことができたのでしょう。33節以下の場面では、ヨセフが豊作と飢饉の出来事に対する対応について、ファラオが納得する方法を語ります。それで、ヨセフがエジプトの国を王に次いで納めるほどの地位と権力が与えられ、エジプトの国を救う立場の者となることが語られていきます。
エジプトの人々にとって、豊作と飢饉は、その期間の長さが違っていても、繰り返される出来事でした。しかし、ヨセフにとっては、その出来事によって、彼の兄弟と父ヤコブがエジプトへと招かれ、兄弟との和解、父親との再会を果たすきっかけへとつながって行きます。
すべての出来事は神さまのご計画であり、ヨセフが囚人の、他国民であっても、彼に働く神さまの恵みの大きさが語られています。この世の富をヨセフが主体となって、蓄えることになりますが、その富は、人々を飢饉から救うために用いられるものとなります。すべてのことは、神さまのご計画の中に含まれていました。
さて、新約聖書に移りますが、イエスさまが話されたたとえの一つとして、今日の「愚かな金持ち」のたとえがあります。イエスさまが大勢の人々に福音を語っていた時、ある一人の人が、イエスさまに、兄弟から遺産を分けてもらうための取り次ぎをしてもらいたいと願い出ました。
この人物は、イエスさまが持っている地位と、道徳的権威を、自分の目的のために利用しようと近づきました。イスラエルでは、親の財産の多くは長男に譲られましたが、すべての子どもに相続する分は残されていました。それは、放蕩息子の話からも知ることができます。
イエスさまに近づいて、願いを言った男は、相続される財産の中で、保留扱いになっているものが自分のものとなるように、イエスさまに願い出たのです。
この人物に対し、イエスさまは、彼が求めていることは全く的外れであるという皮肉を14節で言った後、15節で、遺産などの富がもたらす「貪欲」に注意するように言っています。
そして、この世の「富」がどれほどあっても、人の命はどうすることもできないことを、たとえを用いて教えられます。
そのたとえが今日読んだ箇所です。
16節に「ある金持ち」が登場します。「金持ち」と言う言葉から、わたしたちはすぐに悪い者と結びつけたくなります。けれども、たとえの始まりでは、この人が金持ちだから悪いとは断定されていません。単に、ある年の畑からの収穫が豊作だったということしか語られていません。
そこから問題となるのは、「畑の豊作」に対するこの金持ちの態度です。豊作から得られるものは、彼がすでに持ってい倉庫の容量を超えていたので、17節で、「どうしよう」と彼は悩みます。そして、18節で、「こうしよう」と言って、収穫に対する適切な大きさの倉を建てることを計画します。
彼の考え方自体は、先見性があり、実用的な知恵でもあり、決定的な行動への準備として妥当なものでした。
しかし彼は、自分に対し、「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と考えます。この思いは、自己満足にしかすぎません。
20節で、この男に対する神さまの考えが示されます。
「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」
この言葉が、実際にその男に呼びかけられたかどうかという設定はありませんが、「お前が用意した物」という言葉から、この男は、先に考えたことはすでに実行した、と考えることができます。
神さまがこの男を「愚かな者」と呼んでいるのは、どういう理由からでしょうか。
いくつか考えられますが、
彼は人生のはかなさを認識できませんでした。
死の先にあるものに対する備えをしませんでした。
神さまのことを考慮していませんでした。
自分の人生と快楽に自分勝手に夢中になっていました。
こういったことが、浮かんでくるでしょう。
では、こういった思いは、どこから出てくるのでしょうか。
それは、人生における自分の責任は、自分の経済的将来を確保することにつきる、という考え方からではないでしょうか。
ルカはイエスさまが教えられたこととして、富を蓄えることが悪いと言っているのではありません。そうではなく、神さまの方へ向かって豊かになる必要性を強調しています。
21節の「神の前に豊かにならない者」が「愚かな者」を指しているとすれば、「愚かな者」とならないためには、神さまの前に豊かな者となる必要があると言うことです。
それは、神さまにお従いし、貧しい人々の必要を満たすために、自分の物質的な富を活用することで、蓄えることができるのです。
それでは、わたしたちが手にする富とは何でしょうか。エジプトで取り立てられたヨセフは、エジプトで得られる収穫は、自分たちの努力にまして、神さまから託されたものだと考えました。それで、その託されたものを、神さまの御心に沿い、飢饉への備えとして貯えます。飢饉が始まると、倉庫を開いて、人々に分け与えました。そのことで、ヨセフは神さまからその信仰を認められ、彼の子孫が祝福されて、続いていきました。
一方、「愚かな金持ち」は、畑から得られた収穫をすべて、自分の生活と、欲望を満たすためのものと考えて、貯蔵し、使おうと計画します。けれども、その考え方は間違っていると、神さまの考えを通して、イエスさまは教えられました。
この世にあるすべてのものは、神さまから。主からわたしたちに与えられているものです。わたしたちが直接手にするものは、ほとんどどれも、素材からわたしたちのところに来るまでの間、何人もの人々の手に渡ります。しかし、もとをたどれば、この地球から。自然から得られたものを使っていますから、この世界を創られた神さまからいただいたもの、と言えるでしょう。
まずは、手にするものの素材を準備され、与えてくださる神さまに感謝し、その恵みが向かう先は、すべての人に向けられていることを憶えて、与えられた富を活用すべきでしょう。
そして、神さまからわたしたちに送られた最大の恵みは、主イエス・キリストです。この方の恵みを豊かに用いるために、わたしたちは主から託された福音の言葉を人々に伝えなければなりません。そのために、この世の教会が主によって立てられています。
次週からアドベントに入ります。主イエス・キリストがこの世に来られたことによって、わたしたちに与えられている大きな恵みを憶えつつ、アドベントの時。主イエス・キリストの御降誕を、喜びをもって歩みたいと願います。