聖書 旧約:出エジプト記 3章1節~3節

    新約:ヨハネによる福音書 4章43節~54節

 おはようございます。 お帰りなさい。

 聖書を始めて手にして読んだ時。あるいは、知り合いから、教会に行ってみませんかと声をかけられた時。 キリスト教をもっと知りたい、教会に行ってみようという気持ちを押し止めようとするひとつのこととして、聖書に書かれている「奇跡」ということがあるでしょう。 では、その人は、神道や仏教で伝えられている、不思議な話しも否定されるのでしょうか? あるいは、すべての出来事は、科学で説明できなければ、決して信じようとはしないのでしょうか? この地球の上で起きる出来事を見た時、まだまだ科学では解明できない出来事や、知られていない事柄が多くあるということが理解できるでしょう。
 では、なぜ聖書には「奇跡」の出来事がいくつも書かれているのでしょうか?  実は、聖書にある「奇跡」は、その出来事がどのようにして起きたのかということではなく、その出来事が何を教えているのか、何を知らせているのかということが大切なのです。
 では、イエスさまが行われた「奇跡」は、何を私たちに伝えているのでしょうか? 今日は、そのことを聖書から聴いてまいります。

 始めに。出エジプト記3章。ヘブライ人の子どもとして生まれたモーセが生まれた時代。増えすぎたヘブライ人を押さえるため、エジプトの王ファラオは、生まれてきた男の子はすべてナイル川に放り込んで殺してしまえと命じていました。 しかし、家族はモーセの誕生を隠し、生まれてから3ヶ月の間、隠し続けました。しかし、いよいよ隠すことができなくなり、パピルスのかごに入れて、ナイル河畔(かはん)の葦(あし)の茂みの中に隠しました。 それを見つけたファラオの王女は、モーセを引き取り、乳母としてモーセの実母をつけ、エジプトの宮廷で育てます。ところが、モーセが成人した時、同胞のヘブライ人が苦しめられている様子を見て、エジプト人を殺したことで、王宮から逃げ出し、ミディアンの地で羊を飼う生活をしていました。
 あるとき彼が、羊をつれて神の山ホレブに来たとき、柴の木が燃えているのを目にします。ところが、柴は燃えているのに、燃え尽きることがありません。奇跡と言える、不思議な出来事がそこで起きていました。 この出来事は、その場所に主なる神さまがおられることを示すものでした。神さまは、モーセに、ご自身を示されるために、私たち人間には理解できない不思議な出来事を起こされて、モーセを招かれました。 
 旧約で神さまは、ご自身がその場所におられること、また、神さまが働かれていることを示すために、奇跡と呼ばれる、人間には不思議で理解することができないことをされて、わたしたちに現れておられます。

 さて、ヨハネによる福音書4章の後半。サマリア地方で、サマリア人の女性に、ご自身がメシアであることを示されたイエスさまは、そこから先に進んで、ガリラヤ地方に行かれました。 44節を見ると、イエスさまがガリラヤへ行かれたのは、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」と自ら言われたことがあったから、という説明になっています。 では、イエスさまの故郷とはどこでしょうか? 
 マタイとルカによる福音書では、イエスさまはナザレで育てられたとあり、ナザレに行かれた時、人々から歓迎されませんでした。 では、地上でのイエスさまの故郷は、ナザレなのでしょうか? しかし、ナザレは聖書の巻末の地図を見ると、ガリラヤ地方に入っていますので、そこではなさそうです。 また、共観福音書でイエスさまの伝道の中心地がガリラヤ地方であり、エルサレムがある場所は、ユダヤになりますから、ユダヤから距離を置かれていることで、ユダヤがイエスさまの故郷だと聖書は伝えているのでしょうか?
 イエスさまにとって、故郷と呼ばれる場所がどこかということは、ヨハネによる福音書1章11節にあります。
 「言は、自分の民のところへ来た」
 この聖句の「言(ことば)」とは、イエスさまのことです。それで、イエスさまの故郷とは、神さまの救いの計画の中で、イエスさまご自身の民がいる場所であることがわかります。そして、ご自身の民とは、4章22節で、「救いはユダヤ人から来る」とありますから、ユダヤ人全体がイエスさまの民であり、ユダヤ人のところにイエスさまが来られました。 4章後半でイエスさまがガリラヤに行かれたことと、ガリラヤの人々がイエスさまを歓迎したことは、エルサレムでの過越祭における、ユダヤ人の反応との対比として描かれています。

 さて、46節を読むと、先ほど読んだ出来事は、以前水をぶどう酒に変える奇跡を行われたカナでの出来事だということです。 ガリラヤ地方は、旧北イスラエル王国の領内であり、アッシリアによる捕囚によって、その地方に住んでいた人々が移住させられ、多くの異邦人が入ってきていた土地でした。 また、カナに行かれたイエスさまのところに尋ねてきた王の役人は、カファルナウムに住んでいました。カファルナウムという場所は、当時、国境の町であったことと、その人物の職業から、異邦人だったのではないかと、考えられています。
 その役人は、今、大変苦しんでいることがありました。それは、彼の息子が死にかかっていたと、47節にあります。この人は、ガリラヤ地方に伝えられていたイエスさまのうわさ。また、エルサレムで直接イエスさまの働きを見た人々の話しから、イエスさまであれば、息子の命を助けてくれることができると、わらにもすがる思いで、尋ねてきました。 そして、イエスさまにお目にかかるとすぐ、カナからカファルナウムに下ってきて、息子を助けてもらいたいと願い出ました。
 彼は王の役人という職業についていたことから、普段は誰かに命令をして行動を起こさせたり、あるいは、彼が蓄えていた財産を使って人を動かすことができるという思いがあったのかもしれません。しかし、ここではそのようなことには触れず、ただイエスさまに、死にそうな状態にある息子の病をいやしてもらいたいと、イエスさまを信じてお願いしています。
 この福音書では、ここまでの箇所で、イエスさまが病を癒されたことは書かれていません。しかし、イエスさまが人に命を与える方であることは、同じ章の13節、14節で話しておられます。
「この水を飲む者はだれでもまた渇く。
 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 イエスさまは、この福音書のこの箇所で、初めて人の命を救う働きをされることになります。 ところが、イエスさまはこの役人にこのように言われました。
 「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」
 この言葉は、一見すると役人の申し出を断っているかのように思えます。ところが、イエスさまの呼びかけは、「あなたがた」となっていることから、この一人の役人に向かって言われたのではなく、不特定多数の人に向けて言われた言葉だと理解することができます。 そう考えると、イエスさまの周りに集まった人々は、イエスさまがなされる働きについて、その「しるしや不思議な業」を見ないと信じないでしょう、と言われていることがわかります。 しかし、実際のところ、どうなのでしょう。他の福音書を見ると、イエスさまが悪霊を追い出されても、あれは神さまの力ではなく、悪霊が仲間を追い出しているのだと、誤解して受け止めたり、病を癒してもらっても、ただその出来事を感謝して終わってしまっている人々がいます。 わたしたち人間の心は、神さまがなされる「奇跡」と呼べる不思議な働きを見たとき、信じるかもしれないが、なかなか信じようとはしない者であることが、聖書の言葉から示されています。

 さて、イエスさまの言葉を聞いた役人ですが、彼は改めてイエスさまにお願いします。
 「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」
 イエスさまは、見なければ信じないと言われましたが、役人はその言葉で願いを取り下げることなく、改めて、イエスさまを信じて、息子を治してもらいたいと願いました。 その言葉に対し、イエスさまは、
 「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」と言われました。
 イエスさまが言われた「生きる」という言葉には、2つ意味があります。一つ目は、「病気から回復する」という意味です。今にも死を迎えつつある人が生きると言われるのですから、「病気から回復する」ことを意味していると受け取ることができます。
 2つ目の意味として、イエスさまが「生命を与えられる」と受け取ることができます。イエスさまは、役人に付き添ってカファルナウムに出かけはしませんでしたが、イエスさまの言葉と約束によって、役人の息子の病気が回復します。
 役人がイエスさまの言葉を信じたということは、50節後半で、イエスさまの言葉に従い、役人は「帰って行った」という言葉から推測することができます。イエスさまにしつこくつきまとって、どうしても来てくださいと願うのではなく、「生きる」という言葉を受けて、そのまま信じることができた役人は、イエスさまを心から信じて、カファルナウムに戻ります。 彼は戻る途中、彼の僕たちが迎えに来て、役人の息子が生きていることを知らされました。病が治ったのであれば、息子の病は癒された、とするところでしょうが、51節の言葉は、50節のイエスさまの言葉「生きる」に対して、「生きている」という応答で、息子の病が癒されたことを現しています。 52節では、息子が生きていることに続けて、「息子の病気が良くなった」とあり、イエスさまの言葉が、役人の息子の病気を癒す働きをしたことが明らかにされています。
 イエスさまの言葉によって、息子の命が助けられ、病気がよくなったことから、この役人も役人の家族もこぞってイエスさまを信じるようになりました。 異邦人が回心して、家族全員が救われる様子は、使徒言行録に繰り返し書かれています。

 福音書を書いたヨハネは、54節で、王の役人の息子に起きた出来事を、「これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。」と書いています。 ヨハネが言う、「しるし」とは、確かに不思議なことが起きた、ということではなく、この出来事を目撃した人々に信仰をもたらすことが起きたということを言っています。 2章前半で、イエスさまがカナで水をぶどう酒に変えることをされた時、弟子たちはその奇跡的な出来事を単に驚き、喜んだというのではなく、その出来事の中に、神さまの栄光を見て、イエスさまを信じました。 同じように、王の役人は、イエスさまであれば、息子の病を癒してくれるであろうという、予想される出来事に対する信仰から、イエスさまを心から信じる信仰へと変えられています。 カナの婚礼で行われた水をぶどう酒に変えた出来事は、イエスさまの神さまとしての栄光を明らかにしました。 そして、今日の箇所でイエスさまは、私たち人間に生命を与えられる方であるというしるしを見せてくださいました。

 聖書に書かれている、「奇跡」を、単に奇跡的な出来事が起きたと見ていると、そこから先に進むことはありません。わたしたちが聖書を信仰の書として読むとき、奇跡によって明らかにされること。それは、イエスさまこそ私たち人間に命を与えてくださる主であるということです。
 イエスさまは、豊かさと命を与えられる方であり、イエスさまご自身が、神さまとは誰であるかを指し示される方であるということ。これこそが、私たちの信仰の根拠となります。
 イエスさまの働きの中に、イエスさまご自身に神さまの存在を見るということ。これを言い換えると、この福音書が私たちに、神さまが肉となってわたしたちのところに来てくださった、と書いていることの内容です。
 ヨハネは、イエスさまが示されたしるしの中に、肉体的なものと霊的なものをつなぎ合わせて見ています。イエスさまによって神さまが示されるしるしに、神さまの完全性が示されますので、人には治すことができない病でも、癒されるという出来事が起きます。

 聖書の奇跡を奇跡として見るのではなく、わたしたちが聖書を通して、イエスさまを通して与えられる体験の中に、神さまの存在を見ることが信仰につながっていきます。 王の役人は、自分が体験したことから、主イエスを信じ、家族に信仰を伝えました。では、今礼拝に集まっている私たちは、イエスさまとどのような出会いをし、どのように信仰をいただいたのか。そして、その信仰をどのようにして、家族に、友人、知人に伝えていこうとしているのかということを、聖書を通して改めて教えられ、一人一人が主イエスの証し人として、今週も歩んでまいりたいと願います。