国民性と宗教観 ③ | 元J民の色々考察ノート

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思うがまま好き勝手に考察を書いていきます

「アレルギー」

 

免疫機能は、人体を細菌やウイルスの感染から守ることを目的に存在します。

しかし彼らは「体の秩序を保たなければ!」という義務感が強すぎるせいで

暴走してしまうこともあります。

 

排除しなくてもいいような異物に対してまで総力を挙げて迎え撃とうとする結果

人体に無駄な苦痛を与えるものとなってしまいます。

 

 

体の主を有害な物から守るために存在するはずのシステムが、

体の主に危害を加えると言う矛盾。

 

 

 

欧米人と日本人は気質や思想が異なっているため、

それによって形成された宗教観も、各々の必要に応じた相違があると考えるのが自然です。

 

 

我が強く、協調性のない、多種多様な人種を一つの組織としてまとめ上げるには、

厳格なルールを課したり、強い言葉を使って明快な命令を与えるのが効果的です。

 

しかし、そういうルールを、

上下関係が厳しい文化圏の、

上から求められた以上の成果を自主的に行うほどの忠義を美徳としているような人種に

そのまま与えてしまったらどうなるでしょうか。

 

反抗や身勝手な人々による無秩序を抑え込み、体制の秩序を守ることを目的とする規則

一人一人のプライベートを必要以上に、というより無意味に「抑圧」する束縛変容する

という現象が起こりえます。

 

 

これが、エホバの証人という宗教が日本人にとって相性が悪いと断じた理由です。

 

 

「上」に立つ西欧人の多くは、

自分が正しいと考えていることをストレートに断言します。

「他者」が自分と同じ考え方に合わせるべきだ、という前提で物事を考えている場合には

「他者」の立場や需要を考えて「空気を読み」「自重」や「遠慮」をすることはありません。

「他者」から反対の意見を提示されてはじめて、互いに意見を出し合う交渉がはじまります。

 

しかし「下」に控える日本人は、

「自分」の思想や感情より「上」や「周り」の秩序を優先する傾向にあるので、

「自分」にとって受け入れがたい、理不尽と思えるような命令を課されても、反対しません

我慢して服従することを選びます。

さらに多くの場合、自分より「下」の立場の者に対しても、同じ命令に従うように求めます。

 

 

アメリカ人がアメリカ人のために作った宗教のルールをそのまま日本に持ち込んで

日本人の気質や思想、需要を一切度外視してそのまま押し付けているせいで

歪なひずみが生じているように思えます。

 

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うろ覚えではありますが、一昔前のものみの塔の記事で

各々配偶者がいる信者の男女が不倫してカップルになり

一旦排斥という措置を受けて現状の婚姻関係を解消した上で

復帰した上で再婚しようとする行動について

不貞行為を軽く考えるな!みたいな苦言を呈しているのを見て、驚いた記憶があります。

 

私も、同じ会衆にいた若い信者同士が不倫したという事例は知っていますが、

上に挙げたようなことを計画的にやってのけるなんて状況は、ちょっと想像がつきません。

しかし、わざわざそのようなケースについて言及されているということは、

世界本部が問題視するぐらいには、似たような事例が諸外国の会衆内で頻発していた

可能性が考えられるのです。

 

それもそのはず、

ある国では「排斥」の敷居そのものが低いらしく、

一つの会衆の中ですら、出たり入ったりする人がたくさんいる、といった話もあるぐらいです。

 

「気軽にルール違反は繰り返すし反省の意も示さないけど、組織には留まっていたい」

 

というような強情な厄介者が組織の中で好き勝手にに動き回れば、秩序が乱れかねません。

そのような状況を防ぐために形式的に「接近禁止令」的な罰則を設けるというのであれば、

正直言って、分からないでもない。

 

 

 

日本人にとって、排斥は決して軽い措置ではありません。

 

日本人は、自分の意思により自分の周りを自分の望む環境に変えようとするよりも、

「和をもって尊しとなす」という言葉通り、

無駄に争おうとせず、周りと歩調を合わせようとする傾向にあると言われています。

 

自分を中心に世界が回っていると考えるより、自分が世界の一部であると考える。

これを意地の悪い視点で見れば、

「自分を取り巻く社会に依存しようとする気質が強い」という解釈もできます。

 

血縁者も含めた信者全員から故意に無視し続けられ、晒し者のように扱われながら

自発的に反省の意を示し続けなければならない。

これは日本人にとっては極めて過剰かつサディスティックな私刑であり、

復帰するために自主的に耐え抜くというのは極めて難しいのではないかと思います。

 

排斥の措置を受けた信者は何人を知っていますが、復帰に至った例はまったくありません。

(当事者とは面識がなく、知人から又聞きした事例なら2件だけ知っています)

日本における従来の排斥措置は、

悪行を悔い改めて救いの道への復帰を促す「愛ある取り決め」の役割を果たしていません。

断言しますが、対象となった人物の多くを

二度と戻ってくることがないように永久追放するシステム

として機能しています。

 

というか現役2世信者の多くは、間違いなく内心そういう認識を持ってるだろう。

 

 

 

排斥に関わる理由の多くは「性」に関わるルールです。

 

だから、未婚の信者のカップルに対しては

「キスやボディタッチには気を付けましょう」

「デートするときは年配者に付き添ってもらうのが望ましい」

みたいなことが組織から言われていた時代がありました。

 

しかし、世界本部が作成したはずの、近年の現代劇やドラマを見るだけでも

そもそもそんなことを意に介していない信者の若者が多くいるような印象を受けます。

組織の言う「性的不品行」に対するハードルは、日本と海外で違うように思えるのです。

 

日本で言えば、私より一回りほど上の世代の信者には

ほとんどデートを経ることなく結婚した人達がいます。

「結婚前の性行為」に至ることを防止する目的で世界本部が推奨したことを

戒律として馬鹿正直に厳守した結果なのではないかと思われます。

 

クリスチャンとして婚前交渉をどのように考えるかはともかくとして、

相手のことをよく知ろうともしないまま結婚するってのは

現在社会の価値基準では、すごく愛の欠けた行為ではないでしょうか。

 

 

結婚は互いに開拓者同士、男性は特権持ちであるべきであるという暗黙のクソルールのせいで

(そういうルールが明示されているわけではないが自分と面識のある信者の結婚でその条件に当てはまらない実例はひとつもない)

ろくに相手を見つけることすらままならない環境下でのやむをえない妥協というか

おまえら信者同士じゃなかったら互いに好意すら持ってねぇだろ

と思えるような組み合わせで結婚して、案の定お互いにずっとよそよそしいままで

結婚したことを露骨に後悔してそうな2世(若くはない)の夫婦を何度も見てきた。

なんでプライベートでも兄弟と姉妹って呼び合ってるの?名前を呼ぶのも嫌なの?

結婚前に「真っ当な交際」ができる環境なら取り返しのつかない結婚生活は避けられたのにな。

 

 

アメリカ人がアメリカ人のために作ったエホバの証人のルールを、

日本人はアメリカ人以上に厳格に考えているような節があります。

 

「××」を避けるために、「〇〇」するようにしましょう 

みたいな指針を与えられると

「××」をするしないに関わらず、絶対に「〇〇」しなければならない

と考えてしまう。

「過程」を重視する性質は、時として「目的」と「手段」の優先順位を誤らせます。

 

もっと言えば、ルールを定める立場のアメリカ人と、ルールに従う日本人の信者達の間にも

根本的な認識の違いがある可能性があります。

 

 

 

宗教2世問題で、何度か耳にした言葉。

 

「強制はしていない」

「各自の良心で決めるべきこと」

 

アメリカの世界本部は、もしかすると本心からそう思っているのかもしれない。

銃社会のアメリカに住む彼らにとって「強制」とは

「頭にショットガンを突き付けて脅しつける」レベルの話なのかもしれません。

だったら、「強制した」などと認めるはずがない。

世界本部は直接的な「暴力」は行使していないのだから。

 

たしかに「ハルマゲドン」をちらつかせて、「従わなければ滅ぼされる」と教えてきました。

これすらも、統治体にとっては「脅迫」ではなく「教義の説明」でしかないのかもしれない。

というか、そのぐらい強い言葉を使っても、

「ルールは守りたくない!でも罰も絶対に受けたくない!」とこっそりルールを破り続けて

見せかけの罪悪感すらも示さない信者が結構いるんだろうということは容易に想像できる。

 

もしも「神の罰」が抑止力になるのであれば、欧米の治安は

「神の救済」に依存していない日本よりずっと良いはずです。

 

 

日本人はどうでしょうか。

人類を「羊」と「やぎ」に選り分ける「キリストの兄弟」であり

信者達に必要な指示を与えるよう神が任命した「忠実で思慮深い奴隷」だと自称する

「統治体」は設定上は神の代弁者に等しい存在なので、

「統治体」の指示は人間からではなく神の命令であり、

絶対に従わなければならない!と考えます。

「自分自身が納得がいくか否か」「この国でそれに従うことが道理にかなっているか否か」

「従うことが必ずしも良い結果に繋がるとは限らないのではないか」

こういう様々な疑問が浮かんでも、それらを突き詰めて考えることを良しとせず、むしろ

思考そのものを押し殺します。

 

さらにそれを「子供のために」子供に強要することにも、疑いを持ちません。

 

 

「エホバの証人にならなければ即座に家から叩き出す」

「あなたがハルマゲドンで滅びる道を選ぶなら今あなたを〇して自分も死ぬ」

「エホバの証人をやめないと今ここで〇す」

→「今はあなたを試した。これで信仰を捨てるようなら永遠の切断だと肝に命じなさい」

 

 

こういうことを子供の時からやられてきた2世にとっては、

選択の余地など無かった

つまり強制されたという認識を持って当たり前です。

 

さらに親たちは、組織のルールに従わせるため脅迫だけではなく、

物理的な暴力も積極的に行使してきました。

 

 

世界本部から発せられた指示が日本人によって魔改造された実例の筆頭格が

「懲らしめの鞭」です。