聖書 ルカによる福音書 9章10節~17節
       (創世記 12章1節~4節)

 

 みなさん、おはようございます。お帰りなさい。

 

 今日は初めて、桐生教会に来させていただきました。長谷川先生とは関東改長協のお交わりの中で親しくさせていただいております。

 今日最初に、「お帰りなさい」というご挨拶をさせていただきました。宇都宮東伝道所では、わたしが説教を始める時、毎週このように挨拶をさせていただいています。

 では、なぜ「お帰りなさい」と挨拶しているのでしょうか。

 それは、フィリピの信徒への手紙3章20節に「わたしたちの国籍は天にあります」とあるように、わたしたちが礼拝に来る時、そこにはイエスさまに招かれた人々による神の国があるからです。

 イエスさまは先程の信仰告白にあるように、天の父なる神さまの右に座しておられ、この世が最後に裁かれる時まで再び来られることはありません。

 しかし、今、わたしたちの目で直接見ることができなくても、聖霊なる神さまとして、この場所にいてくださいます。

 であれば、この礼拝を守っている場所がわたしたちが戻るべき場所であり、「お帰りなさい」と挨拶することがよろしいのではないかと思うのです。

 

 さて、目に見ることができない聖霊なる神さまと言いましたが、日本の宗教の中でも、目に見えない神さまが登場することがあります。

 わたしが、社会人生活を30年送る間、何度か新しい建物を使い始める時に、安全祈願式ということを、神社の神主を呼んで行うことがありました。神主は、ご神体を持ってはきませんが、式の中で、降神(こうしん)の儀、昇神(しょうしん)の儀とされている箇所があります。そこでは神主が声を上げて、その神社で祭られている神をその場に一時的に呼び出し、安全祈願を行った後、帰っていただくというプログラムがあります。

 また、日本の祭りでよく見かける、神輿(みこし)や鉾(ほこ)は、ご神体をその中に入れて、人が運びます。

 神さまという方は、人よりも優れた方であるはずなのに、人が運ばなければ動くことができないというのは、どういうことなのかと、思ってしまいます。

 また、人間の呼びかけに応じて、「はい」「はい」と応えて登場する神さまというのは、人間が便宜的に利用しているのではないかとも思ってしまいます。

 

 ところが、わたしたちの信じている神さまがどういう方かというと、イエスさまは、マタイによる福音書18章20節で、 

 「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。」と言われています。

 つまり、わたしたちから呼びかけなくても、神さまの名前によって集まるところに、イエスさまがおられる。

 さきほど話したように、聖霊なる神さまがちゃんとおられると言われているのですから、教会にはご神体なるものを置く必要ありません。イエスさまの名によって集められたわたしたちと共に、神さまはいてくださるのです。

 

 さて、そのように話をされたイエスさまですが、イエスさまが伝道をされていた当時。人々のイエスさまに対する人気、期待が非常に大きくなっていました。

 特に、「ガリラヤの春」と呼ばれている、伝道活動初期から、エルサレムに向かうまでの間。イエスさまは御自身が神さまから遣わされた方であり、わたしたちの罪を赦し、救ってくださる方であることを示すためにさまざまなことをされました。病人を癒やし、悪霊を追い出し、不思議な業を数多くされています。

 当時の人々は、そんなにすごいことができ、神さまの言葉を権威を持って話す人を、モーセ以来見たことも聞いたこともありません。それで、イエスさまが来られた。イエスさまが話をされる。という、うわさを聞いて、大勢の人がイエスさまの周りにどんどん集まって来ました。

 

 それでは、当時どれほど多くの人が集まったのでしょうか。

 今日読んでいただいたルカによる福音書の箇所では、男性だけで五千人いたと書かれています。「男性」とあるのは、成人男性のことを指していますので、実際には、女性も子どもも含めたらもっと多くの人がいたはずです。

 では、それほど多くの人々にどのようにしてイエスさまはお話をされたのでしょうか。

 今なら、大きなホールに集まってもらい、拡声器を使って話をすることができます。けれども、2000年の昔、当然拡声器はありませんし、声を少しばかり大きくするメガホンのようなものがあったとしても、これほど沢山の人々に声を届けることは難しいでしょう。

 

 聖書には、その時の情景が詳しく書かれていませんので、私たちは推測するしかありません。

 このことについて、いろいろと研究した人がいます。ある研究によると、この時イエスさまは、ガリラヤ湖畔のなだらかな丘に人々を座らせ、御自身は、湖の畔(ほとり)に立って話されたのではないかと考えています。

 というのは、湖の上と陸上とでは温度差があり、昼間は湖の方から陸上に向かって風が吹いていた。その風に乗せてイエスさまが話をされたことで、多くの人が話を聞くことができたのではないかというのです。

 そういう説明を聞くと、なるほど、そんなこともありえるかなと思えるのではないでしょうか。

 

 さて、そのようにイエスさまが福音を語られた時、4つの福音書のどれもが取り上げている、出来事が起きました。それが、今日読んでいただいた五千人の給食という出来事です。

 それぞれの福音書に記されている内容は少しずつ異なっていますが、ルカによる福音書では、ベトサイダという町の近くで、イエスさまが神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられたことが11節にあります。

 そして、12節で、日が傾きかけたので、弟子たちがイエスさまに、群衆を解散させてほしいと話しました。それは、大勢の人が集まっている中、長い時間イエスさまの話を聞いていた人々が、近くに食べ物がない場所に居続けると、おなかをすかして困ってしまうと思って、イエスさまに相談したのです。

 この時の弟子たちの問いかけに対し、イエスさまは、ご自身がこれからなされようとしておられることを思いながら、弟子たちに「あなたがたの手で食べ物をあげなさい」と言われました。

 弟子たちは、イエスさまの答えに驚きます。いいえ、困惑したことでしょう。なぜなら、今弟子たちの手元にある食料は、パン5つと魚二匹しかなかったからです。男性だけで五千人以上という人数はなかなか想像しにくい人数ですが、東京ドームの収容数は、公称で4万6千人と言われていますので、ドームに入る人の4分の1ぐらいを想定するといいのでしょうか。

 丸いドームの片側の半分くらいの人に対し、パン5つと魚が二匹。私たちの常識から考えると、イエスさまはなんと常識外れのことを弟子たちに申しつけたことか、と思ってしまいます。

 

 しかし、イエスさまが弟子たちに、食べ物を与えなさいと言われた本当の意味は、人々を神の民として導く、御言葉を語りなさいと言われているのです。

 イエスさまの問いかけに対する弟子たちの直接の反応は、これだけしか食料がないという事でしたけれども、その後、イエスさまが弟子たちに命じられたように、人々を50人ぐらいずつのグループにして座らせました。

 人々が座った後、イエスさまは手元にあった5つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて、弟子たちに渡しては群衆に配らせた。と16節にあります。すると、イエスさまが弟子たちに渡したパンと魚はなかなかつきることはありませんでした。

 その場にいた人々すべてにパンと魚が行き渡り、人々が満腹した後、残ったパンの屑を集めると、十二籠(かご)もあったと、書かれています。十二籠(かご)というのは、イスラエルの12部族を象徴していて、イエスさまの元に集まってきた人々は、神の民として、呼び集められた人々であるということが、この出来事から、この奇跡から示されたのでした。この出来事を通して、イエスさまが弟子たちに教えられたことは、あなた方は何も持っていないように思っているが、必要なものはすべて神さまが与えてくださる。そして、あなたたちは、与えられたものを、神さまが集めた人々に伝えていかなければならないのですよ、ということだったのです。

 神さまに集められた大勢の人々に食べ物がまんべんなく与えられたという出来事は、なにもこの時だけではありません。出エジプト記16章を見ると、エジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルの人々が、モーセに率いられて荒野に脱出した時、食べ物がない荒野で生活できるように神さまは、朝には「マナ」というパンを与え、夕方にはウズラを送って、肉を食べることができるようにしたと書かれています。

 その出来事は、一回だけのことではなく、イスラエルの民がシナイの荒野を旅した40年間ずっと絶えることなく続いたとあります。

 エジプトから出たイスラエル人は、壮年男子だけで60万人だったとありますから、40年もの間、神さまは100万人以上の人を養い続けたということです。

 

 4つある福音書には、それぞれイエスさまがなされた不思議な業や、病の癒やし、罪の赦し等、数多くの出来事が書かれていますが、今日の出来事以外で、すべての福音書が取り上げている不思議な出来事は、復活の出来事以外には、この五千人の給食の出来事しかありません。

 ということは、この出来事がとても大切な意味を持っているということです。

 

 今の時代、科学技術が進歩し、いろいろな事が明らかになってくると、私たちは、科学で証明することができないことは、なかなか信じる事ができなくなっています。

 しかし、科学技術がいくら進歩しても、解き明かすことができないことはまだまだあります。いや、むしろ、宇宙の中のごく小さな星の中のことすらすべて科学で解き明かすことのできない人間にとって、わからないことだらけだというのが本当のところでしょう。先日起きたトルコ・シリアの地震では、それまで平らだったオリーブ畑に、幅300m、深さ40mという大きな裂け目が生じたというニュースがありました。その写真を見ると、モーセが葦の海を分けた時を思い起こさせるような大きな裂け目ができていました。わたしたちの人生は、地球ができてから今までの時間と比べるととても短く、まだまだ知り得ないことが多くあることを教えられます。

 

 神さまは、この世界全てをお作りになられた方であり、全知全能の方ですので、人間がいくら知恵や知識を高めても、深めても神さまの知恵に到達することはできません。そのことを思う時、イエスさまがなされた、五千人の給食の出来事というのは、そのまま起きた出来事であったと、私たちは聖書から読むべきではないでしょうか。

 そう考えた時、神の民である人々を集められるのは、私たちが信じる唯一の神さまであり、その神さまが私たちを養ってくださるのは、御言葉によって、養ってくださるのであるということを、憶えたいと思います。

 

 人が生きていく上で、口から入る食べ物を食べるだけでは、生きていけません。それは、人が一人だけで隔離され、食事だけを与えられて、他の人との会話や交渉が遮られてしまった時、その人の体調がだんだん悪くなっていくという事からも証明されています。私たちにとって、私たちを養う上で本当に必要なものとは、神さまから私たちに与えられる御言葉です。

 御言葉は、聖書に記され、それが、礼拝で説教者によって解き明かされる時、人々に伝えられ、聞いた人々が、古い人を捨て、新しい人へと変えられていく力になります。

 

 イエスさまが私たちに伝えてくださり、使徒や弟子たちが継承し、今の時代にまで伝えられている御言葉。この御言葉の恵みに感謝して、今週も過ごしたいと願います。