聖書 旧約:レビ記 17章10節~12節
   新約:ルカによる福音書 22章14節~23節

 

 みなさん、こんばんわ。お帰りなさい。

 

 私たちは今日、最後の晩餐記念礼拝を守っています。イースターを目前に控えた木曜日。この日に教会で行われる礼拝は、洗足木曜日礼拝とか、消火礼拝と呼んで守る教会があります。

 教会暦を見ると、今日は洗足木曜日とあります。ヨハネによる福音書に書かれている、イエスさまが食事の場面で弟子たちの足を洗ったことを憶える日です。

 また、「消火礼拝」というのは、アドベントとは逆に、7本のろうそくに灯(あかり)をつけて1本ずつ、礼拝プログラムに沿って火を消していき、最後にすべての灯が消えた段階で、主の復活を待ち望むという礼拝です。

 

 さて、新約聖書には4つの福音書があります。どの福音書も、イエスさまが十字架に架けられるため、逮捕される直前、弟子たちと一緒に食事を取り、そこで語られた言葉が残されています。

 ところが、聖書を初めて手に取って読む人や、最後の晩餐の場面を比べながら読む人にとって、悩むことがあります。

 それは、福音書によって最後の晩餐の場面の描き方が違っているからです。

 

 私たちが、教会で聖書を開き、御言葉に聴く時、これは神さまから語られている真理の言葉だと聞いています。

 ところが、真理であるのに、福音書毎に書き方が違うのはなぜだろうか?と、思うことはないでしょうか。

 

 その理由の一つとしてあげられるのは、福音書が文字として書かれたのが、イエスさまが復活されてから、30年以上経った後からだったということです。最初に書かれたマルコによる福音書は、西暦64年から70年頃と言われ、最後に書かれたヨハネによる福音書は、西暦85年から90年頃と言われています。

 イエスさまが復活されて30年から40年後に福音書が文字として書き記されるまで時間が空いた理由は、イエスさまが約束された、再臨。イエスさまが再びこの世に来てくださり、この世が裁きを受ける時が、すぐに来ると、初代の信徒たちが考えていたからでした。

 しかし、イエスさまの再臨はなかなか起こりませんでした。それで、与えられた信仰を受け継ぐために、福音の言葉が文字として書き記されました。

 その時、多くの人が口伝えに。口伝で伝えてきた内容や、最初に断片的に書き留められていたイエスさまの語録などをもとに福音書が書き記されました。

 多くの人が、イエスさまがなされたこと、イエスさまの言葉を伝えていましたので、イエスさまの出来事が豊かな言葉として、書き残されました。それで、聖書に閉じられる福音書が4つ選ばれたのです。

 私たちは、日本基督教団信仰告白で、聖書は「神の霊感によりて成り」と、告白しています。聖書の言葉は、文字を使って書き記した人が聖霊の導きによって書いています。それで、その人、その人の信仰に基づいて伝えるべき言葉のポイントが少しずつ違っている。というということが、福音書が4つあるという理由の一つです。

 

 さて、先ほど読んでいただいた、ルカによる福音書22章14切から23節は、イエスさまと弟子たちが共に最後の食事をした場面であると同時に、「過越の食事」だったことが、12節のイエスさまの言葉から分かります。

 「過越の食事」というのですから、私たちが教会で与る聖餐式とまったく同じ、ということではありません。私たちが受ける聖餐式では、杯は一度しかありません。ところが、ヨハネによる福音書ではイエスさまは2度杯を取られています。

 これは、イエスさまが弟子たちと共にとられた最後の食事の場面から、教会にとって、私たち信仰者にとって、大切なものを整えて聖餐式ができていますので、イエスさまが2度杯を取り上げて、弟子たちに言葉を掛けられているのは、なにも不思議なことではないのです。過越の食事に関する最も古い規定を調べた人によると、過越の食事では4杯のぶどう酒が必要でした。

 余り詳しくは語りませんが、前菜、過越の儀式、主食、終わりのそれぞれで杯を上げて飲んでいたようです。

 

 このことから、イエスさまが弟子たちと共にされた食事は、聖書にあるように、過越の食事でした。しかし、ユダヤ人が食する過越の食事と、イエスさまが弟子たちと共にされた食事ではその意味が全く違っています。

 過越の祭りは、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを出る直前。神さまがそれぞれの家の初子を打つために、エジプト中の家々を回られた。その時、イスラエルの民だけは、その家の子どもが打たれないように、過ぎ越してくださいという祈りをもって、食したものが、最初の過越の食事でした。

 そして、エジプトを出発したイスラエルの民にとって、この食事は、神さまがイスラエルを打つことなく、過ぎ越してくださった。そして、エジプトから救い出されたという意味を持つ食事へと変わったのです。

 

 神さまがイスラエルの民の家を通り過ごす時、初子の命を奪う代わりに、動物の命が奪われました。小羊が屠られてその血が家の入り口の二本の柱と鴨居(かもい)に塗られます。子どもの命の対価として、小羊の命が捧げられました。

 過越の食事と聖餐でいただくものを比べてみましょう。

 過越の食事で種を入れないパンが出されるのは、エジプトを脱出するイスラエルの民にとって、救いの時が、パンの発酵を待つことができないほど差し迫っていた、という意味がありました。

 それに対し、イエスさまが弟子たちに与えたパンは、イエスさまによってパンが裂かれ、御自身の身体が十字架で裂かれることを意味しています。

 また、ぶどう酒を取り上げて、それを御自身が十字架で流される血にたとえられています。

 ユダヤ人にとって、流される血と命との関係は強いものでした。

 レビ記17章の律法に、生き物の血を飲んではならないという規定があります。それは、「生き物の命は血の中にあるから」ということからです。血を飲んだ人は、神さまを信じる共同体であるイスラエルの民から外に出されてしまうとされています。

 食べてはならない動物の肉を食べて、汚れを受けた人にはその汚れを取り除く規定がありましたが、血を飲んだ人に対する清めの儀式はありません。

 それに対し、今、手にしているものは、ぶどう酒ですが、イエスさまはぶどう酒をイエスさまが流される血として飲みなさい、と言われました。これはどういうことでしょうか。

 

 イエスさまの血を飲むということの意味。それは、イエスさまの血にはイエスさまの命がある。その命は永遠の命ですから、私たちがその血を飲む時、永遠の命をいただくことになるという意味があります。

 また、イエスさまは神さまですから、汚れがありません。それで清いものであるイエスさまの血をいただくのですから、血を飲むことで汚れを受けることがありません。

 しかし、なによりここで言われているのは、私たちを救うために流された過越の小羊の血に替わって、一度限り。イエスさまの血が十字架で流されることが、「わたしの血による新しい契約」であるということです。

 

 ユダヤ教を信じる人々にとって、神さまとの契約は、男性が受ける割礼がそのしるしでした。また、過越の食事は家族みんなで、いただきますので、女性も神さまによって救われた民であることを確認できる時でした。

 それに対し、イエスさまが弟子たちと共に食された食事の席で与えられたパンとぶどう酒には、新しい契約という、イエスさまによる契約の証しであることが、イエスさまによって宣言されています。

 この食事の時から、わたしたち主イエスを信じる者にとって、パンとぶどう酒をいただく聖餐の恵みは、イエスさまが私たちと結んでくださった契約のしるし。また、洗礼を受けた人がだれでも与ることができる、主イエスの恵みとして与えられています。

 

 さて、イエスさまがパンとぶどう酒を取って弟子たちに与えられた食事の席は、そのことだけで終わったのではありません。ヨハネによる福音書を見ると、弟子たちの足を一人ずつ洗われたイエスさまの思いが書かれています。ヨハネによる福音書13章1節に、

 「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」

とあります。

 

 私たちが、これまで歩んできた人生の中で、だれかを愛した時、愛している時、これほどまでに愛していると言える人がおられたでしょうか。

 こうお聞きすると、今恋人がいる人や、新婚間もない人は、今、そういう人が私の隣にいます、というかもしれません。

 しかし、聖書が教える愛とは男女間の愛だけを指しているのではありません。

 イエスさまの周りに座っている弟子たちの顔を見てみるとどうでしょうか。

 弟子の中でも、聖書に多く登場するペトロ。彼は、気が短く、おっちょこちょいの性格だったことが福音書の記事に残されています。湖の上を歩いてこられたイエスさまに近づきたくて、自分も湖の上を歩きたいと願い、イエスさまに呼ばれて水の上を歩きはじめましたが、すぐに足元にある水を見て恐くなり、たちまち溺れて、イエスさまに助けられたことがありました。

 また、山の上で姿が輝いたイエスさまとモーセ、エリアを見た彼は、わけが分からなくなり、三人のために小屋を作りましょうということを言い出すような人でした。

 そして、イエスさまこそメシアですと告白したのに、イエスさまが苦しみを受けて死ななければならないと言われた時、それをとがめようとして、イエスさまから叱られています。

 

 また、ペトロ以外では、ヤコブとヨハネの母が、イエスさまが王座に就かれる時、この二人をそばに座らせてもらいたいと願うことがありました。

 それ以外に、聖書に書かれてはいなくても、イエスさまが弟子たちと共に伝道をされた2年半から3年の間、さまざまな出来事が、寝食を共にし、過ごしてきた弟子たちが、今共にいるのですから、イエスさまがこの世から去らなければならないという悲しみは、わたしたちにはとても理解できないかもしれません。

 

 イエスさまはこの後苦しみを受け、十字架に架けられ、死んで陰府にくだります。ところが、復活して天に挙げられ、その後、聖霊なる神さまとしてこの世の終わりまで私たちと共にいてくださるようになります。今まさにその時が始まろうとしていました。

 イエスさまが、十字架に架けられ、死の後、復活して天に挙げられた。そのことにより、私たち信仰者の罪の赦しの取り成しをすることができる。また、いつの時代、いつの時でも、私たちと共にいてくださり、私たちを愛することで、私たちを守り、また、導いてくださる方として、共にいてくださるようになりました。

 

 この後わたしたちは聖餐の恵みに与ります。聖餐式で読まれる序詞の中に、「ふさわしくないままで主のパンを食べ、その杯を飲むことのないよう、自分をよく確かめて、聖餐にあずかりましょう」とあります。

 この言葉の意味を私たちは正しく理解しなければなりません。それは、このわたしが、汚れのない、清い者だから、聖餐に与ることができると確認しましょう、というのではない、ということです。

 最後の晩餐の時にイエスさまからパンとぶどう酒をいただいた弟子たちは、この後イエスさまを見捨て逃げ出す、いわば、全員がイエスさまを裏切る者となります。

 しかし、それでも、イエスさまは弟子たちにパンとぶどう酒を与えてくださいました。

 今わたしたちが聖餐の恵みに与る時。神さまに対し、罪深いわたしですが、そんなわたしでも、イエスさまの愛によって、この聖餐を与ることが許されている。この聖餐の恵み、大切さをしっかりと心に留めて、神さまの愛に触れ、聖霊によって父なる神さまとイエスさまの愛の中に招かれているのだということを憶えて、聖餐に与りましょうということです。

 

 イエスさまが私たちに与えてくださった大きな愛、限りない愛の恵みに感謝して今日の聖餐の時を迎え、主イエスの復活の喜びに満たされるイースターを待ち望みたいと願います。