国民性と宗教観 ④  | 元J民の色々考察ノート

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思うがまま好き勝手に考察を書いていきます

ある時、世界的な音楽コンクールが行われた。

開始1時間前にドイツ人と日本人が到着した。
30分前、ユダヤ人が到着した。
10分前、イギリス人が到着した。
開始時間ピッタリにアメリカ人が間に合った。
5分遅刻して、フランス人が到着した。
15分遅刻して、イタリア人が到着した。
30分以上経ってから、スペイン人がようやく現れた。
ポルトガル人がいつ来るのかは、誰も知らない。

 

『現代社会資料集』令文社より

 

 

日本人は遵法精神が高い。

この精神は、単に法律に違反しないという範疇には留まりません。

「時間」「品質」「礼儀作法」

日本人はありとあらゆる分野において、必要以上に最善を尽くすことで知られています。

 

 

 

 

偏見誇張全開で言えば

100を言って10しかやらない国民に合わせて作られたルールを

1言えば100までやろうとする国民に与えれば大変なことになります。

これは10倍に希釈してコップ一杯で飲むのが適量の薬品を

原液のままバケツ一杯で飲ませるようなものです。

 

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アメリカの世界本部から発せられた指示が日本人によって魔改造された最悪の事例に

「懲らしめの鞭」を挙げられます。

 

 

日本において、エホバの証人は子どもに対する虐待行為という悪評で知られています。

 

親や教師の激しい体罰が珍しい光景ではなかった時代はありますが、

子供を鞭でたくさん叩くことを宗教上の教えとして国中で推奨したことが

特徴とされている宗教組織といえばエホバの証人ぐらいのものでしょう。

(各家庭や寺院・教会の一施設単位なら、他の宗教でも多少あったとは思いますが)

 

モーセの律法で上限とされていた、40回をはるかに上回る回数を叩かれた。

叩かれている途中で体を動かしたら、無条件で叩く回数を2倍に増やされる。

小さな子供が、集会中に時計を見たり、ペンを落とした等の理由で叩かれた。

 

70年代から90年代に小学生だった世代の全員がこれを経験したわけではないでしょうが、

当時を知る信者のほとんどは、こういう事例が実際にあったことも知っているはずです。

 

 

 

もう10年以上も昔のことですが

アメリカを含めて複数の国に長期滞在した経験のある外国人の年配の宣教者と話す機会が

ありました。

彼は、日本レベルの激しい体罰の全国的で行われていた国は他にはないと言っていました。

また、少なくとも私が知っているアメリカ人も、

上に挙げたような日本における「鞭の体験談」はピンとこない様子でした。

(米国では20年ほど前から、子供を殴ったことで法で処罰されたという事例が存在する)

 

「子供を鞭で叩くべきだ」という指針を世界に広めたのは間違いなく米国の世界本部です。

実際に米国でも「鞭で叩く」体罰は、当時の一般の常識の範囲内で行われていたはずです。

それなのに、どうして日本だけが、

昔の基準ですら一般的な範囲内とは言えないレベルの体罰が、組織的に行われていたという

悪名で知られる事態になったのか。

 

 

世界本部が「子どもを打ち懲らす」よう推奨したことを擁護する気はありません。

しかし彼らは、「信者の子供たちにはできる限り激しい苦痛を与えるべきである」

などというサディスティックな嗜好を広めることを目的としていたのでしょうか?

 

 

子供の時に聞かされた真偽不明の話。

50年代か60年代、欧米のとあるインフルエンサーが

「これからの時代は子どもに体罰を当たるべきではない」という考えを提唱したらしい。

多くの親世代はその考え方に賛同して、子供をまったく叩かなくなった。

その結果、叩かれなかった世代は反抗的になってしまい、

インフルエンサー本人も子育てがうまくいかなかったことを後悔したという。

 

もっとも、これは組織の中で聞いた話で、「だから鞭をするのは正しい事なのよ」

というオチがつくので、鳥〇明先生やサ〇リオのキキ〇ラに対する誹謗中傷のような

JWが勝手にでっち上げて組織内で吹聴した虚偽の情報か、判別はつきません。

 

 

世界本部の執筆者は、

「口で言っても効かない子供には痛みを与えて矯正するしかない」

ということを主張しようとしていたのかもしれません。

 

 

今の世では暴力的な体罰は認められていませんが、

まだ教育機関で体罰が行われていた時代を経験している身としては、

当時の基準において「やむを得ない理由」により行われた体罰が

必ずしも間違っていたとは思っていません。

 

進んで人を傷つけたり、物を壊したり盗んだりして、それを悪いとすら思わない悪ガキは、

力づくで改めさせるしかない!という考え方は、時代背景を鑑みれば理にかなっています。

アメリカは日本より治安が悪いので、中学生ぐらいの年齢でギャングと関わるようになり

ドラッグや銃器に触れるようになる少年達がいた時代もあります。

 

問題は、合理的なアメリカ人にとって

「鞭」がおそらく子供の非行を強制する「目的」のための「手段」であったのに対して、

「過程」を重視する日本人は「鞭」そのものを「目的」としてしまったことにあります。

 

「叩くべきだ」という命令そのものを実行することにベストを尽くしました

 

 

 

わかりやすいイメージ

 

 

世界本部「言葉デ言ッテモ分カラナイ糞ガキハ 叩イテ躾ケルシカネェ」

 

 

老害A「『上』は『鞭をしろ』と仰せだ、つまりできるだけたくさん叩くべきなのだな」

老害B「太平洋戦争中の軍事教育みたいな感じで育てればよいのだな」

 

純粋悪「子供に苦痛を与えましょう」

 

毒親A「何で叩けば一番〝効く〟のか意見を交換しましょう!」

毒親B「布団叩きを使ったら一番痛がるからオススメですよ!」

毒親C「ゴムホースでは甘い。針金で強度を上げるべきですね

 

 

毒親ABC「「「みなさん〝鞭〟していらっしゃいますよ???」」」

 

 

 

2世「―というようなことがあったんです」

世論「気持ち悪い宗教だなあ」

報道「虐待を推奨していたという声に対して一声お願いします」

 

世界本部「『積極的ニ虐待シロ』ナンテ一言も言ッテネェヨ猿ドモ」

 

日本支部「反対者の広める歪んだ情報です!

   私達は虐待を容認していません!」

 

 

 

体罰が社会的には許されていた時代に育ったはずの元信者達が

「懲らしめの鞭」という慣習に対して反感を露わにしているのは、

体罰にまったく正当性が無かったと感じているからです。

 

全員が、とは言いませんが、2世信者のほとんどは、

暴力とか、窃盗とか、器物損壊とか、不法侵入のような

子どもの「やんちゃ」や、少年の「非行」、言い換えれば罰せられて当然の行為に対する

折檻として叩かれたわけではない。

鞭で叩かれた理由のほとんどが「宗教上の理由」だったという場合も多いでしょう。

 

日本の親達が「鞭を」振るったのは、

自分や組織にとって都合の良い人格を作り上げるためであり、

わずかでも自分の意に反するような言動を一切合切「剪定」するためです。

 

そういう体罰は、この宗教を信じることをやめた元信者の多くにとっては

親が愛を動機としていたかどうかに関わらず

自分にとっても他者にとってもなんのためにもならない無意味な暴力にすぎません。

ただただ日常的に理不尽な仕打ちを受けていたという記憶だけが残ってしまいます。

 

こうした体罰がトラウマになっており今でも苦しんでいるという声もあります。

ただ私としては、幼少期から苦痛に対する恐怖を与えられ続けたことで

絶対に「逆らうことができない状況」を作り出され、

自分の本心ではない生き方を長い時間に渡り強要されたことによる

後々の人生への影響の方が、より大きな問題なのではないかと思っています。

 

 

 

「鞭」の「被害」と言う言葉が当てはまる実例の多くは、20年以上昔に起きたことです。

しかし、日本支部が「鞭」の被害を「元関係者の嘘だ」と主張して組織的な関与を否定する

態度を取ったのは現在の問題です。

 

過去に何が行われていたか、

元2世、現役2世、信者の親、未信者の親族等、当時の組織と関わりのあったほとんどの人が

知っていることなので、組織が公然と「嘘」をついたことは誰の目にも明らかになりました。

 

元2世からの報告は、少なくとも「何百」もの声が極めて共通した内容であり、

しかも宗教2世問題に報道や行政が介入するようになるよりもはるか前から被害を訴える声は

挙がっているため、もはや外部から見ても疑いようがないような周知の事実となっています。

そんな都合の悪い事実を否認することで、

日本支部は自分達が「まったく信頼できない団体」であることを日本中に証明しました。

 

 

「事実に反する」「ゆがんだ情報」を広めることでエホバの証人の評判を貶めるのが

背教者だとすれば、最大の功労者は間違いなく日本の組織です。

 

 

この問題でアメリカ人が自主的に非を認めるはずがない。

世界本部側は、日本がなぜこんなことになっているのか分かっていないかもしれない。

それなら、「自分達は虐待しろとは指示は出していない、元信者がデマを言っている」

と主張をしたとしても、お国柄も含めて考えれば仕方が無い部分はあると言える。

 

問題は、日本支部が日本国内でそんな対応をしたことです。

 

 

過程」を重視する日本人は、組織として不祥事を起こして世間から批判を浴びた時は、

「償い」の前に、「謝罪」によって「誠意を示す」ことを最優先にします。

 

日本人は人目を気にする国民だと言われています。

日本人が自分の正義を他者にも求めるのではなく、

一般大衆の道徳心や倫理観に従い、秩序を維持することを正義と考える傾向があるとすれば、

自分を取り巻く社会自分に向ける評価自分自身の価値を決めるとみなす傾向にあるとも

言い換えられます。

だから公に落ち度を認め、責任の所存を明らかにし、世間からの信頼の回復に努めるのです。

そして「自分達」に罰を課して「落とし前をつける」という「ポーズ」を取ることによって、

被害者と世間の双方の留飲を下げることを重視するのです。

 

しかし、日本支部はそうしませんでした。

「至極当然の対応」を行わなかったので、社会的な「モラルの低さ」を露呈しました。

当然ながら、国内でのエホバの証人の評判は、史上最悪と言える状況まで堕ちました。

 

 

組織から推奨された「子供に対する体罰」を、

「過程を重視」し「与えられたルールに従うことに最善を尽くす」日本人の気質が

「理不尽な暴力」に昇華させました。

 

しかし、それが問題視されるようになってて日本中から批判を浴びた時は、

日本支部は、日本国内の組織としてはありまじき傲岸不遜な回答をしました。

 

 

小さな子供を傷つけることにベストを尽くし

その落ち度を認めないことにベストを尽くす日本とアメリカの悪いとこ取りです。

 

 

この問題において、日本の組織は終始一貫して最低最悪の選択を自ら選び続けています

 

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「世界本部」

「日本支部」

「信者達」

この3者が、対等な目線正直かつ率直意見を出し合って

協力して問題解決に当たっていれば、間違いなく、もっとマシな対応はできただろう。

 

しかし、それが組織構造上、絶対に成立しない。

だから自浄作用が無い

 

「世界本部」はアメリカ人のためのルールを日本に一方的に押し付け

「日本支部」はそれを日本人のニーズに合わせもせずに信者に対して絶対的な服従を求め

「信者達」は「理解」できなくても「納得」できなくても、反対の意向を示すことはなく

黙って服従することを選ぶ。

 

結果として、この3者は協力してワーストを尽くして際限なく状況を悪化させ続けている。