聖書 旧約:ゼカリヤ書 8章9節~12節
   新約:ヨハネによる福音書 15章1節~17節
 

 みなさん、おはようございます。お帰りなさい。

 

 イエスさまは、人々に教えられる時、たとえよく使われました。たとえを用いて話された理由は2つありました。

 一つは、当時の人々が神さまについて、自分の身近にあるものから理解できるようにするためです。

 旧約聖書に書かれている神さまを示して、この方はこのような方ですと直接説明されるより、詩編にあるように、羊飼いのような方である。

 羊飼いは、責任を任されている羊を草がある場所に追い立てて、草を食べさせるだけではなく、羊を盗もうとする盗人から守り、羊を食べようとする野獣から守る仕事をしている。

 父なる神さまは、目には見えないけれども、身近にいる羊飼いのようにわたしたちに必要なものを与えるための場所に連れて行き、わたしたちの安全を守ってくれるお方ですよ、というように。

 それだけでなく、羊の群れを移動させる時、群れから一匹だけ離れて行こうとする羊を見つけたら、元の群れへと連れ戻される方だと、説明すれば、わたしたちの目で直接見ることができない神さまの働きをなんとか理解することができると、教えられました。

 

 もう一つの理由として、イエスさまを信じようとしない人には、神の国の奥義が隠されていた、ということです。これは、イエスさまが弟子たちにそのためにたとえを用いている。と言われ、弟子たちにはたとえの説き明かしをされていた、ということから知ることができます。

 

 さて、ヨハネによる福音書15章1節では、イエスさまは御自身を「まことのぶとうの木」に、父なる神さまをぶどうの木を手入れする「農夫」にたとえられました。ぶどうだけでなく、農作物は、人が植え、世話をし、天からの雨を受け、土の中から必要な養分を吸い上げることで、成長します。

 「ぶどうの木」が聖書の中で取り上げられる時、風景の一部ではなく、旧約では神さまが選ばれたイスラエルの民をたとえる言葉として使われました。

 また、ゼカリヤ書では、神さまがイスラエルに与える豊かな恵の象徴として使われています。

 

 では、ヨハネによる福音書でイエスさまが「わたしはまことのぶどうの木」と言われているのは、何を表しているのでしょうか。

 1節でイエスさまが御自身を指して、「ぶどうの木」と言われ、父なる神さまを「農夫」と言われているのは、先の14章28節で「父はわたしよりも偉大な方だからである」という真理を、たとえで表しています。

 父なる神さまは、イエスさまとその働きを支配される源です。そして、導き手でもあります。

 1章9節の「まことの光」や、6章32節の「天からのまことのパン」のように、イエスさまは父なる神さまから来られた「まことの」ぶどうの木です。

 

 イザヤ書5章には、イスラエルがぶどう畑に、神さまが農夫にたとえられて、不信仰なイスラエルであるぶどう畑が良いぶどうではなく、酸っぱいぶどうを実らせたので、神さまは畑の囲いを取り払い、焼かれるにまかせ、石垣を崩し、踏み荒らされるにまかすとあります。

 神さまは不信仰なイスラエルを見捨てると言われていました。

 そのように神さまが選んだ信仰の民。イスラエルは厳しく罰せられます。

 神さまの罰を聞くと、恐ろしさが募るかもしれませんが、神さまはただ罰を与える方というのではありません。ぶどうの木にとって何も手入れされなければ、おいしいぶどうの実をつけることはできませんので、手入れをする人が必要になります。ぶどうの木と農夫は親しい関係がなければなりませので、イエスさまは御自身と父なる神さまとの関係が、非常に親しいものであることを説明されたのです。

 

 では、ヨハネの15章のたとえをもうしこし詳しく見てみましょう。

 5節に、

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」

 とあります。ここでは、イエスさまの弟子がぶどうの木の枝にたとえられています。そして、この言葉は、弟子だけでなく、イエスさまを信じる人すべてがぶどうの木の枝としてたとえています。

 木の枝は、木の幹に繋がっています。しかし、繋がっているだけで、ぶどうが栽培されている目的。ぶどうの実を実らせて、農夫が良い実を摘み取ることができなければ、その枝の価値は失われてしまいます。

 それで、父なる神さまはその枝を取り除かれると言われます。

 一方、イエスさまにつながり、豊かな実を結ぶ枝は、さらに豊に実を結ぶように手入れをなさると言われます。

 2節の「手入れをなさる」と訳されている単語は、原文では「刈り込む」と「清める」という二つの意味を持つ単語が使われています。

 神さまが枝であるわたしたちを手入れなさるというのは、わたしたちが犯した罪を赦してくださり、義なる者として清めてくださるという神学的な意味が、2節で語られています。

 

 栃木県内でも栃木周辺、大平辺りにあるぶどう園ではブドウ狩りを楽しむことができます。その場所で見ることができるブドウは、高級なブドウの房には、紙を掛けて虫が寄りつかないようにして手入れをしているものがあります。

 わたしたちが食べる植物で、自然から収穫するものがありますが、多くは人が植えて、育ち、収穫したものをいただいています。 その場合、種を蒔いたり、苗を植えたりした後、収穫するまで何もしないということはほとんどありません。雑草を抜いたり、虫が寄りつかないようにしたり、肥料を定期的に与えたりと、作物を育てる人は一日も休まずに、農作物の生育状況を確認し、ひつような手入れをしています。

 

 わたしたちが、ぶどうの木の枝として、豊かな実を成らせようとイエスさまにつながる時、父なる神さまがわたしたちを、神さまの御心に沿うように手入れしてくださると、イエスさまが教えておられるのです。

 

 枝は幹に繋がっていなければ、何も実を実らせることはできません。5節で、

 「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」

 と言われているのは、その通りのことで、わたしたちが心からイエスさまにつながり続けなければ、いつの間にかイエスさまから離れてしまい、豊かな実りをつけられない枝になってしまいます。

 

 実を付けなくなった枝は、農夫である神さまにとって、不要なものですから、外に投げ捨てられて枯れ、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまうと言われています。

 イエスさまにつながっていないと、いつの間にか、教会から離れてしまった。神さまとのつながりが無くなってしまう様子を表しています。

 

 7節では、

 「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」

とイエスさまは言われ、14章13節から14節で言われた約束が繰り返されています。

 イエスさまの言葉がわたしたちの内にあって、願い出ればかなえられるというのは、イエスさまがわたしたちに望んでおられること。

 一人でも多くの人が救われるために、集められ、罪を告白し、洗礼を受けて罪を赦され、わたしたちと同じようにまことのぶどうの木であるイエスさまにつながるようにという願いをイエスさまに願えば、かなえてくださるということです。

 

 ぶどうの木にたとえられたイエスさまと、枝にたとえられているわたしたちがしっかりとつながっていることはまず始めに、大切なことですが、このわたしだけでなく、教会に招かれている人が共にイエスさまにつながっている。わたしたちが互いにつながっているという点を見落としてはいけません。

 わたしたちが互いにつながり、神さまの愛を受けて、互いに愛しあう者でなければならないことが、9節以降語られています。

 

 9節、10節は、

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」

とあり、わたしたちはまずに神さまの愛の中に留まり続けなければならないと言われています。

 

 では、愛の中に留まるとはどういうことでしょうか。

 子どもを持っている家庭で、子どもが親の愛の中に留まると言う場合、子どもは親の元で愛され続けるというように受け取れるでしょう。

 その場合、親は子どもが必要とする食事を準備しますし、一緒に生活することで、住まいも衣服も与えられます。けれども、こどもにとって、嬉しいことだけでなく、子どもが間違ったことをすれば、親は厳しく指導しますし、子どもが成長するために、その方向へとアドバイスをするでしょう。

 これらは親の愛ですが、子どもが親のしつけを嫌がって、その家を飛び出してしまったら、親の愛の中に留まっているとは言えません。

 そう考えてみると、わたしたちが神さまの愛の中に留まるというのは、神さまの導きの元、神さまからの恵みに感謝するだけでなく、神さまから示される愛に応えて、イエスさまを証しする働きを担っていかなければならないのです。

 神さまからの恵みを一方的に受けるだけでおしまい。ではなく、その愛に応えて、わたしたちは行動を起こして行かなければなりません。

 そのことが、11節以下で語られています。

 

 11節はそれまでの話からの転換を示していて、12節でイエスさまは弟子たちがなさなければならないことを言われます。

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」

イエスさまは、13章でも弟子たちに「互いに愛し合いなさい」ということを掟として与えられました。

 イエスさまは既に、13章で、弟子たちの足を洗うことを通して、仕えるということを、自らの行動で示されました。しかし、互いに愛し合うということは、常に僕のように接するだけではありません。15節でイエスさまは弟子たちにこう言われています。

 「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」

 ここで「友人」と訳されている[フィロス]という言葉は、愛する[フィレオ]という動詞から来ています。イエスさまが「友人」と呼びかけている弟子たちは、本当は「愛される人たち」というように呼びかけておられるのです。

 イエスさまの友人であるということは、イエスさまを愛することと同じ意味を持っています。そして友人であり「愛される人」は、イエスさまが与えた掟を守る者と定義されているのです。

 

 15節の後半で、「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」

というのは、これからイエスさまがわたしたちのために、御自身の命を十字架で献げてくださること、イエスさまがなされたことすべてを指していますので、イエスさまの死において完全に表される神さまとイエスさまの愛を指しています。

 イエスさまの十字架の出来事があるからこそ、弟子たちは「愛される者」。「友人」と呼ばれるように変えられるのです。

 16節で再び「実を結ぶ」と言われています。イエスさまを通して、神さまから豊かな愛を受けた弟子たち。そして、今、神さまの愛を受けているわたしたちは、イエスさまが言われるように、

 「出かけて行って実を結び、その実が残るように」しなければなりません。そのためにわたしたちは、イエスさまに招かれ、選ばれて、神さまの愛の中に留まっているのです。

 

 今日の箇所で、イエスさまが互いに愛し合いなさい。イエスさまにつながっていなさい。と言われた言葉は、イエスさまが今まさに弟子たちと別れを告げなければならない場面だったということを覚えておかなければなりません。

 イエスさまにとって、弟子たちとの別れは、「はいさようなら」ということではなく、これからもあなた方と共にこの世が終わるまでいるのだから、つながっていて、愛の中に留まり、互いに愛し合いなさいと命じられ、また命じることができたのです。

 

 今ここに共にいてくださるイエスさまの愛の中に。聖霊なる神さまがわたしたちの心に与えておられる愛の中にわたしたちは留まり続け、互いに愛し合うというイエスさまの掟に従う者として、今週も歩んでまいりたいと願います。